花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.332 船尾白幡遺跡 鎌の大小分類とその用途想像
船尾白幡遺跡出土鉄製鎌の大きさに大小があるように観察できます。
そこで、20cm×4cmの方形を鎌画像にかぶせて、長さがそれより大きくなるものを大、小さいものを小と分類してみました。
船尾白幡遺跡 鉄製鎌の大きさによる大小分類
取っ手取り付け基部の幅が4cmあるものは長さが20cm以上ありますから一部欠損しているものも、それを基準に大小を判断しました。
大が6点、小が7点になります。
8世紀後葉~9世紀初頭は大(異形鎌)1点だけですが、9世紀の第1四半期~大3四半期は大及び小の両方が出土します。
鎌に大小の2種類が存在し、使い分けられていることがこの情報から判明しました。
鎌の大小2種類の使われ方について、検討(想像)してみます。
検討(想像)1 桑用と麻用の使い分け
異形鎌はエネルギーを1点に集中して使う道具であり、桑の枝を切るものと考えました。
それから類推して、大形鎌は木の枝を切るものであり、したがって桑用であるとかんがえます。
一方、草を切るために小型鎌が存在していたと考え、すなわち小型鎌の主用途は麻の収穫用であると考えることができます。
もし、このように考えると、逆に、桑畑も麻畑も両方とも広い面積で存在していたことになります。
養蚕が掘立柱建物を利用して行われていたほどですから、桑畑が広がっていたことは問題なく首肯できますが、麻畑がどれだけ広がっていたかは少し疑念が残ります。
乾漆で麻布を利用して漆器を作っていたことから麻畑が存在していたことは間違いないと思います。
しかし、漆汁が貴重品であり大量生産出来なかったことが強く推察されます。漆資源の枯渇が社会問題になっていたように想像すらしてます。
漆器生産は高級品の少量生産であったと考えられますから、麻布の生産量は少なくて済んだに違いありません。
そのように考えると、麻布の用途が乾漆のためだけであったと考えると、小形鎌が大形鎌と同じような数で出土している意味を捉えきれなくなります。
乾漆の材料とは別に、麻布が生産されていたと考えられます。
付加価値の高い麻布(望陀布)は上総国の専売特許みたいなものだったと考えると、船尾白幡遺跡における乾漆材料以外の麻布用途は自分たちの衣服用の麻布生産になります。
稼ぐ(出荷する)ための麻布生産は繁盛していなかったと想像しますから、小形鎌が麻専用であったような捉え方は無理があるかもしれません。
検討(想像)2 桑作業の細別による使い分け
掘立柱建物を蚕小屋にして養蚕に励んだ程ですから、養蚕は稼ぐ(出荷する)産業であったことは確実です。
桑栽培は麻栽培などと比べて段違いな重要性があったと考えます。
そのように養蚕を重視すると、鎌の大小が桑栽培の作業細別に対応しているように考えることができます。
例えば、日常的に小枝を切って蚕に与える桑の葉を採取するのは小形鎌を使い、それは女性や子供でもできる作業であったと考えます。
一方、桑の剪定など桑栽培における重要作業で大枝を切る時は大形鎌を使い、それは男の作業であったというようなことです。
もし、作業の細別種類毎に鎌の大きさを変えていたと考えると、それは技術-道具の体系が高度であったことを意味し、養蚕という当時としては極めて高度なバイオ技術に対応している、ふさわしい状況であったことになります。
鎌は万能農具の側面があるとはいえ、大小2種類が出土している主な意味は、重要産業である養蚕の桑栽培でその2種類が必要であったという考えに説得性を感じてしまいます。
つづく
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