私の散歩論

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2017年2月25日土曜日

縄文社会崩壊プロセス学習 縄文時代後期中葉の激減

大膳野南貝塚学習のための基礎知識習得のために、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の「第1編第8章縄文社会崩壊のプロセス」の学習をしています。

この記事では縄文時代後期中葉の竪穴住居跡数激減の理由記載等について学習します。

1 縄文時代後期中葉の竪穴住居跡数激減の様子

縄文時代後期中葉の竪穴住居跡数激減の様子

2 縄文時代後期中葉の竪穴住居跡数激減の理由

図書では竪穴住居跡数激減の理由について次のように説明しています。

後期中葉以降の減少については、火山灰の降下による森林資源への打撃や、海水面の小規模な低下すなわち気候の寒冷化によって説明されている。
まさに「植物の自律的な変化をうまくコントロールした食料の獲得も、自然自体の根本的変化には対応できなかった」と評価することができよう。

火山灰の降下とはどの火山であるのか、海水面の小規模な低下を示す具体的データはどこにあるのか、単なる一般論として述べているのか、誰かによって「説明されている」のですから、その説明を是非とも教えていただきたくなる文章です。

3 縄文時代後期中葉の竪穴住居跡数激減に伴う考古学的事象

図書では、後期中葉の様相を明確に示す遺跡として市原市武士遺跡を挙げ、後期前半の堀之内1式期の集落とはまったく異質な集落に再編成された様子を記述しています。

後期中葉における異質な集落への再編成1
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

後期中葉における異質な集落への再編成2
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用加筆

また、後期前半(堀之内1式期)以前と後期中葉以降(堀之内2式期以降)の土器に着目すると、底部の成形技法に大きな変化が認められることが述べられています。

さらに土器底面の網代痕跡も堀之内2式期になって出現し、結果として文様施文の段階で回転が容易になることから、堀之内1式期の縦方向の文様施文から堀之内2式期以降の横方向施文への変貌などの特徴が述べられています。

網代痕跡と文様施文
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

これらの考古学的事象から、図書ではつぎのように記述しています。

後期中葉の衰退は火山灰の降下による森林資源への打撃や気候の寒冷化に端を発し、そこでは、従来の集落がまったく異質な集落に再編成されたものととらえることができた。
また、この時期に、縄文土器の製作技法にも大きな変化が現れたり環状盛土遺構が出現するなど、社会に大きな変化があったことが容易に理解できよう。

また、中期後半以降の衰退と同じように、後期中葉においても同じ顔つきの土器(加曽利B式土器)が広範囲に分布することが述べられいます。

4 感想
4-1 竪穴住居跡数データの意義

後期中葉の衰退を貝塚分布図でみると、古東京湾岸では貝塚分布が少し疎になりますが、古鬼怒湾岸では反対に密になっています。

単純な「激減」といっていいかどうか疑問が残ります。

そもそも、京葉地域の竪穴住居跡数のデータが古鬼怒湾岸地域を含めたより広域を代表するデータであるのかどうか、基礎の部分で疑問を持ちます。

中期後半の激減は貝塚分布図の変化とも対応しますが、後期中葉の激減は貝塚分布図と対応しません。

4-2 後期前葉(堀之内1式期)の竪穴住居跡数増加の意義

中期後半と後期中葉の竪穴住居跡数激減の理由を探る思考をするということは、その中間にある竪穴住居跡数が増加した後期前葉(堀之内1式期)の意義を検討する必要があるということです。

増加の理由がわかれば、その前後の減少の理由もうかびあがる可能性があります。

4-3 千葉県全体の竪穴住居跡数と遺跡数の推定が必要

千葉県全体の竪穴住居跡数と遺跡数の推定及びその分布がわかれば、なぜ増減したのか、その理由推定根拠の重要な一つになります。

ふさの国文化財ナビゲーションの遺跡データには縄文時代の時期区分(早・前・中・後・晩)及び出土土器形式の記載のあるものがあります。

例 古山遺跡の遺構・遺物記載
住居跡、竪穴状遺構、土坑、集石跡・縄文土器(撚糸文系・田戸下層・茅山上層・神之木台・諸磯・浮島・興津・十三菩堤・五領ケ台・阿玉台・称名寺・堀之内・加利B・安行1・安行3b)、弥生土器(久ケ原)、土師器、須恵器、石器(石鏃・けつ状耳飾・石皿・凹石・磨石)、土製品(けつ状耳飾・土器片錘)、鉄製品(鏃・

このふさの国文化財ナビゲーションデータを使てGIS分析すれば、遺跡レベルでの時代変遷とその分布がわかるかもしれません。


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