私の散歩論

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2018年3月31日土曜日

土坑断面類型化のためのkj法検討着手

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 16

2018.03.30記事「私家版土坑情報編集物完成」にメモしたとおり、発掘調査報告書土坑情報の整理ができたので早速土坑断面の自分なりの類型化にチャレンジするためにkj法による分析に着手しました。

土層メモ付土坑平面断面図のファイル(全264土坑分)を扱いやすくするために巾350ピクセルに一括変換し、その264ファイル(JPGファイル)をIllustrator画面にばらまきました。

264土坑断面図をIllustratorにばら撒いた画面
kj法の特性からしてランダムにばら撒いた方がよいので、そのようにしました。

264土坑断面図をIllustratorにばら撒いた画面(部分拡大図)
実際は24インチモニター3画面を使って、広い作業領域を確保しています。

扱ってみると断面図(ファイル)の移動はとてもスムーズであり、その集合を快適に作ることができます。
まるで机の上に紙カードを置いて行う元祖kj法とくらべて遜色がありません。遜色がないどころか、画面の拡大縮小が簡単にできますから、モニター上で行う方が快適で効率的のようです。

しばらくkj法をあれこれ試して、その活動で気が付いた事柄のメモを蓄積することにします。

2018年3月30日金曜日

私家版土坑情報編集物完成

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 15

2018.03.26記事「私家版土坑データベース作成 本格データベース作成を決意」で発掘調査報告書に掲載されている土坑情報を編集物とデータベースの2通りでまとめることをメモしましたが、そのうちの1つであるページ編集物が完成しました。

私家版土坑情報編集物 Adobe Acrobat Proにおけるサムネール画面
これでようやく土坑の詳細情報を即座に確認できるようになりました。

編集物の作成は元資料(発掘調査報告書 pdf)を材料にして次のような手順で行いました。
1 記述、土層、平面断面、出土物の土坑別切り出し(jpgファイル、Photoshop)
2 平面断面、出土物にスケールを入れる(Photoshop)
3 土層と平面断面ファイルの結合(Photoshop)
4 土坑別情報(記述、平面断面、出土物)集成ページの作成(InDesign)
5 pdf書き出し

土層と平面断面ファイルを結合した画像はそれを材料にkj法により自分の主観・感覚で分類を行います。興味ある情報が生まれるか、それともそんなものかとなかばがっかりするか、これからの活動が予測できないだけに気持ちが高ぶります。

土層メモ付土坑平面断面図 サムネール画面

●感想
土坑意義の検討から離れてパソコン作業(ファイル操作)に少しだけ集中しましたが、これまでにない感想が生まれました。
以前、鳴神山遺跡(奈良平安時代)の発掘調査報告書を詳細に読み、情報を電子化し(Excelファイルに収納し)GIS分析しました。その時は発掘調査報告書(紙コピー)から情報を直接Excelに入力しました。発掘調査報告書の電子化とか、ましてやその編集など自分に無関係だと思っていました。そんなことは学習分析活動の本筋に関わらないと考えていました。
しかし今回、大膳野南貝塚発掘調査報告書では土坑情報を事実上利用できないことから仕方なく発掘調査報告書の編集作業を強いられました。この作業の中で、発掘調査報告書の情報を本当に全部汲みだそうとしたらこうした作業が必須であることに気が付きました。
つまり、扱う情報の確実性・正確性・網羅性を担保するにはどうしても分析データを元データ(発掘調査報告書)としっかりと紐づけしておくことが必要であり、そのためには元データ(発掘調査報告書)を適切なかたちで電子情報化しておく必要があるということです。
恐らく世の中で大膳野南貝塚発掘調査報告書からこのような方法で情報を汲みだしている人はいないと思います。私の活動は結果として大膳野南貝塚発掘調査報告書作成に携わった方々に敬意を払っていることになるとかってに考えました。
鳴神山遺跡に関して、今後再度学習する時には情報を徹底して電子化し編集物なりデータベースにしたいと思います。扱う情報の確実性・正確性・網羅性を担保するためにしっかりと発掘調査報告書電子情報と紐づけしたいと思います。
発掘調査報告書の自分なりの独自学習方法(文献学習法)が少し明らかになってきました。

2018年3月27日火曜日

フラスコ形土坑からヒト骨が出土した意義

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 14

ヒト骨出土土坑が存在しますのでその意義について検討します。

2018.03.20記事「私家版土坑データベースの作成 大膳野南貝塚」でたまたま382土坑を例として表現レイアウトを説明しました。この時この土坑にヒト骨出土記述があることに気が付きました。
調べると264基全土坑のうちヒト骨出土記述はこの土坑だけです。
以下、この土坑からヒト骨が出土した意義を検討します。

1 発掘調査報告書の382土坑記載

記述

土層及び平面断面 追記塗色
貝層は最下部の土層を含めて下部層と最上部を含めて上部層に分かれて分布します。
獣骨は最上層付近から出土します。
ヒト骨は獣骨とともに出土したと考えられますから、土坑内部覆土層の最上部付近から出土したと考えられます。

出土物

2 382土坑の位置

382土坑の位置
382土坑は直近の屋外漆喰炉から8mの距離にあります。

3 ヒト骨出土の意義
382土坑はフラスコ形特大土坑であり、堀之内1式期集落の主要な食物貯蔵庫の1つであったと考えられます。
食物貯蔵庫として機能していた時期には屋外漆喰炉機能と連動していた可能性が濃厚であると考えます。
食物貯蔵庫としての機能が終焉してから土坑廃絶祭祀が行われ貝層が投げ込まれる、あるいは送り場となり貝層が投げ込まれたと考えます。
土坑が完全に埋まる直前には獣肉食祭祀があり獣骨が堆積する、あるいは狩猟獣の送り場として利用され獣骨が堆積したと考えます。
このような状況の下でヒト骨が埋まった理由は次の2つのうち1つであると考えます。
1 覆土層への埋葬
竪穴住居でも床面に人体を置いて埋葬するだけでなく、覆土層中に埋葬する例があります。(J9、J79竪穴住居)
J79竪穴住居の例では住居縁近くから人骨が出土していて竪穴の上から竪穴に落とされた(置かれた)ような印象を受け、埋葬としての丁寧さはあまり感じられません。
竪穴住居や土坑などは廃絶すると送り場として利用されることが多いので、簡易的な埋葬の場としても利用されたと考えます。
なお、竪穴住居床面に埋葬された人骨のほとんどに齧歯痕があり、殯期間に人体がミイラ化するときにネズミに齧られたと考えられます。
382土坑からネズミ骨6点が出土していますが、このネズミは覆土層の上に置かれた人体がすぐに土で埋められるのではなく、殯(もがり)が行われ、ミイラ化する時間があり、その時ネズミが沢山集まり、土で埋葬するときに一緒に埋められたのかもしれません。
埋葬のために土坑を新規に掘るという正規土坑墓の他に、廃用食料貯蔵用土坑を埋葬の場としても活用するということは十分に考えられることです。

2 人肉食の可能性
人肉食の風習があり、食べかすのヒト骨を獣骨と一緒に土坑に投げた(送った)可能性を否定できる証拠がありません。
近代北海道アイヌの一部には冬季食糧不足時期に人肉食をした事例が伝わっていますから、そうした風習が縄文人由来である可能性も考えられます。

2018年3月26日月曜日

私家版土坑データベース作成 本格データベース作成を決意

大膳野南貝塚 廃屋墓の機能不明柱穴の検討 13

2018.03.20記事「私家版土坑データベースの作成 大膳野南貝塚」で書いたように、必要に迫られて大膳野南貝塚後期集落土坑のデータベースを作成しだしました。
上記記事を書いた時点ではデータベースとは言っても発掘調査報告書の単純な再整理(編集)をおこない、読みやすくすることを目指しました。

しかし、その後素材をつくる過程で単純な発掘調査報告書編集作業だけでなく、本来の意味でのデータベース作成(データベースソフトを活用したデータベース作成)を追加して行うことにしましたので、関連事項も含めてメモします。

1 私家版土坑データベース素材の作成
記述、土層、平面断面、出土物の4つの項目について発掘調査報告書の記載部分を画像として切り取り、ページが変わる部分を貼り付け、平面断面と出土物についてはスケールを貼り付けた素材を全て作成しました。


記述切り出しの一部

土層切り出しの一部

平面断面切り出しの一部

出土物切り出しの一部

2 土坑別編集物の作成
土坑別に記述、平面断面と土層、出土物の各画像を並べた編集物をInDesignで作成します。当初1つの土坑をA4判1ページに収めるイメージを持っていましたが、データベースソフトによるデータベースを作成することからそのような紙製品利用方式を執る必要がないので、1土坑をA4判1ページ以上とし、できるだけ画像を見やすくします。

3 私家版土坑データベースの作成
File Makerを利用して、これまで作成したExcel情報と記述、土層、平面断面、出土物の各画像を加えたデータベースを作成します。
このデータベース作成により各種検索毎に平面断面、出土物の画像を確認できます。
検索結果の土坑群の画像をまとめて表示することも可能になります。

4 平面断面画像を対象としたKJ法による分類
素材である平面断面画像264枚をIllustrator画面にばらまき、手作業でkj法を行ってみることにします。

「2土坑別編集物の作成」と「3私家版土坑データベースの作成」ではある情報から平面断面図を見るためのデータベースを作成しますが、「4平面断面画像を対象としたKJ法による分類」では逆に平面断面図から既存情報を眺め、そこから新たな情報を生みだします


2018年3月21日水曜日

竪穴住居1軒当たり土坑数

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 12

参考までに竪穴住居1軒当たり土坑数を計算しました。

竪穴住居1軒当たり土坑数

時期不明坑数が全土坑数の約6割、時期不明竪穴住居軒数が全竪穴住居軒数の27%を占めるので精密な議論は不可能です。
しかし、後期全体の平均値である竪穴住居1軒あたり土坑数2.8という数値と各時期の数値の隔たりには極端なものはありません。
時期不明土坑の多くが堀之内1式期のものであると考えると堀之内1式期の竪穴住居1軒当たり土坑数は後期全体の平均値2.8近くの数値としてイメージできそうです。
また加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期はじつは共時的であると考えていますから、その2つ時期を一緒に考えると平均値に近づきます。
精密なことは判りませんが大ざっぱには後期集落の竪穴住居1軒当たり土坑数は2.8であり、その時期別変化には極端な傾向はなさそうだと言えます。

参考 時期別土坑数

参考 時期別竪穴住居軒数

2018年3月20日火曜日

私家版土坑データベースの作成 大膳野南貝塚

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 11

1 土坑再検討と感想
大膳野南貝塚後期集落の土坑について指標別に時期別分布の検討してきました。これまでに指標「体積類型」、「平面形型」、「フラスコ状、円筒状」、「貝層、漆喰」、「小ピット」、「土坑墓」について検討しました。
これまでの検討ではいまのところ「体積類型」「平面形」は土坑機能に直接結びつかないようです。
「フラスコ状、円筒状」は貯蔵庫として利用された断面であり、有用な情報であると考えます。
「貝層、漆喰」はその土坑が廃絶した時の祭祀の在り方であると考えます。土坑本来の機能と「貝層、漆喰」がどのように絡むのか、まだイメージが出来ていません。
「小ピット」は特殊的な機能を表現していると考えます。
「土坑墓」(可能性のあるものを含む)から皿状断面形が特別な意味をもつ可能性が判明しました。

時期別指標別の検討によりいろいろな事象が判ってきているのですが、どうしてもバラバラの情報であり、全体像をまとめて把握するにいたっていません。
情報がバラバラになってしまっている主要因は土坑断面形について全体を分類していないこと(発掘調査報告書で全体の分類をしていないこと)が主要因のような気がしてきました。
断面形を類型化して「フラスコ状、円筒状」、「皿状」、〇〇状、△△状、…と区分して土坑機能と対応関係を見てみることが必須であると考えます。

また、これまでの検討は発掘調査報告書のまとめ表を利用していますが、一つ一つの土坑記述には石器・土器等をはじめ獣骨を含む出土物情報が書かれています。その情報も土坑機能を考える上で重要です。

このような感想に基づいて、土坑断面形データを作成するとともに土坑データを発掘調査報告書記述で補完して、その新たに作成する総合土坑データに基づいて土坑検討を深めることにします。

そこで、当座私家版土坑データベースを作成してデータを扱いやすくし、そのデータベースをつかって土坑断面形類型化や出土物データ補完等を行い、最後に総合検討(時期別土坑機能の把握)をすることにします。

2 私家版土坑データベースの作成
次のような土坑別データベースを作成することにします。土坑総数は264基です。

私家版土坑データベース
データベースとはいっても発掘調査報告書を切り張りしてA4判1枚にまとめたものです。

しかし次の図で色分けしたように382号土坑を例にとれば、記述、土層、平面・断面、出土物がそれぞれ別のセクションに掲載されていて、一つの土坑の情報を把握することだけでも多大な労力を要します。

382号土坑情報の発掘調査報告書掲載セクション(目次)の違いを色分けした図
5つのセクションのページを見ないと全ての情報を得られません。

私家版土坑データベースができれば土坑のイメージを即座に把握できて、他の土坑との比較がとてもしやすくなります。
このシートをつかってKJ法による土坑断面類型化の作業も行うことができるようになります。

地道な作業になりますが、これをしないといつまでたっても発掘調査報告書の土坑情報を生かしたことになりません。現状の指標別バラバラ情報から抜け出すために、私家版土坑データベースを作成します。

2018年3月16日金曜日

埋葬関連遺構の時期別分布

2018.03.15記事「土坑墓」で大膳野南貝塚後期集落の土坑墓及び土坑墓の可能性のある土坑について検討しましたが、その記事に関連して後期集落の埋葬関連遺構の時期別分布を参考までに整理しておきます。

1 大膳野南貝塚後期集落の埋葬関連遺構
大膳野南貝塚後期集落の埋葬関連遺構として次の項目を対象とします。
ア 廃屋墓
イ 床下墓坑のある竪穴住居
ウ ヒト骨出土竪穴住居
竪穴住居覆土層の中から獣骨とともにヒト骨が検出された竪穴住居が4軒あります。発掘調査報告書では埋葬関連情報としては扱っていませんが、これらの竪穴住居が埋葬施設として利用された可能性は濃厚です。(なお、ヒト骨の観察情報が発掘調査報告書では存在していないので、人肉食の可能性を完全に否定することはできません。)
エ 土坑墓
オ 土坑墓の可能性のある土坑
皿状断面形状等を指標とする検討を行うことにより、今後、土坑墓の可能性のある土坑の数が増える可能性があります。
カ 小児土器棺
キ 単独埋甕
発掘調査報告書では単独埋甕が小児土器棺である可能性を論じています。発掘調査報告書では人骨が出土した単独埋甕を小児土器棺としています。
ク 単独人骨

2 埋葬関連遺構の時期別分布
2-1 加曽利E4~称名寺古式期

加曽利E4~称名寺古式期

2-2 称名寺~堀之内1古式期

称名寺~堀之内1古式期

2-3 堀之内1式期

堀之内1式期

2-4 堀之内2式期

堀之内2式期

2-5 堀之内2~加曽利B1式期

堀之内2~加曽利B1式期

2-6 加曽利B1~B2式期

加曽利B1~B2式期

2-7 全期

全期

3 考察
3-1 空間分布に関する考察
全期の埋葬関連遺構分布図と地点貝層から3m圏の空間をオーバーレイすると次のようになり、ほぼ重なります。

埋葬関連遺構と地点貝層分布
地点貝層3m圏はその中に北貝層と南貝層をほぼ完全に包摂します。つまり貝塚(貝層)の分布範囲に埋葬関連遺構が収まっているということです。
この分布事実を次のように解釈します。
「貝層分布範囲に位置する埋葬関連遺構の多くが現代にまで残存していて、発掘調査で発掘され社会として知ることになった。貝層分布範囲以外の埋葬関連遺構は貝層による理化学的保護と物理的保護(貝層の存在により土層が固く開発がしにくい)が無いため後世の削平によりあらかた破壊され消失した。」
この解釈はこれまでの苦労した検討結果(下記記事参照)に基づいています。
2018.02.15記事「「後世の削平」の影響が強く選択的に働いていることに気が付く
2018.02.17記事「「後世の削平」が強選択的に働いた理由
2018.02.18記事「出土物統計の不適切考察記事について

貝層分布範囲(ドーナツ状空間)以外、特に集落中央部分には土坑墓などの埋葬関連遺構が存在していたと考えており、そのような視点から今後検討を深めるつもりです。
2018.03.15記事「土坑墓」の考察参照

3-2 時期変遷に関する考察
時期別埋葬関連遺構数を示すと次のようになります。

埋葬関連遺構数
発掘調査報告書では堀之内1式期、堀之内2式期では廃屋墓が優勢であったが、加曽利B1~B2式期になると土坑墓が優勢に変化した旨の考察を行っています。発掘遺構の数はその通りですが、それは埋葬様式(埋葬行動)の変化を意味するものではないと考えます。
堀之内1式期、堀之内2式期は貝塚造成時期であり、廃屋墓が貝層に覆われ、人骨が残ります。加曽利B1~B2式期では仮に廃屋墓が形成されても貝塚造成は行われていませんから人骨は残りません。
堀之内1式期、堀之内2式期と加曽利B1~B2式期の違いはあくまで単なる見かけであり、葬送活動そのものが変化したと結論付けるのは早計であると考えます。

堀之内1式期、堀之内2式期には廃屋墓と土坑墓(可能性あるものを含む)が共存していますから、他の時期も共存していた可能性があると考えます。
なお人骨がでなくても土坑墓である可能性が読み取れる土坑をピックアップすれば、廃屋墓と土坑墓の割合がどの程度であったのか検討できるかもしれません。

廃屋墓とは葬送の時に適当な廃屋存在が必要ですが、土坑墓はいつでも掘れます。従って土坑墓で埋葬される人の方が廃屋墓で埋葬される人より多かったに違いないと、現時点では空想します。

2018年3月15日木曜日

土坑墓

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 10

大膳野南貝塚後期集落の土坑について指標別に時期別分布の検討しています。これまでに指標「体積類型」、「平面形型」、「フラスコ状、円筒状」、「貝層、漆喰」、「小ピット」について検討しました。
この記事では指標「土坑墓」について検討します。
大膳野南貝塚後期集落から土坑墓1基と土坑墓の可能性のある土坑4基が検出されています。

1 土坑墓及び土坑墓の可能性のある土坑
時期別にその分布図を示します。

1-1 加曽利E4~称名寺古式期
土坑墓及び土坑墓の可能性のある土坑は検出されていません。

1-2 称名寺~堀之内1古式期
土坑墓及び土坑墓の可能性のある土坑は検出されていません。

1-3 堀之内1式期

堀之内1式期
人骨を伴う土坑墓1基が検出されています。

土坑墓の平面図・断面図
発掘調査報告書から引用
土坑の形状は皿状であることが特徴です。副葬品として石斧が出土しています。

1-4 堀之内2式期

堀之内2式期
土坑形状と出土物から土坑墓の可能性があると考えられる土坑1基が検出されています。

1-5 堀之内2~加曽利B1式期
土坑墓及び土坑墓の可能性のある土坑は検出されていません。

1-6 加曽利B1~B2式期

加曽利B1~B2式期
土坑形状と出土物から土坑墓の可能性があると考えられる土坑が3基検出されています。

2 考察
土坑墓あるいはその可能性が濃厚な土坑は全て皿状あるいは浅い逆台形の断面形状です。
一方、集落中央部に列状に分布する土坑は土坑墓の可能性があると疑ってきていますが、その多くが浅い逆台形となっています。
これまでの土坑検討で断面形状はフラスコ状と円筒状のみを扱ってきましたが、浅い逆台形を含む総合的な断面形状類型区分をして考察することが大切であることに気が付きました。
指標に「断面形状」を加えて土坑墓(の可能性のあるもの)の抽出が可能になるようにしたいと思います。


2018年3月14日水曜日

小ピットのある土坑

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 9

大膳野南貝塚後期集落の土坑について指標別に時期別分布の検討しています。これまでに指標「体積類型」、「平面形型」、「フラスコ状、円筒状」、「貝層、漆喰」について検討しました。
この記事では指標「小ピット」について検討します。

1 小ピットのある土坑
縄文時代後期と判断された土坑のうち2基に小ピットが付いていて着目することができます。

小ピットのある土坑分布

小ピットのある土坑 平面・断面 263号
発掘調査報告書から引用

小ピットのある土坑 平面・断面 398号
発掘調査報告書から引用

2 考察
ア 小ピットは建屋の存在を示す
小ピットの存在は土坑の上に建屋があったことを示しています。土坑に屋根と周囲を取り囲む壁があり、土坑が直射日光や風・雨・雪等から守られていたことを示しています。

イ 2つの小ピットのある土坑のタイプが異なる
2つの小ピットのある土坑が隣接していて、なおかつタイプが異なることに一つの着目点があると考えます。263号は土坑が浅く広く、建屋も広くなっています。398号は土坑が深く、建屋は土坑を囲うだけで広くありません。
263号は天気の変化に応じて迅速にモノを出し入れできるような機能を、398号は長期天候の変化の影響を受けにくいような機能をそれぞれ持っています。
生業活動で得た食物をその種類や加工方法の違いに応じて保存方法を使い分けることができるように、タイプが異なる(機能が異なる)2つの土坑が隣接して配置されていたと考えます。

ウ 屋外漆喰炉を使った生業活動の施設
小ピットのある場所近くに屋外漆喰炉が多数分布しています。

小ピットのある土坑と屋外漆喰炉
屋外漆喰炉では漁獲物の調理・製品化が行われていたと考えられます。屋外漆喰炉でつくられた保存用・交易用製品を一時あるいは長期保存するために建屋のある土坑(小ピットのある土坑)が利用されたと考えます。
土坑に建屋を設けることによって、単に保存貯蔵を安定して行うだけでなく、発酵などの高度な機能も備えていた可能性が濃厚であると推測します。

2018年3月13日火曜日

貝層・漆喰を含む土坑の時期別分布

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 8

大膳野南貝塚後期集落の土坑について指標別に時期別分布の検討しています。これまでに指標「体積類型」、「平面形型」、「フラスコ状、円筒状」について検討しました。
この記事では指標「貝層、漆喰」について時期別分布を検討します。
貝層、漆喰を含む土坑は、その土坑の最後の機能が貝殻を含む魚介類飲食残滓の送り場であったと考えます。あるいは土坑本来機能(例 堅果類貯蔵)を廃絶する時の廃絶祭祀跡とみることも可能であると考えます。

1 貝層・漆喰を含む土坑の時期別分布
1-1 加曽利E4~称名寺古式期

加曽利E4~称名寺古式期
加曽利B1~B2式期の竪穴住居はすべて漆喰貝層無竪穴住居ですが、この期の土坑に貝層を含むものがあることは特記事項になります。
竪穴住居廃絶祭祀で貝殻を使わないことからこの期の住民は非漁民と考えますが、漁撈を完全に行わなかったわけではないことが判りました。
貝層を含む土坑は北貝層の内部に位置します。

1-2 称名寺~堀之内1古式期

称名寺~堀之内1古式期
貝層を含む土坑が南貝層の北西側に一列に並ぶように等間隔に分布します。この時期の魚介類残滓の送り場がこのような位置に配置されていたと考えます。偶然にこのような場所に配置されたのではなく、竪穴住居及び南貝層の北西縁が魚介類残滓送り場として意識され配置されたと考えます。
台地西端付近の貝層を含む土坑も同じくその場所を意識して、集落から離れているにも関わらず魚介類残滓送り場として設定したものと考えます。

1-3 堀之内1式期

堀之内1式期
北貝層付近に多数の貝層を含む土坑が分布するとともに貝層・漆喰を含む土坑、漆喰を含む土坑が分布します。北貝層付近は屋外漆喰炉が集中することから、この時期の魚介類調理の拠点であったと想定でき、その関係で魚介類送り場が多数分布するのだと考えます。
南貝層付近では称名寺~堀之内1古式期にひきつづき竪穴住居及び南貝層の北西縁とその延長に貝層を含む土坑が分布します。

1-4 堀之内2式期

堀之内2式期
北貝層付近の2基の貝層を含む土坑を除くと、竪穴住居から離れた場所に貝層を含む土坑が分布します。
この分布はこの時期の住人によって意図的に設置された魚介類送り場であり、集落最初期から引き継がれてきている貝殻を使った(貝層、混貝土層による)集落円環構造構築の一環であると想定します。

1-5 堀之内2~加曽利B1式期

堀之内2~加曽利B1式期
この時期の竪穴住居はすべて漆喰貝層無竪穴住居ですが、この期の土坑に貝層を含むものがあることは特記事項になります。
竪穴住居廃絶祭祀で貝殻を使わないことからこの期の住民は非漁民と考えますが、漁撈を完全に行わなかったわけではないことが判りました。
竪穴住居と貝層を含む土坑が離れていて、単純な飲食残滓の送り場ではない、特別の送り場であったと推測します。

1-6 加曽利B1~B2式期

加曽利B1~B2式期
この時期の竪穴住居もすべて漆喰貝層無竪穴住居ですが、この期の土坑に貝層を含むものがあることは特記事項になります。
竪穴住居廃絶祭祀で貝殻を使わないことからこの期の住民は非漁民と考えますが、漁撈を完全に行わなかったわけではないことが判りました。

1-7 参考 後期全期

参考 後期全期

2 考察
2-1 漁撈活動時期
・竪穴住居の検討から集落の漁撈活動時期は称名寺~堀之内1古式期から堀之内2式期まであると考えます。発掘調査報告書でもおなじように考えています。しかし、土坑の検討から細々とした漁撈活動が集落最初期の加曽利E4~称名寺古式期と集落消滅期の堀之内2~加曽利B1式期と加曽利B1~B2式期もおこなわれていたことが判りました。

2-2 貝層を含む土坑が意識して配置された可能性
・貝層を含む土坑は全て台地平面であり斜面に建設された土坑にはありません。
・また全期を通した分布をみると漆喰貝層有竪穴住居および貝層(北、南、西貝層)の内側縁に分布するものが多くなっています。
・集落中央部の台地には貝層を含む土坑はありません。
・これらの特徴から貝層を含む土坑つまり魚介類飲食残滓の送り場は意識してこれらの場所に配置されたと想定します。

2-3 屋外漆喰炉との関係
北貝層には屋外漆喰炉が5基集中して検出されています。屋外漆喰炉では集落全体に関わる魚介類調理(保存や交易のための調理を含む)が行われていたと考えられますから、その付近に調理残滓を送る(廃棄する)ための土坑が必要だったと考えることもできます。
つまり北貝層付近の貝層を含む土坑は集落生業に関わるもので、日常家庭生活の送り場とは性格が異なる可能性があります。
貝層・漆喰を含む土坑、漆喰を含む土坑が北貝層付近に集中する理由も集落生業との関わりで説明できると考えます。

参考 後期全期 漆喰屋外炉追記








2018年3月12日月曜日

フラスコ土坑・円筒土坑の時期別分布

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 7

大膳野南貝塚後期集落の土坑について指標別に時期別分布の検討しています。これまでに指標「体積類型」、「平面形型」について検討しました。
この記事では指標「フラスコ状、円筒状」について時期別分布を検討します。
フラスコ土坑、円筒土坑の建設目的は食糧貯蔵のためであると考えられています。

1 フラスコ土坑、円筒土坑の例
フラスコ土坑と円筒土坑の例を発掘調査報告書から引用します。

フラスコ土坑の例

円筒土坑の例

2 フラスコ土坑・円筒土坑の時期別分布
2-1 加曽利E4~称名寺古式期

加曽利E4~称名寺古式期
フラスコ土坑、円筒土坑ともに出現しません。遺跡北部にこの時期の貯蔵庫ゾーンが存在していたという体積類型で検討した推測に疑問がともります。

2-2 称名寺~堀之内1古式期

称名寺~堀之内1古式期
遺跡南西部にフラスコ土坑と円筒土坑が集中して分布していて、この時期の貯蔵庫ゾーンがこの場所であったという体積類型で行った推測の蓋然性を高めることができます。

2-3 堀之内1式期

堀之内1式期
体積類型で行った貯蔵庫ゾーンの区域イメージとフラスコ土坑・円筒土坑分布は略一致します。しかし南貝層付近のフラスコ土坑・円筒土坑分布が濃いことがわかりました。

2-4 堀之内2式期

堀之内2式期
フラスコ土坑は出現しません。

2-5 堀之内2~加曽利B1式期

堀之内2~加曽利B1式期
フラスコ土坑と円筒土坑はともに出現しません。

2-6 加曽利B1~B2式期

加曽利B1~B2式期
フラスコ土坑は出現しません。

2-7 参考 後期全期

参考 後期全期

3 考察
フラスコ土坑と円筒土坑の出現数を時期別にグラフにすると次のようになります。

フラスコ土坑と円筒土坑数

この土坑数を時期別竪穴住居数で割ると「竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数」という指標になります。

竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数
このグラフからわかる次の特徴について考察します。
1 全期の値0.45と堀之内1式期の値0.36が近似していること。
2 加曽利E4~称名寺古式期の値がゼロであること。
3 称名寺~堀之内1古式期の値が飛びぬけて大きくなっていること。

1について
全期の値が0.45であり、竪穴住居数が急増してピークを迎えた堀之内1式期の値が0.36であるということはフラスコ土坑円筒土坑が竪穴住居1軒1軒に対応していないことを証明します。
時期別あるいは全期いずれも、竪穴住居軒数とフラスコ土坑円筒土坑合計数は同時に存在したものではありませんが、値は時間断面における竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数を表しています。
つまりフラスコ土坑円筒土坑は集落全体であるいは集落内部の小集団単位で使われた共同の食糧貯蔵庫であると考えて間違いありません。

2と3について
ア 発掘調査報告書では土器型式加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期を区分していますが、この土器型式の違いは時間的に同時に存在していたと他の検討から考えています。2018.03.05記事「土坑(体積類型)の時期別分布 大膳野南貝塚後期集落」のメモ参照
そのように考えると、加曽利E4~称名寺古式期および称名寺~堀之内1古式期を一緒に扱うと竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数の値は0.9となり、その異常さは低減します。しかし全期の倍の値となっていて異常であることにかわりはありません。

イ 集落の最初期(加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期)の住民は他の場所からこの大膳野南貝塚の場所に移住してきた集落始祖家族といえる人々です。
この場所に移住してきたということはもともと住んでいた場所で生活が成り立たなくなったということを意味します。
つまり集落始祖家族は生活が成り立たない状況(飢餓状況)を知っていて、食料貯蔵に対する備えは2重3重に行ったと考えて間違いありません。食糧を順調に調達できる時期と比べて集落最初期の人々は食糧貯蔵庫を沢山建設して多量の食糧を保存したと考えることができます。
これが、集落最初期の竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数の値が大きい理由です。

なお、石器数の検討で最初期(加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期を一緒に扱った時期)の竪穴住居1軒当たり平均石器出土数が異常に大きな値になります。これの直接的な解釈は、集落始祖家族に対する祭祀が特別厚かったからだと考えますが(2018.01.16記事「竪穴住居からの石器出土数時期変化」参照)、その背景には最初期の人々が石器を多量に所持していたという事情があると考えます。
飢餓状況を体験した前居住地から大膳野南貝塚の場所に新天地を求めた人々が、生活手段である石器を多量に所持してどのような状況でも植物採集調理や狩猟が行えるように備えたことは想像に難くありません。