私の散歩論

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2023年4月14日金曜日

大賀ハスと丸木舟 その1

 花見川よもやま話 第16話


Ohga lotus and dugout canoe Part 1


Ohga lotus and Jomon dugout canoes were excavated from the valley bottom of the cove topography near the mouth of the Hanami River in the 1940s.

And the sprouting of Ohga lotus has provided people with a strong interest in ancient times.

In August 2011, the blog "Walking in the Hanami River Basin" published 12 articles on "Jomon dugout canoe and Ohga lotus". I have compiled and republished the past articles.


大賀ハスと縄文丸木舟は花見川河口付近入江地形の谷底から昭和20年代に出土して、大賀ハスの発芽により人々に古代に対する強い興味を提供してきています。ブログ「花見川流域を歩く」ではシリーズ記事「縄文丸木舟と大賀ハス」を2011年8月に12回にわたって掲載しました。花見川よもやま話ではこの過去連載記事をそのまま集成して4記事に分割して掲載します。なお、過去記事における不鮮明な画像は調整して判りやすく編集あるいは再作成しました。


花見川旧河口付近

 迅速図「千葉県下総国千葉郡畑村」図幅と「千葉県下総国千葉郡馬加村」図幅を機械的に集成したものです。いずれも明治15年測量。


丸木舟出土地点(×印2箇所)が掲載されている資料

 「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」(中野尊正、地理調査所時報第3集、1948年)収録の地形分類図。これより精度の高い丸木舟出土地点情報は見つけることは出来ませんでした。

1 はじめに

 現在東大総合運動場になっている花見川区朝日ヶ丘町の浪花川谷底から縄文丸木舟と大賀ハスが終戦直後の昭和20年代に出土しました。

 花見川流域散歩人としては大変興味のあることです。

 以前からその情報は知っていましたが、詳しく調べることが無かったので、このたび少し気張って調べてみました。

ア まず、江戸東京たてもの園にて検見川出土現物資料を閲覧させていただき、丸木舟を体感してみました。

イ その際教えていただいた論文「縄文丸木舟覚え書-房総の諸事例から-」(高橋統一、アジア文化研究所研究年報39、2004年)を参考とし、さらにその参考文献を手がかりにしてめぼしい資料を見てみました。

検見川の丸木舟については、出土が昭和20年代前半であるため、現在の遺跡調査のようなまとまり整理された調査報告書はないようです。

ウ しかし、以前から所持していた書籍(「日本の平野-沖積平野の研究-」(中野尊正、古今書院、昭和31年)に、著者が遺物出土に立ち会って堆積環境や地形について調査した結果が詳しく掲載されていることに気がつきました。

エ さらに、八千代市立郷土博物館にて印旛沼出土丸木舟(複製物)を閲覧させていただき、現物資料の写真を借用させていただきました。東京湾だけでなく、花見川(河川争奪地形)を利用した古代回廊でつながる印旛沼(香取の海)の情報も合わせて考えることにより、発想の幅が広がります。

オ 大賀ハスについては、7月4日に千葉公園で開花最盛期の姿を観察体験しました。

カ また、大賀ハス情報を体系的に整理取りまとめた書籍「大賀ハス」(千葉市立郷土博物館発行)を読みました。

このようにして得た情報を、私の興味に沿って順次紹介します。


2 丸木舟の出土経緯

 検見川出土丸木舟についてもっとも詳しいと感じた資料は「上代独木舟の考察」(松本信広、1952、「加茂遺跡」〔三田史学会〕収録論文)(以下松本論文とします)です。

 この論文を引用・参考にしながら、丸木舟の出土と調査経緯をかいつまんでまとめてみます。

 なお、江戸東京たてもの園で検見川出土丸木舟現物を閲覧させていただいた際、論文「縄文丸木舟覚え書-房総の諸事例から-」(高橋統一、アジア文化研究所研究年報39、2004年)(以下高橋論文とします)の存在を教えていただきました。この論文には検見川出土丸木舟の出土調査経緯の外、その後の調査体制等について、関係者ヒアリングを加えて詳しく解説されています。

2-1 丸木舟の出土

「昭和22年(1947)7月28日千葉市畑町1501、旧東京大学運動場予定地であり、当時東京都の所有に帰し、作業中であった東京都林産組合草炭採掘場に於いて長さ6m20、幅43cm、材カヤなる鰹節形丸木舟(第46号)が発見せられ、頗る学界の注目を惹いた。

 また今一つの独木舟(第47号)の一部を附近の表土以下約3m20の地点に於いて発見したので越えて昭和23年(1948)1月25日慶大考古学教室、東洋大学考古学会、日本考古学研究所の共同調査、畑青年団の奉仕協力により、之を発掘し得た。此舟は長さ5m80、幅48cm、深さ44cmであり、舟の先端に小突起あり、此点に従来の刳舟に見えない特色を示してをる。

 またこの舟と相並んだ前二者よりやゝ大型の独木舟(第48号)の破片、長さ3m48、幅52cmを発見した。材は、三隻ともカヤで出来ている。」(松本論文)(引用に際して、読みやすくするために段落余白を加えました)

 高橋論文では日本考古学研究所の詳しい説明や慶大や東洋大学の調査体制についてヒアリングをもとにまとめています。昭和20年代の考古学分野のイキイキとした状況が専門外の私にも伝わってきて、引き込まれます。

2-2 丸木舟の収蔵先

「第46号の舟は、今日井の頭公園の武蔵野文化博物館に、第47号の舟は(図版第20.1)慶大考古学教室に、第48号の舟は東洋大学に蔵せられてをる。」(松本論文)

松本論文図版第20.1 (千葉市畑町 Hatamachi,Chiba City)


慶大考古学教室に収蔵された第47号の舟

 高橋論文では調査団の組織化や調査費の裏づけが明確でなかったことが出土物の収蔵先に反映していること、なぜ武蔵野文化博物館になったのかその理由・背景について資金や日本考古学研究所内の問題を含めて解説されています。

 普通知ることが出来ない生々しい情報が含まれていて、また私自身も疑問に思っていたことの答えの一つがそこにあり、興味津々に高橋論文を読みました。

 武蔵野文化博物館に収蔵された丸木舟(最初の出土した丸木舟)は、現在後継組織である江戸東京たてもの園(東京都小金井市)が所蔵しています。


2-3 丸木舟の年代

 松本論文(「上代独木舟の考察」〔松本信広、1952、「加茂遺跡」〔三田史学会〕収録論文〕)では出土した丸木舟について次のような議論を行っています。

「此三隻の刳舟以来問題となったのは、その年代鑑定である。舟の出土に伴出した考古学的遺物は、全然なく、たゞ3mも堆積する泥炭層の上部から完全な土師の壺を出してをる。附近の地表からは土師器の破片を拾ふことが出来、また舟を出土した谷の源頭に近く土師器時代の小貝塚が発見せられ、また所々に弥生式土器の破片を拾ふことが出来るが、縄文式土器の破片は、何処にも発見出来ず、結局遺蹟地より20町以上も離れた犢橋(コテハシ)の貝塚まで行かなければ縄文文化遺蹟に接し得ない。然しこの附近表面に見出される文化遺物を以って深層出土の文化遺物の年代を判定するのは頗る危険である。後述する加茂の遺蹟の如き地下に豊富な前期より中期にかけての石器時代泥炭遺物を包蔵しつゝも地表には何等その痕跡を示してゐなかったのである。

 また丸木舟及び櫂の刳り方に対しても両様の見解が対立した(図版第21.6・8、第15図)。その如何にも稚拙な凸凹ある、所々に焼痕ある削り方は、その製作の石器によることを推察せしむるが、他の論者はこのつくりをもって金属器によらざれば不可能なりと云ふ意見を表白されたのである。

 地質、地形上より本遺蹟を考察された地理調査所の中野尊正氏は、本泥炭層の生成した年代を今日の幕張附近の砂地が陸地となる以前であるとし、独木舟は泥炭層の下底に近い所から出土してをるので泥炭形成の中期までに年代を比定し得るとし、独木舟の年代は、砂地形成年代よりも遡り得るとて、検見川の谷が、犢橋の石器時代遺蹟の近くまで進入してゐる所から独木舟埋没の年代も或いはその辺の年代にもってゆくことが出来るのではないか、その頃台地の上では腐植層が生成してゐたが、その後海岸に接する崖の所から舞ひ上げられて来た砂が台地の上に砂丘を堆積する様になった。独木舟及び台地上の遺蹟とをこの腐植層、砂丘との前後関係に於て追求することによって更に時代関係が明瞭になるのではないかと論ぜられた。

 かく丸木舟の年代は、地理学的に見れば砂丘の生成した歴史時代にひきさげ得ぬものであるが、文化科学的には、之を石器時代と見るか、歴史時代初期と見るかの二説が対峙し、此問題は結局丸木舟と伴出する考古学的遺物によらなければ解決されぬ破目にあった。かくて検見川の谷から発見せられた刳舟の年代を比定する為に、他所に考古学的遺物を伴う丸木舟の発見に必要が感ぜられたのである。」(松本論文)(引用に際して読みやすくするために段落余白を加えました)


松本論文図版第21.6・8

 櫂の彫刻部分の写真です。実用的道具に美的意識を投影していた縄文人の気持ちが伝わってきます。


松本論文第15図

 櫂の実測図です。

 その後、加茂遺跡で「縄文前期の諸磯式土器」と同種の土器片が伴出する丸木舟が、八日市場で刳り残しの横梁が4箇所ある丸木舟と櫂が出で近くの同じ層位から「縄文末期(晩期)の安行式土器」の大きな破片がみつかりました。櫂の彫刻は検見川出土の櫂の彫刻と類似しているとのことです。八日市場の丸木舟は検見川出土の丸木舟と較べて構造上の複雑さ(横梁がある)と全体に華奢であることから検見川出土丸木舟より後のものと考えられました。

 結果として、検見川出土の丸木舟は縄文前期の加茂遺跡のものより後で、縄文末期(晩期)の八日市場出土のものよりも前ということになりました。

2-4 c14年代測定

 昭和28年に大賀博士が大賀ハスの年代を調べるために、大賀ハスと同層位から出土した丸木舟のうち東洋大学所蔵資料と武蔵野郷土博物館所蔵資料から木片を切り取り、c14年代測定しました。結果は平均すると1125年前後180年BCとなり、3075年前、前後180年(縄文後期から晩期)という結果になりました。(「大賀ハス」〔千葉市立郷土博物館発行〕による)


「大賀ハス」(千葉市立郷土博物館発行)17ページ掲載写真


つづく


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