私の散歩論

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2014年6月30日月曜日

下末吉海進期バリアー島の学習 その2

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第4部 下総台地形成に遡る その2

次の一連の論文を読んで、下総上位面が形成される過程で最初に陸化したバリアー島について学習しました。

1 岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁
2 岡崎浩子・増田富士雄(1992):古東京湾地域の堆積システム、地質学雑誌第98巻、第3号、235-258頁
3 増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁

1 バリアー島の概念
バリアー島の概念図を次に示します。

バリアー島の概念
増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁 より引用

アメリカ合衆国の東岸は現在でも後氷期の海進期にあたっていて、海進期特有の海岸地形であるバリアー島が大規模に発達していて、その延長は4300kmの海岸線に295のバリアー島が存在します。

2 バリアー期(下末吉海進期)の古東京湾のバリアー島の分布
上記の論文では、下末吉海進期最盛期の海成堆積物である木下層の層相を露頭観察により詳細調査しています。
調査では観察した堆積相のデータから古流系を復元し、それらからバリアー島システムの堆積環境を推論してバリアー島と離水軸、潮汐三角州と潮流口等の分布図を作成しています。
下末吉海進期の古東京湾のバリアー島と離水軸および堆積環境は次の図に示されます。この図は地形面でいうと下総上位面に対応する情報です。

下末吉海進期のバリアー島と離水軸及び堆積環境
岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁 より引用(地形段彩図の上にオーバーレイ)

増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁 ではバリアー島は下末吉海進期に発達したとして、発達期間と海面変動との関係を次の図で表現しています。

バリアー島の発達と海面変動
増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁 より引用

3 下末吉海進期最盛期の陸域分布
下末吉海進期最盛期の陸域分布は陸地とバリアー島であったと考えられています。その分布を次の図でグレーで塗色しました。

下末吉海進期最盛期の陸域分布
岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁 より引用、塗色(地形段彩図の上にオーバーレイ)

この分布図を鳥瞰図として表現したものが次図です。

下末吉海進期最盛期の古東京湾イメージ
増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁 より引用

下末吉海進期最盛期にバリアー島が存在していた根拠は次のように述べられています。

バリアー島が海進にともなって外洋側から移動してきたことは,その移動した痕跡と考えられる平坦な侵食面が,外洋側にあたる離水軸から東側の地層中に明瞭に残されている(Murakoshiand Masuda,1992 ;O kazaki,1 992)ことからも示される.この平坦な面は,外浜における波浪による侵食面と考えられ, ラヴィーンメント面(Ravinement surface:Swift,1968 ;Nummedal and Swift,1987)と呼ばれる.ラヴィーンメント面のすぐ上には細礫などの粗粒堆積物が残留しているのが特徴である.

すでに述べたように,潮汐三角州堆積物は海進期の堆積物であり,その上面付近が最高海面期と考えられるので,その後さらに海面が上昇してバリアーが海面下に溺れたことはないと考えている.もし,バリアー島が沈水したら,沿岸流や波浪による侵食がおこり,地層にその痕跡が明瞭に残るに違いない.玉造町や成田市付近の地層の例ばかりでなく,鹿島灘や九十九里浜沿岸の常総台地の木下層には,そのような痕跡が今のところみつかっていない.したがって,第9図の1のような“外洋に広く開口した古東京湾は存在しなかったのではないか”,と現在のところ考えている.離水軸で示されるバリアー島(第9図2)は,海が最も広がった最高海面期の姿であったのではないだろうか.」(増田富士雄(1992):古東京湾のバリアー島、地質ニュース458、16-27頁)

4 下末吉海進期最盛期後の海面低下期
下末吉海進期最盛期後に海面が低下すると、潮汐三角州が陸化するとともに、それまで外浜-海浜であった地域が大規模に陸化したと考えられています。
その様子を示すと次の図になります。陸域の分布をグレーで塗色しました。

下末吉海進期最盛期後の海面低下期の陸域分布
岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁 より引用、塗色(地形段彩図の上にオーバーレイ)

このブログで問題意識を持ってきた印旛沼筋河川争奪の現場である印旛沼筋付近は丁度Lagoon(潟)として水域に留まっています。この区域について、次の記述がされています。

この離水した海浜地域と北側の陸化した木下地域の潮汐三角州の地域とに囲まれた,酒々井から臼井,さらに白井にかけての地域は,それまでの内湾や潟が閉塞されて汽水から淡水へと変化した(MASUDA andOKAZAKI,1983;渡部ほか,1987).この泥質堆積物の中にはKIPテフラからPm-1テフラまで水成堆積状態で産する(中里,1987MS)ことから,流入物質が少ないため遅くまで水域として残ったことが分かる.」(岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁)

5 鳥趾状三角州期(小原台海進期)の古東京湾の様子
次の図に鳥趾状三角州期(小原台海進期)の古東京湾の様子を示します。この図の情報は地形面でいうと下総下位面形成時代に対応します。

鳥趾状三角州期(小原台海進期)の古東京湾の様子
岡崎浩子・増田富士雄(1989):古東京湾の流系、堆積学研究会報31号、25-32頁 より引用(地形段彩図の上にオーバーレイ)

この時期までの海面低下によって浅い平坦な地帯が各地で離水し、海岸平野が出現しました。古鬼怒川の鳥趾状三角州が前進し、八日市場から小見川地域にはバリアーとその西側のラグーンが認められます。

印旛沼筋の古平戸川と鹿島川の筋が谷津として表現されています。


この3論文の学習により、これまでただひたすら「下総上位面は平坦な浅海底が陸化したもの」と考えていた情報不足状態から脱することができたと思います。

下総上位面の出自を各地域毎に、頭の中で現生地形モデルとも対比しながら、バリアー島や潮汐三角州、ラグーン、海浜など海岸地形として考えることができることが判りました。

成果が大の学習でした。

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