私の散歩論

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2017年8月24日木曜日

印旛沼舟運と土器塚 土器塚学習4

図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」を学習しています。
この文献で興味を持った点は2点あり、1点は土器の砕片化と集積ブロックに関する現場実証的検討です。この興味は2017.08.23記事「土器破壊行為と運搬投棄 土器塚学習3」で書きました。
もう1点は土器塚の空間的位置関係です。
土器塚の集落空間内位置関係に関する考察はこの論文では行われていなようです。しかし、掲載されている図面からかなり明白な情報が読み取れるので興味を持ちました。

1 遠部台遺跡土器塚と交通
論文に掲載されている「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」をみると土器塚が台地から印旛沼に続く小谷津に位置していることがわかります。
この小谷津は付近の地形から判断して台地集落と印旛沼を結ぶ主要道路であったことは付近に印旛沼と台地を結ぶ地形が他にないので確実です。

そこで、中学で習った幾何学補助線のような観点から台地と印旛沼を結ぶ道路を「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」に書き込むと次のようになります。

「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」書き込み図
原図は「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」から引用

この図を見ると、土器塚が台地集落の端の印旛沼に降りる出口(印旛沼から集落にやってきた時の集落入口)に位置していることが読み取れます。

土器塚は印旛沼舟運と何らかの関わりがあると考えることが、何も考えないよりも合理的な思考であると考えます。

土器塚(が象徴する土器破壊祭祀)は交通(印旛沼舟運)と関わっていて、広域コミュニケーションネットワークの中で存在していたことがしのばれます。

なお、西根遺跡でイメージした「現代風に考えれば神社みたいなもの」というイメージを遠部台遺跡土器塚にあてはめてみると、違和感は生まれません。

西根遺跡にかんする空想では、西根遺跡が手賀沼方面交通との関わりが明白ですから、手賀沼のさらに先の東北や北陸との関係まで夢想しましたが、遠部台遺跡土器塚ではどのような空想・夢想が可能であるか興味が深まります。

2 参考 戦前の台地道路
25000分の1旧版地形図に調査地点位置図を重ねると次のようになります。

旧版地形図と遠部台遺跡における調査地点位置図のオーバーレイ

このオーバーレイ図をみると思考補助線として書き込んだ縄文時代道路と同じ場所で戦前の道路(点線)が台地から印旛沼低地に降りている(低地から台地に上っている)ことが確認できます。
縄文時代から現代までこの場所は台地と印旛沼を結ぶポイントだったのです。

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