花見川よもやま話 第17話
Ohga lotus and dugout canoe Part 2
Although it was difficult, I was able to grasp the location information of the dugout canoe excavated at the Ochiai site in Chiba City, which was excavated immediately after the end of the war. On the other hand, I had the impression that the information on the excavated location of Ohga lotus that has been handed down to the present is inaccurate.
昭和20年代前半に発掘された千葉市落合遺跡の丸木舟出土位置情報は、苦労しましたが把握出来ました。一方現在に伝わる大賀ハス出土位置情報は不正確であるという感想を持ちました。
3 丸木舟の出土地点及び周辺の地形
3-1 丸木舟の出土地点
丸木舟の正確な出土地点情報を見つけることが出来ていません。
そこで既存資料情報をGIS上にプロットして正確な位置を絞り込めないか検討してみました。
私がみつけた出土地点関連情報が掲載されている地図は次の4点です。
1 「千葉市史史料編1原始古代中世」(千葉市発行)98ページの「落合遺跡の周辺地形図」
「千葉市史史料編1原始古代中世」掲載地図
落合遺跡が直径100m程度の円で示されています。
2 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)738ページの「遺跡の位置(1/25000 千葉西部)
「千葉県の歴史資料編考古1」掲載地図
1の黒丸が落合遺跡です。この黒丸は次の千葉県埋蔵文化財分布地図の情報をポイント表示したものです。
3 「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)-千葉市・市原市・長生地区(改訂版)-」(千葉県教育委員会発行)の「NO.40千葉西部」図幅(落合遺跡〔102〕の括り線)
「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)(改訂版)」
102番が落合遺跡です。
4 「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」(中野尊正、地理調査所時報第3集、1948年)収録の地形分類図
「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」
丸木舟出土地点と銘打った情報で入手できたのはこの資料だけです。(中野尊正著「日本の平野」〔古今書院〕にもこの情報を編集したものが掲載されています。)
地形分類図に「独木舟出土地点」として×点が2箇所掲載されています。(丸木舟は昭和22年7月と昭和23年1月の2回にわたって出土しています。)×点の位置が浪花川の本川筋谷津の谷底ではなく、それに流入する谷津の尾根末端を結ぶ線上に位置しています。この資料の著者は丸木舟発掘調査に参加している地形学者ですから、出土地点の位置と地形との関係の特徴は、この地形分類図が小縮尺であるにも関わらず、正確に捉えて表現しているものといえます。
なお、大賀ハスについて、「大賀ハス」(千葉市立郷土博物館発行)に大賀ハス発掘位置の精度の高い地図が掲載されています。この資料の文章中に「前年丸木舟の発掘されし場所を掘り始めたけれど作業困難のため、発掘場所を55m奥にうつす」との記述があります。この記述から逆に丸木舟出土場所の推定が可能かもしれませんから、検討材料にこの情報も加えます。
5 「大賀ハス」(千葉市立郷土資料館発行)の大賀ハス発掘位置
「大賀ハス」掲載地図
上記5つの情報をGISに落とすと次のようになります。
落合遺跡位置の資料比較(現代地図)
この地域は丸木舟、大賀ハス発掘後大規模な地形改変が行われ、谷筋の概形は辛くも残っていますが、谷津地形の詳細は全て失われてしまいました。従って、現代の地図から資料比較することは困難です。そこで、この情報を旧版地形図をベースに見てみます。
落合遺跡位置の資料比較(旧版1万分の1地形図「検見川」)
この資料比較分布図(旧版地形図ベース)から次のような感想を持ちました。
1 埋蔵文化財地図(「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)(改訂版)」)と千葉県資料(「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」)に示される落合遺跡位置は浪花川本川筋の谷津谷底を指しており、正確性に欠けると考えられます。近くに「大賀ハスの碑」があるためそれに曳かれるなどして、「だいたいこの近く」という情報を提供したものと考えます。
2中野尊正資料(「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」)と千葉市資料(「千葉市史史料編1原始古代中世」)は真の出土地点の近くを示すものと考えます。
3大賀ハス発掘地点(「大賀ハス」掲載)は、「舟出土地点から55m離れた場所」が正しいなら、不正確だと思います。旧版地形図にプロットすると谷津の奥になりすぎるし、地形上、低地と尾根の境目附近になります。私の想像ですが、大規模地形改変が行われ、谷の幅が2倍以上になったときの現地や地図を参考にして、発掘当時の印象を後年にプロットした資料のように考えます。もちろんこの資料は大賀博士が作成したものではありません。
この資料を最初に見たとき、丸木舟出土地点特定の切り札になるのではないかと密かに期待に胸を膨らましたのですが、そうはなりませんでした。
3-2 丸木舟出土地点の現状
前報で推定した丸木舟出土地点の現状写真を掲載します。東京大学検見川総合運動場のホッケー場付近が丸木舟出土地点です。推定位置を写真に赤楕円で示しました。
この附近の谷津・台地地形は1953年(昭和28年)から東大ゴルフ場(24ホール)造成のために大規模に改変されました。1962年(昭和37年)から運動場として再整備されました。
3-3 丸木舟出土地点周辺の地形変遷
中野尊正著「日本の平野」(古今書院発行、昭和30年)には丸木舟、大賀ハスの遺物出土点の位置を明らかにするために行ったボーリング、電探調査、井戸屋からの聴込調査等による結果が詳細に報告されています。以下主要点を紹介します。
ア 泥炭地の厚さ
電探調査等により作成した泥炭地の厚さの等高線が示されています。
検見川低地の泥炭層の厚さ(中野尊正著「日本の平野」)
この調査から丸木舟と大賀ハスが出土した場所は支谷の出口付近の泥炭層が最も深い場所であり、その前面(花見川側)には埋没している砂州(砂堆)が見つかりました。
イ 地形の変遷
3枚の地図を掲載して、調査結果を次のように説明しています。
検見川低地の地形発達A初期(中野尊正著「日本の平野」)
検見川低地の地形発達B中期(中野尊正著「日本の平野」)
検見川低地の地形発達C末期(中野尊正著「日本の平野」)
「この谷の地形発達史は次のように考えられよう。冲積世のある時期に海進があって、検見川の谷には広く入江が形成された。台地を刻む小谷の出口には、比高1~2mの砂堆の形成されたところもあったが、東京湾に面した谷の出口には、もっと大きな砂州が発達しはじめた。海の後退にともなって、出口を砂堆でふさがれた谷奥部にはいち早く泥炭の形成をみた。時代が下がるにしたがって、泥炭はその厚さを増大したが、その泥炭堆積の初期に丸木舟と蓮実とを埋積した。ついでもっとも大きい砂洲もそのすがたを海面上にあらわすようになった。」
丸木舟や大賀ハスに関する地学的な考察はこの書(中野尊正著「日本の平野」)掲載情報が一番詳しいのではないかと思います。
つづく
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ブログ「花見川流域を歩く」ではシリーズ記事「縄文丸木舟と大賀ハス」を2011年8月に12回にわたって掲載しました。花見川よもやま話ではこの過去連載記事をそのまま集成して4記事に分割して掲載します。なお、過去記事における不鮮明な画像は調整して判りやすく編集あるいは再作成しました。
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