前後記事と関係しませんが、地名「犢橋(コテハシ)」の語源について深考します。
2015.02.27記事「地名「犢橋(コテハシ)」の語源」である程度説得力のある犢橋の語源の説明ができたと、これまで考えていました。
参考までに再掲します。
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再掲 「地名「犢橋(コテハシ)」の語源」
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.75 地名「犢橋(コテハシ)」の語源
上ノ台遺跡の牛骨出土情報に端を発し、延喜式記載浮島牛牧と関連付けて、上ノ台遺跡のメイン生業として牛牧を想定しました。
さらにその情報に基づいて、その場所の地名「幕張(マクハリ)」の語源は「牧懇(マキハリ)」であるとする考察を行いました。
そうした経緯の中で、前から気になっていた難読地名「犢橋(コテハシ)」の語源が、「幕張(マクハリ)」と同じように古代の牛牧に関連するものであるとする思考が、自然に、スッと生れましたので、記録しておきます。
次に「参考図 近世犢橋村境界と関連地物」を掲載しておきます。
参考図 近世犢橋村境界と関連地物
基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)、水系は現代水系
「犢橋(コテハシ)」の語源は「特牛(コトイ)階(ハシ)」であると考えました。
特牛(コトイ)とは次の様に説明されています。
ことい【特牛】 コトヒ
(コト(殊)オヒ(負)の約かという)「こといのうし」「こというし」の略。夫木和歌抄(33)「やまと—のかけずまひする」
『広辞苑 第六版』 岩波書店
ことい‐うし ことひ‥【特牛】
〖名〗 (古く「こというじ」とも) 強健で大きな牡牛。頭の大きい牛。また、単に牡牛のこと。こって。こってい。こってうし。こっていうし。こっとい。ことい。こといのうし。
※俳諧・玉海集(1656)一「たかやすは象とや見まし特うし〈良利〉」
※万葉(8C後)一六・三八三八「わぎもこが額に生ふる双六の事負乃牛(ことひノうし)の鞍の上の瘡(かさ)」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
以上の説明から、「コテ」とは、ことおい→ことい→こって→こてと音が変化してきたことばで、強健な牡牛の意味であることがわかりました。
古代では、牛は兵器に準じるような軍事的重要性があり、もっぱら駄用として、主として戦時の物資輸送に備えるために兵部省が官牧で繁殖につとめていました。(2015.02.24記事「上ノ台遺跡 軍需品としての牛、殺牛・祭神・魚酒」参照)
コテ(特牛)とはその軍需品(現代風にいえば軍用トラック)としての駄用牛そのものだと思います。
階(ハシ)とは次のように説明されています。
はし【階・梯】
〖名〗
① (階) 庭から屋内に上る通路として設ける階段。きざはし。きだはし。あがりだん。〔十巻本和名抄(934頃)〕
※古今著聞集(1254)五「式部はしのかたをみいだしてゐたりけるに」
② (梯) はしご。かけはし。
※書紀(720)垂仁八七年二月(熱田本訓)「神庫(ほくら)高しと雖も我能く神庫の為に梯(ハシ)を造(たて)る」
※大鏡(12C前)二「もののすすけてみゆるところの有ければ、はしにのぼりてみるに」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
つまりあがり階段のことです。
コテハシ=「特牛(コトイ)階(ハシ)」とは、浮島牛牧で生産した軍需品としての強健な駄用牡牛を戦地(陸奥国)方面に運ぶために、花見川谷底から台地面にあがる(のぼる)場所を意味したのだと考えます。
花見川谷底は犢橋付近から急に狭くなり、そこは化灯土が堆積する低湿地です。その場所を牛が歩くことが困難であったのだと思います。
そのため犢橋付近で牛を台地に引き上げた場所があり、その場所を「特牛(コテ)階(ハシ)」と呼んで、その場所の地名が生れたのだと考えます。
牛を台地に引き上げる場所に地名が生まれる程ですから、長期にわたり継続的に牛がこの場所を通過したのだと思います。
また、地名に残るのですから、牛を台地の上にのぼらせることが一苦労だったのだと思います。牛輸送(といっても牛を歩かせて移動させる)の難所の一つが犢橋だったのだと思います。
牛は犢橋で台地にのぼり、そこから高津まで歩き、高津で船に載せられたのか、あるいは台地上を北東に向かって歩いたのか、その行程は今後の検討課題とします。
なお、「犢」という漢字の読みは「トク」であり「コテ」とは読みません。またその意味は「子牛」であり「強健な牡牛」ではありません。しかし、漢字は牛偏であり、牛に関する言葉です。
コテハシが浮島牛牧で生産した強健な牡牛を台地に引き上げる場所という語源にも関わらず、「犢橋」という漢字が当てられた経緯を次のように想像します。
1 「特牛(コトイ)階(ハシ)」が転じてコテハシという地名が生まれる。音としての地名であり、漢字が充てられていなかった。【古代、牛牧が存在していた時代】
牛牧の時代が終わっても、コテハシという音の地名は伝世するが、その正確な意味は忘れられる。
2 土地開発等のために、コテハシという地名に当て字を充てる必要が生じる。【中近世】
その際、この場所が牛に関わる土地であるというかすかな伝承が社会に伝わっていた。
当て字を考えた人々は、コテは焼きごてのコテであり、焼きごてで牛に印を押す場合、それは必ず子牛であるから、コテからイメージする牛とは子牛のことであると考えた。
子牛は、漢字で書けば「犢」であるから、「犢」の読み「トク」とは異なるが、強引にその漢字を充てた。
また、小手(小さい手)という漢字からも子牛をイメージできる。
ハシは「子牛が花見川を渡る」というイメージから「橋」を充てた。
結果として、当て字「犢橋」が生れた。
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さて、2015.12.30記事「鳴神山遺跡直線道路検討メモ」で鳴神山遺跡直線道路が大結馬牧・高津馬牧・浮島牛牧の牛馬搬送用専用道路である可能性を検討しました。
この検討で、結果として、浮島牛牧の牛(特牛…軍用駄用牛)の陸奥国方面への搬送ルートのイメージがある程度明瞭になりました。
その結果は次のようにイメージしています。
蝦夷戦争時代の陸奥国への牛馬搬送イメージ
直線道路始点のイメージ(牛馬搬送)
2015.02.27記事で考えた、浮島牛牧の特牛を花見川低地から犢橋村で台地に上げ、船越経由で陸奥国方面へ搬送する必然性は全くないことが判明しました。
浮島牛牧の特牛は牛牧から直接台地の上にあげ、そのまま高津馬牧経由で陸路香取の海方面へ向かえばよいのです。
したがって、難読地名「犢橋」の語源については別の考えを構築する必要があります。
新たな考えは次の図に示したようにまとめることができました。
自分の感想は以前の仮説より、より確からしさが増したと感じます。
地名「犢橋(コテハシ)」の語源 深考
東海道水運支路が通っていた時代(奈良時代)、特牛(コトイ)が船越陸路の駄用として使われていたと考えます。
陸路と異なり、水運では多量の物資を運搬することができます。
しかし、東京湾から香取の海に抜ける場合、どうしても船越(短区間陸路)を越さなければなりません。
その船越で活躍したのが特牛(コトイ)であったと考えます。
特牛があたかも水運路と水運路の間の陸路に橋を架けたような運搬ルートイメージを当時の人が持って、船越を「コテハシ(特牛橋)」と呼んだのだと思います。
後世に特牛(コトイ)の管理に関係した村を「コテハシ」と呼び、その当て字を「犢橋」としたのだとおもいます。
犢橋の橋は花見川と平戸川(新川)を結ぶ橋(橋梁)の意味であると考えます。
当て字「犢」が子牛を意味するのに、強引に「コテ」と読ませた理由は2015.02.27記事で書いた通りです。
なお、コトイ、コッテ、コテという言葉が中近世にはこの地方では使われていなかったことがわかります。
コトイ、コッテ、コテという言葉は主に西日本で使われる用語ですから、奈良時代の浮島牛牧や下総台地で特牛を扱っていた集団は西日本から来訪した外来集団で、その集団は去り(あるいは滅亡し)、中近世のこの土地の人々とは接点が無かったと想像します。
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