私の散歩論

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2017年4月20日木曜日

西根遺跡学習用作業仮説

大膳野南貝塚の学習が順調に推移し出していますが、縄文時代知識が増え感覚が研がれるに従い、以前興味を持ってそのまま回答を得ていない西根遺跡のことが気がかりになります。
2017.04.04記事「メモ 西根遺跡 縄文時代土器集中遺構は広域祭祀(イヨマンテ)跡か」では2014年の西根遺跡検討イメージを一新させて、西根遺跡が広域祭祀跡であると直観できたことをメモしました。

このような経過のなかで、大膳野南貝塚学習に平行して西根遺跡学習を開始することにしました。

大膳野南貝塚は貝塚集落、西根遺跡は珍しい川沿い沖積地の遺跡ですからその二つを同時に学習すれば問題意識を多面的に頭脳中で交流することができ、学習効果が向上すると期待します。

この記事では西根遺跡学習を始めるに当たっての作業仮説設定を行います。

今後この学習用作業仮説を変更修正、追加補強発展させ、あるいは廃棄して全く別の仮説づくりを行うことにより、自らの学習を深めていくことにします。

1 西根遺跡(縄文時代)学習用作業仮説

西根遺跡(縄文時代)学習用作業仮説 ミナト施設送りとしての土器送り・イオマンテ

2 西根遺跡(縄文時代)学習用作業仮説 解説
2-1 土器の分布
次の遺物集中地点図から読み取れるように、土器集中場所は当時の戸神川河道沿いです。

遺物集中地点図
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から引用

土器集中とミナト機能をオーバーレイさせて考えざるをえない基本情報がこの分布図に含まれていると考えます。

また土器はその姿が残るものばかりで完形に近いものも多く、しかし必ず欠けがあり(100%完形土器はゼロ)、同時に重ねることなく平面的に置いたと発掘調査報告書では
分析しています。

土器出土状況
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から引用

単純な不用土器送りなら、ここまで凝った送りをする必然性がありません。
別の意味がないならば、わざわざここに不用土器を持ってきて送りをする必然性はありません。集落内で土器送りをすればよいだけです。
土器送りであることは間違いないにしても、別の意味がある土器送りです。
その意味をこの仮説ではミナト施設破壊(出水、水面低下)に伴うミナト施設送りであると想定しました。

2-2 獣骨出土、飾り弓出土
獣骨(焼骨)が土器分布と近い様子で多量に出土しています。

西根遺跡 土器と獣骨分布の比較
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から作成引用

土器送り祭祀の場所で獣を焼いて食ったと考えられます。

出土獣骨
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から引用

ここで大変興味深い分析を発掘調査報告書でしています。出土獣骨に頭骨がほとんど含まれていないという事実と獣骨の多くが幼獣のものであるという事実が述べられています。

狩で親子を同時に捕獲したとき、幼獣だけ飼育しておき、後の祭祀でその幼獣を送る、その頭骨は祭壇に飾る(食わない)というイオマンテを思い浮かべると、西根遺跡の獣骨出土状況はイオマンテを彷彿とさせます。

また飾り弓が出土しています。

飾り弓
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から引用

飾り弓は祭祀で使うものです。
イオマンテが行われたという想定を強く支持補強する出土物です。

2-3 「杭」出土
縄文時代遺物であることが明確な出土物として「杭」も出土しています。

「杭」
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から引用

「杭」は発掘調査報告書ではほとんど着目されていません。
私はこの「杭」がミナトに着岸した丸木舟が使う係留杭(カシ…舟に常備する杭)であると長らく考えてきました。
しかし、「杭」をよく見るとフシ(枝)が残されていていて杭としては不自然です。
そして最近次の絵をみて、この「杭」が杭ではなく祭祀につかうイナウであったと考えるようになりました。

松浦武四郎著(1859)蝦夷漫画のイナウ
札幌市中央図書館デジタルライブラリーからダウンロード引用

「杭」がイナウならばイオマンテや土器送りや本来祭祀であるミナト施設送りの祭祀で使われたものと考えられます。

2-4 西根遺跡の位置
次に西根遺跡付近の地図を示します。

西根遺跡付近の地図

西根遺跡は印旛沼広域圏の西の出入りの交通拠点であり、台地を越えれば手賀沼低地(及び現在の利根川低地)と連絡する船越です。

この船越を介在して縄文時代印旛沼広域圏が東北・北関東・信州とつながっていたと考えます。

2-5 時代背景
西根遺跡出土土器は縄文時代後期の約300年間にわたるものであるという分析結果がでています。
この300年間の房総縄文社会の様子を今後詳しく学習すれば、この遺跡の意味を考える有用なヒントを得られると期待しています。
戸神川ミナトを介して印旛沼縄文人と東北・北関東・信州の縄文人が行っていた交流の中に占める形而上学的要素の割合がかなり大きかったので、戸神川ミナトの祭祀が盛んであったと類推します。

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