私の散歩論

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2014年11月21日金曜日

〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討について

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.1〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討について

〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討をスタートします。

時代的には古墳時代、奈良時代、平安時代を見つめた検討になります。しかし、恐らく旧石器時代、縄文時代、弥生時代の人の生活活動や移動交通との関連と絶えず対照させながら検討することになると思います。ですから、3.2旧石器時代の移動路や3.3縄文時代の交通の寄り道をしてしまうこともあるかもしれませんので、その旨事前にお伝えしておきます。

1 〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の趣旨
〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の趣旨は次の通りです。

●〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の趣旨
千葉市花見川区柏井町・横戸町の町界線は直線状をなしていて、江戸時代の柏井村と横戸村の境界でもあります。
この境界は中世の牧境界でもあり、終戦後ゴルフ場が拡張されるまではその境界に馬防土手が構造物として存在していました。

この直線状の馬除土手の両端には双子塚(円古墳)と高台南古墳(前方後円墳)がドンヅケで位置します。
二子塚の近くには柏井の集落があり、古代ではここまで花見川水運があったと考えられます。(ボーリングデータによる。また地名柏井は「杵隈(かしわい)=舟を止めた杭(カシ)がたくさん」の意味に解釈できる。)

高台南古墳の近くには延喜式に出てくる高津馬牧に由来する地名「高津」があり、高津(水運路最上流部の高い場所にある津(=直轄港湾))の要塞跡遺跡と考えられる地形もあります。
また、古代において高津まで香取の海の水運が存在していたと考えられます。(ボーリングデータによる。)

このように、近世に直線状の馬防土手として利用された構造物があり、その両端は古代では花見川と香取の海の水運の終端であったという情報から、この直線状の馬防土手は古代の直線道路跡であり、その道路は花見川水運と香取の海水運を結ぶ水運路結合のための陸路であったという仮説をつくることができます。

一旦この仮説をつくると、古代東海道浮島駅-花見川-(柏井)-陸路-(高津)-香取の海という古代東海道の水運支路がここに存在していたと考えることが可能になり、様々な古代遺跡情報をつないで合理的に全体を把握することができるようになります。

この仮説に関するこれまでの記事のうち最近のものはサイト「花見川地峡の自然史と交通の記憶」に再掲しています。

この仮説について検討を深め、仮説を実証していく上でキーとなるような情報を見つけ出そうというのが、これからのこのブログの取り組みです。

2 〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路検討の視点
〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討の視点を次のように考えています。

2-1 国家的計画的交通路のあり方変遷の中で検討する
花見川区に律令国家の直線道路がありそれが東海道水運支路と位置づけられるような交通路であったと考えると、その交通路(二つの水運とそれを結ぶ短区間陸運)は計画的な交通路です。
計画的な交通路であれば、現代の計画的交通路と同じく戦略的拠点を最短距離で結ぶという機能が最優先されるはずです。そのような意味をこの交通路が持っているはずです。

古墳時代、奈良時代、平安時代の陸奥政策の変化(緊張の増し方)のなかで古代東海道の駅路ルートが変更されていきましたが、そのような国家としての計画交通路のあり方の変化の中でこの東海道水運支路(と考える交通ルート)を考えると、それがつくられて時代や役割(利用のされ方)についての検討ができると考えます。

2-2 自然発生的交通路との対比の中で検討する
花見川付近ではその地形的特性(花見川河川争奪現象)からもともと東京湾水系花見川と印旛沼水系平戸川(現在の新川)が谷中分水界で通じていて地峡(花見川地峡)となっていました。この地峡部を使って東京湾水系と香取の海の間の自然発生的交通が行われていたはずです。縄文時代、弥生時代には自然発生的交通があったはずです。
そのような自然発生的交通路(既存集落間を地形を利用して結ぶような交通路)と計画的交通路である東海道水運支路(と考える交通ルート)の違いについても、絶えずチェックしながら検討を進めたいと考えます。

参考 古代東海道水運支路の3つの津(古代直轄港湾)(仮説)
基図は「千葉県地名変遷総覧附録 千葉県郷名分布図」

参考 柏井・高津古代官道の起終点のイメージ

参考 米軍撮影写真から判読できる終戦直後の馬防土手

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