1 はじめに
2020.04.23記事「上黒岩岩陰遺跡の地形特性」で上黒岩岩陰遺跡が3つの河川流域を結ぶ交通結節点に位置していて、集団間の婚姻に関わるような重要な交流拠点であった可能性があることと、日当たりがよく風雨を確実に防げる良好住環境が得られる場所であることがわかりました。
この条件から次のような想定を密かにしました。
1 縄文草創期では重信川流域、肱川流域、仁淀川流域を移動領域とする複数集団が生活していたであろう。(2020.04.22記事「上黒岩岩陰遺跡の広域地形」)
2 重信川流域、肱川流域、仁淀川流域を移動領域とする各集団は近親婚を避けるため相互に女性交換を行っていたであろう。
3 3流域各集団が交流する場所は上黒岩岩陰遺跡であったであろう。
4 女性が出産する場合安定した住環境が必須であり、その点上黒岩岩陰遺跡は申し分のない場所であるから、上黒岩岩陰遺跡が3集団が共同利用する出産場所であったという仮説が成り立つ。
このような密かな想定を念頭にして「国立歴史民俗博物館研究報告第154集(2009)」を読んだところ、なんと「上黒岩の岩陰は産所であり、そして墓地として使われることもあった複合的な生活の場であったのである。」と結論付けられていました。
上黒岩岩陰遺跡は広域を移動しながら生活する狩猟民の共同産小屋であったという想定は専門家の結論に近いものであり、上黒岩岩陰遺跡の学習にますます興味が深まります。
この記事では上黒岩岩陰遺跡が残した産小屋機能を表現する遺物について、「国立歴史民俗博物館研究報告第154集(2009)」から抜粋して学習します。
2 石偶(線刻礫)
第9層(草創期前半(隆線文土器)約14500年前)から出土
石偶
国立歴史民俗博物館研究報告第154集(2009)から引用
国立歴史民俗博物館研究報告第154集(2009)から引用・メモ追記
下記に示すようなユーラシア大陸の多数資料との比較研究から、上黒岩岩陰遺跡出土石偶は全て女性を表現していると結論付けられています。
後期旧石器時代後半のヴィーナスの型式変遷
国立歴史民俗博物館研究報告第154集(2009)から引用
春成秀爾先生によるユーラシア大陸後期旧石器時代後半のビーナス像比較研究は思わずその記述に引き込まれ、時間の経つのも全く忘れるほどの面白いものです。専門家の研究というものはこういうものだと感じ、深い満足感をおぼえるものでした。
石偶は陰毛(によって表象される女性器)、乳房、髪の毛などによって表現されるビーナス像であり、時間の経過とともに省略されていったと考えられています。
出産に際して女性が手に握る呪具であると考えられています。
石偶が上黒岩岩陰遺跡だけで出土し、国内に類例がないのは、一般には獣骨で作られるために残らなかったと考えられています。
3 棒状線刻礫
第6層(草創期後半(無文土器)約12000年前)から出土
棒状線刻礫
国立歴史民俗博物館研究報告第154集(2009)から引用
羽状模様はユーラシア大陸ビーナス像の類似模様から陰毛(女性器を暗喩)を繰り返して表現していて、ビーナス像の変化形であると考えられています。
第9層出土石偶は1人が1個を利用したけれども、第6層出土棒状線刻礫は1個だけ出土であり、その1個を入れ替わり立ち替わり多人数が利用したと考えられています。
4 ヘラ状骨器が刺さった女性寛骨
縄文早期出土物
ヘラ状骨器が刺さった女性寛骨
国立歴史民俗博物館研究報告第154集(2009)から引用
再葬された女性の骨盤にヘラ状骨器が刺さった状態で出土し、複数回出産経験のある女性であることから、出産時に女性が死亡し、儀礼(悪魔祓いみたいなもの?)として何度も死体を刺してから弔ったと考えられています。
5 子安貝(タカラガイ)
縄文早期(押型文土器)第4層から出土
子安貝
国立歴史民俗博物館研究報告第154集(2009)から引用
子安貝は女性器を表現するものとして世界中で生殖崇拝の象徴物として使われています。
「沖縄では妊婦が出産の時にお守りとしてタカラガイを握りしめる習俗が20世紀まで残っていた。…子安貝にそのような呪性があると信じられていたのは、開口部の形が女性器の形に似ているからである。」
6 感想
縄文草創期から早期までの各層に出産に関わる遺物が豊富に出土していて、上黒岩岩陰遺跡が重要な産小屋機能を有していたことは確実です。
広域を移動しながら生活する狩猟民集団が共同で利用する産小屋であったと考えます。
産小屋であり、出産で死亡した女性や子供の墓地でもあったと考えます。
流域をまたいで結婚のために集団を移動した女性にとって、流域の結節点である上黒岩岩陰遺跡の場所は出自集団との連絡・交流もしやすく、好都合な産小屋であったと想像します。
0 件のコメント:
コメントを投稿