私の散歩論

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2015年9月7日月曜日

銙帯出土情報から考える鳴神山遺跡の意義

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.199 銙帯出土情報から考える鳴神山遺跡の意義

鳴神山遺跡及び近隣遺跡の検討に入っているのですが、詳細な発掘情報検討の前に、墨書土器と銙帯という古代社会様子を知ることのできる有力指標を使って、鳴神山遺跡および近隣遺跡(船尾地区)の房総における大局的意義のイメージをつかもうとしています。

この記事では房総における銙帯分布情報から鳴神山遺跡および近隣遺跡の意義について検討します。

次の分布図は房総における遺跡別銙帯出土数の様子です。

千葉県の遺跡別銙帯出土数

出土数が多い遺跡は特定圏域に集約的に分布している様子が見て取れます。

特に銙帯出土が集中している圏域は、現代行政区域で言うと、八千代市、佐倉市(一部酒々井町を含む)、成田市(一部富里市を含む)、大網白里市(一部東金市を含む)の4箇所です。

それ以外にも銙帯出土集中箇所がありますが、まず着目すべきは上記4箇所です。

この4圏域の特徴を大づかみに捉えたいと思います。

次の図は上記分布図に銙帯出土集中圏域の仮称と下総国領域を示したものです。

銙帯出土集中圏域と下総国領域

次のような特徴を捉えることができます。

1 Y圏域、S圏域、N圏域が下総国領域に位置しています。下総国領域にはそれ以外の銙帯出土も多くなっています。下総国、上総国、安房国という区分で言えば、下総国の銙帯出土が他2国を圧倒するといってもよいです。

銙帯出土数は律令国家が配置した官人数に比例すると考えますから、銙帯出土数から社会開発の拠点が下総国領域に集中している様子が見て取れます。

2 Y圏域、S圏域、N圏域は全て香取の海水系に位置しています。
現代千葉県の県都である東京湾岸の千葉市域にも規模の小さな銙帯出土集中地点はあります。

あるいは同じ東京湾岸の下総国国府付近にも銙帯出土はある程度集中いています。

しかし、東京湾水系と香取の海水系という区分を意識すると、香取の海水系の銙帯出土が圧倒しています。

これは社会開発の意識、視線が陸奥国方面を強烈にうかがっているものであるからだと思います。

全ては蝦夷戦争勝利のために、つまり律令国家の東北領土を拡大し確実なものにするために、その戦略的兵站地域である下総国の開発が行われたのだと思います。

萱田遺跡群つまりY圏域は律令国家の軍事・兵站基地であると考えてきていますが、S圏域、N圏域も同じく律令国家の軍事・兵站基地の性格が濃厚であると考えて差し支えないと思います。

3 O圏域が上総国領域の銙帯出土集中箇所であり、その場所が太平洋への出口であるという特徴的から、O圏域もY圏域、S圏域、N圏域と同様律令国家の軍事・兵站基地であると考えて差し支えないと思います。

上総国が不利な地の利を克服して、ようやく律令国家の期待に応えてO圏域という軍事・兵站基地をつくり、太平洋から陸奥国へ向かう直接ルートを開発したと考えます。

S圏域、N圏域、O圏域の発掘調査報告書を詳しく読むことなく上記のようなイメージを作りましたが、このようなイメージを持って初めて自分と各圏域の遺跡との間に興味の糸を結ぶことができます。

次にY圏域、S圏域、N圏域と鳴神山遺跡との関係を考えます。

次の図は印旛浦付近の拡大図です。

銙帯出土集中圏域と鳴神山遺跡

拡大図から次のような特徴を見て取ることができます。

1 詳しくみると3つの圏域とも2つの小圏域から構成されているように見えます。

Y圏域は平戸川(現在の新川)を挟んで西岸の遺跡(萱田遺跡群)と東岸の遺跡(村上込の内遺跡など)から構成されています。

S圏域は高崎川を挟んで南岸の遺跡(六崎大崎台遺跡など)と北岸の遺跡(高岡大山遺跡など)から構成されています。

N圏域は印旛沼流入河川沿いの遺跡(大袋腰巻遺跡など)と根子名川沿いの遺跡(囲護台遺跡など)から構成されています。

3つの圏域が小圏域から構成されているという事実から、3つの圏域はそれを中心として地形によって制限されない広大な周辺地域を後背地(開発勢力圏)としてもっていた構造的圏域であることがわかります。

イメージ的にはY圏域は平戸川流域を、S圏域は鹿島川・高崎川流域を、N圏域は江川流域・根子名川流域を後背地として有していたと考えます。

2 3つの圏域の位置から、Y圏域とS圏域は印旛浦を、N圏域は印旛浦と根子名川を水運路として活用していたことが推察できます。

3 S圏域は東海道駅家の鳥取駅と、N圏域は山方駅と対応するものと考えます。
(陸路駅家と水運路の津と集落中心地の3つの空間的位置は多少ずれることが一般的であると考えます。)

4 鳴神山遺跡及び近隣遺跡は銙帯出土が4であり、数からみるY、S、Nの3つの圏域よりかなり下位にランクされる小圏域をなしている存在だと考えます。

鳴神山遺跡の背後地は印旛浦北側の台地で、そこは面積が限られ、かつ谷津の発達が悪く水田耕作の条件が悪く、印旛浦南岸と比べ開発限界が最初から明瞭な土地です。

Y圏域、S圏域、N圏域および鳴神山遺跡は同じ印旛浦という幹線水運路空間を共有していて、かつ視線を陸奥国にむけて蝦夷戦争の兵站基地機能を積極的に果たしていたと考えますから、それら全体を統治する支配機構は整備されていたと考えます。

出土した銙帯を身に着けてたのは、現場で働いていた出先官人であると考えますが、その官人を配置したり、転勤させたり、勤務評定をつける高次の支配機構が機能していたと考えます。

後先から言えば、律令国家支配機構が最初につくられ、その機構のもとに3つの圏域(拠点)がつくられ、さらにその下部に小圏域(小拠点)がつくられたと考えます。

3つの圏域には多くの官人が配属され、その下部の小圏域には限られた人数の官人が配置されたと考えます。

Y圏域の遺跡から多くの銙帯が出土し、鳴神山遺跡からは限られた数の銙帯しか出土しないという状況はこのような支配統治機構(行政機構)の特性を表現しているものと考えます。

出先の現場にゆくほど実際の労働従事者(組織された一般住民)あたりの官人数は減ると考えます。

逆に言えば、現場に行くほど官人は偉くなり、少人数で多数の労働従事者を監督していたと考えます。

現代の行政機構でも現場に行くほど役人1人あたり発注額が増大したり、役人1人あたりサービス提供対象人数が増えるという現象があります。

鳴神山遺跡は3つの圏域からみるといわば下部に位置する小圏域(小拠点)であり、官人数に比して労働従事者(組織された一般住民)は多かったと考えます。

そのような状況が、出土銙帯は4つであるけれども、墨書土器出土数は鳴神山遺跡が房総1位、船尾白幡遺跡が房総6位というアンバランスとして表現されていると考えます。

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