私の散歩論

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2016年1月9日土曜日

学習 蝦夷戦争の経緯と時代区分

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.263 学習 蝦夷戦争の経緯と時代区分

蝦夷戦争の経緯を「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から抜き書きして、それに基づいて、下総国にとっての時代区分をしてみました。

その結果を次に示します。

蝦夷戦争の経緯(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)抜き書き)と時代区分

下総国から見た時代区分は次の3つに設定することができると考えました。
1 蝦夷戦争準備時代
蝦夷征夷と陸奥国移住が積極的に行われていた、古墳時代から8世紀第3四半期までの時代です。
2 蝦夷戦争時代
蝦夷戦争による動員が激化した時代で、774年から805年までの期間です。8世紀第4四半期がほぼその期間に対応しますが、9世紀第1四半期にもかかっています。
3 動員解除・戦後時代
下総国から見て、蝦夷戦争動員が解除され、戦後となった時代です。805年以降です。

この時代区分を2016.01.06記事「鳴神山遺跡竪穴住居消長」で作成したグラフに当てはめみました。

●鳴神山遺跡竪穴住居の消長

鳴神山遺跡竪穴住居の消長と時代区分

鳴神山遺跡では蝦夷戦争準備時代の8世紀第1四半期から集落が形成され、8世紀第3四半期まで竪穴住居軒数が増大します。

蝦夷戦争兵站基地として律令国家が建設していった様子が表現されていると考えます。

蝦夷戦争時代(8世紀第4四半期)には竪穴住居軒数が若干減少します。この現象は蝦夷戦争の物資・人員動員が激しさを増し、集落が疲弊したためであると考えます。

動員解除・戦後時代では9世紀第1四半期と第2四半期で竪穴住居が増加・急増します。戦争動員解除により兵站基地が民間払い下げのような状況となり、経済発展したものと考えます。

その後経済発展を継続できない要因が生まれて竪穴住居は減少・急減して10世紀第1四半期には集落として消滅状況になります。

●鳴神山遺跡竪穴住居の直線道路南北の割合

鳴神山遺跡竪穴住居の直線道路南北の割合と時代区分

蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代では竪穴住居の南北割合に大きな変動がみられません。

ところが動員解除・戦後時代になると9世紀第1四半期~第3四半期の期間直線道路北の部分の竪穴住居割合が増大します。集落開発が特に直線道路北で進んだことが判ります。その後、9世紀第4四半期になると直線道路北の割合が減少します。

動員解除・戦後時代の集落成長期と衰退期ともに直線道路北側が大きな役割を果たしているように見ることができます。

●鳴神山遺跡竪穴住居年代差分の状況

鳴神山遺跡竪穴住居年代差分の状況と時代区分

A:蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代の差分を見ると、その差は小さいものです。
蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代の鳴神山遺跡の特性(機能・役割)に大きな変化はなかったと推察できます。

B:蝦夷戦争時代と動員解除・戦後時代の差分を見ると、その差は増分・減分ともに大きなものとなっています。
蝦夷戦争時代が終わり、多くの竪穴住居が廃棄され、一方それ以上に多い竪穴住居が新設されたことを示しています。

鳴神山遺跡の特性(機能・役割)に大きな変化があったと推察されます。

兵站基地として戦争に直結する活動をしていた多くの人々が集落から去り、一方それ以上に多くの人々が経済活動のために集落に流入したことを示していると考えます。

鳴神山遺跡が軍事基地として機能していた状況から、民間に払い下げられたような状況になり、戦争動員の圧力から解放されて、経済が急成長した状況があったと考えます。

9世紀第2四半期をピークに9世紀第3四半期以降、鳴神山遺跡は衰退・凋落します。衰退・凋落はそれまで存在していなかった新たな要因が発生し、その要因に集落が対応できなかったからだと考えます。
(新たな要因として権力の空白…治安の悪化をその主なものとして仮説・イメージしています。)

以上の学習で鳴神山遺跡を蝦夷戦争との関連で大きく3つの時代に区分できることが判りました。

この時代区分に基づいて、遺物分布図を作成し直して、鳴神山遺跡の特性(機能・役割)変化をより詳細に検討することにします。

つづく






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