私の散歩論

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2016年6月23日木曜日

地名型「木地屋、轆轤(ロクロ)」の千葉県検索結果

1 鏡味完二の検討 地名型「木地屋、轆轤」

鏡味完二の60年前の検討結果を引用します。

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Kiziya,Rokuroの地名

木地屋,轆轤が地名となって,今日に伝えられるものは随分多くの数に上る。

これらの地名発生の時代については,平安時代に「飛騨工」が知られており,菊地山哉氏も次のように記しているところからみると,平安時代ということがいえるであろう。

同氏によると『平安となっても国々に残存した雑類は,土師や陶器を入手することは経済が許さず,相変らず縄紋土器を使用すると共に,一気に木器へと移った。

本朝の木地屋,土師屋なるものが賎民であった事が,雄弁に那間の消息を物語る』ということである。

いまこの地名分布をみれば,分布の多いのは中国,四国から越後にかけての地域であるが,それは"別所"の地名による開拓地域よりも広くなっている。

またその地域の中央である近畿,とくにその北部に低密度であるから,そこを前充実地域として認めることができる。

これによってわが国の上代における開拓が,中央の地域で一応の完成に近づいてきた萌芽をあらわしはじめたものと考えることができるであろう。

この意味において著者は,荘園や別所の地名よりも,一段新らしいものと判定したわけで,次の領家の地名などとの時代的位置を考慮して,この地名発生の時期を凡そ1,100年と決定した。

ただKiziya,Rokuroの地名は山地と結合した産業に基いているから,それらを平地の開墾地名と同等に考えることは,当を得ているかどうかという懸念を生ずるであろう。

しかしこれについては,国々に残存していた雑類も,中央に近い所ほど開拓が完成に近づけば失業者となる場合が多く,従って開拓の余地の一層多い縁辺地方に,自ら漸次移動した結果,近畿においては山地木工業者となるものが,割合少かったという事情があったのではないかと思われる。

〔地図篇Fig.160〕

(Fig.22No.11)

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用

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2 木地屋及び轆轤の学習

現代の木地屋及び轆轤の学習を行いました。学習で読んだ資料を掲載します。

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きじや  【木地屋】

木地は,①木の地質(木目),②細工物の粗形,③とくに指物・漆器などに漆その他の塗料を加飾しないものをいうが,このうち③を製作することを生業とした職人が,近世以来ひろく〈木地屋〉と呼ばれていた。

それも大別すると,ⓐ指物などの板物細工に従った角物木地,ⓑ円形木器の挽物〘ひきもの〙細工に従った丸物木地,ⓒ杓子・檜物(曲物)など雑多な木地細工に従うものがあった。

その中でⓑの丸物木地は,工具に原始的な手びきろくろとろくろがんなを操作して,いわゆる挽物の日用食具(椀,盆,丸膳など)を主に生産して庶民生活にとりわけなじみ深いものであったからか,木地屋といえばもっぱらこの種職人の代名詞のようになっている。

挽物を作るので木地挽ともいい,そのほか轆轤師〘ろくろし〙,木地師,狛屋〘こまや〙などの呼名がある。

[木地屋の生活習俗]
木地屋は都市に集住する者もいたが,もともと土地に依存しない非農民で,中世諸職人と同様の漂泊生業者であった。

その生活習俗のあらましは《斐太〘ひだ〙後風土記》に,〈彼らはトチ・ブナ・ケヤキなどの木を伐って椀形にくり,深い奥山の山小屋でろくろを使い椀木地をひく。

付近に用材のある間はそこにいて近くの市町〘いちまち〙の卸店・仕入商人に製品を送り,その代価で生活に必要な米・塩と交易した。

そして用材を伐り尽くすとまた他の山に移り一生を同じ山で果てることがなかったので,俗に“木地屋の宿替え”といわれたりした。

山小屋の座仕事のため日光に当たることも少なくて,自然男女とも色白で尻腰が大きい者が多かった。

昔は親の代替りに,必ず近江の支配所で烏帽子着〘えぼしぎ〙の儀式をして免許を受けたものという〉などと記している。

その彼らの漂泊を会津付近では〈飛〘とび〙〉といい,近江の支配所の記録には〈渡〘わたり〙〉という言葉が使われている。

[木地業の移ろい]
奈良県唐古〘からこ〙の弥生時代の遺跡出土の遺物からみて,すでにそのころ日本にもろくろによる挽物技術が存在したことは確かである。

著名な法隆寺の百万塔も7世紀の挽物である。

文献では正倉院文書の関連記事が古いのであるが,それは8世紀のことになる。

また宮城県多賀城遺跡や滋賀県鴨遺跡から9~10世紀のろくろ軸の鉄爪条痕の認められる木盤や木器の断片も出土して注目されている。

これらの挽物工人は古代の律令国家では轆轤工として宮廷,大社大寺の公的機関に隷属した。

しかし律令体制の崩壊で解放され,しだいに地方に分散して庶民の需要に応じ,古代末期~中世は轆轤師に,近世は木地屋と名を変えつつ木地業に従った。

日本の漆器工業の陰の力となった功績は,大きいにもかかわらず知られていない。

しかし明治の変革で過去の木地屋社会は消滅した。

現在観光産業化した東北のこけし人形は,いわばその数少ないなごりといってよい。

諸地方に残るろくろや木地に関連する地名のほとんどは,轆轤師・木地屋の漂泊の軌跡である。

他の諸職人にも先例があるが,彼らの社会でも中世末期から近世にかけ仲間の木地業権益の自衛を画策する者が現れた。

近江(滋賀県)▶小椋〘おぐら〙谷の轆轤師集団を率いた大岩氏で,はやく都の四府駕輿丁座〘しふのかよちようざ〙に上番し白川神祇伯家から大工職口銭を徴収される関係にあったらしい。

彼らは大陸渡来の秦氏の末裔として祭祀していた八幡神信仰に,中世時宗の聖が唱導した小野神信仰を習合し,職祖惟喬〘これたか〙親王流寓伝説の縁起書をつくり,ついで2種の偽作綸旨を案出し,時の武家政権の免許状を調整した。

それを背景に身分保証の印鑑,宗旨,通行手形を発給して全国的な座的統制を行った。

これらを〈木地屋文書〉と呼び,統制のための点検活動を〈氏子狩〘うじこがり〙〉,小椋谷を〈近江の木地屋根元地〉という。

今も各地の山中には,惟喬親王ゆかりの16弁の菊の紋と,〈江州渡木地師何某〉という文字を彫った木地屋墓が残っている。

橋本 鉄男

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

太字は引用者

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ろくろ  【轆轤】

日本では回転運動を利用するさまざまな装置を〈ろくろ〉と呼んでおり,①製陶用,②木工・金工用,③重量物移動用,④井戸の水汲み用の装置をさす。

以下略

佐原 眞

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

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木地屋は漂白の民で、山中で用材をもとめ、轆轤をあやつり、その軌跡がろくろや木地に関連する地名として諸地方に残ったことが判りました。

60年前の鏡味完二の地名説も、現代木地屋解説でも、地名「木地屋」「轆轤」は回転運動を利用する装置のうち木工用のものである点では同じです。

3 千葉県における地名「木地屋」「轆轤」検索結果

千葉県小字データベースから「木地屋」「轆轤」に関連すると考えられる小字を検索しました。

その結果を次に表と分布図でしめします。

木地屋、轆轤小字検索結果

「木地屋」小字、「轆轤」小字分布

大木地は「屋」がありませんが、「木地」の文字が同じなので、「木地屋」関連地名と判断しました。

大木地は上記で学習した木地屋の活動に関連した地名である可能性があると考えますが、それを裏打ちするような情報はありません。

轆轤関連地名は文字表記がすべて「六郎」になっています。漢字表記轆轤は字体が複雑であるので、どの地点でも、誰でも書ける六郎に当て字したと考えます。

さて、木地屋や轆轤の学習をして、その地名を実際に検出し分布図を作成して、一件落着とはなりませんでした。

轆轤(六郎)地名分布をみると、これらの地名の多くが木地屋と無関係かもしれないという疑問が湧いてきます。

轆轤(六郎)地名のほとんどが木工用轆轤とは無関係であることが推察されます。

ほとんどの地名が重量物移動用轆轤に由来する地名であると想定するようになりました。

その検討を次の記事で行います。


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