私の散歩論

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2016年1月7日木曜日

大結馬牧と鳴神山遺跡に関する超仮説

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.261 大結馬牧と鳴神山遺跡に関する超仮説

空想的直観的に気が付いた仮説をそのまま頭脳の中で温めておいても、何も生まれませんが、ひとたび記事に書くと、その仮説を調べざるを得なくなり、その仮説が100%生きることは少ないにしても、何らかの新知見を得ることができます。

ブログ記事を書いていて、この点は強く実感しているところです。

ブログ記事は大げさに言えば全世界に向かって公表してしまったものですから、仮説がどの程度正しいか、どの程度間違っているか、その後私自身に生じる感想は正直に記事にせざるを得ません。仮説の真偽を検証する責任が生まれます。

つまり、ブログ記事に書くことによって、仮説検証行動が活動の仕組みの中で担保されることになります。

さて、新年の気分がまだ残っていて、気持ちがいつもより大きくなっていますので、最近気になっている超仮説を記事にしてしまいます。

この超仮説の中の何割かが正しければ大いにうれしいことになりますし、間違っていることが判った事項があれば、それはそれで大いに自分の学習が進展します。

大結馬牧と鳴神山遺跡に関する超仮説

超仮説の骨子

1 大結馬牧は「大」をスローガンとする牧集団が各地で開設した馬牧群の総称である。
大結馬牧は本拠地船橋市夏見付近の他、いくつかの馬牧から構成され、その構成馬牧の一つが鳴神山遺跡であった。

2 船橋市夏見古代遺跡から墨書土器文字「大」が出土し、鳴神山遺跡からも多量の墨書土器文字「大」が出土していることが1の傍証である。

3 鳴神山遺跡中央部を貫通する直線道路が船橋市夏見方面につながっていると考えられることも1を示唆する。

4 「大」は大国主神(大国玉神)の大に由来すると考える。

5 大結馬牧のスローガン「大」は鳴神山遺跡では地名として定着した。

1 大結馬牧は「大」をスローガンとする牧集団が各地で開設した馬牧群の総称である。
大結馬牧は本拠地船橋市夏見付近の他、いくつかの馬牧から構成され、その構成馬牧の一つが鳴神山遺跡であった。

「大」集団が各地で馬牧を開設し、それらを連結して運用したので、その全体を大結(おおゆい)馬牧と呼んだと考えます。

各地馬牧の連結は馬(軍馬)を陸奥国へ搬送するための専用道路で行い、その道路の一部が鳴神山遺跡で出土した直線道路M004であると考えます。
大結馬牧を構成する馬牧は船橋市夏見付近を本拠地とし、鳴神山遺跡を含め他にもいくつかの馬牧が存在していたと考えます。

超仮説 大結馬牧のイメージ



参考

意富比(おほひ)神社の「おほひ」は「おほゆひ」(大結)の短縮された口語形を表現したものであると考えます。
「おほひ」神社すなわち、「おほゆひ」(大結)神社と考えます。

多数馬牧を連結して総合運用する牧集団「大」の本拠地が東京湾岸の船橋市に存在していたと考えます。

2 船橋市夏見古代遺跡から墨書土器文字「大」が出土し、鳴神山遺跡からも多量の墨書土器文字「大」が出土していることが1の傍証である。

船橋市夏見の古代遺跡から墨書土器文字「大」が出土しています。(墨書土器データベースで確認)

鳴神山遺跡から多量の墨書土器文字「大」が出土しています。



船橋市夏見で「大」と墨書した集団と鳴神山遺跡で「大」と墨書した集団は同族の馬牧集団であったと考えます。

3 鳴神山遺跡中央部を貫通する直線道路が船橋市夏見方面につながっていると考えられることも1を示唆する。

鳴神山遺跡中央部を貫通する直線道路が船橋市夏見方面ともつながっていたと考えられることは、1の思考を支持します。


参考 蝦夷戦争時代の陸奥国への牛馬搬送イメージ

4 「大」は大国主神(大国玉神)の大に由来すると考える。
墨書文字「大」は後世人からみると大結馬牧をイメージできてしまう言葉であるかもしれませんが、言葉の本質は大国主神の意味であると考えます。

大国主神を信奉する集団が馬牧を多数連結して運営したので、その名称が大結馬牧になったのです。
大結馬牧の構成員はあくまで大国主神に祈願する意味で「大」を墨書したと考えます。
大結馬牧の名称から「大」を採って、「大」と墨書した可能性はゼロだと考えます。



参考 鳴神山遺跡出土墨書土器で出現する大国主神と大物主神

5 大結馬牧のスローガン「大」は鳴神山遺跡では地名として定着した。

鳴神山遺跡での「大」集団の活動は小字「大野」として定着し、現代まで文字情報として伝わってきています。





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