私の散歩論

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2011年10月3日月曜日

ようやくベールがとれた花見川河川争奪

花見川河川争奪を知る3 ようやくベールがとれた花見川河川争奪

地形図を見ているだけでは、あるいは現場を歩いても、それだけの情報では、花見川に河川争奪があることをズバリ直感できた人は少なかったと思います。たとえ直感できても証明できません。

その理由は江戸時代の堀割普請により、地形改変(堀割が掘り割られた)があったのだから、それにより、印旛沼方向に流れていた河川が東京湾方向に流れを変えるという、「流域変更」が行われたと考えることが自然の思考だからです。

河川争奪がもともと存在していて、それを活用して堀割普請が行われたと思考することは、決めてとなる情報が与えられていなければ、通常困難です。

このような理由から花見川河川争奪の存在は戦後にいたるまでベールに包まれてきたのではないかと思います。

次の資料は、花見川河川争奪の存在がベールに包まれていた時代に作成された地形分類図です。決めてとなる情報がなければ、地形の専門家といえども河川争奪の存在を識別することができなかったという証拠の一つです。

「土地分類基本調査 佐倉 5万分の1 国土調査」(千葉県、1980)

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「下総国印旛沼御普請堀割絵図」が昭和53年に八千代市有形文化財として指定されました。この時合わせて安永9(1780)年「下総国印旛沼新開大積り帳」と天明3(1783)年「印旛沼新堀割御普請目論見帳」の2冊の古文書も附指定されています。この絵図は印旛沼堀割工事に係った時に描かれたものとして貴重な歴史資料です。

下総国印旛沼御普請堀割絵図(部分)
「八千代市の歴史資料編近世Ⅲ」カバー

この絵図は掘り割る以前の花見川の姿を伝えていて、花見川は柏井を谷頭とし、花島を南流する東京湾水系になっていることが確認できます。

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千葉市教育委員会は近年、地域誌、地域史の調査研究活動を積極的に展開し、その成果の一部は「絵にみる図でよむ千葉市図誌」(千葉市発行)、「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)として結実しています。この千葉市教育委員会の活動で、「小金牧周辺野絵図」の存在が一般に広く知られるようになりました。

小金牧周辺野絵図
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」456ページ

この絵図により、その説明に書かれているように、「当時はまだ印旛沼掘割り工事が行われておらず、図では川が完全に分断している。」状況がわかります。この絵図は、柏井で花見川に流入する河川が、江戸時代の印旛沼堀割普請前に既に花見川水系であり、河川争奪を確認できる資料です。

八千代市教育委員会や千葉市教育委員会の活動により印旛沼堀割普請前の花見川水系の姿が一般に知られるようになり、その中で地学関係者等にもその情報が伝わり、花見川河川争奪を覆っていたベールがようやく、はがされた。ということがこの数十年程度の間に生起したと考えます。

(2011.10.14 一部追記しました)

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