原始・古代関係図書を読む 13
2014.09.26記事「西根遺跡について(資料閲覧前考察)」で次の記述をしました。
(図書の)記述は、沖積地小河川沿いに多数土器が長期にわたり集中して置かれたという極めて特異な遺跡であるにも関わらず、その意義(それが何であるかという推測や説明)について全く書かれていないという異様なものであるので、記述の仕方に対する強い感情と出土物・遺跡サイトに対する強い興味を持ちました。
このような感情・興味から、(埋蔵文化財調査報告書が手元にないにも関わらず)まず、自分の見立てを、縄文時代関東-東北交易路の視点から検討しました。
この記事を書いた後、埋蔵文化財調査報告書を千葉市中央図書館から館外帯出して学習しましたので、その結果を報告します。
1 調査報告書「印西市西根遺跡」の諸元
「印西市西根遺跡」の図書諸元は次の通りです。
【諸元】
書名:千葉県文化財センター調査報告第500集 印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-
編集:財団法人千葉県文化財センター
発行:独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部、財団法人千葉県文化財センター
発行日:平成17年3月25日
体裁:A4判、433頁+図版62
【内容】
独立行政法人都市再生機構千葉地域支社の千葉ニュータウン事業に伴って実施した印西市西根遺跡の発掘調査報告書。
【主要目次】
第1章 はじめに
第2章 縄文時代
第3章 弥生時代~古墳時代中期
第4章 古墳時代後期~平安時代
第5章 中・近世
第6章 理化学的分析
第7章 漆関係資料
第8章 自然科学的分析
第9章 墨書土器
第10章 まとめ
千葉市中央図書館から館外帯出した「印西市西根遺跡」
2 調査報告書「印西市西根遺跡」における遺跡意義の記述
調査報告書「印西市西根遺跡」(以下報告書と呼びます)の第10章まとめ第1節縄文時代に項目「9西根遺跡土器集中地点の性格と意義」に次の記述があります。
(土器以外の遺物、土器の器種及び状態の検討の後)「上記の事例を総合的に考えれば、本遺跡土器集中地点は日常的に使用された土器の置き場であると言えるであろう。炭素年代測定の成果によれば300年の期間、地点を僅かに変えながら、日常的な土器のみが残されていることは何を意味するのか具体的には不明である。現代の針供養とも一面では通じるような感を受けるが、穿った見方であろうか。」
厚さ3cmの大報告書にしては意義に関する思考がほとんどゼロであり、残念です。
報告書では土器の詳細な分析を始め各界の専門家を総動員して出土物の詳細事実記載・分析をしていて、それがこの報告書の目的であり、遺跡意義の検討は目的に含まれていないと理解すると合点がいきます。
3 調査報告書「印西市西根遺跡」から浮かびあがるミナト
上記の通り、報告書に関わった専門家はこの遺跡がミナトである可能性に全く無頓着ですが、私はこの報告書の記述の中に次のようなミナトを示唆する情報を見つけたので、ピックアップしておきます。
3-1 土器について
●日常的に使用された土器の川辺配置と高修繕率
日常土器が川辺に完形で配置されていた状況から、それが運搬用器具(丸木舟運搬で使う現代におけるコンテナ、パレット)あるいは交易に伴う一時的利用として使われた可能性を示唆しています。
土器の修繕率が通常の場合より高いことが、煮炊き用等として集落で通常使用した後の第2段階リサイクル利用であることを物語っています。
3-2 石器について
●良質な黒曜石の出土
信州産と考えられる良質な黒曜石の出土場所は土器集積域(交易ヤード)であり、当時の流路ではありません。このことから、交易品として交易ヤードに持ち込まれた黒曜石がなんらかの事情(こぼれて紛失等)で土中に埋まったものと考えられます。
他の石器はその機能を喪失したものが多いのですが、これは交易の際、価値の無い物がその場に捨てられた、あるいは洪水等で交易品があったヤード破壊された後、価値の無いものして回収されずに残存したなどとして考えることができます。
3-2 木製品について
●杭の出土
杭と考えられる遺物1点が検出されています。この杭についての検討は報告書中で一切ありません。飾弓については特別の検討をしているにもかかわらず、杭検討ゼロは残念です。飾弓=宝物だからそうなったのだと思います。
さて、当時の河道内から杭が出土したということは、その杭の用途を舟の停泊用であると考えることが極自然です。
この杭出土が、この場所がミナトであることを雄弁に物語っています。
飾り弓と杭
千葉県文化財センター調査報告第500集 印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書- より引用
このブログでは花見川区の地名「柏井」が杵隈(かしわい)であることを明らかにしていますが(2013.07.14記事「千葉市柏井の由来は船着場(仮設)」参照)、その検討のなかで、次のような情報を得ています。
「古代~中世には船をつなぐために水中に立てる杭・棹を〈かし〉といい,牫牱または杵と表記した。船に用意しておき,停泊地で水中に突き立てて用いた(《万葉集》1190)。」(『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』「河岸」の項)
出土杭をよく見ると節の部分がわざと出っ張りで残されています。これは、ここにヒモを結び、常時舟に積んでいる船具であり、停泊する時にその杭を水中に突き立てて停泊杭として使ったものだからと考えることができます。
●飾弓の出土
飾弓の出土が土器集積域ではなく当時の河道内であることが飾弓の意味の一端を説明しているように考えます。土器、それも漆容器としての土器のある場所から飾弓が出たのではありません。
飾弓は何かの状況(不用意な水中落下、破損による投棄等)で水中に没した重要交易品と考えることが自然です。この遺跡付近の漆文化の一端を示す物ならば、漆容器のある土器集積域から出土するに違いありません。
素人考えでは飾弓を漆との関連で考えるのではなく、狩猟文化が高度化してその道具の弓が実用物から芸術品的に昇華されていく様子に注目すべきだと思います。飾弓は狩猟文化が爛熟した場所からそうでない場所に移動する途中だったのだと思います。
漆容器の出土は、それはそれでこの付近(ミナトの影響圏である印旛沼周辺)に漆文化があり、漆そのものが交易品になっていたと考えればよいのだと思います。
飾弓と漆の移動方向は逆方向だったのかもしれません。同じ方向であるという決めつけはできないと思います。縄文時代にあっても原材料の産出場所と、高度な製品生産場所は異なると考える方が自然です。
4 弥生時代以降の出土物、地名
報告書では弥生時代以降についても、この遺跡がミナトである可能性は考慮していないようです。
しかし、報告書に記述されている記述をよく読むと、弥生時代以降もミナトとして機能していた遺跡であることが縄文時代以上に明確に読み取ることができます。
弥生時代~古墳時代中期の項では船の部材と考えられるものが出土し、「本遺跡は印旛沼の突端部付近に位置しており、船材が出土しても不思議ではない地域であり、注目される。」と記述されています。
古墳時代後期~平安時代の項では出土墨書土器に「舟穂郷生部直弟刀自女奉」と書かれたものがあり、この地に残る「船尾」という地名が9世紀中葉まで遡ることがわかり、古代では印旛郡舩穂郷に含まれることを示すものであると記述されています。
この遺跡場所そのものが古代印旛郡舩穂郷の名称発祥地そのものだと思います。古代印旛郡舩穂郷の中心地が西根遺跡の場所だと思います。
舩穂郷の舩穂、地名の舟尾の意味はいつか詳細検討したいと思いますが、現時点では次のように考えます。
舩、舟(ふな)は舟が集まる場所、つまりミナトを意味すると考えます。
穂、尾(お)は山裾の延びたところ、山の高い所、みね、おねを意味すると考えます。
この二つを合わせてミナトのある山裾を意味したと考えます。
奥印旛浦の各地から舟で運ばれてきた交易品が、この西根遺跡というミナトで舟から降ろされ、ここから陸路で山裾を登り、現在の印西市和泉や小倉付近に運ばれていった様子からつけられた地名だと思います。
古代地名「舩穂郷」発生の背景に、縄文時代から関東-東北交易の重要ミナトがそこに在り、同じ交易が過去からずっと存在していたことがあると考えることは当然です。
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