2015.03.17記事「偶然か因果関係か? 最大風速風向、竪穴住居址方向、凸地形方向」の追補メモを掲載します。
1 風向表の視覚化
千葉測候所(現千葉特別地域気象観測所)が観測した風向と風速のデータの風向欄に方向を矢印で描きこんで、直感的にわかるようにしました。
毎月の最大風速の風向は、3月、6~9月の5ヶ月間は南南西であり、この風向に近い南西、西南西、南南東を加えると10ヶ月間になります。
私は約30年千葉市に住んでいますが、これまで一度も強風時の風向がほとんど一定して南南西およびその近くであるという事実を知りませんでした。自然から隔絶した人工環境のなかで暮らしていることに気がつかされました。
風の最多風向(これが我々が感じているいつもの風向)と最大風速時の風向とがなぜ違うのか、とても興味が湧きます。
おそらく、東京湾の形という地形的要因が強く働いて、どのような風向の風も、強風になると結局地形に制約されて全部南南西の風に収斂してしまうのだと想像します。これは専門家に話を聞けば、正解を得ることができると思います。
2 竪穴住居址の上部構造の違いが見えてきた
千葉市では強風時に南南西及びその近くの風が卓越していて、それが古墳時代竪穴住居址の対角線軸の方向と一致することに気がつきました。
その後、新たなことに気がついたので、メモしておきます。
次の図を使って説明します。
竪穴住居址と南南西の風との関係
Aの竪穴住居址対角線軸(仮称)は強風時卓越風向(南南西)と同じです。
Bの竪穴住居址対角線軸(仮称)は強風時卓越風向(南南西)と異なります。しかし、この住居址について、対角線ではなくCのような軸線を引くとこの軸線は南南西になります。Aと同じ方向になります。
このことから、次のような想像をしました。
Aの住居は竪穴から空中に立ち上がった屋根部分が4角錐や円錐のようになっていて、それで南南西の強風に対する抵抗を和らげているのではないか。
南南西の風を意識して、それに対抗できる上部構造の強度を得るために、対角線軸が設定されているのではないか。
一方Cの住居は屋根部分にCの方向に棟木があり、棟木の両側にハの字に2枚の屋根を配して風の抵抗を和らげているのではないか。
AよりCの住居の方が構造的に頑丈なものです。時代的にもAは古墳時代後期、Cは奈良時代以降ですから技術的変化と時代の違いが合います。
発掘平面図ではAとCについて、竪穴の向き以外の違いは一見ではわかりませんが、上部構造(屋根)が異なれば、おそらく柱の太さの違いに起因する柱穴の大きさや深さなど、土台部分の形状に必ず違いが生まれると考えます。
今後発掘調査報告書を詳細に吟味してみたいと思います。
3 南南西の強風が千葉の海岸地形をつくっている
台地海蝕崖と砂丘の発達は南南西強風が強く係っている
考古歴史の興味ではなく地学的興味として、南南西の風が千葉市の海岸地形形成に大きな役割をはたしていることに気がつきました。
南南西の強風が砂丘を形成したことは間違いないと考えますが、それ以前に、砂丘をつくるほどの砂がどのように供給されたかということが問題になります。
砂丘の砂は、台地が東京湾の潮流や波力エネルギーにより侵蝕されて供給されたのだと考えます。その証拠に、台地前面の海の底には広い波食台が拡がっています。
この台地侵蝕を引き起こした主要営力は波力エネルギーであり、それはとりもなおさず南南西の強風によってもたらされたものと考えます。
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