2014.09.26記事「西根遺跡について(資料閲覧前考察)」で縄文時代関東-東北交易路を縄文遺跡連担性から検討しましたが、この検討の最中に千葉県の形の意味が自分なりにわかりましたので、記録しておきます。
次の図は「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)に掲載されている奈良時代の房総三国の地図に、縄文時代関東-東北交易路(想像)を記入し、下総国を赤塗りした図です。
房総三国分郡図
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)より引用、加筆
この図から直感できることは、旧石器時代、縄文時代そしておそらく弥生時代、古墳時代まで下野-北総回廊が交通路として利用されてきていて、そのために結城、豊田、猨島、相馬、葛飾が印旛、千葉などと連携・交流している一体の地域であったため、同じ下総国に編入されたということです。
律令国家による計画道路(官道)ができるまで、下野-北総回廊が関東と東北を結ぶ幹線交通ルートであったのです。
そのルート沿いの地域が経済的、文化的、政治的等でまとまっていた(連携していた、交流していた)のです。
この様子を概念として示すと次のようになります。
房総三国分郡図と地域連携の様子
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)より引用、加筆
この地域のまとまりは奈良時代の計画道路(官道)によって解体の方向で推移して行ったものと考えます。
現在の千葉県北西部の角のような出っ張りは、原始・古代交通路による下野-北総回廊という地域連携の姿の名残です。
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追記2014.09.28
この記事の最初版で「千葉県北東部」と間違って記述しました。お詫びします。
この記事は殆ど時間を消費しないで勢いだけで書いたので、無意識レベルの錯誤がそのまま表現されてしまいました。記述時思考を絶えず意識化してこのような間違いを防ぐようにします。
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追記2014.09.28
思考は勝手な方向に進んで行ってしまい、コントロールに苦労していますが、次のような記事をいつか書きたいので、メモしておきます。
結城、豊田、猨島、相馬、葛飾を含んだ下総国流域は北西から南東方向に流れる水系に従って形成された圏域です。つまりこの圏域は国土計画的用語でいえば「流域圏」です。
この流域圏は縄文時代には既に形成されていました。(このブログでは、その物的証拠の一つとして印西市西根遺跡を考えようとしている。)
その流域圏を直角に串刺しして律令国家計画道路(東海道)がつくられました。
この関係は三全総から五全総までの国土づくり計画で強く意識された、流域圏とそれを串刺しする幹線交通軸(高速道路、新幹線)の関係と全く同じです。
古代と現代の国土づくりにおいて生じた、この同一問題を比較することによって、古代社会の理解をより一層深めることができるか、検討したいと考えています。
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