花見川流域の古墳時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)
古墳時代遺跡分布図と弥生時代遺跡分布図を比較すると、弥生時代遺跡の分布地点はその近傍を含めると、全て古墳時代遺跡の分布域と重なることが判りました。(図面は省略します。)
古墳時代遺跡分布図と縄文時代遺跡分布図を重ねて比較すると、古墳時代遺跡分布の特徴が浮かび上がります。
花見川流域の古墳時代遺跡と縄文時代遺跡の分布重ね図
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)
この重ね図から古墳時代遺跡の特徴の予察を行います。
なお、この予察は個々の遺跡についてその種別、出土物や報告書記載情報を踏まえていません。これまでこのブログの活動で得た花見川流域の地形特性の情報と、遺跡分布そのものの情報に基づいて行っています。 この予察(問題意識)が本当であるかどうかについて、これから各遺跡の情報を詳しく吟味して行うつもりです。
予察の結果を次の図と表に表しました。
予察図
予察結果
1 古墳時代遺跡はほとんど全て台地上にある。
これはこれまで何回か述べているように、沖積地微高地や河岸段丘上の古墳時代集落が現在まで集落として継続していて、遺跡として発見できないこと(遺跡としては消滅していること)が主因であると考えます。
統治の場(支配層の居住地)や祭祀の場など特別な社会的機能が台地上にあり、それだけが古墳時代遺跡として現在発見されているのだと思います。
2 古墳時代遺跡は縄文時代遺跡よりその分布が集約されている
予察図に白い楕円で4個所を囲みました。その場所は縄文時代遺跡はあるが、古墳時代遺跡はない場所です。
それら4個所は谷津の上流部や小さい谷津の部分です。
これらの場所は飲料水を得られ、なおかつ狩猟基地としては好適な場所であるが、水田耕作ができる広い谷底平野が無い場所です。 つまり、古墳時代になると水田耕作適地の周辺にその時代の統治や祭祀の場が集約されていったと考えます。
3 東京湾水系流域の遺跡が増大し、印旛沼水系流域の遺跡が減少した
縄文時代遺跡の東京湾水系流域の分布と印旛沼水系流域の分布を比較すると、直感的には大きな差異を感じません。
ところが、古墳時代遺跡の東京湾水系流域の分布と印旛沼水系流域の分布を比較すると、東京湾水系流域の分布が濃いことが直感的にわかります。
なぜ東京湾水系流域の分布の方が多いのか、とても興味深い現象です。
おそらく東京湾側の方は東京湾各地との交流があり、農業だけでなく、交易、広域的統治(地方・国家レベルでの支配-非支配関係)、文化、軍事等の面で印旛沼水系側より地域開発が進んだものと考えます。
(統治、経済交易、軍事、文化などの諸側面で、東京湾側から受ける刺激のほうが印旛沼側から受けるものより大きかったと考えられます。)
4 古墳時代遺跡分布の特性
古墳時代遺跡分布の特性を次のように予察してみました。
予察図内の記号
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分布特性(予察)
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A
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新川(平戸川)谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)
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B
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高津川谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)
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C
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勝田川谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)
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D
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花見川及び犢橋川の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)
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E
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花見川の源流部に立地した遺跡(祭祀機能?)
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F
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犢橋川の源流部に立地した遺跡(祭祀機能?)
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G
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東京湾(幕張湾)の古代湊付近に立地した遺跡(交易機能?)
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H
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幕張湾口に立地した遺跡(軍事機能?)
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I
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幕張湾口に立地した遺跡(軍事機能?)
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J
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台地内陸に立地した遺跡(?)
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K
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谷津奥に孤立して立地した遺跡(?)
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L
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台地奥に立地した遺跡(?)
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