2012年1月16日月曜日

円錐体地形

芦太川と仲東谷津の合流点にある円錐体地形に興味を持ちました。
次の写真は1949年に米軍が撮影した空中写真で、立体視すると円錐体に見える部分を示しています。

円錐体地形
米軍撮影空中写真(1945)

仲東谷津が芦太川に出る(合流する)部分で仲東谷津の堆積物がミニ扇状地的に貯まったと思い込み、崖錐と誤認してしまいました。
芦太川と仲東谷津の合流点が丁度谷頭浸食部になっていますから、この円錐体地形を堆積地形と考えるのは無理だと、後で気がつきました。
この円錐体地形を現在の地形にプロットしてみました。

円錐体地形
カシミール3D+5mメッシュ(フォトショップ「ドライブラシ」による変換画像)
数値は標高(m)

現在の地形は人工改変が行われていて、各所で平坦化していますが、大局的にみれば、もともとの地形が残っていると考えられます。
私が興味を持ったことの一つは、円錐体のように見える地形をつくったメインの営力は仲東谷津であり、それが浸食作用によると考えられることです。
次のような仲東谷津の河道の変遷の中でこの円錐体地形ができたと考えます。

円錐体地形の成因の想像
仲東谷津の細流が移動して、細流浸食谷底の軌跡がこの円錐体地形をつくったと想像します。

扇状地や崖錐など谷から平野に出たところで出来る円錐体の堆積地形とは別に、谷から広い場所に出たところで、円錐体の浸食地形ができるものなのか、地形学を学習してみたいと思います。

この円錐体地形の現在状況写真を次に示します。

写真1

写真2

写真位置図


(追伸 この記事を投稿してから、ブラウザーで上記「円錐体地形の成因の想像」図を見ると、扇状地の説明図そっくりです。浸食地形の説明図としてこれでよいか、自問自答の繰り返しになります。この記事の内容については、頭を冷やして、さらに検討を深めいたいと思います。とりあえず、自分の思考の到達点の記録として、この記事を掲載します。)

2012年1月15日日曜日

ブログ開設1周年


1 謝意
ブログ「花見川流域を歩く」の開設1周年を迎えることができました。
このブログを多くの方々に見ていただきました。皆様に感謝申し上げます。
コメントも様々な方からいただきました。
特にoryzasan氏からは論文といってもよいコメントをいただきました。コメントをいただいた皆様にお礼申し上げます。
また、千葉市立郷土博物館、八千代市立郷土博物館、四街道市教育委員会市史編纂室、千葉県立中央博物館の方々にはブログ記事を書くにあたって、専門的なご指導や情報提供を受けました。感謝申し上げます。
さらに千葉県、千葉市、八千代市、四街道市、佐倉市、習志野市、船橋市の各行政部局からブログ記事作成に必要な様々な資料・情報の提供を受けることができました。感謝申し上げます。
水資源機構、陸上自衛隊、江戸東京たてもの園、千葉市埋蔵文化財調査センター、成田空港給油施設株式会社、千葉財務事務所を始め多くの機関から施設見学・資料閲覧・情報提供等のご便宜をいただきました。感謝申し上げます。

以上の皆様に支えていただいたことをかみしめ、励みにして、これからもこのブログを充実し、情報発信を継続して行きたいと思います。

2 ブログの統計
ブログ「花見川流域を歩く」のこの1年の統計を参考までに記します。

統計期間 2011.01.15~2012.01.14

●掲載記事数 350記事+8ページ

●ページビュー数 23514(1日平均64)

●記事閲覧(ページビュー)ベスト10
1 2011.02.23 花見川中流紀行 8河川景観と送電線鉄塔
2 2011.09.29 花見川石油パイプライン
3 2011.03.30 花見川中流紀行 21昭和5年の花見川橋
4 2011.03.29 花見川中流紀行 20明治前期の花見川橋と岡阜
5 2011.03.24 緊急報告 東日本巨大地震による花見川被災状況 2
6 2011.03.26 印旛沼堀割普請の丁場と素掘堀割の残存
7 2011.03.20 社会科副読本に登場する花見川堀割普請
8 2011.05.23 長沼池と縄文遺跡
9 2011.07.28 子和清水
10 2011.07.14 千葉市花見川区に在った旧軍毒ガス演習場 1

●国別のページビュー
1 日本 19206
2 アメリカ合衆国 3288
3 マレーシア 278
4 ロシア 186
以下、カナダ、ドイツ、インド、ウクライナ、大韓民国、イギリスの順

3 ブログに関する自らの感想
花見川流域全体をそれなりにカバーして散歩し、1年間情報発信してみて次のことを感じます。
3-1 花見川流域の自然的・文化的価値に着眼して、それに光をあてるような思考・活動をこのブログでしたい。
・花見川流域は印旛沼と東京湾に挟まれた地勢的位置にあり、社会の興味の対象になったことが少ないように感じます。それだけに沢山の宝が埋もれているように感じます。

3-2 自分の思考プロセスの実況中継を、ブログで行うスタイルを継続したい。
・検討成果をブログで公表するというのではなく、「ああでもない、こうでもない」と私が思考するプロセスをブログ記事にします。学習を深めていくプロセスを記事にします。ですから、誤りの訂正がこれまでも何度もあり、これからもあるとおもいます。そうしたある程度の試行錯誤を経ることによって、より合理的で充実した自然・文化の認識に到達したいと思います。

3-3 ブログ記事の再編集に着手したい。
・ブログ記事も増えてきて、自分でも全部憶えられなくなりました。これまでのブログ記事を再編集して利用しやすくしたいと思います。

2012年1月14日土曜日

絵遊び

仲東谷津が芦太川に合流する部分が現在の浸食谷の谷頭部分になっています。
この部分の地形について、なぜ崖錐と誤認したのかも含めて、詳細に眺めて、あれやこれやの地形の発達について考えてみたいと思います。

合流部をカシミール3Dで超低空撮影すると、仕様上の限界に近づいたためか、近景画像がどうしても鮮明になりません。
そこで、地形検討の前に、画像から引き出せる情報を増加させることができないか、絵遊びをしてみました。

次の画像が仲東谷津が芦太川に合流する部分の超低空撮影画像です。

仲東谷津の芦太川合流部
カシミール3D+5mメッシュによる
撮影対地高度141m

撮影ポイント

上記撮影画像ではぼんやりしていますので、この画像をフォトショップのフィルター機能を使い画像変換して遊んでみました。

ドライブラシによる画像変換
ドライブラシを使うと、台地近くの地形レリーフが鮮明になります。

水彩画による画像変換
水彩画による変換では谷底の微地形が明瞭になりました。

ラップによる画像変換
ラップによる変換では透明ラップを地形にかけたような画像になります。
仲東谷津の水流が芦太川の水流の合流するラインは影に隠れて、半分見えないのですが、この画像では明瞭にわかります。

この他エッジのポスタリゼーション、フレスコ、塗料などのフィルターによる画像変換も地形を理解するのに効果的でした。

2012年1月13日金曜日

仲東谷津の正体

千葉県地質環境インフォメーションバンクのボーリングデータを整理してみました。
仲東谷津のボーリングデータは3つ(1~3)、南岸に該当するデータとして最も近い3つ(A~C、芦太川の浅い谷の検討で使ったデータと同じ)、小崖を挟んで北岸に該当するデータを3つ(ア~ウ)の位置を3Dレリーフ図にプロットしました。
同時に、ボーリングデータの標高を比較できる形で並べてみました。

ボーリングデータの位置

ボーリングデータの比較
千葉県地質環境インフォメーションバンクの資料による。

この図から、それぞれのグループの孔口標高、ローム層厚、粘土層厚、粘土層と砂層の境の標高を平均を求めると、次のようになります。

比較のために、芦太川の浅い谷のデータも表に含めました。

仲東谷津の北岸の谷壁は構造的な小崖となっていると考えられますので、南岸台地(A~C)と仲東谷津(1~3)の関係と、北岸台地(ア~ウ)と仲東谷津(1~3)の関係は異なると考えます。

1 南岸台地(A~C)と仲東谷津(1~3)の対比
この二つのグループは地形が台地一般面と浅い谷という相違がありますが、地殻運動の影響は、双方とも小崖1と小崖2に挟まれているという点から、基本は同じであると考えます。
表から、私が気がついた特徴的なことは、次の通りです。
1-1 粘土層・砂層境の標高は台地一般面と仲東谷津はほとんど同じであること。
このことから仲東谷津の基本形状は砂層浸食によらない可能性が濃厚です。

1-2 粘土層厚は仲東谷津が1.2m薄いこと。
このことから、仲東谷津は粘土層を浸食して形成している可能性が濃厚です。

1-3 ローム層厚は仲東谷津が1.7m薄いこと。
このことから、粘土層の堆積が終わってから後、台地で、ローム層が1.7m積もった期間の間、この仲東谷津がアクティブであったと考えます。
逆に言うと、1.7m分のローム層は仲東谷津では流水によって下流に流されたと考えます。
仲東谷津のローム層厚は3.0mですから、このローム層が積もった期間は仲東谷津のアクティブさが失われてきた期間を示していると考えます。

2 北岸(ア~ウ)と仲東谷津(1~3)の対比
この二つのグループは小崖を挟んでいますから、異なる地殻運動の影響を受けている考えます。

表から私が気がついた最も特徴的なことは、次の通りです。
2-1 粘土層・砂層境の標高は北岸台地(ア~ウ)の方が仲東谷津より3.2m高いこと。
南岸台地(A~C)と北岸台地(ア~ウ)を比較しても北岸台地(ア~ウ)の方が3.5m高いことから、北岸台地(ア~ウ)の粘土層・砂層境の標高が高いのは、地殻運動によるものと考えることとし、仲東谷津の侵食作用によるものと考えないことにします。

2-2 北岸台地(ア~ウ)の粘土層厚が薄いこと。
北岸台地(ア~ウ)の粘土層厚は1.2mであり、南岸台地(A~C)と比べて2.6m薄くなっています。この附近は遅れて陸化したため、粘土層の堆積(湿地状の環境)の期間が短かったのかもしれません。

以上の情報と推測に基づいて、自分なりの作業上の仮説として模式地層断面図を作成してみました。

想定模式断面図

仲東谷津の浅い谷の正体を次のように想像します。
1 この附近では砂層堆積から粘土層堆積に環境が変化し(海の陸化)、粘土層アが堆積した。

2 芦太川の浅い谷が形成された。(南北方向の谷津がメインの水系網として形成された。)

3 小崖2の北側が隆起した。(小崖2ができた。)

4 小崖2の下(南側)にはもともと谷地形は無かったが、崖から水が集まり、その水は出口を探るので、時間の経過の中で浅い谷が形成された。
わずかの傾斜の差により、浅い谷は芦太川方向(仲東谷津)と高津川方向(仲西谷津)に分かれた。別れた場所が谷中分水界となった。

5 この浅い谷は流域面積が小さく、流量が少ないため、いつしか火山灰の降灰圧に負けて、火山灰に埋もれ、化石谷となった。谷が台地に戻ったと考える。

このように考えると、2012.1.9記事「空想」の「原始的浅い谷が東に向かっていたという空想」は成り立たないことに気がつきました。

なお、仲東谷津のローム層厚は3.0m、芦太川芦太川のローム層厚は2.3mですから、その差は0.7mあり、仲東谷津の方がローム層厚0.7m分余計です。それだけ早期にアクティブさを失ったと考えます。
現在の地形の形状をみても、芦太川浅い谷よりも、仲東谷津の方が埋もれて平坦化している様子が3Dレリーフ図で確認できます。
この時間の差が小崖2と小崖1の生起時間の違いによるものであれば、小崖2→小崖1の順番で地殻変動が生じたことになります。

仲東谷津(仮称)の設定

芦太川に西から合流する浅い谷の谷津の名称(仮称)をこのブログでは仲東谷津(ナカヒガシヤツ)とします。
また、この谷津の谷中分水界を経て高津川方向に傾斜する谷津の名称(仮称)を仲西谷津(ナカニシヤツ)とします。
ともに、この谷津が含まれる小字名を転用したものです。
いつまでも「芦太川に西から合流する浅い谷の谷津」とか「A谷津」とかで表現していたのではこの谷津の特性を明らかに出来ない雰囲気を自分の思考の中に感じたからです。
固有名称(仮称)を与えれば、その特性を明らかに出来る基盤を構築したことになります。

なお、小字名称は次の資料に基づきました。
「八千代市の歴史資料編近代・現代Ⅲ 石造文化財」添付図(「八千代市小字図」)(八千代市発行)
「八千代市の歴史通史編下」第六章八千代の地名(八千代市発行)
谷津の名称(仮称)

2012年1月12日木曜日

トピックス 近衛師団管轄演習場規程附図の閲覧

花見川河川争奪に関する記事連載を始める前、昨年夏(6月~10月)に、このブログでは旧軍演習場について話題の一つとしていました。
このたび、昨年夏以来懸案事項でありました近衛師団管轄演習場規程附図の閲覧が叶いましたので、報告します。
本日、近衛師団管轄演習場規程附図を所蔵している機関でその閲覧の機会を得ました。
全内容についてカラーコピーを入手できました。
近衛師団管轄演習場規程附図を所蔵している機関のご好意に感謝します。
国会図書館や防衛省防衛研究所防衛史料室、陸上自衛隊関係部署、各大学や地元図書館等をある程度悉皆的に調査して、結局みつけることができなかった史料を閲覧できたことは大変うれしいことです。
この史料が日本にないなら、渡米して、終戦時に占領米軍が押収した史料のコピーを関係米機関で探そうと思ったほどの資料です。
この史料を使って花見川流域における演習場利用(下志津演習場、習志野演習場)の一端について学習する予定です。
なお、演習場に関するブログ記事は現在進行中の地学関係記事が一区切りした後以降に連載する予定です。
近衛師団管轄演習場規程附図の姿

関係記事
2011年10月11日 「下志津特殊演習場に関連した要望」に対する回答
2011年9月7日 毒ガスに関する要望の提出
2011年6月19日 下志津射場図5近衛師団管轄演習場規程(下) 等
この他6月7月に記事多数

2012年1月11日水曜日

日の出


正月3日の下総台地の日の出風景です。
東西に伸びる雲の筋と日の出の光の筋がシンクロしているようで珍しく、晴れの日の出とはまた違った趣がありました。

2012年1月10日火曜日

霜の風景

今朝の散歩で霜が降った景色が「いいね!」と感じました。


普段は雑然としている感じが強い家庭菜園の場所も、絵に描いたような風景になっています。
雑然としていること自体が「いいね!」です。
濃厚な感じがします。
破れたビニールまで風景素材に感じます。
白色のベールに覆われて、一つ一つの事物の個性が弱まったため、全ての事物が一つの画面の中に溶け込む姿勢を見せたため、私は「いいね!」と感じたようです。


柏井橋から見たマダケの林も霜の白い化粧をしていました。


花見川西岸の宮附遺跡がある下総下位面と考えられている河岸段丘の畑も霜の世界となっていました。
なお、高圧線鉄塔の下(だけ)が宮附遺跡です。縄文土器や土壙が見つかっています。

2012年1月9日月曜日

空想

芦太川の浅い谷を空から眺め、あれこれと空想してみました。

芦太川の浅い谷

何枚もの空からの画像を見ながら気がついたことをメモしておきます。

1 西から芦太川に流れ込む浅い谷がそのまま東に流れていたことを暗示する地形が気にかかります。
芦太川と東隣(画面左)花見川前谷津との境の台地が低くなっています。(ここにある切通しは人工です。)
南から北に向かって川が流れるような地形ができる前に、西から東に向かって川が流れる地形があったのかもしれません。
あるいは小崖が東西に連続していることに象徴されるように、地殻運動でそこに凹地ができて、構造的な谷に発達したのかもしれません。
空想しているだけでは結論がでませんが、「わからない」より「こう考える」としておいた方が、それに関する情報が集まりやすいと考えます。そこで、せっかくの空想時間を無駄にしないために、次のような空想的仮説を一度作っておくことにしました。

原始的浅い谷が東に向かっていたという空想

地形断面

西から流れてくる浅い谷が花見川流域の方向に流れていた時期があり、それは南北に流れる芦太川の谷津(浅い谷)より古いと考えました。
その理由は、西から流れてくる浅い谷を芦太川の浅い谷が切っている関係に地形が見えるからです。
下総台地が陸化するころ、河川争奪があったという説です。

次の絵は花見川流域を全て含む(カシミール3Dでの)空撮ですが、上記原始的浅い谷の連続が西も東も流域全体に続いていることを示しています。
花見川流域の地学を考える上で重要であることは間違いない現象です。早く、空想から科学に進みたいものです。

花見川流域

2 「崖錐の発達」は間違い
西からの浅い谷が芦太川に合流するところに、崖錐が発達していると、これまで考えていました。
米軍空中写真を実体視してそう確信しました。
しかし、カシミール3Dにより空撮して、いろいろな角度からの画像を見ていると、ある瞬間、間違いだったと判りました。
空撮画像から判るように、この附近が現在の谷頭浸食部です。ここにある微地形のほとんどか浸食地形であることに気がつきました。

間違いが発見できたということはそれだけ学習が進んだのであり、喜ばしいことです。
oryzasan氏には「崖錐があります」と胸を張って話し、情報発信した手前、お詫びします。
また恥ずかしくもありますが、より合理的な考えにたどり着いたことは本心うれしいことです。

なお、この谷頭浸食部を仔細にみると、次の2つの点に気がつきました。
1 西からの浅い谷の合流点より下流のV字谷の谷壁に浅い谷の断片が残っていること。
2 現在の芦太川の本流は西から合流する浅い谷であること。
西からの浅い谷のほうが、芦太川の浅い谷よりも浸食作用が盛んに見えます。これは流域面積の違いにより、流水量が異なるためだと思います。
現在の芦太川の本流は、実は西からの浅い谷だということに気がつきました。

2012年1月8日日曜日

浅い谷の正体

芦太川上流の浅い谷の正体を突き止めるために、横断方向のボーリングデータを比較してみました。

この附近の台地には東西に平行して走る二つの小崖があり、それを境にして地殻運動の傾向が異なる印象を受けています。芦太川の浅い谷はこの二つの小崖の間にあるので、比較するボーリングデータも同じ条件のものとします。

近くにボーリングデータがないので、約1㎞西の3地点のデータと比較してみました。

ボーリングデータの位置

ボーリングデータの比較
千葉県地質環境インフォメーションバンクの資料による。

A、B、Cは台地一般面を代表するボーリングデータと考えます。
3~7は浅い谷のボーリングデータです。

この図から、A、B、Cと3~7について、孔口標高、ローム層厚、粘土層厚、粘土層と砂層の境の標高のそれぞれの平均値を求めると次のようになります。


台地面と浅い谷を比較して私が気がついた特徴的なことは、次の通りです。
1 粘土層・砂層境の標高は台地一般面と浅い谷はほとんど同じであること。
このことから、浅い谷の基本形状は砂層浸食によらない可能性が濃厚です。

2 粘土層厚は浅い谷が1.3m薄いこと。
このことから、浅い谷は粘土層を浸食してできた可能性が濃厚です。

3 ローム層厚は浅い谷が2.4m薄いこと。
このことからローム層が2.4m積った地史時間においては、この浅い谷がアクティブであったと考えられます。つまり、浅い谷に積もった火山灰は流水により流されたと考えます。
浅い谷のアクティブさが失われてから、(谷の大きさに見合った流水が流れなくなってから)2.3mのローム層が台地一般面にも、浅い谷にも積もったと考えます。

浅い谷のアクティブさが失われた理由は、小崖より上流の流域が地殻変動により沈下し、芦太川の流域ではなくなったためだと考えます。

なお、浅い谷である理由は、粘土層を形成した時代の浸食基準面(海面)の緩やかな低下に従ってできた谷であるため、深い谷が形成できる条件が存在しなかったと考えます。
そして、浸食エネルギーは水平方向に働かざるを得ず、広く浅い谷になったものと想像します。

以上の考えに基づいて、台地面のボーリングデータと浅い谷のボーリングデータを繋げて、浅い谷と台地の関係を示す模式的地層断面を作成してみました。

想定模式地層断面

浅い谷の正体を次のように想像します。

1 この附近では砂層堆積から粘土層堆積に環境が変化し(海の陸化)、粘土層アが堆積した。

2 陸化が徐々に進む(浸食基準面が低下する)と粘土層アを浸食して河流による広く浅い谷が形成された。

3 その谷にも粘土の再堆積があった(粘土層イ)。あるいは上流から運ばれた砂層の再堆積もあった(砂層のレンズ)。

4 谷がアクティブであった期間に台地では2.4mの火山灰が積もった(ローム層ア)。

5 ある時期、地殻変動により、小崖1が形成され、それより上流の流域が沈下し、そこからの流水の供給が絶たれた。そのため、芦太川は空川になった。

6 その後の地史時間の中で台地にも、浅い谷にも火山灰が2.3m積もった(ローム層イ)。