天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その3
3 検討区間
検討区間は柏井橋から旧勝田川合流部までとしました。
また、検討区間を双子塚古墳付近、鉄道連隊架橋跡付近、弁天橋付近で区切り、4つの区間を設定してそれぞれ詳細検討することとしました。
4 断面線の設定
予察作業で、これまで「土手」の一部とは認識していなかった地形が捨土土手を構成している可能性が濃厚になりました。
そこで断面線の延長は余裕を見て延長1200m程度とすることにしました。
また断面線の間隔は25m間隔としました。
柏井橋を通る断面線を0番とし、最上流部は96番となります。
断面線は次のような手順でGIS上に引きました。
ア 花見川の水面中央部を通る縦断線を引く
イ 縦断線上に25m間隔で印を打つ
ウ 印を中央点とし、縦断線と直交する延長1200mの直線を引く
この直線を持って断面線としました。
GIS上でこのような約束事を設けて作業するのは初めてで、効率的作業方法がなかなか見つからなかったのですが、同心円を引く機能を利用して作業を進めました。
断面線を引く作業の一コマ
5 区間毎の捨土土手の様子
キリの良い番号の断面図から区間毎の捨土土手の様子を概観してみました。
区間区分と断面位置
5-1 第1区間(柏井橋~双子塚古墳付近)
第1区間の様子
縦軸の1メモリは5m、横軸の1メモリは5m
0番、10番断面には捨土土手はほとんどないものと考えています。
20番断面には西岸で、古柏井川谷底上に捨土土手があります。もともと複雑な地形をしているところであり、自然地形と捨土土手をどのように分離認識できるか、詳細検討するつもりです。
5-2 第2区間(双子塚古墳付近~鉄道連隊架橋跡付近)
第2区間の様子
捨土土手が最も発達しているところです。
その理由は、この区間付近が古柏井川の谷底分布地域となり、最も掘削土量が増える場所であるからです。
40番断面では土手の裾に土手の土台となる捨土が見られます。この土台の部分が自然地形ではないことの証明も詳細検討で行います。
西岸では県立柏井高校の敷地造成工事で捨土土手が大幅に縮減した部分があります。(残っている部分もあります。)
50番断面では古柏井川谷底上に捨土土手が残っています。
5-3 第3区間(鉄道連隊架橋跡付近~弁天橋)
第3区間の様子
この区間でも捨土土手が発達しています。
東岸は古柏井川の谷底上に捨土土手がつくられています。
断面60では古柏井川谷底は平坦面としては残っていませんが、完全に埋め尽くされてはいません。
5-4 第4区間(弁天橋~旧勝田川合流部付近)
第4区間の様子
西岸は戦後の印旛沼開発工事で台地開削があり、その結果捨土土手は消失しました。
東岸の河岸段丘上の捨土土手は戦後の農地造成で縮減したようです。米軍空中写真等と照合して調べたいと思っています。
次に、区間毎の詳細検討に入ります。
つづく
海老川乱歩です
返信削除2012年9月2日(日)の記事のグラフの作り方についてお願いがあります。
2番目に出てくる図(地図)では、bが左側、aが右側になっています。
対して、3番目に出てくる図(グラフ:5-1 第1区間(柏井橋~双子塚古墳付近))では、
aが左側、bが右側になっています。
地図とグラフの対応を分かりやすくするために、グラフを地図の向きに合わせて、bを左側、aを右側にして
グラフを作成して頂けないでしょうか。
Excel 2007/2010でのグラフ作成方法を下記に解説します。
(既に作成方法をご存知でしたらすいません。右から左に流してください。)
やり方としては2とおりあります。
方法1.データを並び替えてからグラフを作成する。
方法2.データは並び替えないでグラフを作成し、グラフを作成したあと横軸を反転させる。
方法1のデータの並べ替えは、WEBを検索すれば沢山ヒットしますので割愛します。
方法2を解説します。
(軸を反転させるとY軸が右側にきてしまいます、その後Y軸を左側に設定できます。
方法1ならグラフを変更する必要はありません。クーラーさんが気に入った方法で
作成してください)
下記のようなグラフを作成したいデータ例1があるとします。
1.ab間の距離とライン番号2の最後尾の100のグラフ範囲を選択します。
2.メニューバーの挿入をマウスで左クリックします。
★ここがポイントです。
クーラーさんは、「折れ線」で作成していますか。
「折れ線」でも軸を反転できますが、「折れ線」だと
横軸がポイント(個数)になってしまいます。
悲しいかなEXCELの仕様なので仕方がありません。
そこで、散布図(直線)で作成します。
(散布図とは、読んで字の如く連続性がないデータをグラフ化するときに使います。
しかし、今扱っているデータは連続性があるデータなので「折れ線」で
作成したくなるのは人のつねです。
しかし、「折れ線」だと横軸が個数になってしまうので連続性があるデータでも
敢えて「散布図」でグラフを作成すると横軸を距離で表示する事ができます。)
3.★ここもポイントです。
作成したグラフの横軸を反転するには、グラフの横軸の下の数字をマウスで
左クリックします。
その状態でマウスの右ボタンをクリックします。
「軸の書式設定」をマウスの左ボタンでクリックします。
「軸を反転する」をチェックします。
「閉じる」をマウスの左ボタンでクリックします。
これで、横軸が反転しているはずです。
線名の系列1、系列2に相当するものもライン番号1、ライン番号2と
グラフに表示されているはずです。
「横軸のタイトル」「縦軸のタイトル」「グラフタイトル」があるとさらにグラフが
見やすくなります。
(EXCELのバージョンが違う場合は、ご連絡頂ければ対応いたします。)
お試しください。
例1
ab間の距離 ライン番号1 ライン番号2
1 5 10
2 10 20
3 15 30
4 20 40
5 25 50
6 30 60
7 35 70
8 40 80
9 45 90
10 50 100
★コメント
ライン番号50の西岸の地形は、軽便鉄道の所ですね。
人工的な地形の変更(人間が掘ったのか)が無いか気になります。
私が建設責任者なら、そこは避けて建設しますが、訓練なので
敢えてそこの抉れてる部分に作ったのでしょうか。
(以前どこかのWEBでライン番号50の西岸の所に軽便鉄道の橋脚が未だ残っている
という記事を見ました。
(写真も見ましたが草木に覆われているのではっきりとは認識できませんでした。)
まだ在るんですかねぇ。草木に覆われているので、草が枯れる冬場になって
やっとうっすらと橋脚が見えるようです。)
海老川乱歩さんコメントありがとうございます。
返信削除1 グラフ左右逆転について
グラフの左右逆転で見づらいとのご指摘はその通りで、海老川乱歩さんのみならずこの記事を見ていただいた他の方も感じたかもしれないと思います。
そうわかってはいるのですが、このような表現をした方が良いと思って意識してしたことなので、説明させていただきます。
1) 2012.9.2記事の断面図は河川断面図として作成しています。
予察作業の結果から断面の延長は長くなってしまいましたが、この断面図は一般の地形断面図ではなく、河川断面図として作成しています。
2) 河川断面図は上流から下流方向を見て描くことが決まりとなっています。
河川では、上流から下流方向を見て、左に見える岸を左岸、右に見える岸を右岸と呼びます。そして、河川断面図は上流から下流方向を見て描き、図面左に左岸が、図面右に右岸がくるように描きます。それが一般的、社会的な約束事になっています。
従って、このブログでは花見川の現在の流向を基準として上流から下流方向を見て(北から南方向を見て)河川断面図を描いています。
このように描くと、海老川乱歩さんのおっしゃる通り平面図と断面図が左右逆転して、見づらくなります。
しかし、図面作成方法を社会のスタンダードに合わせておくことにより、他河川断面図との比較における混乱の防止や専門家・行政関係者等とのコミュニケーションにおける無用の摩擦を避けることができると考えました。
花見川本川は北から南に流れているので、いつでも平面図と河川断面図が左右逆転して見づらくなりますので、ブログ記事で時々その理由を説明して理解してもらえるようにしたいと思います。
ご指摘ありがとうございました。
2 エクセル操作技術について
貴重な情報ですので、活用させてもらいます。
3 鉄道連隊演習線路(軽便鉄道)について
現在、現場には鉄道連隊が架橋した当時の構造物は何も残っていないと思います。
なぜこの場所に演習線路(軽便鉄道)を通したのか、以前から興味を持っていましたので、近いうちに調べてみたいと思っています。
海老川乱歩さんまたコメントお願いします。
海老川乱歩です。
返信削除河川断面図は、上流から下流方向を見て描くことが決まりになっているとは素人なので知りませんでした。失礼しました。
鉄道連隊の橋脚については、10回以上現場の対岸のサイクリングロードを通っていたのに全然気が付きませんでした。草木が枯れた時期を見はからって自分の目で確かめてこようと思います。
クーラーさんが、無いという証拠写真を提示して頂ければ納得しますが・・・
(というのは、鉄道連隊の橋脚が未だ何本か残っている所(鎌ヶ谷と千葉公園)があるので未だひょっとしたら在るのではないか思い込んでしまうからです。それにあーいう場所なので壊すのにお金をかけるくらいなら放ったらかしにして残しても何の害も無いという自分の勝手な思い込みもあります。)
捨て土についてですが、昭和になってショベルカーのような重機で掘っているような写真を国土地理院の空中写真で見たような気がします。
その際に出た土はどこに運んだのでしょうか。
江戸時代に掘った土は、捨て場が無いので船に積んで印旛沼まで運んで干拓をする為に使用したと勝手に想像していました。このブログを読むまで土捨て場の事を知りませんでしたし、そんな所に掘った土を捨てていたとは想像もしませんでした。
なぜなら土砂崩れを起こしたら折角掘ったところがまた土で埋まってしまうからです。
捨てた土は、土砂崩れを起さないように入念に押し固めていたのでしょうか。
自分が想像していた事と事実が違うことが多いので驚きの連続です。