花見川地峡の自然史と交通の記憶 32
1 平戸川のどこまで縄文海進海面がひろがったか?
平戸川は八千代市と千葉市の境付近では、現在は流域変更により、新川、花見川、勝田川と別の通称で呼ばれていますが、この付近(花見川地峡付近)の縄文海進の海面がどこまで広がったか、千葉県地質環境インフォメーションバンクのボーリングデータを使って検討してみました。
沖積層の基底は地質柱状図の層相記述とN値を参考に想定しました。
縄文海進の最高海面高度がTP+3mとすると、現在の大和田排水機場付近まで海面が侵入した可能性はほぼ確実です。
高津川河口付近は海と川のせめぎ合いの場所のような印象を受けます。
国道16号付近から上流は沖積層基底面の高度から、縄文海進の海面が拡がっていたということはないと考えられます。
平戸川のボーリングデータ
ボーリングデータ位置図
このデータから、平戸川筋の縄文海進の海面がどこまで広がったかというイメージを絞ることができました。
2 「八千代の歴史 通史編 上」の縄文海進情報の誤解とその一人歩き
「八千代市の歴史 通史編 上」の第1章第5節古鬼怒湾の時代に縄文海進による海岸線の記述があります。その趣旨は「宮内橋付近まで海が入ったことは確実であり、勝田に海が入ったことはない。当時の海岸線を描く問題の解答は今後に残されている。」とまとめることができます。
次の地質断面図が掲載されています。
新川低地の地質断面図
「八千代市の歴史 通史編 上」(八千代市、18ページ)
ところが、八千代市関係の方々のお話では、誰からも「縄文海進の海は宮内橋までです。」という断定的な情報をいただきます。
実際に資料でも「新川流域のボーリング調査によると、海進が最も進行した約6000年前の海岸線は新川中流域の宮内橋付近にあったと考えられています。」と記述しています。同時に図面上でその位置を×で示し、「×印は約6000年前の海岸線があったと推定される宮内橋の位置」と説明しています。(平成14年度第4回企画展図録「印旛沼の貝塚」、平成15年1月、八千代市立郷土博物館、12ページ)
なにか、「八千代市の歴史 通史編 上」の情報が誤解された上で、勝手に一人歩きしてしまって、誤解が公式見解のようになってしまったようです。
いつの間にか、「当時の海岸線を描く問題の解答は今後に残されている。」という記述は忘れ去られ、検討時点で得られた確実なボーリングデータのある宮内橋を持って海岸線を固定してしまい、問題を決着してしまったようです。
この記事に掲載したボーリングデータで示される通り、「宮内橋が縄文海進の限界」という「公式見解」(?)は自然史的事実とはかなり異なると考えられるので、見直すことが大切だと思います。
つづく
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