花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.260 鳴神山遺跡竪穴住居消長
鳴神山遺跡集落と直線道路の関係を考察するために、竪穴住居の年代別分布図を基礎資料として作成しました(*)が、その軒数をカウントしてみました。
*2016.01.05記事「鳴神山遺跡集落と直線道路の関係 その2」
なお、作成した情報は「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)掲載「主な古墳時代後期から奈良・平安時代竪穴住居年代」(サンプリングした183竪穴住居対象調査)から作成しています。
1 鳴神山遺跡 竪穴住居の消長
鳴神山遺跡竪穴住居の消長を直線道路の南側と北側に分けてグラフ化しました。
鳴神山遺跡 竪穴住居の消長
8世紀第1四半期から9世紀第1四半期まで、8世紀第4四半期を除き竪穴住居軒数は増大し、その後9世紀第2四半期に急増してピークを迎えます。9世紀第3四半期には急減に転じ、9世紀第4四半期には8世紀第1四半期より少なくなります。直線道路北側の軒数もほぼ同じパターンでその数を増減させます。
直線道路北側と南側の割合を詳しく見ると次のようになります。
鳴神山遺跡 竪穴住居の直線道路南北の割合
8世紀第1四半期から8世紀第4四半期まで直線道路北側の割合はほぼ同じような値となっていますが、9世紀第1四半期、9世紀第2四半期と直線道路北側の割合が増加します。
8世紀第1四半期から9世紀第1四半期までの状況はおそらく直線道路が蝦夷戦争のために活用されていた時期とその意義が失われた最後の時期に対応していると考えます。
9世紀第2四半期の竪穴住居軒数のピークは蝦夷戦争後であり、戦争動員が存在しなかったと考えられる時期であり、直線道路はすでに廃棄埋め立てられています。
鳴神山遺跡集落は8世紀第1四半期から9世紀第2四半期まで、一貫して直線道路北側の方向にその発展域を持っていたと考えます。
8世紀第1四半期から9世紀第1四半期までの間は、鳴神山遺跡は直線道路が果たしていたであろう機能(東京湾岸の馬牧・牛牧の牛馬の香取の海への搬送)と何らかの連動した状況下にあったと考えます。
少なくとも、鳴神山遺跡集落が直線道路機能の維持管理に無関係であったことはあり得ないと考えます。
鳴神山遺跡集落の直線道路北側に馬牧が存在していて、直線道路機能と連動していたのではないだろうかと考えます(空想します)が、その証拠はいまのところつかんでいません。
2 鳴神山遺跡竪穴住居 年代差分の状況
鳴神山遺跡竪穴住居の年代差分の状況をグラフ化すると次のようになります。
鳴神山遺跡竪穴住居 年代差分の状況
8世紀第4四半期から9世紀第1四半期にかけて増加分竪穴住居も減少分竪穴住居もその数が増えます。
つまり、この期間に竪穴住居の建て替え(住み替え)[新築と廃棄]が活発であったことがはっきりします。人口流入と流出が活発だったと考えます。鳴神山遺跡集落社会の様相が大きく変化したのだと考えます。
8世紀第4四半期から9世紀第1四半期の差分データは、蝦夷戦争が大詰めを迎えて直線道路の意義が最高潮に高まった状況と、その後戦争収束の動きが始まり、急速に戦時体制が解かれ、それに対応して直線道路が不用となり廃棄された状況の双方を反映していると考えます。
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