大膳野南貝塚後期集落の土坑について指標別に時期別分布の検討しています。これまでに指標「体積類型」、「平面形型」について検討しました。
この記事では指標「フラスコ状、円筒状」について時期別分布を検討します。
フラスコ土坑、円筒土坑の建設目的は食糧貯蔵のためであると考えられています。
1 フラスコ土坑、円筒土坑の例
フラスコ土坑と円筒土坑の例を発掘調査報告書から引用します。
フラスコ土坑の例
円筒土坑の例
2 フラスコ土坑・円筒土坑の時期別分布
2-1 加曽利E4~称名寺古式期
加曽利E4~称名寺古式期
フラスコ土坑、円筒土坑ともに出現しません。遺跡北部にこの時期の貯蔵庫ゾーンが存在していたという体積類型で検討した推測に疑問がともります。
フラスコ土坑、円筒土坑ともに出現しません。遺跡北部にこの時期の貯蔵庫ゾーンが存在していたという体積類型で検討した推測に疑問がともります。
2-2 称名寺~堀之内1古式期
称名寺~堀之内1古式期
遺跡南西部にフラスコ土坑と円筒土坑が集中して分布していて、この時期の貯蔵庫ゾーンがこの場所であったという体積類型で行った推測の蓋然性を高めることができます。
遺跡南西部にフラスコ土坑と円筒土坑が集中して分布していて、この時期の貯蔵庫ゾーンがこの場所であったという体積類型で行った推測の蓋然性を高めることができます。
2-3 堀之内1式期
堀之内1式期
体積類型で行った貯蔵庫ゾーンの区域イメージとフラスコ土坑・円筒土坑分布は略一致します。しかし南貝層付近のフラスコ土坑・円筒土坑分布が濃いことがわかりました。
体積類型で行った貯蔵庫ゾーンの区域イメージとフラスコ土坑・円筒土坑分布は略一致します。しかし南貝層付近のフラスコ土坑・円筒土坑分布が濃いことがわかりました。
2-4 堀之内2式期
堀之内2式期
フラスコ土坑は出現しません。
フラスコ土坑は出現しません。
2-5 堀之内2~加曽利B1式期
堀之内2~加曽利B1式期
フラスコ土坑と円筒土坑はともに出現しません。
フラスコ土坑と円筒土坑はともに出現しません。
2-6 加曽利B1~B2式期
加曽利B1~B2式期
フラスコ土坑は出現しません。
フラスコ土坑は出現しません。
2-7 参考 後期全期
参考 後期全期
3 考察
フラスコ土坑と円筒土坑の出現数を時期別にグラフにすると次のようになります。
フラスコ土坑と円筒土坑数
この土坑数を時期別竪穴住居数で割ると「竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数」という指標になります。
竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数
このグラフからわかる次の特徴について考察します。
1 全期の値0.45と堀之内1式期の値0.36が近似していること。
2 加曽利E4~称名寺古式期の値がゼロであること。
3 称名寺~堀之内1古式期の値が飛びぬけて大きくなっていること。
1について
全期の値が0.45であり、竪穴住居数が急増してピークを迎えた堀之内1式期の値が0.36であるということはフラスコ土坑円筒土坑が竪穴住居1軒1軒に対応していないことを証明します。
時期別あるいは全期いずれも、竪穴住居軒数とフラスコ土坑円筒土坑合計数は同時に存在したものではありませんが、値は時間断面における竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数を表しています。
つまりフラスコ土坑円筒土坑は集落全体であるいは集落内部の小集団単位で使われた共同の食糧貯蔵庫であると考えて間違いありません。
2と3について
ア 発掘調査報告書では土器型式加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期を区分していますが、この土器型式の違いは時間的に同時に存在していたと他の検討から考えています。2018.03.05記事「土坑(体積類型)の時期別分布 大膳野南貝塚後期集落」のメモ参照
そのように考えると、加曽利E4~称名寺古式期および称名寺~堀之内1古式期を一緒に扱うと竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数の値は0.9となり、その異常さは低減します。しかし全期の倍の値となっていて異常であることにかわりはありません。
イ 集落の最初期(加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期)の住民は他の場所からこの大膳野南貝塚の場所に移住してきた集落始祖家族といえる人々です。
この場所に移住してきたということはもともと住んでいた場所で生活が成り立たなくなったということを意味します。
つまり集落始祖家族は生活が成り立たない状況(飢餓状況)を知っていて、食料貯蔵に対する備えは2重3重に行ったと考えて間違いありません。食糧を順調に調達できる時期と比べて集落最初期の人々は食糧貯蔵庫を沢山建設して多量の食糧を保存したと考えることができます。
これが、集落最初期の竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数の値が大きい理由です。
なお、石器数の検討で最初期(加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期を一緒に扱った時期)の竪穴住居1軒当たり平均石器出土数が異常に大きな値になります。これの直接的な解釈は、集落始祖家族に対する祭祀が特別厚かったからだと考えますが(2018.01.16記事「竪穴住居からの石器出土数時期変化」参照)、その背景には最初期の人々が石器を多量に所持していたという事情があると考えます。
飢餓状況を体験した前居住地から大膳野南貝塚の場所に新天地を求めた人々が、生活手段である石器を多量に所持してどのような状況でも植物採集調理や狩猟が行えるように備えたことは想像に難くありません。
フラスコ土坑と円筒土坑数
この土坑数を時期別竪穴住居数で割ると「竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数」という指標になります。
竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数
このグラフからわかる次の特徴について考察します。
1 全期の値0.45と堀之内1式期の値0.36が近似していること。
2 加曽利E4~称名寺古式期の値がゼロであること。
3 称名寺~堀之内1古式期の値が飛びぬけて大きくなっていること。
1について
全期の値が0.45であり、竪穴住居数が急増してピークを迎えた堀之内1式期の値が0.36であるということはフラスコ土坑円筒土坑が竪穴住居1軒1軒に対応していないことを証明します。
時期別あるいは全期いずれも、竪穴住居軒数とフラスコ土坑円筒土坑合計数は同時に存在したものではありませんが、値は時間断面における竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数を表しています。
つまりフラスコ土坑円筒土坑は集落全体であるいは集落内部の小集団単位で使われた共同の食糧貯蔵庫であると考えて間違いありません。
2と3について
ア 発掘調査報告書では土器型式加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期を区分していますが、この土器型式の違いは時間的に同時に存在していたと他の検討から考えています。2018.03.05記事「土坑(体積類型)の時期別分布 大膳野南貝塚後期集落」のメモ参照
そのように考えると、加曽利E4~称名寺古式期および称名寺~堀之内1古式期を一緒に扱うと竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数の値は0.9となり、その異常さは低減します。しかし全期の倍の値となっていて異常であることにかわりはありません。
イ 集落の最初期(加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期)の住民は他の場所からこの大膳野南貝塚の場所に移住してきた集落始祖家族といえる人々です。
この場所に移住してきたということはもともと住んでいた場所で生活が成り立たなくなったということを意味します。
つまり集落始祖家族は生活が成り立たない状況(飢餓状況)を知っていて、食料貯蔵に対する備えは2重3重に行ったと考えて間違いありません。食糧を順調に調達できる時期と比べて集落最初期の人々は食糧貯蔵庫を沢山建設して多量の食糧を保存したと考えることができます。
これが、集落最初期の竪穴住居1軒当たりフラスコ土坑円筒土坑合計数の値が大きい理由です。
なお、石器数の検討で最初期(加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期を一緒に扱った時期)の竪穴住居1軒当たり平均石器出土数が異常に大きな値になります。これの直接的な解釈は、集落始祖家族に対する祭祀が特別厚かったからだと考えますが(2018.01.16記事「竪穴住居からの石器出土数時期変化」参照)、その背景には最初期の人々が石器を多量に所持していたという事情があると考えます。
飢餓状況を体験した前居住地から大膳野南貝塚の場所に新天地を求めた人々が、生活手段である石器を多量に所持してどのような状況でも植物採集調理や狩猟が行えるように備えたことは想像に難くありません。
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