軽便鉄道が花見川を架橋するところで、写真入りで軽便鉄道の橋脚を説明する資料を見つけました。
地元郷土を調べた資料です。
これで一件落着と感じました。
ところが同じ資料に、この付近で、九十九里浜に米軍が上陸する本土決戦に備えていた終戦に近い時期に、戦車第4師団が築城演習をして防空糧秣倉庫をつくったという記述があります。(正確な地図はでていない。)
この情報に接し、思考の顛末は省略しますが、次のような未知の戦争遺跡がこの場所にあるのではないかと考えるようになりました。
グーグルアースの空中写真に投影した私の見立て
正面写真に投影した私の見立て
上記地元郷土を調べた資料では「コンクリート構造物入口?」と書いた地物の写真を軽便鉄道橋脚としています。
しかし、この地物は軽便鉄道のルートから外れてしまいます。
「軽便鉄道橋脚があるとすれば、この付近」と書いた楕円付近が、正確な軌道の延長部です。
この付近は樹木に覆われていて橋脚を確認できませんが、現在は、枯れかけた樹木背後には地層の露出が見えるだけす。
海老川乱歩さんに紹介していただいたURL(http://johokan.net/history/RailHistory/Haisen/military-ct.html)に掲載されているコンクリート製の橋脚写真はおそらくこの部分です。
樹木を取り払って、あるいは現場に近づいて観察しなければ橋脚があるのかないのか何とも言えません。
しかし、紹介URLの写真は地層の姿が木の枝で区切られ、橋脚のような形になり、見間違えた可能性が濃厚と考えます。
「未知のコンクリート構造物?戦争遺跡(防空糧秣倉庫)?」と書いた部分が、今回発見(?)したことになるかもしれない地物です。
航空写真でも、対岸から撮った写真からもこの部分に灌木が生えていなく、また、その形状からコンクリート構造物のように見られます。入口もあるようです。
おそらく戦争末期につくられた防空壕(防空糧秣倉庫)であり、軽便鉄道を使ってこの場所に本土決戦用の糧秣を蓄えたのだと、想像します。
近くの印旛沼流域下水道施設関連のものではないようです(電話ヒアリング)。
戦後印旛沼開発工事のヤードとしてつくられた構造物であることも考えられますが、その可能性は低いと思います。
海老川乱歩さんのコメントが、紆余曲折を経て、未知の戦争遺跡発見につながる可能性大です。
この見立ての確からしさを高めてから改めて資料等の紹介をしたいと思います。
海老川乱歩です。
返信削除調査ありがとうございました。
■未知の戦争遺跡について
なるほど、防空壕(防空糧秣倉庫)があるから軽便鉄道が広尾十字路からぐるっと敷かれていると
考えれば筋がとおりますね。
なんで軽便鉄道が、広尾十字路<->柏井浄水場<->鷹の台ゴルフ場<->花見川スイミングクラブ<->
花見川商店街<->藤森小児科 とぐるっとまわっているのか、不思議に思っていました。
単に演習の為なのかと思っていましたが、ぐるりとまわっている「意味」があったんですね。
やはり、「漠然と物を見てはいけない」と痛感しました。
■橋脚について
TVでたまに、心霊写真特集をしてますが、森林の写真を取って、まるい点が目,鼻,口の位置関係に
あると人の顔に見えてしまい幽霊が写ってるってやってますけど、今回はたまたま地層の縞々と
木々の関係で、あたかも橋脚のように見えてしまったのでしょうか。
海老川乱歩さん
返信削除コメントありがとうございます。
花見川の河川敷に防空糧秣倉庫があるのはほぼ確実な情勢となってきています。他の資料から裏がとれたような感じになりつつあります。
行政と相談して12月か1月頃現地調査を実施しようと思います。このブログで予定を公表するつもりですので、もし興味と時間があればぜひご参加ください。
海老川乱歩です。
返信削除何かすごい事になってきましたね。
言い過ぎかもしれませんが、「歴史的瞬間」に立ち会える可能性がでてきましたね。
スケジュールが合えば、ぜひ参加したいと思います。
軍関係ですので危険な、武器、火薬、生物兵器が出てこない事を祈ります。
昔TVでよく見た、「川口浩」と「藤岡弘」の探検隊みたいで、わくわくしてきました。
小生の頭には、もう探検隊の音楽が鳴り響いています。
海老川乱歩です。
返信削除■橋脚について
もし、地表から上の部分の橋脚が無い場合、地表から出ている部分を斫で壊して、
地面から下の部分は残っている可能性はないでしょうか。
東岸も西岸も土を掘り返せば見つかるのでは?
ビルを建て直すときは、前に立っていたビルの杭を抜いているようですが、
こういう場所なので地表から出ている部分を斫で壊してしまえば、
地面から下の部分は特に影響もありませんし、
解体工事費を抑えられる事になります。
私の空想では立ち上がったいわゆる橋脚らしい橋脚はおそらく2基あって、それは撤去されているのではないかと思います。
返信削除その部分は鋼材で、経済価値がありますから、終戦直後に撤去され鉄くずとして再利用されてしまった。
西岸の橋台部分のコンクリートは残っている可能性があると思います。東岸は横戸台団地を作るときに緑地として改変されてしまって、戦前期の構造物はないと思います。しかし、現在の人工地形は架橋した時の人工地形と近似するように空想します。
防空糧秣倉庫はもし行政に情報がないとすれば、このブログ関係者等市民レベルで外観などの予備調査をおこなってから、行政に専門家による本格調査実施をお願いすることになるというイメージを持っています。
12日以降行政にヒアリングしてみたいと思っていますので、その結果はまたコメントします。
海老川乱歩です。
返信削除■未知の戦争遺跡について
失礼しました。「防空糧秣倉庫」なので、武器関連のものは無いはずですね。
(糧秣が軍事用語で食糧もしくは、軍馬用の秣(まぐさ)とは恥ずかしながら知りませんでした。
バカ丸出しでした。(>_<))
でも、(崖という人が近づきにくい)場所なので、武器とか保管しそうな場所に
見えてしまうのは考えすぎでしょうか。
地上の建物ではなく地下だから糧秣を保管するのに都合が良かったのでしょうか。
■橋脚の件
空中写真①
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M737&photono=108
を見ると橋脚が2本確認できます。
空中写真②
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=KT60ACZ&courseno=C13&photono=71
を見ると橋脚が確認できません。
1960年までには、少なくとも地表から上の部分は解体されている可能性が高そうですね。
以前にもこのブログで指摘されている方がいましたが、
空中写真①を見ると花見川はほとんどが田んぼで小川のような川だったんですね。
海老川乱歩さん
返信削除語句は糧秣倉庫ですが、食糧等の物資を蓄えるためだけとは、私は到底考えられません。
花見川の両岸には広大な演習場が広がり、それぞれ毒ガスの実地演習場もありました。
毒ガス兵器を含め武器弾薬庫として作られた可能性は否定できません。
1億玉砕を決意して、米軍と最後の決戦を準備していた時代です。
防空糧秣倉庫は書類上の名称にすぎないと考えます。
トーチカそのものではないと思いますが、一種の秘密出撃基地みたいな機能や軽便鉄道橋梁の防護機能も有していたと想像します。
なお、終戦時に内部にあったものはすべて持ち出されていると考えられますが、残っているゴミもあり、内部は危険と考えた方がよいと思います。
戦後の行政もこの施設の存在を知っていたに違いありませんが、現在まで情報が伝わってきているかどうかはこれから確認します。
2枚の写真の紹介ありがとうございます。
米軍の写真には2つの橋脚の影が写っていて、それは撤去されたとのご指摘はその通りだと思います。あとは、西岸台地縁に橋台のコンクリートが残っているかどうかです。
新たな情報を得たら記事にします。