私の散歩論

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2017年2月28日火曜日

大膳野南貝塚 炉穴

大膳野南貝塚発掘調査報告書の縄文時代遺構・遺物の記述を時代変遷に従って学習します。

この記事では「第Ⅲ章縄文時代草創期~中期後葉の遺構と遺物」の「第1節草創期~後期中葉の遺構と遺物」の「1)炉穴」を学習します。

なお、目次表題では草創期という言葉が出ていますが、遺構・遺物の記述で最も古いものは早期後半のもののようです。

1 炉穴の分布

炉穴(ろあな)は7カ所発見されていて、次のような分布となっています。

炉穴分布図

炉穴が分布する地形上の位置から、炉穴を次の3つのグループに分けることができます。

ア 3号炉穴
イ 9号・5号炉穴
ウ 1号・4号・8号・6号炉穴

炉穴から出土する土器は全て縄文時代早期後半と判定されています。

次に各炉穴を詳しく観察してみます。

2 炉穴の紙上観察
ア 3号炉穴

3号炉穴

3号炉穴は、大膳野南貝塚遺跡が位置する台地面尾根の根本付近で北側に広がる広い台地面に面した位置に存在します。

3号炉穴から出土した土器は野島式土器と判定され、7つの炉穴から出土した土器の中では最も古いものになります。

イ 9号・5号炉穴

9号炉穴

9・5号炉は大膳野南貝塚遺跡が位置する台地面尾根の中央に位置しています。

9号炉穴から土器は出土していないようです。

9号炉穴は天井部が遺存している遺構です。

参考までに、別図書に掲載されている炉穴使用イメージ図を添付しました。

深い炉穴は煮炊き用、浅い炉穴は燻製づくり用として炉穴の使用がイメージされているようです。

5号炉穴

5号炉穴からは条痕文土器が出土しています。

ウ 1号・4号・8号・6号炉穴

1号炉穴

炉穴が重複していて繰り返し利用された様子が判ります。

また、台地尾根部の端の緩斜面に位置しています。

炉穴の重複、緩斜面立地は1号・4号・8号・6号炉穴共通です。

出土土器は早期後半条痕文土器ですが、報告書では「貝殻」による条痕文であると書かれています。

この縄文時代早期後半は縄文海進のクライマックス期と符合し、海面が最も高く、つまり大膳野南貝塚に海が最も近づいた時期です。

この時代にこの場所は狩の場であり、狩のためのキャンプが行われたと考えますが、その狩人が貝も食し、貝殻を利用して土器の模様を描いていたと考えます。

4号炉穴

4号炉穴からは条痕文土器と茅山下層式土器が出土しています。

8号炉穴

8号炉穴からは茅山上層式土器が出土しています。

6号炉穴

6号炉穴からは茅山下層式土器が出土しています。

3 狩猟ゾーンと炉穴との位置関係

これまでの検討(※)から狩猟ゾーンと炉穴との位置関係を整理すると次のようになります。

※2017.01.19記事「大膳野南貝塚 旧石器時代狩の様子」など

狩猟ゾーンと炉穴との位置関係

4 炉穴と狩との関係イメージ

2の炉穴観察と3の狩猟ゾーンと炉穴との位置関係から、次のような炉穴と狩との関係をイメージすることができます。

炉穴と狩との関係イメージ

3号炉穴、9・5号炉穴は狩で動物を仕留める現場そのものに位置します。

狩の場とキャンプ地が同じ場所に存在するという関係は旧石器時代における関係と同じです。

つまり、狩が全部終わってから、その現場でキャンプして干し肉をつくったり皮なめしをし、貯めた食料をあらかた消費するまで生活した痕跡が炉穴であると考えます。

一方、1・4・8・6号炉穴は動物を仕留める場からは地形的に影になる位置にあり、狩行為とキャンプが両立しうる関係にあります。

1・4・8・6号炉穴は3・9・5炉穴と異なり狩期間中もキャンプしていた可能性があります。キャンプ期間が長くなった可能性があります。同時に、季節ごとに繰り返される狩で必ず利用される定宿みたいな場所になった可能性もあります。

キャンプ期間が長くなったことや定宿みたいな定期的利用キャンプ地であったと考えることと、炉穴の集中分布、1つの炉穴の重複(繰り返し利用)という発掘情報はよく整合します。

また旧石器時代的キャンプ様式から定住的要素を含んだ方向にキャンプ様式が変化したと考えることと、3号炉穴の土器形式が古く、4・8・6号炉穴の土器形式がそれより新しいという情報が整合します。


2017年2月26日日曜日

縄文社会崩壊プロセス学習 縄文時代晩期後半の衰退

大膳野南貝塚学習のための基礎知識習得のために、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の「第1編第8章縄文社会崩壊のプロセス」の学習をしています。

この記事では縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数衰退の理由記載等について学習します。

1 縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数激減の様子

縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数衰退の様子

2 縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数衰退の理由

図書では竪穴住居跡数衰退の理由について次のように説明しています。

従来、弥生小海退と呼ばれていた寒冷化は、今日では後期後半から晩期初頭に相当するものと考えられる。
晩期初頭の遺跡数の減少は、この寒冷化と関連する可能性がある。
無論、遺跡数の減少や人口の減少の原因のすべてを、環境の変化に求める環境決定論的な立場によって縄文時代の繁栄や衰退を語ることは危険であるが、晩期初頭において、いわゆる亀ヶ岡式土器が汎列島的に分布する様相も注目すべきであろう。
散発的ながら九州や中国地方でも出土し、近畿地方での出土も決して珍しいことではない(図35)。
房総では晩期初頭以降、遺跡数に大きな変動はなく、衰退期が続くこととなったが、晩期終末から弥生時代前期の時間幅の中で遠賀川系土器・東海系条痕文土器などの他地方の土器の流入や、新たな葬制である壺棺再葬墓の採用など、新たな要素が加わる。
また、壺棺再葬墓の採用と同時に、焼畑農耕の可能性も示唆されている。
この様相は、まさに中期後半や後期中葉の衰退と再編成に相当するものであろう。
縄文時代的な衰退は、縄文時代的な再編成を生み出す。
広域な土器の分布はさまざまな情報が伝達されやすいシステムの上に成り立っていることから、弥生時代的要素の獲得を容易にする土壌を備えている。

この文章を自分なりに敷衍してまとめると次のようになります。

・晩期後半の衰退は寒冷化が要因である。したがって、3つの衰退期(中期後半、後期中葉、晩期後半)ともに寒冷化が要因である。
・3つの衰退期ともに遺構に新たな要素が加わり遠方との交流が密になっている。
・3つの衰退期ともに汎列島的規模の類似形式土器分布がみられ、列島規模で交流と人の移動が密になっている。

3 感想

3つの衰退期が寒冷化に関係していることはその通りだと思いますが、「寒冷化」という3つの漢字の言葉以上に具体的な情報がこの図書ではありません。

寒冷化による衰退メカニズムが3つとも同じであるとは考え難いので、その差異を知りたくなります。

3つの衰退期のうち、中期後半の衰退期の学習では第2波渡来民の移動と房総到着を想像しました。

ヒトゲノム研究成果を考古歴史に投影して、3つの衰退期ともに渡来民の移動と関連付けて考察してみることも価値があると考えます。

3つの衰退期ともに汎列島的規模の類似形式土器分布がみられるということですが、その情報を具体的に知ると、果たして、そこに人(渡来民)の西→東移動を想定できるような大局的情報を観察できるのか、出来ないのか、興味が湧きます。

2017年2月25日土曜日

縄文社会崩壊プロセス学習 縄文時代後期中葉の激減

大膳野南貝塚学習のための基礎知識習得のために、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の「第1編第8章縄文社会崩壊のプロセス」の学習をしています。

この記事では縄文時代後期中葉の竪穴住居跡数激減の理由記載等について学習します。

1 縄文時代後期中葉の竪穴住居跡数激減の様子

縄文時代後期中葉の竪穴住居跡数激減の様子

2 縄文時代後期中葉の竪穴住居跡数激減の理由

図書では竪穴住居跡数激減の理由について次のように説明しています。

後期中葉以降の減少については、火山灰の降下による森林資源への打撃や、海水面の小規模な低下すなわち気候の寒冷化によって説明されている。
まさに「植物の自律的な変化をうまくコントロールした食料の獲得も、自然自体の根本的変化には対応できなかった」と評価することができよう。

火山灰の降下とはどの火山であるのか、海水面の小規模な低下を示す具体的データはどこにあるのか、単なる一般論として述べているのか、誰かによって「説明されている」のですから、その説明を是非とも教えていただきたくなる文章です。

3 縄文時代後期中葉の竪穴住居跡数激減に伴う考古学的事象

図書では、後期中葉の様相を明確に示す遺跡として市原市武士遺跡を挙げ、後期前半の堀之内1式期の集落とはまったく異質な集落に再編成された様子を記述しています。

後期中葉における異質な集落への再編成1
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

後期中葉における異質な集落への再編成2
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用加筆

また、後期前半(堀之内1式期)以前と後期中葉以降(堀之内2式期以降)の土器に着目すると、底部の成形技法に大きな変化が認められることが述べられています。

さらに土器底面の網代痕跡も堀之内2式期になって出現し、結果として文様施文の段階で回転が容易になることから、堀之内1式期の縦方向の文様施文から堀之内2式期以降の横方向施文への変貌などの特徴が述べられています。

網代痕跡と文様施文
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

これらの考古学的事象から、図書ではつぎのように記述しています。

後期中葉の衰退は火山灰の降下による森林資源への打撃や気候の寒冷化に端を発し、そこでは、従来の集落がまったく異質な集落に再編成されたものととらえることができた。
また、この時期に、縄文土器の製作技法にも大きな変化が現れたり環状盛土遺構が出現するなど、社会に大きな変化があったことが容易に理解できよう。

また、中期後半以降の衰退と同じように、後期中葉においても同じ顔つきの土器(加曽利B式土器)が広範囲に分布することが述べられいます。

4 感想
4-1 竪穴住居跡数データの意義

後期中葉の衰退を貝塚分布図でみると、古東京湾岸では貝塚分布が少し疎になりますが、古鬼怒湾岸では反対に密になっています。

単純な「激減」といっていいかどうか疑問が残ります。

そもそも、京葉地域の竪穴住居跡数のデータが古鬼怒湾岸地域を含めたより広域を代表するデータであるのかどうか、基礎の部分で疑問を持ちます。

中期後半の激減は貝塚分布図の変化とも対応しますが、後期中葉の激減は貝塚分布図と対応しません。

4-2 後期前葉(堀之内1式期)の竪穴住居跡数増加の意義

中期後半と後期中葉の竪穴住居跡数激減の理由を探る思考をするということは、その中間にある竪穴住居跡数が増加した後期前葉(堀之内1式期)の意義を検討する必要があるということです。

増加の理由がわかれば、その前後の減少の理由もうかびあがる可能性があります。

4-3 千葉県全体の竪穴住居跡数と遺跡数の推定が必要

千葉県全体の竪穴住居跡数と遺跡数の推定及びその分布がわかれば、なぜ増減したのか、その理由推定根拠の重要な一つになります。

ふさの国文化財ナビゲーションの遺跡データには縄文時代の時期区分(早・前・中・後・晩)及び出土土器形式の記載のあるものがあります。

例 古山遺跡の遺構・遺物記載
住居跡、竪穴状遺構、土坑、集石跡・縄文土器(撚糸文系・田戸下層・茅山上層・神之木台・諸磯・浮島・興津・十三菩堤・五領ケ台・阿玉台・称名寺・堀之内・加利B・安行1・安行3b)、弥生土器(久ケ原)、土師器、須恵器、石器(石鏃・けつ状耳飾・石皿・凹石・磨石)、土製品(けつ状耳飾・土器片錘)、鉄製品(鏃・

このふさの国文化財ナビゲーションデータを使てGIS分析すれば、遺跡レベルでの時代変遷とその分布がわかるかもしれません。


2017年2月24日金曜日

縄文社会崩壊プロセス学習 縄文時代中期後半の激減

大膳野南貝塚学習のための基礎知識習得のために、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の「第1編第8章縄文社会崩壊のプロセス」の学習をしています。

この記事では縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減の理由記載等について学習します。

1 縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減の様子

縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減の様子

2 縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減の理由

図書では竪穴住居跡数激減の理由について次のように説明しています。

中期後半の激減については、その直前段階での打製石斧や貯蔵穴の圧倒的な多さ、さらには環状集落の形成から、根茎類・堅果類等による食料の安定とその崩壊としてとらえられている。
ここにおいても、海面低下期すなわち気候の寒冷化があったことが説明されている。

気候の寒冷化が原因であるという説明ですが、それ以上に深い考察はありません。

揚げ足取り的になりますが、この理由説明の最後の「…説明されている。」という言い回しは褒められるものではありません。まるで他人事です。

データを示すなり、いろいろ判ってきているとか、判らないことが多いとか、考察した結果を自分事として書いていただきたいと素人ながら思います。

3 縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減に伴う考古学的事象

図書では、縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減の最衰退期である中期最終末から後期初頭の集落内部の特徴として、他地域からの影響を看取できる要素の出現を詳しく説明しています。 

他地域からの影響がみられる住居跡 1

他地域からの影響がみられる住居跡 2

これらの他地域からの影響について、環境決定論の立場から推し量る可能性がないわけではないがと断りつつ、中期的集落・環状集落的集落の崩壊の結果、新たな集団関係の模索がなされ、広域に集団もしくは集団構成員の移動があったことが妥当であるとしています。

中期後半の衰退は気候の寒冷化に端を発し、そこでは、他地域起源の住居・貯蔵施設・調理施設等の出現に示されるように、従来の地域社会を越えた領域で、新たな集団関係が模索されることとなった。」と説明しています。

4 同じ顔つきをした土器が広範囲で分布する事象

図書では、中期後半以降の衰退ピークである後期初頭と後期中葉において、同じ顔つきをした土器(中津式土器・加曽利B式土器)が広範囲に分布する事象に着目して、次のように分析しています。

これは、縄文時代の衰退が環境変化に伴う生態系の崩壊とこれに起因する人口の減少であるならば、従来の安定した集団関係、婚姻関係が崩壊し、この崩壊を食い止めるために新たな集団関係・婚姻関係が模索され、この再編成が連鎖的かつ広域的に展開することによって、同じような顔つきの土器群が広域に分布する様相が生じたととらえることができよう。
その中で、他地域の要素や異質な集落の再編成がなされたものと考えられよう。

称名寺式・中津式土器とその分布(後期初頭)
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

3の他地域からの影響と4の同じ顔つき土器の本州中央部分布を同じ理由で説明していいものか素人ながら疑問がわきます。

3の他地域からの影響は地域が崩壊して、その場所を埋めるように遠方から人が移動してくる事象として一般論として理解できます。

4の本州中央部の同じ顔つき土器分布はそれに対応する顕著な人の移動が存在していたのではないだろうかと想像します。

……………………………………………………………………
以下、4の疑問から発出した想像的検討です。

5 ヒトゲノム研究による第2波渡来民移動仮説と称名寺式・中津式土器分布域の対応
5-1 斎藤成也「日本列島人の歴史」(岩波ジュニア新書)の日本列島人形成モデル

斎藤成也「日本列島人の歴史」(岩波ジュニア新書)ではヒトゲノム研究による日本列島人形成モデルを提唱しています。

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日本列島人の形成モデル

・第一段階……約4万年~約4000年前(ヤポネシア時代の大部分)。
第一波の渡来民が、ユーラシアのいろいろな地域からさまざまな年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にわたってやってきました。
主要な要素は、現在の東ユーラシアに住んでいる人々とは大きく異なる系統の人々でした。
日本列島中央部の北側では、5000年前ごろに大きな人口増がありましたが、日本列島中央部の南側では、九州を除けば人口がきわめて低い状態が続きました。

・第二段階……約4000年~約3000年前(ヤポネシア時代末期)。
日本列島の中央部に第二の渡来民の波がありました。
彼らの起源の地ははっきりしませんが、朝鮮半島、遼東半島、山東半島に囲まれた沿岸域およびその周辺だった可能性があります。
第二波渡来民の子孫は、日本列島中央部の南側において、第一波渡来民の子孫と混血しながら、すこしずつ人口が増えてゆきました。
一方、日本列島中央部の北側と日本列島の北部および南部では、第二波の渡来民の影響は、ほとんどありませんでした。

・第三段階前半……約3000年~約1500年前(ハカタ時代とヤマト時代前半)。
ハカタ時代に入ると、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二波渡来民と遺伝的に近いながら若干異なる第三波の渡来民が日本列島に到来し、水田稲作などの技術を導入しました。
彼らとその子孫は、図2-1で示した日本列島中央部の東西軸にもっぱら沿って居住域を拡大し、急速に人口が増えてゆきました。
ヤマト時代になると、中国からも少数ながら渡来民が来るようになりました。
日本列島中央部の東西軸の周辺では、第三派の渡来民およびその子孫との混血の程度が少なく、第二波の渡来民のDNAがより濃く残ってゆきました。
日本列島の北部と南部および東北地方では、第三波渡来民の影響はほとんどありませんでした。

・第三段階後半……約1500年前~現在(ヤマト時代後半以降)。
第三波の渡来民が、ひき続き朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から移住しました。
それまで東北地方に居住していた第一波の渡来民の子孫は、六世紀前後に大部分が北海道に移ってゆきました。
その空白を埋めるようにして、第二波渡来民の子孫を中心とする人々が東北地方に居住してゆきました。
日本列島南部では、グスク時代の前後に、おもに九州から第二波の渡来民の子孫を中心としたヤマト人が多数移住し、さらに江戸東京時代には第三波の渡来民系の人々も加わって、現在のオキナワ人が形成されました。
日本列島北部では、ヤマト時代後半から平安京時代の初頭にかけて、北海道の北部に渡来したオホーツク人と第一波渡来民の子孫のあいだの遺伝的交流があり、アイヌ人が形成されました。
平安京時代以降は、アイヌ人とヤマト人との混血が進みました。


日本列島人の形成モデル
……………………………………………………………………

5-2 ヒトゲノム研究を踏まえた渡来民移動期と人口急減期の関連想像

このモデルの第二段階の第2波渡来民が列島を移動した経路が称名寺式・中津式土器分布域と対応するのではないだろうかと想像します。

そのように想像すると、寒冷期に新天地をもとめて大陸から規模の大きな渡来民来訪があり、その渡来民の移動経路がヒトゲノム研究の分布域でわかっていて、ほぼ称名寺式・中津式土器分布域に対応し、合理的に解釈できます。

大陸からの渡来民が列島には存在していない病原菌を持参したならば、それが列島人急減の一つの理由となる可能性も生まれます。

渡来民は大陸で生活できなくなって列島にきたのですから、列島人に対して敵対的・侵略的であった側面も備えていた可能性は十分にあります。

ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸を征服したように、渡来民が暴力で列島人を殺戮し、入植していった場面も、あったに違いありません。

ヒトゲノム研究を踏まえた渡来民移動期と人口急減期の関連想像

縄文中期後半から後期初頭にかけての竪穴住居跡数急減の理由は寒冷・海面低下とともに、それと関連して生起した渡来民の移動も関係していたという想像的仮説です。

なお、このように考えると、2017.02.17記事「千葉県の貝塚学習 縄文時代中期後葉~後期初頭」で検討した西方面からの新たな縄文人グループの東京湾入植という仮説も、第2波渡来民の到来として捉えることができます。

参考 Ⅳ期→Ⅴ期変化の検討
……………………………………………………………………
斎藤成也「日本列島人の歴史」(岩波ジュニア新書)

2017年2月23日木曜日

縄文社会崩壊プロセス学習 3つの衰退期

大膳野南貝塚学習のための基礎知識習得のために、これまで「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項の学習をしてきました。

その中で貝塚集落の顕著な衰退期について、ぜひともその理由を知りたいと考えたのですが、残念ながら同書には説明はほとんどありませんでした。

ところが「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の「第1編第8章縄文社会崩壊のプロセス」の中で縄文社会衰退理由の検討を行っていますので、その学習を引き続いて行います。

大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習(分析作業)そのものの諸準備は整ってきているのですが、あまりに基礎知識が不足しているので、泥縄方式で基礎学習をしている次第です。

「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の「第1編第8章縄文社会崩壊のプロセス」では、縄文時代後半について3つの衰退期を指摘して、その考察を行っています。

この記事では3つの衰退期と貝塚分布図との対応を確かめます。

1 縄文時代後半の3つの衰退期

「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)「第1編第8章縄文社会崩壊のプロセス」では縄文時代の繁栄や衰退は各時期の人口の推移を示すことで客観的に説明できるかもしれないが、それを知る術がないので、竪穴住居数の推移によって、示すことができるであろうと記述しています。

そして、次の3図葉を掲載して、主に中期後半の衰退、後期中葉の衰退、晩期後半の衰退について論じています。

関東地方西南部における竪穴住居跡数の推移
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

京葉地域における竪穴住居住居跡数と遺跡数の推移
[京葉地域とは船橋、市川、松戸、鎌ヶ谷、千葉、市原市を指す。]
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

関東地方西南部の中期後半の竪穴住居跡数減少は激しいものがありますが、京葉地域における同時期竪穴住居跡数減少はそれと比較すると激しさは少なくなっています。

その理由として、同書では関東地方西南部が根茎類・堅果類等への依存が強く、房総では大型貝塚に代表されるような海産資源依存が強かったものであろうと述べています。

2 縄文時代後半の3つの衰退期と貝塚分布図との略対応

縄文時代後半の3つの衰退期と貝塚分布図との略対応図を作成しました。

縄文時代後半の3つの衰退期と貝塚分布図との略対応 中期後半

縄文時代後半の3つの衰退期と貝塚分布図との略対応 後期中葉

縄文時代後半の3つの衰退期と貝塚分布図との略対応 晩期後半

次の記事から、各衰退期に関する図書(「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行))の記述を吟味学習します。

 

2017年2月22日水曜日

千葉県の貝塚学習 縄文時代後期中葉~晩期後半

大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習をするための基礎知識習得のために、「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項の学習をしています。

この記事では縄文時代後期中葉~晩期後半の学習をします。

1 図書の記述

図書では次の貝塚分布図と説明文が示されています。

Ⅶ期(縄文時代後期中葉~晩期前半)・Ⅷ期(縄文時代晩期後半)貝塚分布図

説明
Ⅶ期:後期中葉から晩期前半の貝塚
貝塚数はかなり減少する(図8)。
東京湾沿岸の各水系で核となる一部の遺跡のみが前時期から継続しており、貝層を形成する遺跡はこのような拠点集落にほぼ限られる。
遺跡ごとにみると、廃棄される貝の量は激減し、貝殻は明らかに大きくなる。
これは志向の問題のほかに、漁の規模や頻度が減って採取圧が低くなったことを示すものであろう。
一方、獣骨の増加が顕著となり、松戸市貝の花貝塚・千葉市緑区六通貝塚・横芝町山武姥山貝塚等には獣骨が特に集中する地点が存在した。
汽水産のヤマトシジミの利用が拡大したこともこの時期の特徴である。
古鬼怒湾沿岸では印旛沼・手賀沼・長沼を見下ろす台地縁辺にヤマトシジミ主体の貝塚が分布する。
一方で、印旛沼水系の奥部には東京湾沿岸から分水界を越えて運ばれた貝が多いことがわかってきた。
奥東京湾沿岸域もヤマトシジミ主体となる。
近年、貝塚以外でも盛土や中央の掘削によって馬蹄形貝塚と同様の地形を形成する例が多いことがわかってきた。

Ⅷ期:晩期後半の貝塚
Ⅴ期ないしⅥ期に現れた大規模な拠点集落は晩期前半で消滅し、晩期後半はほとんど集落や貝塚がみられなくなる(図8)。
東京湾沿岸の魚貝類を重視した生業・文化は終焉を迎えた。
しかし、長沼低地の成田市荒海貝塚のみは集落も貝塚もⅥ期以来継続した。
また、周辺にも貝塚を伴う集落が現れる。

2 理解促進のための分布図調整

図書記述の理解を促進するために貝塚分布図をIllustratorレイヤを活用して調整し、見やすいものにしました。

Ⅶ期貝塚分布図

参考 Ⅵ期貝塚分布図

Ⅷ期貝塚分布図

3 疑問・興味

●Ⅵ期→Ⅶ期では古東京湾沿岸では貝塚は減少しますが、それ以外の太平洋岸、古鬼怒湾沿岸、印旛沼沿岸では逆に貝塚が増加しているように観察できます。

増加した貝塚は汽水産のヤマトシジミの利用が拡大しているようです。

古東京湾沿岸の貝塚集落の衰退傾向をそれまで利用の進んでいなかった古鬼怒湾沿岸と太平洋岸でカバーして、全体としての衰退を食い止めようとしているように感じられてしまいます。

このような全体としての貝塚集落退潮傾向の要因について今後検討していこうと思います。

Ⅵ期→Ⅶ期退潮傾向の要因がⅦ期→Ⅷ期の破滅的現象とどのように関係するのか、興味が湧きます。

●Ⅶ期→Ⅷ期の変化は破滅的現象であり、大変極端なものです。古鬼怒湾沿岸1地域を除いて貝塚集落は全滅しています。

縄文時代と弥生時代を画期するこの時期になぜ貝塚集落がほぼ全滅したのか、その理由を大いに検討したいと思います。

その検討は少し準備をして別記事で行うこととします。

2017年2月21日火曜日

千葉県の貝塚学習 Ⅳ期貝塚集落崩壊の理由 その2

2017.02.18記事「千葉県の貝塚学習 Ⅳ期貝塚集落崩壊の理由」で、ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊 上下」(草思社文庫)を読んで、社会の崩壊を招く要因が5つあることを学習しました。

●社会の崩壊を招く5つの要因
1 人が環境に与えた損傷(環境破壊)
2 気候変動
3 近隣の敵対集団
4 近隣の友好集団
5 さまざまな問題への社会の対応

この記事を書いた時点ではまだⅣ期貝塚集落が「すべて消滅したものとみられる」理由推測は判然としたものではありませんでした。

次いで、2017.02.20記事「千葉県の貝塚学習 縄文時代後期前葉~中葉」を書き、そのなかでⅣ期とⅤ・Ⅵ期の特徴の差異を比較し、次のような感想を持つことができました。

「Ⅳ期縄文人社会は恵まれた環境を生かして、恵まれた生活を送り、そしてある時突然消滅した。」
「その後のⅤ・Ⅵ期社会はそれまで利用していなかった条件の悪い場所にも進出し、地域全体で相互補完的な資源利用システムを構成するというⅣ期には見られない社会頑強性を備えるようになり、厳しい環境にも適応していったように感じられる。」

この感想と社会崩壊5要因を統合して考えると、Ⅳ期縄文人社会崩壊の推論がおぼろげに頭に浮かんできました。

結論的には、気候変動つまり寒冷化がⅣ期縄文人社会崩壊の主因ではないだろうかという推論が生まれました。

次に5つの要因について、気候変動を最後にしますが、順次検討してみます。

1 人が環境に与えた損傷(環境破壊)
乱獲等による環境破壊も存在していたに違いありません。(ハマグリの形が小さいので採集圧が高かったと考えられている。)

しかし社会を滅ぼすほどの並外れた乱獲を想定できるような条件(画期的道具の発明など)の情報には接していません。

また、東京湾沿岸が並外れた自然脆弱性があるということは、前後の時期に貝塚社会が営まれているので考えられません。

このような事情から環境破壊がⅣ期縄文人社会崩壊の主因であるとは考えられません。

2 近隣の敵対集団
殺戮に関わるような発掘情報がないようですから、近隣の敵対集団により滅ぼされたということは考えにくいことです。

また、古東京湾と古鬼怒湾のⅣ期貝塚集落がすべて消滅した後に古東京湾に、その後古鬼怒湾にとⅤ・Ⅵ期縄文社会が建設される様子から、侵略による既存社会略奪支配という印象を持てません。

3 近隣の友好集団
近隣の友好集団からの物資輸入や文化的絆の供給が途絶えたことが社会崩壊の主因であるとう考えも、「生業や食事のバランスは魚貝類に偏ってはおらず、堅果類・イモ類等の植物、陸獣などを含めた多種の食材を運び込む点に特徴がある」という記述にあるような豊かな環境を謳歌している自給自足的状況下では考えにくいと思います。

4 さまざまな問題への社会の対応
さまざまな問題への社会の対応という点では、もし崩壊の主要因が気候変化であるなら、思いあたる節があります。

Ⅳ期縄文人社会は「広場と群集貯蔵穴をもつ集落形態、多数の遺構内貝層、イボキサゴや小型ハマグリ中心の貝層、多量の土器片錘、石器組成など共通点が多く、きわめて均一性が高い」という特徴を持っています。

この特徴は、Ⅴ・Ⅵ期社会のような「地域全体が相互補完的な資源利用システムを構成して」いないということです。

均一的社会は歯車が回っているときは効果的効率的ですが、いったん歯車が狂うと、それがリスクになり、脆弱性に転化します。

気候変動により当てにしている食料を十分に得られなくなった時、そのリスクを補完するシステムが存在していなかったということになります。

5 気候変動
縄文時代中期に顕著な寒冷化があったことが第四紀学で知られています。
この顕著な寒冷化は縄文時代中期の海面低下とも対応しています。

*縄文時代中期寒冷化の情報は下記図書(松島義章「貝が語る縄文海進」有隣新書)引用参照

従って、寒冷化という気候変動、海面低下という地形変化(干潟環境の変化)による自然環境変化に伴い、それまで各集落で個別に得ていた「魚貝類、堅果類・イモ類等の植物、陸獣」という食糧の総量が生活維持レベル以下になった時期があれば、その時期に各集落が一斉に滅びてしまうと想像します。

Ⅳ期縄文人社会崩壊の主因は縄文時代中期の顕著な寒冷化であると推察します。

なお、もし集落毎に魚介類専門、堅果類・イモ類等の植物専門、陸獣専門などの分担がある程度あれば、専門を分担した集落の生産量は全集落で均一に行う生産より多いことが想定されますから、寒冷化危機に際し魚介類、堅果類・イモ類、陸獣の全ての生産が完全に破滅的にならない可能性も残ります。

そのような可能性が残れば、不足食料分を融通移動して相互扶助でき、社会崩壊を免れたかもしれないと、Ⅴ・Ⅵ期社会の在り方から、想像します。

社会が崩壊するほどの寒冷化が存在したのですが、恐らくその期間には社会にトドメを刺す特殊時期があったと想像します。

そのトドメを刺す特殊時期とは寒冷化と火山の噴火が重なるなどであったと想像します。

トドメを刺す特殊時期は数年という短い期間で十分であったと思います。

……………………………………………………………………
松島義章「貝が語る縄文海進」有隣新書による縄文時代中期寒冷化の記述

記述
過去8000年間の気候変化は、尾瀬ヶ原におけるハイマツ花粉の消長とそのほかのデータから明らかにされている(阪口、1993)。
その中で顕著な寒冷化は、約4500年前の縄文時代中期と約3000年前の縄文時代晩期、約1500年前の古墳時代にあったことが指摘された。
この三つの寒冷期は、いずれも北海道域で確認された温暖種の衰退期と一致する。
なかでも縄文時代中期の寒冷期は、北海道域以外では南関東における熱帯種の衰退期と、相模湾沿岸の貝塚から出土したチョウセンハマグリの示す酸素同位体比による海水温の低下が極小になる時期(鎮西ほか、1980)とよく合っている。
さらに、房総半島勝浦沖の海底コアに含まれていた微化石群集が示す約5000ー4000年前の寒冷化(鎮西ほか、1984・1987)とも一致しており、寒冷化は太平洋側でも広域で確認されている。
この寒冷期は「縄文中期の海面低下」(太田ほか、1982・1990)と対応する。

太平洋沿岸の微化石群中の黒潮系種の変動

日本列島における暖流と寒流の流れ

多摩川・鶴見川下流域から横浜周辺における約1万500年前以降の相対的な海面変動曲線

またこの図書では南関東における温暖種の出現と消滅について詳しく分析しています。

南関東における温暖種の出現と消滅

第1グループの温暖種は海面低下による生息環境の消失による消滅、第2グループの温暖種は海水温低下による消滅であると説明しています。

松島義章「貝が語る縄文海進」有隣新書







2017年2月20日月曜日

千葉県の貝塚学習 縄文時代後期前葉~中葉

大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習をするための基礎知識習得のためにの貝塚の項の学習をしています。

この記事では縄文時代後期前葉~中葉の学習をします。

1 図書の記述

図書(「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行))では次の貝塚分布図と説明文が示されています。

Ⅵ期(縄文時代後期前葉~中葉)貝塚分布図

説明
Ⅳ期とともに県内に大規模な集落・貝塚が最も多く形成された時期である。
分布図をみると古五田沼低地から養老川低地付近まで大型貝塚が大きくとぎれることなく存在している(図7)。
Ⅴ期の傾向を引き継ぎ、さらに南北に延びた形である。
古五田沼低地の野田市東金野井貝塚や、印旛沼低地の八千代市佐山貝塚など汽水産のヤマトシジミを利用し始めることもひとつの特徴であるが、大型貝塚を形成した主要貝種はイボキサゴ・ハマグリ・オキアサリの3種といえる。
真間川低地と都川低地以南では、イボキサゴが圧倒的に多い。
この地域の貝層が際立って大きいのはこの貝種の利用によるものであろう。

Ⅳ期の様相がどの集落・貝塚も均一的であったのに対して、この時期では集落・貝塚間でさまざまな差がみられる。
分布・立地をみると、海岸線付近から、谷に沿って何㎞もさかのぼった谷奥まで幅広く存在し、分水界を越えた古鬼怒湾水系の谷にも大量の貝が運ばれている。
このようなあり方について、一水系で遺跡間の比較を試みた都川・村田川貝塚群のデータをみてみたい(文献12)。
表3をみると、貝類については貝塚間での類似性がきわめて高い。
魚類の利用は立地条件の違いが明瞭に現れている。
すなわち、都川谷最奥部の千葉市緑区誉田高田貝塚では淡水魚が中心であるのに対し、より下流側に位置する同市中央区矢作・若葉区加曽利南・緑区木戸作の各貝塚では海産魚が大半を占める。
特に、最も海に近い矢作貝塚では魚の種類が豊富で、漁獲技術にも多様性が認められる。
このような遺跡間の関係については、各集落がそれぞれの地理的条件に応じた生業を独立して営んでいた可能性や、多様な生業をもつ集落が結合し、地域全体が相互補完的な資源利用システムを構成していた可能性など、さまざまな解釈が可能であり、今後の研究課題である。

表3 都川・村田川貝塚群の4貝塚の比較

2 理解促進のための分布図調整

図書記述の理解を促進するために貝塚分布図をIllustratorレイヤを活用して調整し、見やすいものにしました。

Ⅵ期貝塚分布図

直前時期であるⅤ期の分布図と比較すると、Ⅴ期→Ⅵ期の変化の特徴(「Ⅴ期の傾向を引き継ぎ、さらに南北に延びた形である。」)がよくわかります。

参考Ⅴ期(縄文時代中期後葉~後期初頭)

3 疑問・興味

●Ⅴ期からⅥ期にかけて貝塚集落によって構成される房総縄文人社会が成長発展した様子を確認することができます。

●消滅したⅣ期貝塚集落とその後新たに建設されたⅤ期・Ⅵ期貝塚集落の差異は、2つの異なる縄文人社会の差であり、その概要を図書の記述から次のようにまとめることができます。

房総貝塚集落 Ⅳ期とⅤ・Ⅵ期の比較 1

房総貝塚集落 Ⅳ期とⅤ・Ⅵ期の比較 2

この比較表を眺めていると、Ⅳ期貝塚集落を建設した縄文人社会は恵まれた環境を生かして、恵まれた生活を送っていたことが忍ばれます。

そしてⅣ期縄文人社会は消滅しました。

Ⅴ期・Ⅵ期貝塚集落を建設した縄文人社会は、それまで利用していなかった条件の悪い場所にも進出し、地域全体で相互補完的な資源利用システムを構成するというⅣ期には見られない頑強性を備えるようになっています。

あたかもⅣ期縄文人社会の失敗の教訓を学んで、厳しい環境にも適応していったように感じられます。

次の記事で、改めて、恵まれた環境を生かして生活していたⅣ期縄文人社会がなぜ崩壊したのか、Ⅴ期・Ⅵ期縄文人社会がなぜ頑強な社会システムを構築したのか、その理由を検討します。







2017年2月18日土曜日

千葉県の貝塚学習 Ⅳ期貝塚集落崩壊の理由

2017.02.17記事「千葉県の貝塚学習 縄文時代中期後葉~後期初頭」で書いた通り、Ⅳ期(縄文時代中期中葉)に建設された定住型貝塚集落が全て消滅したことを学習しました。

図書(「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行))ではサラリと書いてありますが、その当時の房総の縄文社会が全面的に崩壊したのですから、大いに興味が湧きます。

Ⅳ期定住型貝塚集落の崩壊の理由は何か?

縄文社会そのものも最後には崩壊しますから、学習を進めればおそらくそれとの比較も行う必要があります。

話は大いに飛躍しますが、私が興味を持っている別のテーマである奈良平安時代開発集落も9世紀末に一挙に衰退します。崩壊といってもよいような状況だと思います。

考古歴史の学習をしていて、社会の崩壊・消滅に共通するような要因があるのかどうか気になります。

このような問題意識のなかで、たまたま書店でみかけて購入した次の図書の記述が、Ⅳ期定住型貝塚集落の崩壊理由推察のために参考になるかもしれないと考え、この記事にメモしておきます。

●ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊 上下」(草思社文庫)

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊 上下」(草思社文庫)

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊 上下」(草思社文庫)で扱っている「過去に消滅した数々の社会」

「過去に消滅した数々の社会」世界地図

●崩壊を招く5つの要因(ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊 上下」(草思社文庫)要約)

1 人が環境に与えた損傷(環境破壊)
特定の社会だけが環境の崩壊に見舞われる理由のなかには、原則的に、住民の並外れた無思慮か、環境のある側面の並外れた脆弱性が、あるいはその両方が含まれるものと思われる。

2 気候変動
人間の寿命が短く、文字や記録が無かった時代には、数十年規模の気候変動は深刻な問題だった。
数十年好適な気候の時代に作物の生産高や人口を増やそうとする傾向がある。
やがて好適な数十年が終わると、社会は支えきれる以上の人口をかかえ、新しい気候条件にふさわしくない生活習慣が定着していることに気づかされる。

3 近隣の敵対集団
歴史上の社会のほぼすべてが、地理的に近い他の社会をかかえ、少なくとも何らかの接触を持ってきた。
隣接する社会との関係は、ときに、あるいは常に、敵対的なものだったかもしれない。
社会に力があるあいだは、敵を退けることができるが、なんらかの理由でその力が弱まれば、敵に屈することになる。

4 近隣の友好集団
歴史上のほぼすべてが、近くに敵をかかえるのと同様、友好的な交易の相手をかかえている。
しばしば、その相手は敵と同一の集団であり、相互の関係は敵対と友好のあいだを揺れ動く。
大半の社会は、必需物資の輸入という形で、もしくは集団を束ねるための文化的絆という形で、近隣の友好的な社会にある程度まで依存している。
だから、交易相手が何らかの理由で弱体化して、必需物資や文化的な絆を供給できなくなると、結果的に当の社会も弱体化しかねないというリスクが生じる。

5 さまざまな問題への社会の対応
たとえば森林破壊の問題が発生しても、森林管理に成功して繁栄を続ける社会と、有効な管理策を施せず、結果として崩壊した社会がある。
社会の対応は、その政治的、経済的、社会的な制度や文化的な価値観によって異なる。
社会が問題を解決できるかどうか-そもそも解決を図ろうとするかどうか-は、制度や価値観しだいである。

・環境破壊、気候変動、近隣の敵対集団、友好的な取引相手は、個々の崩壊した社会によって重要度が高かったり、低かったりする。
・環境問題への社会の対応はどの社会においても重大な要素となる。

この図書(「文明崩壊」)を読んだからといって、Ⅳ期定住型貝塚集落の崩壊の理由がわかることはありませんが、いろいろな示唆・触発を受け、自分の思考の幅を広げ深めるための参考になります。





2017年2月17日金曜日

千葉県の貝塚学習 縄文時代中期後葉~後期初頭

大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習をするための基礎知識習得のためにの貝塚の項の学習をしています。

この記事では縄文時代中期後葉~後期初頭の学習をします。

1 図書の記述

図書では次の貝塚分布図と説明文が示されています。

縄文時代Ⅴ期(中期後葉~後期初頭)

説明
「Ⅳ期に多数存在した通年定住型の集落は、加曽利EⅡ期の終わりから加曽利EⅢ期の始まりにかけて、すべてが消滅したものとみられている。
Ⅴ期には、わざわざ集落の故地を避けて、分散的に居住するようになる(文献16)。
図6をみると、分布は一見Ⅳ期と似ているようだが、それまで空白となっていたところに多く、東京湾沿岸の矢切低地から小櫃川・矢那川低地まで大きくとぎれることなく広がっている。
広場集落・群集貯蔵穴・大規模な貝層はみられなくなり、貝層はすべて遺構内貝層となり、骨が検出される例はまれである。
船橋市新山遺跡群と、千葉市若葉区餅ヶ崎遺跡はこの時期を代表する大規模な集落群であるが、やはり骨は混じらない。
Ⅳ期に大型貝塚が集中した2か所の河口干潟は、Ⅴ期にはごく小さくなり、東京湾沿岸に延々と続く出入りの少ない干潟を形成したものと考えられる。
生産性の高い河口干潟が失われたことは、貝類と小魚の安定した入手には痛手となったであろう。
ただし、加曽利EⅣ期から称名寺期には幾つかの集落で次のⅥ期につながる様相が現れる。
その例として、市川市権現原貝塚・船橋市宮本台貝塚・千葉市緑区六通貝塚・市原市武士遺跡・横芝町中台貝塚を挙げることができる。
権現原貝塚以外は、すべてⅥ期以降、Ⅶ期の終わり(晩期前半)まで継続する各地域の中心的な拠点集落である。
権現原貝塚は、2系統の集団が合体して集中居住型の集落を形成したことを具体的に示す分析成果がある(文献12)。
その後拠点を市川市堀之内貝塚に移した可能性がある。」
「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用、赤字は引用者。

2 理解促進のための分布図調整

図書記述の理解を促進するために貝塚分布図をIllustratorレイヤを活用して調整し、見やすいものにしました。

Ⅴ期貝塚分布図

直前時期であるⅣ期の分布図と比較すると、Ⅳ期→Ⅴ期の変化の特徴がよくわかります。

参考 Ⅳ期貝塚分布図

3 疑問・興味

●Ⅳ期の貝塚集落は全て消滅して、その後Ⅴ期になりⅣ期貝塚集落故地を避けて新たに貝塚集落が立地しているということは、Ⅳ期縄文人集団がⅤ期になり別の縄文人集団に入れ替わったと考えざるをえません。

●より直接的に表現すればⅣ期貝塚集落を建設した集団が滅びたということです。房総のⅣ期縄文人集団が滅びたことは、Ⅴ期には古鬼怒湾の貝塚集落がゼロであることからも推論できます。

●図書記述では、Ⅳ期貝塚集落が消滅した理由を、次の記述にあるとおり、自然環境変化で説明しようとしているように感じられます。

「Ⅳ期に大型貝塚が集中した2か所の河口干潟は、Ⅴ期にはごく小さくなり、東京湾沿岸に延々と続く出入りの少ない干潟を形成したものと考えられる。
生産性の高い河口干潟が失われたことは、貝類と小魚の安定した入手には痛手となったであろう。」

この説明はⅣ期集落が消滅したのだから、それは2カ所の河口干潟が小さくなって漁場価値が減少したのだろうという推論によるものだと考えます。

2カ所の河口干潟が小さくなって漁場価値が減少したというデータ(事実)があって論じている説明ではないと思います。

●図書の分布図及び説明からⅣ期→Ⅴ期の縄文人集団の入れ替わりを次のようにイメージしました。

Ⅳ期→Ⅴ期変化の検討


2017年2月16日木曜日

千葉県の貝塚学習 縄文時代中期中葉

この記事ではⅣ期(縄文時代中期中葉)の貝塚について学習します。

1 図書の記述

学習している図書(「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行))では次の貝塚分布図と説明文が示されています。

Ⅳ期(縄文時代地中期中葉) 貝塚分布図

説明文
Ⅵ期とともに県内に大規模な集落・貝塚が最も多く形成された時期である。
分布図をみると、矢切低地から海老川低地付近と、都川低地・村田川低地付近の2つの極が存在し(図5)、奥東京湾沿岸や古鬼怒湾中央部から湾口部には、ややまばらだが一定の距離をおきながらまとまっている。
分布図には貝塚を伴わない大規模な広場集落、またはそれを含む遺跡群も示している。
この時期の遺跡群は、広場集落がひとつないし2つあって、その周辺にのみ小規模な集落が点在して遺跡群を形成するのが特徴である。
この状況は、これまで説明されてきた大規模な貝塚集落の周囲の広域に多数の小規模集落や包含層が分布するというものとはかなり違っている。
いわゆる「加曽利E式期」は,Ⅳ期とⅤ期というまったく居住様式の異なる時期にまたがっており、両者を一括した分布図や説明によって誤解を生んできたといえる。
広場集落の大半は貝層を形成しており、ほぼ阿玉台Ⅲ期ないし中峠期から加曽利EⅢ式土器の成立前後まで、という集落の継続期間や、広場と群集貯蔵穴をもつ集落形態、多数の遺構内貝層、イボキサゴや小型ハマグリ中心の貝層、多量の土器片錘、石器組成など共通点が多く、きわめて均一性が高い。
Ⅲ期の広場集落には定住的な特徴と、頻繁な移動を想定させる特徴を併せもっていたが、Ⅳ期の集落は長期にわたる通年定住型の集落とみてよいだろう。

東京湾沿岸の大型貝塚の意味については、これまでに幾つかの説明が与えられてきたが、現在に至るまで長い間中心的な理論となってきたのは、「大型貝塚=干貝加工場説」である。
要約すると、大規模な貝層は、春の大潮などに複数の集落が共同で干貝加工を行ったために形成されたものであり、計画的で恒常的な食料の確保が集落の定着・集中・大型化をもたらしたとするものである(文献2)。
しかし、ほぼ全体の様子が判明している千葉市緑区有吉北貝塚の分析結果から、別の意見も提示されている(文献13)。
さまざまな分析結果から、生業や食事のバランスは魚貝類に偏ってはおらず、堅果類・イモ類等の植物、陸獣などを含めた多種の食材を運び込む点に特徴があると考えられた。
また、貝類の採取は一年中、日常的に行われた可能性が高い。
これは、干貝加工場とみられる東京都北区中里貝塚とはまったく異なっている。
このような点から、大規模な貝層は長期間にわたる貝類の日常的な利用によるとする見解である。
イボキサゴや小型ハマグリは保存加工が容易であることも確かであるが、むしろ一年中毎日のように生の貝が入手できる点に価値があったと考える。
さらに、植物質食材を使った鍋料理が安定化・日常化したことに伴って、うまみや塩味が加えられる調味食材として貝の需要が高まったのではないか、というものである。
今後議論していく段階にあるので、2つの論を併記しておく。

2 記述理解のための分布図調整

図書記述の理解を促進するために貝塚分布図をIllustratorレイヤを活用して調整し、見やすいものにしました。

Ⅳ期貝塚分布図

この分布図調整により、図書記述をより具体的に理解することができました。

またこの分布図には貝塚を伴う集落だけでなく貝塚を伴わない主な集落もプロットされています。

ですからこの時期の縄文人社会の様子をそれなりにイメージすることが可能となります。

3 疑問・興味
●貝塚集落と貝塚を伴わない集落の関係がどのようなものであったのか、特段に強い興味を持ちます。
貝塚を伴わない少数の集落が多数の貝塚集落近隣に寄り添うように分布しています。
この分布の様子から次のような想像をしましたので、今後その想像がどの程度確からしいか学習の中で検証したいと思います。
【貝塚集落と貝塚を伴わない集落の関係】
・貝塚集落がその活動をしていく上で、自給自足的に得ることができない食料・道具・サービスなどが生じることがあると考えます。
そのような自給自足的に手当てできない食料・道具・サービスを貝塚をともなわない集落が提供して、その反対給付が海産物であったと考えます。
・貝塚を伴わない集落は漁業以外の生産活動を行うとともに交易・交流によって貝塚集落に必要とする食料・道具・サービスを提供していたのではないだろうかと考えます。

●下総台地中央に貝塚を伴わない集落が集中していて、縄文人グループとしての古鬼怒湾ネットワークと東京湾ネットワークの交流機能空間であったのではないかと空想します。

Ⅳ期(縄文時代中期中葉)の交流ルート(空想)