縄文社会消長分析学習 20
霧島市上野原遺跡の発掘調査報告書をwebサイト「全国遺跡報告総覧」からダウンロードして向学のために寄り道学習しています。
祭祀空間(第10地点)からの埋設土器や環状石斧・異形石器などの出土物に驚き、遺跡全体が霊峰霧島を仰ぐ祭場として顕著なゾーニングにより利用されていたことを学習してきました。
2020.05.14記事「上野原遺跡祭祀空間Aゾーンは神殿基壇である」
2020.05.14記事「上野原遺跡祭祀空間のゾーニング」
2020.05.14記事「縄文早期異形石器に驚く」
2020.05.13記事「縄文早期の環状石斧に驚く」
2020.05.12記事「霧島市上野原遺跡出土埋設ペア土器の意義」
ブログ「芋づる式読書のメモ」2020.05.10記事「鹿児島県霧島市上野原遺跡」
この記事では縄文早期大型集落として紹介されている集落域(第2・3地点及び4・7地点)について発掘調査報告書により学習します。
1 第2・3地点の遺構・遺物
発掘地点
上野原遺跡発掘調査報告書から引用
第2・3地点遺構配置図
上野原遺跡発掘調査報告書から引用
第2・3地点遺構検出状況
上野原遺跡発掘調査報告書から引用
・竪穴住居跡 52基、火山灰検出状況から約9500年前(※暦年較正はしていない値のようです。)
・竪穴住居跡からの出土土器は極めて少ないが3類土器段階に収まる。
・連結土坑(炉穴)16基出土、時期は約9500年前におおむね合致する。
・集石 2・3地点で100基、4地点で32基、7地点で8基の合計140基確認。
・土坑 約270基検出
・道跡 2本検出
出土土器は以下の18類に分類
1類 前平式土器
2類 前平式土器及びそれに類するもの
3類 河口氏の前平式土器、新東晃ー氏の知覧式土器、長野眞ー氏・前迫亮一氏の加栗山式土器に該当する
4類 吉田式土器
5類 倉園B式土器
6類 石坂式土器
7類 下剥峯式土器
8類 辻タイプ
9類 桑ノ丸式土器
10類 押型文土器を一括
11類 刺突文に類似した文様のもの
12類 一野式土器や中原式土器もしくは櫛島タイプと称されるものに該当
13類 撚糸文・縄文を施すものを一括
14類 手向式土器
15類 妙見・天道ケ尾式土器
16類 平栫式土器
17類 塞ノ神式土器
18類 1類から17類に入らないものを一括
2・3地点の主体をなす土器は、 3類が最も多く9類・10 類がそれに続く。
3類土器
上野原遺跡発掘調査報告書から引用
・石器類の出土物
石鏃、尖頭状石器、石匙、楔型石器、異形石器、石核、剥片類、石斧類(環状石斧も出土→中~後葉のもの)、礫器、磨石、砥石、石皿、軽石
遺物の出土傾向としては2地点では早期前葉段階から中葉段階にかけて、 3地点では、早期中葉から後葉にかけての遺物が主に出土している。
2 集落の様子
竪穴住居跡52基は概ね3類土器段階に収まる。
切り合いや近接しているものを差し引き、最大6基程度が1時期に近い状態であったと思われる。
3 祭祀空間(第10地点)との関係
16 類土器は、平栫式士器に該当する。
この15・16類土器は、上野原台地南側の10 地点で膨大な遺物量を誇っている土器でもある。この10 地点の様相に比べ、台地の北側に位置する2~7地点では、極端に出土数が少ないという差が生じている。しかし、少ないながらも遺物の出土は見られ集石遺構を伴っている。2~7地点での数個体の土器と集石を有する場面と、 10 地点の土器埋納遺構を中心とする環状の遺物集中という場面とが同一型式内であっても時間的に微妙な差が生じているのか、場の機能に差があったのか今後解明していかなくてはならない。
4 考察と感想
縄文早期大型集落といわれる竪穴住居52軒(第2・3地点)は3類土器の時代(約9500年前…暦年較正はしていない?)で、土器出土は3類が多く、9類・10類がそれにつづくという状況です。一方隣接する祭祀空間(第10地点)は16類土器(平栫式土器)が圧倒しています。
つまり、竪穴住居集落が形成された時代と祭祀空間が運用された時代とは「縄文早期」という言葉は同じでも、全く異なるということです。
この事実から、祭祀空間が隣接する上野原遺跡集落(第2・3地点)の人々によって使われたという想定は完全なる誤解・間違いであるということを理解しました。
祭祀空間(第10地点)の多量の石器出土が隣接集落にかかわるものではないと理解できると、祭祀空間が広域社会の共同祭祀場であるという性格が浮かび上がってきます。
上野原遺跡の発掘写真をみると火山灰(軽石)が竪穴住居跡を埋めている状況がよくわかります。3類土器の時代の縄文早期大型集落は桜島火山の噴火影響により終焉したと考えることがありうるかもしれません。それ以降その場所で定住的生活は困難であったのかもしれません。同時に海辺でかつ恐ろしい火山の近くで、なんといっても霊峰霧島を仰ぐことができるという好適な立地環境が、この場所をして広域社会における共同祭祀場にさせたものと想像します。2~3カ所を回帰的に行き来する定住生活の合間にこの上野原遺跡(第10地点)に小集団が次から次へとやってきて祭祀活動をして帰って行ったのかもしれません。
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