花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.265 学習 蝦夷戦争時代区分の萱田遺跡群との対応
2016.01.09記事「学習 蝦夷戦争の経緯と時代区分」で下総国からみた蝦夷戦争時代区分を鳴神山遺跡竪穴住居消長に当てはめてみました。
その結果により鳴神山遺跡竪穴住居消長の意味を生き生きと捉えることができました。
早速同じことを昨年検討した萱田遺跡群に当てはめてみました。萱田遺跡群は鳴神山遺跡と同様に軍事兵站基地と考えてきています。
萱田遺跡群の竪穴住居消長と蝦夷戦争に関する時代区分
下総国からみて蝦夷戦争の動員が激化したのは774年頃から805年頃と考えますから発掘調査報告書の時期区分のうち2期(8世紀後半)と3期(9世紀初頭)を蝦夷戦争時代に対応させました。
この図を見ると、蝦夷戦争準備時代・蝦夷戦争時代に竪穴住居が存在していたのは白幡前遺跡、井戸向遺跡、北海道遺跡であり、かつ各遺跡の全ゾーンではありません。
権現後遺跡は動員解除・戦後時代に新たに開発されたと考えることができます。
これまで萱田遺跡群の検討では遺跡全体を蝦夷戦争の軍事兵站・輸送基地と見立てて検討してきましたが、そのようなイメージを大幅に修正しなければならないようです。
萱田遺跡群全体を見ると、8世紀に入り新たに開発が始まり、蝦夷戦争準備時代に竪穴住居数が増大し、蝦夷戦争時代には竪穴住居数が減少し、動員解除・戦後時代になると新たに開発されるゾーンが生まれ竪穴住居が増加します。そして4b期(9世紀前半)をピークにその後減少に転じ、10世紀初頭までにはほとんど消滅します。
そのパターンは鳴神山遺跡と軌を一にしています。
参考 鳴神山遺跡竪穴住居の消長と蝦夷戦争時代区分
鳴神山遺跡検討後周辺遺跡の検討を行い、その後再度萱田遺跡群詳細検討にチャレンジして、萱田遺跡群の認識を深める予定です。
白幡前遺跡の周溝を張り巡らせた古代寺院が9世紀前半には破壊されていた理由とか、同じく白幡前遺跡に馬と人が一緒に捨てられた土坑が出土していて争いの跡があるなどの発掘事象の意味が、時代背景を考えると判ってくるような気がしていますので、萱田遺跡群詳細再検討が楽しみです。
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