私の散歩論

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2017年2月24日金曜日

縄文社会崩壊プロセス学習 縄文時代中期後半の激減

大膳野南貝塚学習のための基礎知識習得のために、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の「第1編第8章縄文社会崩壊のプロセス」の学習をしています。

この記事では縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減の理由記載等について学習します。

1 縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減の様子

縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減の様子

2 縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減の理由

図書では竪穴住居跡数激減の理由について次のように説明しています。

中期後半の激減については、その直前段階での打製石斧や貯蔵穴の圧倒的な多さ、さらには環状集落の形成から、根茎類・堅果類等による食料の安定とその崩壊としてとらえられている。
ここにおいても、海面低下期すなわち気候の寒冷化があったことが説明されている。

気候の寒冷化が原因であるという説明ですが、それ以上に深い考察はありません。

揚げ足取り的になりますが、この理由説明の最後の「…説明されている。」という言い回しは褒められるものではありません。まるで他人事です。

データを示すなり、いろいろ判ってきているとか、判らないことが多いとか、考察した結果を自分事として書いていただきたいと素人ながら思います。

3 縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減に伴う考古学的事象

図書では、縄文時代中期後半の竪穴住居跡数激減の最衰退期である中期最終末から後期初頭の集落内部の特徴として、他地域からの影響を看取できる要素の出現を詳しく説明しています。 

他地域からの影響がみられる住居跡 1

他地域からの影響がみられる住居跡 2

これらの他地域からの影響について、環境決定論の立場から推し量る可能性がないわけではないがと断りつつ、中期的集落・環状集落的集落の崩壊の結果、新たな集団関係の模索がなされ、広域に集団もしくは集団構成員の移動があったことが妥当であるとしています。

中期後半の衰退は気候の寒冷化に端を発し、そこでは、他地域起源の住居・貯蔵施設・調理施設等の出現に示されるように、従来の地域社会を越えた領域で、新たな集団関係が模索されることとなった。」と説明しています。

4 同じ顔つきをした土器が広範囲で分布する事象

図書では、中期後半以降の衰退ピークである後期初頭と後期中葉において、同じ顔つきをした土器(中津式土器・加曽利B式土器)が広範囲に分布する事象に着目して、次のように分析しています。

これは、縄文時代の衰退が環境変化に伴う生態系の崩壊とこれに起因する人口の減少であるならば、従来の安定した集団関係、婚姻関係が崩壊し、この崩壊を食い止めるために新たな集団関係・婚姻関係が模索され、この再編成が連鎖的かつ広域的に展開することによって、同じような顔つきの土器群が広域に分布する様相が生じたととらえることができよう。
その中で、他地域の要素や異質な集落の再編成がなされたものと考えられよう。

称名寺式・中津式土器とその分布(後期初頭)
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

3の他地域からの影響と4の同じ顔つき土器の本州中央部分布を同じ理由で説明していいものか素人ながら疑問がわきます。

3の他地域からの影響は地域が崩壊して、その場所を埋めるように遠方から人が移動してくる事象として一般論として理解できます。

4の本州中央部の同じ顔つき土器分布はそれに対応する顕著な人の移動が存在していたのではないだろうかと想像します。

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以下、4の疑問から発出した想像的検討です。

5 ヒトゲノム研究による第2波渡来民移動仮説と称名寺式・中津式土器分布域の対応
5-1 斎藤成也「日本列島人の歴史」(岩波ジュニア新書)の日本列島人形成モデル

斎藤成也「日本列島人の歴史」(岩波ジュニア新書)ではヒトゲノム研究による日本列島人形成モデルを提唱しています。

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日本列島人の形成モデル

・第一段階……約4万年~約4000年前(ヤポネシア時代の大部分)。
第一波の渡来民が、ユーラシアのいろいろな地域からさまざまな年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にわたってやってきました。
主要な要素は、現在の東ユーラシアに住んでいる人々とは大きく異なる系統の人々でした。
日本列島中央部の北側では、5000年前ごろに大きな人口増がありましたが、日本列島中央部の南側では、九州を除けば人口がきわめて低い状態が続きました。

・第二段階……約4000年~約3000年前(ヤポネシア時代末期)。
日本列島の中央部に第二の渡来民の波がありました。
彼らの起源の地ははっきりしませんが、朝鮮半島、遼東半島、山東半島に囲まれた沿岸域およびその周辺だった可能性があります。
第二波渡来民の子孫は、日本列島中央部の南側において、第一波渡来民の子孫と混血しながら、すこしずつ人口が増えてゆきました。
一方、日本列島中央部の北側と日本列島の北部および南部では、第二波の渡来民の影響は、ほとんどありませんでした。

・第三段階前半……約3000年~約1500年前(ハカタ時代とヤマト時代前半)。
ハカタ時代に入ると、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二波渡来民と遺伝的に近いながら若干異なる第三波の渡来民が日本列島に到来し、水田稲作などの技術を導入しました。
彼らとその子孫は、図2-1で示した日本列島中央部の東西軸にもっぱら沿って居住域を拡大し、急速に人口が増えてゆきました。
ヤマト時代になると、中国からも少数ながら渡来民が来るようになりました。
日本列島中央部の東西軸の周辺では、第三派の渡来民およびその子孫との混血の程度が少なく、第二波の渡来民のDNAがより濃く残ってゆきました。
日本列島の北部と南部および東北地方では、第三波渡来民の影響はほとんどありませんでした。

・第三段階後半……約1500年前~現在(ヤマト時代後半以降)。
第三波の渡来民が、ひき続き朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から移住しました。
それまで東北地方に居住していた第一波の渡来民の子孫は、六世紀前後に大部分が北海道に移ってゆきました。
その空白を埋めるようにして、第二波渡来民の子孫を中心とする人々が東北地方に居住してゆきました。
日本列島南部では、グスク時代の前後に、おもに九州から第二波の渡来民の子孫を中心としたヤマト人が多数移住し、さらに江戸東京時代には第三波の渡来民系の人々も加わって、現在のオキナワ人が形成されました。
日本列島北部では、ヤマト時代後半から平安京時代の初頭にかけて、北海道の北部に渡来したオホーツク人と第一波渡来民の子孫のあいだの遺伝的交流があり、アイヌ人が形成されました。
平安京時代以降は、アイヌ人とヤマト人との混血が進みました。


日本列島人の形成モデル
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5-2 ヒトゲノム研究を踏まえた渡来民移動期と人口急減期の関連想像

このモデルの第二段階の第2波渡来民が列島を移動した経路が称名寺式・中津式土器分布域と対応するのではないだろうかと想像します。

そのように想像すると、寒冷期に新天地をもとめて大陸から規模の大きな渡来民来訪があり、その渡来民の移動経路がヒトゲノム研究の分布域でわかっていて、ほぼ称名寺式・中津式土器分布域に対応し、合理的に解釈できます。

大陸からの渡来民が列島には存在していない病原菌を持参したならば、それが列島人急減の一つの理由となる可能性も生まれます。

渡来民は大陸で生活できなくなって列島にきたのですから、列島人に対して敵対的・侵略的であった側面も備えていた可能性は十分にあります。

ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸を征服したように、渡来民が暴力で列島人を殺戮し、入植していった場面も、あったに違いありません。

ヒトゲノム研究を踏まえた渡来民移動期と人口急減期の関連想像

縄文中期後半から後期初頭にかけての竪穴住居跡数急減の理由は寒冷・海面低下とともに、それと関連して生起した渡来民の移動も関係していたという想像的仮説です。

なお、このように考えると、2017.02.17記事「千葉県の貝塚学習 縄文時代中期後葉~後期初頭」で検討した西方面からの新たな縄文人グループの東京湾入植という仮説も、第2波渡来民の到来として捉えることができます。

参考 Ⅳ期→Ⅴ期変化の検討
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斎藤成也「日本列島人の歴史」(岩波ジュニア新書)

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