私の散歩論

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2016年12月31日土曜日

2016年の趣味活動をふりかえる

2016年の大晦日となりました。

皆様のおかげで1年間趣味活動を進展できました。

お礼申し上げます。

この記事では2016年の年間活動をふりかえってみます。

1 古代遺跡学習

8世紀9世紀に大発展して、10世紀初頭には完全に衰退した下総台地開発集落のうち次の遺跡について学習しました。

鳴神山遺跡
船尾白幡遺跡及び西根遺跡(古代)
上谷遺跡

これらの遺跡学習では発掘調査報告書を「読んだ」だけでは理解できない情報を、GIS分析を導入することによって空間的に展開して、理解を深めることができるように工夫しました。

その結果ますます興味が深まり、いろいろな問題意識も派生しました。

上谷遺跡では情報を遺構別にGIS展開分析するだけなく、1つの遺構内の個別遺物情報をミクロにGIS展開して分析し、自分の興味範囲を遺構の覆土層区分にまで広げることができました。

単に遺跡の概要を知るだけでなく、発掘調査報告書から情報を最大限汲みだす方法を確立すべく、現在上谷遺跡の検討真っ最中です。

2 地名学習

千葉県小字データベースをとうとう完成させることができました。

94000のルビ付き小字名を自分個人が一人で電子化してデータベースをつくるなど、最初は夢の夢と考えていました。

最初千葉市の小字リスト電子化が完成したとき、鬼の首を取ったような気分になりました。

しかし、小字リストから原始古代情報を汲みだすことができると判ってから、電子化作業に熱心に取り組み、その後全部で千葉市分作業量の25倍の作業をしたことになります。

アドレスマッチングという技術をつかって小字リストをGISに展開できる方法を知ったので、作業した分だけ有用情報として即活用できるので、千葉県全体の作業に熱が入りました。

小字データベースの試用を兼ねて鏡味完二の「地名型」学習を行い、データベースの使い勝手を改善しました。

同時に小字データベースと遺跡データベース、墨書土器データベースをGIS上で突合せ統合して分析することにより、とても有用な情報を得ることができる可能性を発見しました。

3 ファミリーブログの開設

趣味活動の進展により興味が分化して発展していますので、一つのブログでそのすべてを表現することに窮屈さを覚えました。

そのため、今年3つのブログをブログ「花見川流域を歩く」のファミリーブログとして開設しました。

● 6月 ブログ「学習 幸福否定」の開設
● 9月 ブログ「花見川流域を歩く 自然・風景編」の開設
● 10月 ブログ「世界の風景を楽しむ」の開設

(● ブログ「花見川流域を歩く 番外編」は2015年4月に開設しています。)

4 6年間のふりかえり

11月から12月にかけて、ブログ活動6年間をふりかえりました。

2016.11.19記事「ブログ花見川流域を歩く 6年間のふりかえり」等参照


5 感想
2016.01.15記事「ブログ開設5周年通過」で2016年の活動構想をメモしました。

そのメモのうち、実施・実現・取り組みをしたものを赤色、未実施・未実現・未取り組みのものを青色で表示します。

……………………………………………………………………
2016年の活動
●古代遺跡学習を継続して、花見川-平戸川筋の古代社会のイメージをより豊かにする。
・鳴神山遺跡学習の完結、西根遺跡・船尾白幡遺跡・上谷遺跡村上込ノ内遺跡の学習
・萱田遺跡群の再学習(遺構のGISプロットによる検討)

●下総国古代社会のイメージをより豊かにする。
・駅路網の再学習
・古代行政域の地図表現(GISプロット)

●千葉県小字データベースを完成させる。

●東海道水運支路仮説をまとめる

技術的にはGIS・データベース技術向上を目指す。またWEBサイトの運営ができるだけのHTML技術を習得する。

活動表現の軸となるべきWEBサイトをつくる。
……………………………………………………………………

1月に構想した活動の7割程度を実施・実現・取り組みしたことになるかと考えます。

活動を進展させることができた1年だったと思います。


皆様 よいお年をお迎えください。

花見川風景

2016年12月30日金曜日

千葉県小字データベースの活用可能性

1月から私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構築と活用学習をスタートさせます。

この記事ではデータベースの一翼を構成する千葉県小字土器データベースの活用検討例を示して、その活用可能性の「威力」の大きさを確認しておきます。

活用例として轆轤(ロクロ)地名を紹介します。

1 小字「轆轤(ロクロ)」の分布

千葉県小字データベースから次のような轆轤(ロクロ)地名を抽出できました。

千葉県の「轆轤(ロクロ)」小字分布

2 例 旭市横根の小字「六郎木工」

旭市横根付近の大字分布を示します。 横根に小字「六郎木工」が存在します。

千葉県郷名分布図をGISに取り込んだ様子(大字横根付近)

この付近は砂鉄の産地です。

参考 千葉県の砂鉄産地
植野英夫「明治以降の千葉県における砂鉄採取について」(千葉県立現代産業科学館研究報告第18号、2012.03)から引用

砂鉄産地であること、および古代遺跡情報などから、小字六郎木工に関して次のような想定を行うことができました。

旭市横根の小字六郎木工に関する想定

●小字「六郎木工」は台地上製鉄遺跡に海岸で採取した砂鉄を運び揚げる運搬用装置としての轆轤(ロクロ)に由来する可能性が高いと考えます。

現代の機械でいえばクレーンということになりますが、古代では低地と台地面の間の急斜面において、轆轤を使って人力で砂鉄を引っ張り上げたと想定します。

●木工(モツコ)は砂鉄を入れる運搬用具としてのもっこ(むしろなどで作る)を意味すると考えます。

●大字横根と三川の得意な形状は、砂鉄採取地とタタラ製鉄施設を含む古代の特定開発地域を示すと考えます。

●大字横根が海上郡、大字三川が匝瑳郡という邨岡良弼の説は再検討が必要であると考えます。


3 例 長南町蔵持の小字「六郎谷」

長南町大字蔵持と長南(宿)に小字「六郎谷」があります。

轆轤(ロクロ)地名が存在する大字「蔵持」=車持と「長南(宿)」
「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)のGISプロット

大字蔵持(クラモチ)は古代部民の車持部(クルマモチベ)の車持から転じた名称であると考えます。(角川千葉県地名大辞典による)

この付近は東京湾と太平洋を繋ぐ古代船越の位置にあたります。

長南町蔵持付近の地形

古代船越付近の地形

この付近の地形を分析して、次のような古代船越の運搬手段を想定しました。

古代船越付近の地形断面と運搬手段の想定
地形断面図は10mメッシュを使って、GISソフト地図太郎PLUSの機能を使って作成

A-Bは低平、B-Cは緩傾斜、C-Dは急傾斜、D-Eは低平という地形になっています。

この地形から船越における運搬手段はA-Bは曳舟、B-Cは車、C-Dは轆轤(ロクロ)、D-Eは曳舟であると想定しました。

旭市横根では砂鉄を海岸から台地に引きずり揚げる際に轆轤(ロクロ)を使いましたが、長南町蔵持でも同じく重量物を太平洋側から東京湾側に引きずり揚げるために使ったのだと思います。

なお、急斜面からすこし離れて長南(宿)にも小字六郎谷がありますから、その地名は轆轤(ロクロ)作業に従事する人夫の宿泊場所を表していると考えます。

2016.06.26記事「車持部と轆轤(ロクロ)地名」参照

2016年12月29日木曜日

千葉県墨書土器データベースの活用可能性

1月から私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構築と活用学習をスタートさせます。

この記事ではデータベースの一翼を構成する千葉県墨書土器データベースの活用検討例を示して、その活用可能性の「威力」の大きさを確認しておきます。

1 例 墨書土器全情報分布

千葉県における墨書土器全情報の出土分布と銙帯出土分布を比べると、略一致することが見て取れます。


千葉県墨書土器出土分布図

千葉県の遺跡別銙帯出土数
(注…資料作成時期が古いので、例えば上谷遺跡から出土している多数の銙帯はこの分布図に表現されていません。)

銙帯は官人着用の権威の象徴であり、行政権力が常駐していたことを物語っていると考えることができます。

このことから、墨書土器出土遺跡の大半は奈良平安時代の開発集落であることが推察できます。

土器に文字を墨書する行為は集団的組織的に行われた祈願行為であると考えられますから、墨書土器から国家が主導した東国開発における集落住民の生活や心理面の情報を得ることができると考えます。

2 例 漆関連情報

墨書土器データベースから例えば漆関連文字「七」「知」「益」の分布をつくることができます。

墨書文字「七」「知」「益」出土遺跡の分布

「七」はシチであり乾漆の意味、「知」はシルであり漆の汁の意味、「益」はエキであり漆の液の意味です。

2016.04.06記事「参考 千葉県における漆関連墨書文字分布」等参照

この分布図は奈良平安時代房総開発集落の漆産業分布の様子を投影していると考えることができます。

次の分布図は現在伝わる小字「ウルシ」の分布の様子です。


小字「ウルシ」(漆、ウルシ)の分布

2枚の分布図を比べると墨書文字「七」「知」「益」が出土する遺跡と小字「ウルシ」が一致(略一致)する場所が存在します。

そのような場所は奈良平安時代開発集落にその始源を有する漆産業発展を、墨書文字と小字という2つの文字史料で確認できたことになります。

墨書土器はその文字解読を進めることによって、その多数性、多様性から超1級文字史料として活用することができると考えます。

3 例 文字「寺」出土状況

文字「寺」を含む墨書土器出土状況を示します。

文字「寺」を含む墨書土器出土状況

墨書文字「寺」は奈良平安時代開発集落内に実在した寺院と関わりのあるものがほとんどであると考えられますから、この文字史料から当時の仏教流布の様子の一端を知ることができます。

2016年12月28日水曜日

千葉県遺跡データベースの活用可能性

1月から私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構築と活用学習をスタートさせますが、この記事ではデータベースの構成要素としての千葉県遺跡データベースの強力な「威力」一端を確認しておきます。

1 「威力」確認 その1

遺跡情報を時代別にプロットしてみました。

千葉県遺跡分布図

この分布図ではドットが密集してしまい、その密集度合があまりよくわかりません。

そこで、密集度合を相対的に赤→青の順に色分けして、ヒートマップとして示しました。

千葉県遺跡分布ヒートマップ

各時代の遺跡密集地が赤色で示されます。

この赤色地域はその時代の社会活動密集地であり、人口密度が高い地域であり、縄文時代以降は建造物密集地であり、つまり政治や行政・権力・文化の集中地域であるといって過言ではありません。

旧石器時代の赤色地域は主要な狩猟ゾーンを示していて、東日本で最大規模の狩場です。

縄文時代の赤色地域は東京湾岸から印旛沼にかけての台地を中心に分布しているものが最大で、そのほか下総台地に展開しています。

弥生時代になると様相がかわり、市原、袖ヶ浦、木更津などに赤色地域が広がります。

古墳時代には市原、袖ヶ浦、木更津、君津などが赤色地域の中心になります。

奈良平安時代になると、再び下総台地の赤色地域が展開し、それまでの市原、袖ヶ浦、木更津、君津などがさびれます。

中世には富津に赤色地域が現れます。

このように時代別にみると、社会の中心地域がダイナミックに変化している様子が遺跡データベースからわかります。

これだけでも詳しく分析検討する価値があります。

2 「威力」確認 その2

遺構別分布例として、古墳分布図と横穴分布図を作成しました。

古墳分布図

横穴分布図

この2つの分布図をよくみると、その密集地がお互いの密集地を避けています。

古墳分布と横穴分布がきれいに「棲み分け」しています。

横穴を作った集団がどのような集団であるのか、詳しいことが判っていないようですが、古墳を作ったその時代の社会支配層とは別の集団が存在していたことの可能性を感じ取ります。

詳しい検討はしていませんが、遺跡データベースを活用すると、これまであまり表に出てこなかった事象に気がつくことが出来そうです。

このような「威力」のある千葉県遺跡データベースをその一翼とする私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの学習を始めたいと思います。

2016年12月27日火曜日

私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構築と活用学習のスタート

2017年1月から上谷遺跡学習、大膳野南貝塚学習と並行して私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構築と活用学習をスタートさせることにします。

1 私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構成と現状

私家版千葉県歴史・地名GISデータベースは千葉県、研究機関、図書により公表されているデータを個人レベルで電子的空間的に統合しようとしているデータベースです。

私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構成

私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構成と現状

既にそれぞれのGISデータベースはこのブログで活用しています。

千葉県遺跡データベースの利用例

千葉県墨書土器データベースの利用例

千葉県小字データベースの利用例

2 私家版千葉県歴史・地名GISデータベースによる学習のイメージ

2-1 縄文語起源地名の抽出

縄文語起源地名が千葉県に存在しているのではないだろうかという感触を持っています。

この感触を千葉県遺跡データベースと千葉県小字データベースを統合して分析することにより、検証したいと考えています。

とてもチャレンジャブルな取り組みだと思います。

成果が出るか、結局は挫折するかまだ暗中模索ですが、データベース活用の当初から取り組みたいと考えています。

2-2 古代祈願語が地名に定着した例の抽出

墨書文字の中に、当時既に使われていた地名が出現する場合が散見されます。

このような例ではなく、祈願語として使われた墨書文字が地名として定着して、現在にまで伝わったものの例を抽出したいと考えます。

墨書土器データベースと小字データベースを統合して分析することになります。

2-3 古代地名リストの作成

遺跡データベース、墨書土器データベース、小字データベース、古代文献を空間的に統合分析して、古代に存在した地名のリストを作成したいと考えます。


2016年12月26日月曜日

大膳野南貝塚周辺の貝塚・縄文遺跡

大膳野南貝塚学習を始める前のウォーミングアップをしています。

この記事では大膳野南貝塚周辺の貝塚・縄文遺跡分布を見てみます。

次の分布図は千葉県教育委員会WEBサイトの「ふさの国文化財ナビゲーション」からダウンロードした情報をGISにプロットしたものです。

大膳野南貝塚付近の貝塚分布

参考に大膳野南貝塚を中心にした2㎞圏、4㎞圏、8㎞圏の同心円を描いてあります。

貝塚の分布は縄文海進最盛期海面(空色表示、標高8m等高線以下区域を想定)付近にも分布しますが、数的には内陸の谷津付近に多くなっています。

大膳野南貝塚は海面から約2.5㎞離れた谷津谷頭付近に位置しています。

海岸近くに貝塚をつくるのではなく、内陸谷津沿い台地に貝塚をつくる理由は、縄文人は元来狩猟民であり、漁撈の民ではなかったからだと考えます。

旧石器時代から行われてきた台地面におけるシカ等の狩猟を行ってきた人々が、縄文海進という新たに生じた条件を最大限生かして、海の幸を獲るようになり、その双方の猟・漁のバランスをとった居住場所が海岸からあまり離れていない、しかし内陸台地に位置する谷津沿いの空間であったと考えます。

谷津沿い空間は水場がありますから、定住をするうえで有利です。

大膳野南貝塚付近の縄文遺跡

縄文遺跡の分布は貝塚分布とうって変わって、その数がとても多くなります。

貝塚ではない縄文遺跡の実態がどのようなものであるか、現在詳しいデータをもっていませんが、予察思考として、これらの遺跡は動物狩猟に関わるものであると考えます。

貝塚より貝塚ではない縄文遺跡の数が多いことから、海の幸利用より狩猟の方が食糧獲得面で大切であったと考えます。

貝塚が分布する谷津沿いに貝塚ではない縄文遺跡が多数あり、それらの遺跡は水場を利用した狩猟をメインとする縄文人の居住の場であったと考えます。

さらに特徴的なことは、貝塚が分布しない内陸台地上に多数縄文遺跡が存在することです。

内陸台地上は飲料水を獲得することが不便な場所です。

このような場所に縄文遺跡が密集するということは、この空間が動物狩猟面できわめて大切な場所であったことを物語っていると考えます。

さて、大膳野南貝塚から8㎞圏が貝塚から東に広がる台地の過半を占め、9㎞圏にすれば全部九十九里浜を臨む崖まで含むことになります。

8㎞圏とは平坦面を直線歩行すれば2時間しかかかりません、9㎞なら2時間15分です。

往復なら4時間、4時間30分です。

この時間ならその場所に出かけて4~5時間仕事をして日帰りできます。

つまり、大膳野南貝塚の縄文人は九十九里浜を臨む台地東端崖までの台地面で日帰りの仕事が完全にできていたということになります。

大膳野南貝塚に定住する縄文人の狩猟の跡が九十九里浜を臨む台地東端崖までの台地面のどこかに残されていたとしても不思議ではありません。

それどころか、台地に密集する縄文遺跡の中に大膳野南貝塚縄文人に関連する遺跡が無い方が不思議です。

2枚の分布図から予察思考を発展させることができました。

2枚の分布図から空想した縄文時代空間利用イメージを絵にしておきます。

後でそれがどの程度的確であったか、なかったのか、ふりかえりを楽しみしておきます。

予察 縄文時代空間利用イメージ 基図貝塚分布

予察 縄文時代空間利用イメージ 基図縄文遺跡分布

定住ゾーンは狩猟ゾーンと漁撈ゾーンの双方に出かけやすく、かつ水場があるので、このゾーンで縄文人は定住したと考えます。

その結果貝塚ができました。

漁撈ゾーンの基本は定住ゾーンの漁業面における出先ゾーンであると考えます。

狩猟ゾーンの基本も定住ゾーンの狩猟面における出先ゾーンであると考えます。

大膳野南貝塚の縄文人が東京湾に出かけて漁撈活動を行い、その場に作業小屋や収穫物の処理施設をつくったに違いありません。

同時に大膳野南貝塚の縄文人は九十九里浜を臨む台地崖付近まででかけシカなどの動物を狩り、その場に休息小屋や収穫物の処理施設をつくったにちがいありません。

なお、貝塚及び縄文遺跡は縄文時代の全時代の遺跡を全部プロットしていますから、ある特定時間断面ではもっと数は少なくなります。

しかし、ある時間断面でみても、大膳野南貝塚から日帰り仕事圏に多数の貝塚、遺跡があることになります。

その様子から、縄文人社会に高度な組織ができていたに違いないことが推察できます。

行政的機能が必須であり、それがどのようなものであったか興味が湧きます。

漁場の縄張り、狩猟場の縄張りなどがどのように区画され、利用されていたか興味が湧きます。





2016年12月25日日曜日

大膳野南貝塚と縄文海進海面との位置関係

大膳野南貝塚の学習をスタートしようと思っていますが、その前段階のウォーミングアップをしています。

図書館から借用した発掘調査報告書はまだ読み始めていません。

発掘調査報告書の学習を開始する前に位置関係、大ざっぱな地形状況の把握、縄文海進海面との位置関係、縄文時代遺跡分布図の中での位置関係などについて、頭が白紙のうちに自分のイメージをつくることにします。

自分の頭が白紙のうちに得た各種原初的イメージが訂正・修正・廃棄あるいは発展していく様子を自分で感得することが趣味活動の醍醐味の一つであると体験してきました。

この記事では大膳野南貝塚と縄文海進最盛期海面との位置関係のイメージをつくります。

大膳野南貝塚の位置を地理院地図でプロットして、その地図と同縮尺地図で検討することにします。

大膳野南貝塚の位置 地理院地図(標準地図、色別標高図の乗算表示)

大膳野南貝塚の位置 地理院地図(最新空中写真)

この付近の縄文海進最盛期の海面分布資料は必ずや作成されていると予想します。

しかしまだそうした情報収集活動をしていないので、これまでのこのブログで実施した簡易的検討結果を使うことにします。

花見川及び平戸川(新川)におけるボーリング資料を用いた検討では、現在地形等高線8mライン付近が縄文海進最盛期の最大海面分布とほぼ一致するという結果になりました。

注:縄文海進最盛期の海面上昇が8mに及んだという意味ではなく、海面上昇2-3mにより広がった海面の分布域が、その後の地殻変動による地盤上昇、沖積作用による堆積、火山灰降灰、歴史時代における農地・宅地造成による盛り土等により、結果として等高線8mラインに近似するという意味です。

次に現在地形を標高8mで2区分しました。

大膳野南貝塚の位置と標高8mによる地形区分との関係

標高8m以下(空色)域が縄文海進最盛期の海面分布であると考えて、大きな誤りは生じないと考えます。

大膳野南貝塚は縄文時代海面上昇最盛期の村田川河口湾海面から直線距離で約2.5km離れた位置にあることが判りました。

次に標高8m以上の土地について標高区分して陸域の地形を見てみました。

標高区分はGISが行う自動区分に任せたものであり、概略イメージを得るための区分です。

 
大膳野南貝塚の位置と標高8m以上標高区分との関係

大膳野南貝塚が茶色の濃い区域(40m程度以上)の西端部に位置していることが判ります。

この位置は大膳野南貝塚の東に広がる標高40m程度以上の台地における猟場縄張り確保と、村田川河口湾における漁場縄張り確保の両立を可能にする絶好のポイントであるという仮説(想定)設定(2016.12.24記事「大膳野南貝塚の位置と周辺地形概要」参照)の説明図になると考えます。

大膳野南貝塚と縄文海進海面との位置関係はイメージするこができるようになりました。

さて、東に広がる台地における狩猟場の縄張りはどこまで広がるかという問題意識が頭をよぎります。

上記地図では遺跡が関係する猟場の東の果がでているのかどうか判りません。

そこで上記地図を東域に移動させてみました。

大膳野南貝塚の位置と標高8m以上標高区分との関係 2

大膳野南貝塚は村田川北岸の土地に位置しています。

そして、村田川が台地面を東西方向に刻み、台地面が南北に連続する部分は狭くなっています。

この狭い台地面の南北連続の場所付近が、動物が下総台地と房総丘陵を往復する移動回廊であり、旧石器時代における東日本最大の狩猟場であるという記述を以前学習しました。

大膳野南貝塚縄文人の狩猟場が動物移動回廊を含めて台地面全域に広がっていたのかどうか、興味が湧きます。

あるいは九十九里浜方面には別の縄文人グループが存在していて、旧石器時代には東日本最大の狩猟場と言われた場所で狩をして、同時に九十九里の海で漁撈をしていたということであるのか?

学習の過程でこの興味・疑問を解決していきたいと思います。



2016年12月24日土曜日

大膳野南貝塚の位置と周辺地形概要

大膳野南貝塚の学習を始めるに当たって、その位置と周辺地形概要を把握しました。

Google earth proで大膳野南貝塚付近を見ると土地開発が進んでいて地形の様子がわかりません。

Google earth pro画像

そこで、地理院地図サイトで周辺地形を3D表示してみました。

地理院地図3D表示

案の定、土地開発で台地地形が著しく平滑化している現状の地形が判るばかりで、開発前の地形を想像できるような状況でないことがわかりました。

発掘調査報告書を見ると迅速図に遺跡位置をプロットした地図がありますので、これで地形の概要が判ります。

周辺の縄文時代貝塚 「千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書第Ⅰ分冊-本文編1-」から引用塗色

この図では海との関係がよくわからないので、1948年撮影米軍空中写真を実体視して地形概要を把握しました。

米軍空中写真 裸眼実体視資料

まだ発掘調査報告書は全く読んでいません。

また大膳野南貝塚に関する予備知識は完全にゼロです。

そうした白紙状態で大膳野南貝塚の位置と周辺地形を見ると、貝塚を造ったころの縄文人の食い扶持(生業)は「海に偏って依拠している状況は無い」という強い印象を受けます。

貝塚だから海のそばで専業的に海の幸を採っていたと、何となく想定していたのですが、そのような先入観は完全に打ち砕かれました。

台地における動物狩猟等の活動を効率的にできる場所でなおかつ海の幸利用も可能な場所を探し、その解答として大膳野南貝塚の位置を得て、その場所で定住的生活をしたという印象を強く受けます。

地形を実体視した現時点における総合感想としては、海の幸利用よりも台地における動物狩猟の方がメインであったという印象さえ持ちます。

海岸海域利用の縄張り(漁業権区域)だけでなく、動物狩猟の縄張り(狩猟権区域)もあり、その双方を維持するための場所が大膳野南貝塚付近であったということです。

台地平坦面が広がる土地と、開析がすすみ台地平坦面がほとんどなくなった丘陵的地形の境が縄文人にとって意味があるということです。

そのような地形変換線に陣取れば、台地平面における動物狩猟権も、海岸における漁業権も押さえることができるということです。

このように考えると、動物狩猟が台地平面が広がる土地で行われていたことが逆に判明します。

旧石器時代から引き続き縄文時代でも、台地平面が広がった場所でシカなどの動物群を台地縁の崖に追い詰め、追い落として狩猟していたと想定します。

さらに、海岸の近くに陣取らなくても海岸利用の縄張りを確保できるのですから、漁業に特化した集団がいなかったと想定することもでます。

学習を始めるに当たって、狩猟と漁撈のバランスがどうであったのかという最初の興味、問題意識を早速得ることができました。

2016年12月23日金曜日

縄文時代遺跡 大膳野南貝塚の学習を開始

縄文時代遺跡大膳野南貝塚(ダイゼンノミナミカイヅカ)の学習を開始することにしますので、その当初方針イメージをメモしておきます。

1 学習対象としての大膳野南貝塚の選定

縄文時代遺跡についての学習をするうえで、まず最近調査刊行された発掘調査報告書をテキストに、学習方法自体の検討も含めてモデル的に学習したいと思いました。

どうせ学習するなら最新発掘成果に基づいて行いたいと考えました。

学習対象遺跡の選定にあたって、縄文遺跡研究家である西野雅人先生からいくつかの遺跡についてアドバイス情報をいただき、その中から大膳野南貝塚を選びました。

大膳野南貝塚の位置

2 大膳野南貝塚発掘調査報告書

大膳野南貝塚発掘調査報告書は4冊刊行完結しています。

千葉市立中央図書館で借り出しができるので学習基盤が整います。

延長1回を含めて1か月の間自宅で利用できますから今後恐らく1年以上つづく学習のイメージが湧きます。

(現在並行して進める上谷遺跡の発掘調査報告書は全6冊のうち2冊は借り出しできる図書館がありません。必要部分をコピーしました。

その前に学習していた鳴神山遺跡の発掘調査報告書は借り出しできないことはもとより、必要部分のコピーもままならず、半分を千葉県立中央図書館で半分を国立国会図書館でコピーしました。その苦労と比較すると、大膳野南貝塚学習は極楽です。)

千葉市立中央図書館から借り出した大膳野南貝塚発掘調査報告書

3 大膳野南貝塚の概要

縄文時代中期~後期の貝塚集落がメインの遺跡です。

報告書抄録

4 縄文時代学習ステップ

縄文時代学習ステップを次のように3段階に区分し、大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習はその第1ステップ、第2ステップに位置づけます。

第1ステップ

縄文時代遺跡学習の問題意識を形成するためのステップ。

第2ステップ

形成した自分の縄文時代問題意識に基づいて、発掘調査報告書の分析を行うステップ。

第3ステップ

発掘調査報告書の分析に基づいて獲得した知識に基づいて、花見川流域を含む下総地域の縄文時代の様子を知るステップ。

当面は第1ステップということで、縄文時代遺跡学習において、「自分が興味をもつ課題はなにか?」という点に焦点を当てて活動を進めたいと思います。

5 大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習イメージ

・まず発掘調査報告書を最初から読んで(眺めて)みて、その概要を把握し、その後詳細な学習方針を立てたいと思います。

・恐らく貝塚集落(縄文時代中期~後期)について詳しい分析学習を行うことになると思います。

・発掘調査報告書の学習の中で不明な点や特別興味が深まった点については寄り道学習をすることにしたいと思います。その寄り道学習のなかで不足する基礎知識を得たいと考えます。

・分析学習に関する興味は現在は次の2点が重要であると考えています。

1 遺跡と地形との関係

生活において地形をどのように利用していたのか、興味が深まります。(海はどこにあり、どのように出たか。狩と地形との関係、住居と水場の関係…)

2 集落の空間構造

遺構・遺物の空間情報をGISを使って分析して、発掘調査報告書からどのような有用情報(価値ある情報)を引き出せるか、興味が湧きます。

上谷遺跡の学習とも関連しますが、遺構空間にたいして縄文人がどのような心性をもっていたのかその辺がわかり、それが古代人の遺構空間にたいする心性に引き継がれているかどうかわかれば、自分の学習意欲が一層深まります。

このブログでは大膳野南貝塚学習の様子を実況中継します。

……………………………………………………………………
上谷遺跡学習、大膳野南貝塚学習を同時並行して進めます。

さらに遺跡・地名データベースに関連する学習も同時並行で進める予定です。

2016年12月22日木曜日

上谷遺跡学習の格上げ

1 上谷遺跡学習の格上げ

2015年1月に花見川-平戸川筋古代遺跡の発掘調査報告書の悉皆閲覧活動を開始して、2016年7月末に上谷遺跡にたどり着き学習を開始しました。

2015.01.18記事「遺跡文献の悉皆閲覧計画」参照
2016.07.29記事「千葉県八千代市上谷遺跡の学習検討方針」参照

当初、8月中には上谷遺跡の学習を終了して次の遺跡に歩を進めようともくろんでいました、8月も終わると9月一杯で学習を終了しようと想定しました。さらに10月、11月、12月と月日が進みましたが、上谷遺跡に関する学習上の興味は尽きません。

興味が尽きないというよりも、ますます興味対象が広がり、深まっています。

2016.11.18記事「上谷遺跡学習のふりかえり」で学習をふりかえりました。

しかし、その後出土物閲覧などを通じて、上谷遺跡学習の取り組みが、単なる遺跡報告書悉皆閲覧の一環の枠をはるかに超えてしまっていることに気が付きました。

そこで学習を報告書をざっと閲覧して遺跡の概要を知るという活動から思い切って、古代史学習のための専門知識吸収中長期期的プロジェクトに格上げすることにしました。

これまで短期的に、一気呵成に学習することを目指していたのですが、もう少しじっくりモデル的に学習することにします。

発掘調査報告書収録データについても、自分が以前から興味を抱いている技術的分析を適用したいと考えます。

古代史学習のための専門知識吸収プロジェクトに格上げするために、専門機関や専門家のアドバイス等を受けられるように模索したいと考えています。

これまで素人の趣味活動であるからという理由で、大ざっぱで根拠薄弱な思考であってもあまり気にしないで記事を書いてきました。

しかし、分析を深めるに従って趣味活動であるといってもある程度の専門性の裏打ちという基礎(土台)がないと大きな建造物(学習成果)は出来ないことに気が付きだしたという次第です。

上谷遺跡学習を趣味中長期的プロジェクトとして、じっくりとかつ多少の専門性を獲得する方向で取り組むこととします。

上谷遺跡学習活動の新方針は追ってまとめることにします。

なお、趣味活動全体では上谷遺跡学習以外に縄文時代遺跡学習、遺跡・地名GISデータベースを活用した考古歴史学習なども中長期期的ブロジェクトとして同時並行的に取り組みたいと考えています。

2 上谷遺跡学習の興味

2016.11.18記事「上谷遺跡学習のふりかえり」では次のような検討課題を列挙しました。

上谷遺跡 ブログ記事のテーマと検討課題(2016.11.18)

これらの個別課題に加え、次のような活動に強い興味をもっていて、当面実施したいと考えています。

●竪穴住居、掘立柱建物等の大きさ・形状・特徴等の分類・空間分析を行うことでどのような有用情報が得られるか?

●竪穴住居覆土層の詳細層位区分から竪穴住居を分類できるか?詳細層位区分からどのような有用情報を引き出すことができるか?

●発掘調査報告書のデータから竪穴住居の年代推定が可能か?可能ならどの程度の精度で可能か?可能なら年代推定を実施する。

●竪穴住居覆土層中遺物(廃絶後持ち込まれた遺物)と床面出土遺物(竪穴住居に由来する遺物)を区分して、その情報からどのような有用情報が得られるか。

●遺構・遺物・墨書土器等の多様な指標を総合分析(多変量解析等)することで、
1 生業の種類や生業に関する空間ゾーンが明瞭化するか?
2 遺構空間が祭祀の場となった事実やその背景にある心理が明瞭化するか?








2016年12月19日月曜日

上谷遺跡 土坑出土燈明皿と摩滅土器

1 燈明皿と摩滅土器の閲覧

上谷遺跡 D268土坑出土転用燈明皿と摩滅土器を八千代市教育委員会で閲覧しました。

摩滅土器は「破換面」が摩滅しているという記述であり、燈明皿ではないかと想定してきました。

今回燈明皿と摩滅土器現物を閲覧して、このような想定が合理的であることを確認できました。

摩滅土器の全てが転用燈明皿状の形状であり、中には縁にススと思われる黒色が付いているものもあるからです。

以下閲覧した資料の写真を掲載します。

燈明皿 №01

燈明皿 №01

底から縁に向かって放射状の溝が4本掘ってあります。

火を燃やす芯(穂)をこの溝に這わして、底の油を吸いやすくするための工夫であると推察します。

燈明皿 №04

燈明皿 №07

摩滅土器 №08

割れた面が確かに摩滅していて、この形状で使い込まれたことを示しています。

形状は燈明皿そのものです。

摩滅土器 №09

摩滅土器 №19

縁にススによってついたと考えられる黒色が残っています。

2 燈明皿多出の意味

D268土坑出土遺物は次の通りであり、覆土上層の燈明皿、摩滅土器が集中しています。

D268土坑出土遺物

参考 上谷遺跡 D268土坑の位置

この状況を次のように解釈します。

D268土坑は台地縁南向き斜面に作られた冬季の寒冷から収穫農作物を守って保存する貯蔵庫であると考えます。


この貯蔵庫はその規模の大きさから大きな集団が利用していたものと考えます。

集団が例えば秋に里芋を収穫し、この土坑の縁で収穫祭をして、里芋をカヤ束を敷いた土坑に収納し、冬季の飢えに備えたと空想しても、その空想は十分合理的であると考えます。

さらに、土坑の縁でおこなわれる収穫祭が夜間に燈明皿の明りのもとでおこなわれたと考えても合理性を欠くことにはなりません。

そのように使われていたD268土坑が埋まってきて、最後に廃絶するとき、つまり最後の収穫祭で燈明皿を土坑に奉納して、投げ込んだのではないかと想像します。

あるいは、土坑機能廃絶後、その場所が燈明皿を奉納して(投げ込んで)豊作を祈願する場所になったのかもしれません。

D268土坑は実用的には冬季の寒冷から収穫物を守る貯蔵庫であり、同時に心理面では、その空間に対して人々が特別の感情を持っていたと考えます。

冬季の飢えを予防するという切実さと結びついて、聖域視のような感情を持ってD268土坑空間をみていたのではないかと考えます。

現代人は祈願場所とする神社や寺院の敷地空間を聖域視します。

同じように、古代上谷遺跡住人は集団の飢え防止したいという願いを実現する施設としての収穫物貯蔵庫を聖域視していたと想像します。


2016年12月18日日曜日

上谷遺跡 土坑底面に敷き詰められていたカヤ束画像確認

八千代市教育委員会において上谷遺跡D268土坑の発掘写真ポジを閲覧させていただき、この土坑出土カヤが常緑高木のカヤではなく、草のカヤ束であることを改めて最終確認しましたので記録しておきます。

2016.10.26記事「上谷遺跡 土坑底から壁にへばりついていたのは草のカヤ」参照

カヤ出土画像が度坑底面であることを画像で確認できました。

またカヤ材が底面全面を覆うように配置されている様子を推察できました。

上谷遺跡 D268土坑底面にカヤ束が敷き詰められていた様子

カヤ束出土画像

カヤ束出土画像 拡大

底にカヤ材が敷き詰められているこの土坑の役割は収穫物、例えば里芋、の冬季における貯蔵庫であった可能性が濃厚であると考えます。

現代でも里芋は穴を掘ってカヤ材を敷きつめて冬季貯蔵する方法が行われています。

ちなみに、WEBで調べると現代における里芋生産量全国一は千葉県であり、里芋にこだわりたくなります。

次の記事で、この土坑から出土した燈明皿、摩滅土器の閲覧について記録します。