私の散歩論

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2019年3月11日月曜日

176年前印旛沼堀割普請遺構か 花見川河床の列状パターン

2019.01.31記事「ボーっと毎日散歩してんじゃねーよ! 印旛沼堀割普請跡の露出」で、柏井橋架替工事現場で1月22日頃の24時間~48時間程度、176年前天保期印旛沼堀割普請遺構が眼前に露出した可能性をメモしました。
その後工事主体である千葉市道路建設課にその時点の現場写真があるかどうか問い合わせたところ5枚の写真を提供していただきました。そのうち1枚の写真に印旛沼堀割普請遺構の可能性のある列状パターンが写っていますのでメモします。
工事写真を提供していただいた千葉市道路建設課に感謝します。

1 柏井橋架替工事現場の位置

柏井橋架替工事現場

2 花見川河床が露出した写真の調整
提供していただいた写真5枚のうち1枚は矢板で囲った場所の水抜き直後でかつ工事開始前の様子が写っていました。
この写真を調整して観察しやすくしました。

元写真を調整した様子
調整2を使って観察しました。

3 列状パターンの観察
水を抜いて露出した河床部において、木質人工構造物の可能性がある列状パターンを観察することができます。

木質人工構造物の可能性がある列状パターン

木質人工構造物の可能性がある列状パターン

画面右部分では直径数センチ程度の木杭を密集させて2列状に打ったような印象を受けるパターンです。

4 列状パターンが印旛沼堀割普請遺構である可能性の検討
天保期印旛沼堀割普請の資料・記録は「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)などに詳しくまとめられています。掘削に使われた道具など多数が図解で極めて正確に知ることができます。しかし工事は素掘りを基本としていて標準となる土木構造物は存在していなかったようです。木や竹を使う土木構造物の情報は伝わってきていないようです。
ただ、次の天保期印旛沼堀割普請の図に失敗した天明期普請の木杭が露出した様子が描かれています。

天保期印旛沼堀割普請の図 化灯土の工事が難渋している様子 場所は柏井橋付近
久松宗作著「続保定記」収録図
「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕より引用
右手上の方向が花島方面(下流)です。
木杭列は天明期印旛沼堀割普請のものが出てきたと図中文章で書かれています。

天保期印旛沼堀割普請の様子 図中央が柏井橋 左が海方向、右が新川方向
久松宗作著「続保定記」収録図
「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕より引用

柏井橋付近の河床は厚い化灯土(泥炭)が堆積していて工事が難渋して普請失敗の最大の原因となりました。いくら掘っても周辺から流れ込んでしまう「馬糞のような」化灯土を食い止めるために、天保期印旛沼堀割普請でも木杭列が使われたことは確実であると推定します。

従って、今般花見川河床に露出した木質人工構造物の可能性のある列状パターンは天保期印旛沼堀割普請の土木遺構である可能性が浮かび上がります。

4 列状パターンの3次元空間的チェックの必要性
花見川河床に現出した列状パターンが天保期印旛沼堀割普請の遺構である可能性の蓋然性を高めるために3次元空間的にチェックしておく必要があります。
この記事ではとりあえず「目検討」でチェックします。
4-1 標高
柏井橋付近の花見川水面は下流の水門によって通常標高4.5m程度に維持されています。
露出した列状パターンはそれよりも1.5m~2mくらい下にありそうです。
目検討で列状パターンの標高は2.5m~3mくらいのようです。
一方、次の資料では天保期印旛沼堀割普請の河床は3mくらいになります。

天保期印旛沼堀割普請の河床高
三浦祐二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社刊)から引用

標高に関しては列状パターンが天保期印旛沼堀割普請遺構である可能性があります。

4-2 平面的位置
現場観察により、列状パターンは撤去前旧柏井橋の橋脚位置とはずれているようです。列状パターンは旧柏井橋橋脚の下流側に位置するように目検討で確認できます。

4-3 目検討チェックと精査の必要性
目検討で3次元空間的にチェックすると列状パターンが天保期印旛沼堀割普請遺構である可能性の蓋然性が高まりました。
今後資料で正確にチェックする必要性があります。

5 今後の検討
花見川河床に176年前印旛沼堀割普請遺構の可能性のある列状パターンが見つかりました。この列状パターンが天保期印旛沼堀割普請の遺構である可能性のチェックとして3次元空間的な精細チェックは今後不可欠です。
そのチェックの後、この列状パターンに関する考察を深めることにします。

6 参考 国家プロジェクトとしての天保期印旛沼堀割普請の目的と規模
ペリー来航により外国勢力によって東京湾が封鎖され東北からの物資が江戸に届かなくなる恐れから、銚子→利根川→印旛沼→新川→花見川→東京湾の戦略水運路開設が急がれ、その実現が天保期印旛沼堀割普請の目的です。
庄内藩など全国5藩がお手伝い普請をしましたが完成直前に老中水野の失脚により失敗となりました。3か月という短期間に100万人の人夫が動員された国家一大プロジェクトでした。

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