上谷遺跡 D268土坑出土転用燈明皿と摩滅土器を八千代市教育委員会で閲覧しました。
摩滅土器は「破換面」が摩滅しているという記述であり、燈明皿ではないかと想定してきました。
今回燈明皿と摩滅土器現物を閲覧して、このような想定が合理的であることを確認できました。
摩滅土器の全てが転用燈明皿状の形状であり、中には縁にススと思われる黒色が付いているものもあるからです。
以下閲覧した資料の写真を掲載します。
燈明皿 №01
燈明皿 №01
底から縁に向かって放射状の溝が4本掘ってあります。
火を燃やす芯(穂)をこの溝に這わして、底の油を吸いやすくするための工夫であると推察します。
燈明皿 №04
燈明皿 №07
摩滅土器 №08
割れた面が確かに摩滅していて、この形状で使い込まれたことを示しています。
形状は燈明皿そのものです。
摩滅土器 №09
摩滅土器 №19
縁にススによってついたと考えられる黒色が残っています。
2 燈明皿多出の意味
D268土坑出土遺物は次の通りであり、覆土上層の燈明皿、摩滅土器が集中しています。
D268土坑出土遺物
参考 上谷遺跡 D268土坑の位置
この状況を次のように解釈します。
D268土坑は台地縁南向き斜面に作られた冬季の寒冷から収穫農作物を守って保存する貯蔵庫であると考えます。
2016.12.18記事「上谷遺跡 土坑底面に敷き詰められていたカヤ束画像確認」参照
この貯蔵庫はその規模の大きさから大きな集団が利用していたものと考えます。
集団が例えば秋に里芋を収穫し、この土坑の縁で収穫祭をして、里芋をカヤ束を敷いた土坑に収納し、冬季の飢えに備えたと空想しても、その空想は十分合理的であると考えます。
さらに、土坑の縁でおこなわれる収穫祭が夜間に燈明皿の明りのもとでおこなわれたと考えても合理性を欠くことにはなりません。
そのように使われていたD268土坑が埋まってきて、最後に廃絶するとき、つまり最後の収穫祭で燈明皿を土坑に奉納して、投げ込んだのではないかと想像します。
あるいは、土坑機能廃絶後、その場所が燈明皿を奉納して(投げ込んで)豊作を祈願する場所になったのかもしれません。
D268土坑は実用的には冬季の寒冷から収穫物を守る貯蔵庫であり、同時に心理面では、その空間に対して人々が特別の感情を持っていたと考えます。
冬季の飢えを予防するという切実さと結びついて、聖域視のような感情を持ってD268土坑空間をみていたのではないかと考えます。
現代人は祈願場所とする神社や寺院の敷地空間を聖域視します。
同じように、古代上谷遺跡住人は集団の飢え防止したいという願いを実現する施設としての収穫物貯蔵庫を聖域視していたと想像します。
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