私の散歩論

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2016年4月1日金曜日

鳴神山遺跡出土墨書文字「子」「小」(=蚕)の検討

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.319 鳴神山遺跡出土墨書文字「子」「小」(=蚕)の検討

船尾白幡遺跡における検討で墨書文字「子」「小」が蚕(当時の音で「コ」)を意味していることが判明しました。

自分レベルでは画期的な気づきです。

子、小は隣接する鳴神山遺跡でも出土しているので、その出土状況を見てみました。

鳴神山遺跡 墨書文字「子」「小」出土状況

子、小が書かれた墨書土器は7点出土しています。その分布は遺跡にバラバラに分布しているように見えます。養蚕が遺跡全体で行われていたことを物語っているような印象を受けます。

鳴神山遺跡のメインの生業は牧であると考えてきていますが、その牧に加えて養蚕も意義の大きな生業であったと考えます。集落生業の意義が牧と養蚕がどのような比率であったか、検討を深めればそのイメージをつかめると考えます。

次に注目すべき2点の墨書土器について検討します。

鳴神山遺跡 注目すべき墨書文字「子」の出土状況

「子山本」という墨書土器は、養蚕胴元の発展という祈願を表現していると考えます。

時期は8世紀第3四半期~第4四半期です。蝦夷戦争準備期、蝦夷戦争期です。

その「子山本」出土地点は掘立柱建物群の真ん中です。

掘立柱建物群が養蚕施設として利用され、それらを取り仕切る胴元(山本)が存在したと考えることができます。

養蚕胴元が掘立柱建物群を養蚕施設として運用維持管理して、繭をいわば工場で生産するように生産していたに違いありません。

そして、その繭から紡錘車を使って生糸を紡ぐ作業は集落住民が手分けした行っていたに違いありません。

繭1つ1つから生糸を錘車を使って紡ぐ手作業は、女性の仕事であり、自宅(竪穴住居)に持ち帰り、炊事や野良作業の合間に行っていたと考えます。

掘立柱建物と竪穴住居の2つの建物をまたいで行われた集落内絹生産分業体制が視程にはいってきました。

次に記事で、鳴神山遺跡集落内絹生産分業体制についてさらに検討します。

2016.01.25記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係」の続編となりそうです。

「紡錘車の分布と文字「依」の分布がお互いを避けるように見えることは不思議です。」と書いたその不思議が解けました。





「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味は2016.03.29記事「墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味」で詳しく検討しました。

斃牛馬処理集団がいわば本業の合間に繭を採った後のゆでた蛹も、リサイクルすべき汚いものというくくりで、大型動物と昆虫という差異を乗り越えて処理していたと考えました。

馬、牛と並んで「子」(蚕=コ)と墨書するほどですから、集落の生業として相当な規模以上の養蚕業が存在していたのは確実です。

さて、養蚕から牧に視点を移します。

「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の大きな意義は斃牛馬処理集団が存在していたことが証明される点です。

馬や牛が牧で多数飼育されていて、つまり牧が存在していて、初めて病気やケガや出産等でコンスタントに斃牛馬が生まれ、その処理が生業として成り立つと考えます。

つまり、墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の出土から、逆に牧の存在を確認することができます。

「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」が出土した場所が直線道路の北側で9世紀になって開発された場所ですから、この付近が牧の現場に近い(あるいは牧現場そのものの)場所であるという証拠の一つになりそうです。

大ざっぱに鳴神山遺跡を俯瞰すると、直線道路より南の土地は養蚕地帯、北の土地は牧地帯だったようです。





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蛇足(過去記事に関する言い訳)

「子」の意味が蚕であるということが判らなかった時点では「子山本」の意味を次のように解釈していました。

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網本(網元)」に対応する言葉として「網子」という言葉があり、網漁経営者とその元で隷属関係に置かれた労力提供者を意味しますが、墨書文字「山本」と「子山本」はその関係のアナロジーとして捉えることができると考えます。

祈願語としての「山本」の意味は「山本としての指導職務を全うし、山(台地)からの産物を豊富に得たい」というものだったと想像します。

「子山本」の意味は「山本の指導下での職務を全うし、山(台地)からの産物を豊富に得たい」というものだったと想像します。

「山本」と「子山本」の出土から、鳴神山遺跡における身分的支配関係存在の一端を知ることができます。

2015.10.21記事「鳴神山遺跡の墨書文字「山本」の分布
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今となっては頓珍漢な記述ですが、頓珍漢とはいえ「子山本」の意味を解釈するという能動的思考があったので、つまり能動的思考という踏み台があったので、この記事における検討にたどり着けていると考えます。

結果として判明する過去検討の不備というマイナス勘定は、より合理的解釈にたどり着けたというプラス勘定で相殺された、あるはプラスのおつりが来ていると考えます。

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