私の散歩論

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2017年8月25日金曜日

低地水場の堅果類加工場 土器塚学習5

図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」を学習しました。

縄文社会を探る(学生社)

1 粗製土器は食料加工の道具
この文献を読んで西根遺跡の意義を考える上で大いに参考になった多くの事柄の内1点は粗製土器が食料加工の道具だったという点です。
わたしは粗製土器とよばれる大形の煮沸容器の主な用途は、かれらの主食であるドングリなどの堅果類を一度に集中して煮沸加工する「下ごしらえ用」の土器であったと考えている(阿部1996)。粗製土器が生まれ、そして大量に消費された加曽利B式期には、主食の加工作業にかかわる一大変革が起こった。それは秋に一斉に実を落とす堅果類を一度に加工して、大量にアク抜きなどの下ごしらえを行なうという集約的な食料加工が、道具づくりの次元にまで反映したことを示すのである。
「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」から引用
この文献から縄文時代後期(加曽利B式土器期頃)の社会の様子が詳しく伝わってきます。

2 低地水場の堅果類加工場
同時にこの文献では西根遺跡などを低地水場の堅果類加工場と関連付けています。
上記引用文に続いて次のように記述しています。
こうした技術革新を反映する現象の一つとして、低地の水場における堅果類の加工場の出現を考えることができる。
印旛沼沿岸では印西市西根遺跡、霞ケ浦沿岸では陣屋敷低地遺跡などのムラから離れた低地からの粗製土器の大量出土例などがこれに関連する現象と考えられる。この新たな道具とそれを用いる食物加工システムが、海のない地域での群集的なムラの成り立ちを支えたのである。もちろんそれ以前の時期にも、この地域が無人の地であったというわけではなく、中期以来の人々の生活がつづいたという点を重要な事実として認めつつも、関東西南部地域などでは遺跡数の極端な減少が起こるこの時期に、その存続と更なる遺跡数の増加をこうした技術革新が支えたのである。そして土器塚の形成をもう一つの具体的な証拠と考えることはできないだろうか。
「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」から引用 太字は引用者

西根遺跡そのものからは堅果類加工場を想起させる遺構は出土していません。
従って、著者は西根遺跡そのものではないが、同じ谷津のどこか近くに堅果類加工場があり、そこにおける生産活動で廃用になった土器を西根遺跡で廃棄したと推察しているようです。

素人の一市民がその分野の専門学者の見立てに異議を唱えるのもいかがなものかとは思いますが、西根遺跡が低地堅果類加工場と関連しているとの説は悪筋であると考えますので、その理由をメモしておきます。

ア 水場施設に不向きな地勢
西根遺跡の土器集中地点は300年間の間の海退に伴い、上流から下流に向かって直線距離約190m移動していますが、この間の流路にアク抜き遺構などは見つかっていません。
またこの付近はその時々の海の河口近くに位置しますから「流水」で晒すような活動には不向きです。
当時の地勢からみて戸神川谷津のどこかに水場堅果類加工場があるという想定は困難です。

イ 専門加工場利用土器とは考えられない種類の多様性
土器種類が多様であり、水場堅果類加工場で行われたある程度専門的な煮沸加工行為で使われた規格性のある土器という印象をもつことは困難であると考えます。
集落内で日常的に使われた土器が全て持ち込まれたという印象を受けます。
特に漆パレットとして使われた土器も出土しますから、煮沸加工場から持ち込まれたというよりも日常生活が営まれた集落から西根遺跡に持ち込まれたと想定できます。

ウ 母集落との地理的位置関係が極めて不自然
仮に戸神川谷津に水場加工施設があったとすると、その施設を作った母集落はどこかにあるはずです。
その母集落を両岸台地にある鳴神山遺跡や船尾白幡遺跡に見つけることは、遺跡規模から想定できません。想定できるのは印旛沼対岸の佐山貝塚や神野貝塚などになります。
印旛沼南岸の集落が印旛沼を渡ってわざわざ北岸の戸神川谷津に生業施設としての水場堅果類加工場を求めることは地理的位置関係として大変不自然です。あり得ないと考えられます。

以上の理由から西根遺跡は水場加工施設とは関係しない遺跡であると考えます。

3 参考 陣屋敷低湿地遺跡
上記引用文に西根遺跡とともに水場加工施設と関連する遺跡として霞ヶ浦沿岸の陣屋敷低湿地遺跡が出てきます。
この遺跡の報告書は全国遺跡報告総覧でダウンロードできます。

全国遺跡報告総覧のトップページ

ダウンロードした陣屋敷低湿地遺跡発掘調査報告書

この報告書をざっと読むと、この遺跡からも水場加工施設は出土していません。
一方この遺跡の置かれた場所と遺跡様子が西根遺跡と酷似します。
縄文海進で谷津の奥まで浸入した海が退いていった後の谷底に、数か所の焚き火の跡とともに、縄文時代後期(約3500年前)の土器が大量に捨てられていました。非常に特異な遺跡であり、出土した土器は「粗製土器」とよばれる簡素な土器で、しかも全て破片で出土し、石器等の他の生活道具はほとんど出土しませんでした。
広報「みほ」2012.04から引用

陣屋敷低湿地遺跡も縄文時代霞ヶ浦水上交通と関係したミナト廃絶に関わる祭祀遺跡かもしれません。
「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」がいう「低地の水場における堅果類の加工場の出現」と関連付けるイメージは持てませんでした。

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