2020年7月30日木曜日

千葉への土偶祭祀伝播経路

縄文土器学習 442

1 土偶祭祀について
2020.07.30記事「土偶急増期の地域分布」における検討のうち千葉への土偶祭祀伝播経路だけを抜き出してみました。
ここで土偶祭祀とは縄文中期に中央高地で顕著に観察できる地母神殺害再生神話に基づく特定の土偶祭祀のことです。この土偶祭祀は土偶(地母神)を最終的にはバラバラにして(模擬殺人、模擬死体解体)、幸を期待する場所に撒く(埋める)活動を伴います。
地母神殺害再生神話はニューギニアなどによく似た神話が存在していて、縄文中期頃にその始原的神話と活動が大陸から列島に伝わり、一方ニューギニア等アジア各地にも伝播したと推定されています。(吉田敦彦著「日本神話の源流」(講談社学術文庫)等による)

地母神神話が伝来する前の土偶はバラバラにすることを目的につくられたものではなく、その使い方(祭祀の仕方)の一例は出産時妊婦のお守りが想定されています。(上黒岩岩陰遺跡出土岩偶の使い方からの推定。)
土偶の形状も小さく、顔が無いものが多くなっています。

2 千葉への土偶祭祀伝播経路(学習仮説)

千葉への土偶祭祀伝播経路(学習仮説)
県別のグラフ(時期別土偶検出数)を並べると、新潟→長野→山梨→東京のピークが中期であり、東京に隣接する千葉のピークが後期であることから、大陸→新潟→長野→山梨→東京→千葉という伝播経路を学習仮説として設定することができます。


土偶急増時期からみた千葉への土偶祭祀伝播経路
地理院地図3Dモデル(色別標高図+白地図)
垂直倍率:×9.9
大陸→新潟→長野→山梨→東京→千葉

3 メモ
・地母神殺害再生神話に基づく土偶祭祀が大陸から到来した時(人集団が新潟にやってきた時)、同時に列島にはない技術、道具、デザイン等も伝わったと考えることが当然であると考えます。その土偶祭祀と一緒に渡来した技術、道具、デザイン等を特定することが大切です。

・中期中央高地は「縄文農耕」論発祥地です。農耕技術と土偶祭祀が結びついたものであるかどうか、既成概念を取り払い検証することにします。(現状では生活維持に関して意味がある程度の農耕はないと考えています。)

・中期から後期にかけて長野→山梨→東京→千葉と人集団が移動していると考えています。その人の移動には様々な要因が働いていると思いますが、その要因の重要なものとして、土偶祭祀集団の能動的・主体的移動があるのではないかと疑っています。
環境が劣悪になって逃散したということだけではなく、計画的・組織的移動があったのではないかと考えます。
集団でより環境の良い場所に移動する、つまり移動先の人々を追い払う新天地開発活動、征服を伴う開拓活動が土偶祭祀集団によって行われたのではないかと考えます。
極端にいえば、大陸から渡来した集団が在地の人々を集めながら勢力を増して、最後は海産物豊かな土地である千葉を獲得したのではないかと想像します。

土偶急増期の地域分布

縄文土器学習 441

国立歴史民俗博物館研究報告第37集「土偶とその情報」(1992)により県別土偶急増期をグラフにより検討してみました。

1 土偶検出数

土偶検出数(1992)
現在ははるかに多数の土偶が検出されていると考えますが、そのおおよその地域分布は1992年情報と似ていると仮定して、次にその時期別検出数を見てみます。

2 土偶急増期の地域分布

土偶急増期の地域分布
東日本各県の時期別土偶検出数をグラフにして並べてみました。中期にピークがある県と、後期以降にピークがある県の二つに特徴差異的に分割して捉えることができます。

3 土偶急増期の地域分布 検討

土偶急増期の地域分布 検討
これまでの土偶学習で生まれた学習仮説をこの分布図に投影すると、大陸から最初に伝播した土偶祭祀(=地母神殺害再生神話)は富山や新潟であり、そこから長野→山梨に伝播して繁盛してエネルギーを蓄え、その後東京神奈川に伝播したと考えられます。そこまでが土偶検出ピークが中期の県です。
その後、東京から千葉、埼玉へさらに茨城、栃木、群馬に伝播したと考えられます。

4 感想
土偶祭祀の地域伝播の様子がかなり明瞭になりました。

2020年7月29日水曜日

縄文中期千葉土偶に興味を深める

縄文土器学習 440

1 「千葉県内における土偶の変遷」図を見つける
加曽利貝塚博物館展示物の中に次の「千葉県内における土偶の変遷」図と「加曽利貝塚出土の土偶」説明文をみつけました。

「千葉県内における土偶の変遷」
加曽利貝塚博物館展示パネルから引用

「加曽利貝塚出土の土偶」
加曽利貝塚博物館展示パネルから引用

その内容を咀嚼し、縄文中期房総における土偶希少性と中部高地の房総遠征、その後の土偶祭祀盛行にますます興味が深まりました。2020.07.15記事「房総における縄文中期土偶の検討課題」のつづき記事になります。

2 中期千葉の土偶希少性と中部高地由来河童形土偶出土の特異性
「千葉県内における土偶の変遷」の中期分には5点の土偶が図示されていますが、いづれも顔のないものばかりです。

「千葉県内における土偶の変遷」中期分に塗色
加曽利貝塚博物館展示パネルから引用・追記

これでは中期土偶の様子がよくわかりませんから、「千葉県の歴史」(千葉県発行)で詳しく調べてみました。

千葉県の縄文中期の土偶
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」から引用・追記

千葉県における縄文中期土偶出土は遺跡数とくらべて極めて稀です。
出土している土偶も出土数が少ないのでその文様の意味が分からないものが多いようです。
遺跡数が爆発的に増える加曽利E式期にも全体で数点の土偶(「千葉県の歴史」発行時点)しか出土していないようです。
その稀な土偶出土状況の中に中部高地の茅野市棚畑遺跡出土国宝土偶「縄文のビーナス」にも通じる河童形土偶が出土していて(しかも完形で)、驚かされます。

データは古いものになりますが、千葉県の土偶数と遺跡数を同じグラフでみると次のようになります。

千葉県土偶数と遺跡数
土偶数の数値は現在は、これよりもはるかに多いものと推定しますが、その時期分布傾向は変わらないと推測できます。遺跡数(グラフでは実数の1/10で表示)が中期→後期→晩期と減少するのですが、土偶数は中期にほとんど出土せず、後期に爆発的に増加し、晩期にも高水準を保っています。
千葉県では土偶は後期になってはじめて登場したといって過言ではありません。

3 学習課題
以上の土偶に関する情報から次の学習課題が浮かび上がります。

ア 縄文中期に千葉で出土した河童形土偶の意義
縄文中期に千葉で出土した河童形土偶は、中部高地集団(土偶祭祀をはじめて導入した集団)の遠隔地開発部隊、いわば斥候部隊の存在を表現しているのか、詳しく学習したいと思います。

イ 縄文中期に千葉で土偶祭祀が拒否された理由
縄文中期千葉における人口の爆発的増加、貝塚文化の盛行のなかで土偶祭祀が拒絶された理由はぜひとも突き止めなければなりません。
土偶祭祀を必要としていなかったことは確実に確認できます。
ただ、土偶祭祀とは別の〇〇祭祀が代替的に存在していたとは自分は考えていません。縄文中期の千葉では石棒祭祀が替わって盛んだったという文章をどこかで読んだことがありますが、石棒の出土数は少なく、おそらく違うと考えます。土偶祭祀とはつまり海外農業社会由来の外来地母神殺害再生神話による祭祀です。それは当時の縄文社会で急速に勢力を拡大する新興宗教みたいものであったと想像します。その新興宗教を拒否して伝統的な社会(=狩猟採集社会本来の神話を持つ社会)を守った(発展させた)のが中期千葉貝塚社会であったと空想します。
従って、中期千葉貝塚社会では、土偶祭祀よりも古い、より原始的祭祀が行われていたと考えます。おそらく実務生活そのものに祭祀的意義が見出されていて、余った時間は全て瞑想の時間となり、「祭祀活動」という独立した取り組み・時間はすくなかったと空想します。

ウ 堀之内式期から土偶が急増する理由
称名寺式期までは土偶がほとんど皆無で、堀之内式期から土偶が急増します。社会崩壊して称名寺式期に底をうった人口が堀之内式期に急増します。
この社会崩壊と再生の間に集団の入れ替えが行われたと想像します。
加曽利E式期に隆盛を誇った人々(土偶を拒否した人々)の持つ海岸の漁業権、林地の植物採集権(土地利用権、入会権)、猟場における狩猟権は土偶祭祀を行う人々に完全移動したと想像します。
加曽利貝塚でいえば北貝塚で集落を営んでいた集団は逃散し、あるいは新集団に服属したと想像します。新集団は南貝塚を新たな生活の場とし、そこで土偶祭祀を盛んに行ったと思います。

【余分な一言メモ】
伝統縄文社会→土偶祭祀社会に社会が総入れ替えになった時、旧集団の人々は新集団の人々の下位に位置付けられ、同じレベルの住人としては扱われなかった可能性があります。それがふさわしい用語であるかどうかわかりませんが、「奴隷」的な人々が生まれた可能性があります。
以前学習を深めた大膳野南貝塚後期集落では住居に漆喰貝層が出土する通常竪穴住居のものと、それが出土しない竪穴が不明瞭なものがありました。その住居の差から別集団が同じ集落に住んでいたと考えました。もしかしたら、上下のある二つの階層の人々が同じ集落に住んでいたのかもしれません。



2020年7月28日火曜日

君津市三直貝塚出土の異形台付土器等5点の3Dモデル作成

縄文土器学習 439

加曽利貝塚博物館のミニ企画展示「県内縄文遺跡展」(-千葉県の縄文時代研究を彩った遺跡たち- 君津市三直貝塚編)で展示されている異形台付土器等5点の3Dモデルを作成して楽しみました。

1 異形台付土器2と3(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル

異形台付土器2と3(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル
縄文時代後晩期(安行2式~安行3a式)
右2、左3
2と3はともにSI-004Bから出土しました。
千葉県教育委員会所蔵
撮影場所:加曽利貝塚博物館 ミニ企画展示「県内縄文遺跡展」-千葉県の縄文時代研究を彩った遺跡たち- 君津市三直貝塚編
撮影月日:2020.07.21
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.002 processing 46 images

展示の様子

特殊モード写真

ペアで出土している様子は異形台付土器によくある現象です。

2 安行3a式異形台付土器4(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル

安行3a式異形台付土器4(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル
千葉県教育委員会所蔵
撮影場所:加曽利貝塚博物館 ミニ企画展示「県内縄文遺跡展」-千葉県の縄文時代研究を彩った遺跡たち- 君津市三直貝塚編
撮影月日:2020.07.21
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.002 processing 61 images

展示の様子

特殊モード写真

3 縄文時代晩期異形台付土器5(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文時代晩期異形台付土器5(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル
台部欠損
千葉県教育委員会所蔵
撮影場所:加曽利貝塚博物館 ミニ企画展示「県内縄文遺跡展」-千葉県の縄文時代研究を彩った遺跡たち- 君津市三直貝塚編
撮影月日:2020.07.21
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.002 processing 53 images

展示の様子

特殊モード写真

4 人面付器状土製品6(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル

人面付器状土製品6(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル
縄文時代後~晩期
千葉県教育委員会所蔵
撮影場所:加曽利貝塚博物館 ミニ企画展示「県内縄文遺跡展」-千葉県の縄文時代研究を彩った遺跡たち- 君津市三直貝塚編
撮影月日:2020.07.21
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.002 processing 67 images

展示の様子

特殊モード写真

目より鼻の方が上になる様子などミミズク土偶によく似た顔つきです。

2020年7月27日月曜日

交易用特産品麻ロープについて

縄文社会消長分析学習 42

2020.07.24記事「有孔円板形土製品の感想」等で、君津市三直貝塚出土有孔円板形土製品(加曽利貝塚博物館展示では「土版」表示)が麻ロープ製品をつくる装置の一部であることを学習しました。そして、2020.07.27記事「異形台付土器の展開写真作成と考察・学習仮説」で同じく君津市三直貝塚出土異形台付土器が大麻吸引装置のフィギュアであることを学習仮説しました。

この二つの思考が大麻栽培という活動で結び付いていることに遅ればせながら気が付きました。

大麻栽培で関係する?

三直貝塚で大麻が栽培され、葉は乾燥の後に祭祀で吸引される。残った茎は麻ロープ製品作成の素材として活用する活動が遺物出土から推測されます。

有孔円板形土製品は漁網や釣り用の高品質麻ロープ生産と関係あると学習しましたが、その根拠はあくまでも民俗資料からの推測です。漁網や釣り糸用という用途にあまりこだわらない方が良い思います。高品質麻ロープは祭具としての製品になって交易に使われたと考えることも必要であると考えます。

縄文後晩期の人々は、高品質麻ロープで漁網や釣り糸をつくりそれで漁業生産性を向上させたという現代社会風の解釈が必ずしも正しいとは思えません。むしろ、高品質麻ロープをしめ縄、幣束、イナウ飾り結び用ロープなどに使った可能性が高いように感じます。現代社会に伝わる神事用品に麻を使うものが数多くあります。現代日本庭園の竹柵などの飾り結びも黒色の麻縄です。
日常生活に使う品よりはるかに高品質の品を用意して、それを祭祀に使う。それが縄文社会であったような気がします。同じ石斧でもすべてが実用品ではなく、特別優良品は祭祀用にのみ使い、普段は普及品を使っていたといわれています。

さらに余分な思考をつけ加えるとすると、交易用特産品とはそれが食料品であっても日常用品であっても、煎じ詰めると祭祀に必要な品に深く関連するものだったに違いないと考えます。
例えば、海岸で作られた干し貝や石焼鯨(イルカ干し肉)は内陸でのお供えものとして必須であり、最後は珍味として食されるのですが、その意義は神様への「お供え物」だったと想像します。

交易用特産品とはつまり祭祀に必要な品々であり、一言でいうと贅沢品・奢侈品であり、人々の食糧事情や生活環境を順次改善する現代貿易のような意義は弱かったのではないかと想像します。

縄文後晩期社会の特性イメージが自分なりに少しずつ浮かび上がってきました。

異形台付土器の展開写真作成と考察・学習仮説

縄文土器学習 438

2020.07.27記事「異形台付土器(君津市三直貝塚)の観察」で観察した異形台付土器1の3Dモデル展開写真をGigaMesh Software Frameworkで作成し、その結果を考察しました。

1 GigaMesh Software Frameworkによる展開写真作成風景

GigaMesh Software Frameworkの作業画面
3Dモデルの投入と展開用円錐体の中心軸の設定

GigaMesh Software Frameworkの作業画面
3Dモデルを展開して作成した展開3Dモデルの正面画像

2 GigaMesh Software Frameworkによる展開写真
展開写真2種(テクスチャタイプ、ソリッドタイプ)をPhotoshopで加工して次の画像を得ました。

異形台付土器1(君津市三直貝塚)展開写真 1

異形台付土器1(君津市三直貝塚)展開写真 2

異形台付土器1(君津市三直貝塚)展開写真 3

異形台付土器1(君津市三直貝塚)展開写真 4

異形台付土器1(君津市三直貝塚)展開写真 5

3 展開写真による考察と学習仮説
異形台付土器とは、上・中・下3つのパーツから構成されているものと認識しています。
そのうち上と下の文様パターンは反転して同じになっています。

異形台付土器構成パーツ上下の文様パターンが反転して同じ様子

この上下文様が反転して同じ様子は加曽利貝塚出土異形台付土器でも同じです。

三直貝塚出土異形台付土器と加曽利貝塚出土異形台付土器の文様

上下パーツの文様が反転して同じことは、上下パーツが土器をイメージしているからであると考えます。上下パーツの形状もまさに土器そのものです。

下のパーツは土器を地面にかぶせて置いた様子、その上に柔らかいモノを束ねて置き、さらにその上に土器を置いた装置の様子をこの異形台付土器は表現していると考えます。

異形台付土器が表現している装置のイメージ

現在の学習仮説は、大麻煙発生装置のフィギュア(模型、イコン)が異形台付土器であると考えています。

異形台付土器はあくまでもイコンであり、キリスト教の十字架みたいな役割をしていたと想像しています。実際の大麻煙は祭祀で重要な役割を果たしていたのだと思いますが、毎日大麻を吸っていては生活が成り立ちません。そこでイコン(異形台付土器)の力で大麻吸引と同じような精神的・肉体的効果を得ていたのだと思います。高度祭祀文化活動における究極の発明品です。

この学習仮説が生きることになるとすれば、縄文後晩期社会は大麻中毒があまりにひどく、実際の吸引を抑制するための発明が必要であるほどの非健康社会であったということになります。


異形台付土器(君津市三直貝塚)の観察

縄文土器学習 437

加曽利貝塚博物館で開催中の「ミニ企画展示「県内縄文遺跡展」-千葉県の縄文時代研究を彩った遺跡たち- 君津市三直貝塚編」で展示されている加曽利B1式異形台付土器1を3Dモデルを作成して観察しました。

1 加曽利B式異形台付土器1(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル

加曽利B式異形台付土器1(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル
千葉県教育委員会所蔵
撮影場所:加曽利貝塚博物館 ミニ企画展示「県内縄文遺跡展」-千葉県の縄文時代研究を彩った遺跡たち- 君津市三直貝塚編
撮影月日:2020.07.21
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.002 processing 62 images

展示の様子
赤彩の跡が明瞭に観察できます。

特殊モード写真

動画

2 メモ
ア 復元方法について
復元部分に赤い色を混ぜているのは好ましい復元方法ではないと思います。復元していない部分のかすかな残存赤彩の観察が困難になります。

イ 加曽利貝塚出土異形台付土器との比較

加曽利B3式異形台付土器A(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2019.12.27
許可:加曽利貝塚博物館の許可による全周多視点撮影及び3Dモデル公表
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 81 images
2020.05.27記事「加曽利貝塚出土異形台付土器の観察と検討

三直貝塚出土の異形台付土器1は加曽利貝塚出土のものと比べると、全体の器形、模様はかなり似ています。細部では次の2点が異なります。
・土器口唇部に小突起装飾が4単位ある。(加曽利貝塚分にはない。)
・中段ふくらみ部の丸孔と丸孔の間に小さな装飾突起がある。(加曽利貝塚分にはない。)

今後加曽利貝塚出土分と三直貝塚出土分を同じ3D空間で縮尺を正確に合わせて並べた3Dモデル資料を作成してみることにします。異なる遺跡の遺物を並べることにより、より直観的観察が、かつより正確な対比・測定観察ができるようになることを期待します。その3Dモデルには3次元スケールも添えたいと思います。(Blenderで作成可能であると直感します。)

……………………………………………………………………
この遺物に関する発掘調査報告書記述に関する考察、及びGigaMesh Software Frameworkによる展開写真とその分析は別記事で行います。



2020年7月26日日曜日

小型深鉢文様の観賞

縄文土器学習 436

2020.07.25記事「君津市三直貝塚出土の加曽利B1式小型深鉢の観察」でこの小型深鉢の文様が珍しいので興味を持ちました。
そこでGigaMesh Software Frameworkで3Dモデルの展開写真を作成して、さらにPhotoshopでいくつかの画像バージョンを作成してじっくり観賞してみました。
「考古趣味」的発想からの観察ではなく、「アート作品」的視点で観賞しようとしました。
しかし案の定、老化硬直した頭脳でいくら力んでみてもその観賞は不発になりました。
元の木阿弥ですが、「考古趣味」的連想が生まれましたので、メモしておきます。

1 GigaMesh Software Frameworkによる3Dモデル展開写真作成

GigaMesh Software Frameworkの作業風景

2 3Dモデル展開写真の画像バージョン

加曽利B1式小型深鉢(君津市三直貝塚) 1

加曽利B1式小型深鉢(君津市三直貝塚) 2

加曽利B1式小型深鉢(君津市三直貝塚) 3

加曽利B1式小型深鉢(君津市三直貝塚) 4

加曽利B1式小型深鉢(君津市三直貝塚) 5

3 画像から生まれた連想
・S字装飾の左輪に磨消が、右輪(一部欠けている)に縄文が対応している。
・磨消と縄文はペアでセットになっている。
・磨消は男を縄文は女をイメージしているように感じることができる。
・階段状に上に上昇する模様に感じることができる。(階段を下るようには感じられない。)
・実際の道路装置としての「階段」が縄文時代に発明されていて、加曽利B1式期には普通に使われていた装置であると考えます。(どこかの低地遺跡の木道部に階段が発見されているかもしれない。)
・「夫婦(磨消+縄文)が手を携えて人生のステージを上る」と連想することも、自分に対しては十分に許されるであろう。

2020年7月25日土曜日

君津市三直貝塚出土の加曽利B1式小型深鉢の観察

縄文土器学習 435

加曽利貝塚博物館で開催中の「ミニ企画展示「県内縄文遺跡展」-千葉県の縄文時代研究を彩った遺跡たち- 君津市三直貝塚編」で展示されている加曽利B1式小型深鉢を3Dモデルを作成して観察しました。

1 加曽利B1式小型深鉢(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル

加曽利B1式小型深鉢(君津市三直貝塚) 観察記録3Dモデル
千葉県教育委員会所蔵
撮影場所:加曽利貝塚博物館 ミニ企画展示「県内縄文遺跡展」-千葉県の縄文時代研究を彩った遺跡たち- 君津市三直貝塚編
撮影月日:2020.07.21
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.002 processing 53 images

展示の様子

特殊モード写真

動画

2 発掘調査報告書の実測図と記載

発掘調査報告書実測図
「東関東自動車道(木更津・富津線)埋蔵文化財調査報告書7-君津市三直貝塚-(第1分冊)」(平成18年3月、東日本高速道路株式会社・財団法人千葉県教育振興財団)から引用

●発掘調査報告書記載
「1は小型深鉢で、磨消縄文による連続する階段状の文様が特徴的である。口縁部外面の「S」字形の装飾は1つのみである。内面の調整は丁寧な磨きで、黒色である。」


3 GigaMesh Software Frameworkによる3Dモデルの展開図作成

GigaMesh Software Frameworkによる3Dモデル展開図
テクスチャタイプ

GigaMesh Software Frameworkによる3Dモデル展開図
ソリッドタイプ

4 メモ
・階段状の文様は珍しいもので、それを意識して観察したのは初めてです。また口唇部近くのS字状の小さな装飾もめずらしいと感じました。
・磨消部が黒色に磨かれていますが、縄文のへこみ部分が粘土の茶色で残っているので、黒色は炭などを塗り込んだのかもしれません。
・胴部下部に火炎を受けた様子がないので、液体を神様に捧げる祭器として使われたものと想像します。あるいは花瓶のような利用であったかもしれません。
・考古遺物ではなく、造形芸術物としてみれば、その価値と展示ショーケースの簡易なつくりがアンバランスに感じてしまいます。

交易用特産品が必須であることに気が付く

縄文社会消長分析学習 41

1 交易用特産品が必須であることに気が付く
2020.07.24記事「有孔円板形土製品の感想」で、縄文晩期前浦式土器集団が有孔円板形土製品を組み込んだ技術装置により高品質麻ロープ製品をつくり、交易用特産品とし、その交易により祭祀用石器など房総では得られない製品を入手している様子を想像しました。

漁網用高品質麻ロープ製品作成原理と装置
宮原俊一著「重たい紡錘車-縄文晩期の有孔円板形土製品について-」(「日々の考古学3」(東海大学文学部考古学研究室編)から引用

この想像で次のような重要な事柄に気が付きました。

下総台地ではその近隣を含めて翡翠・黒曜石はもとより、石棒など祭祀用石材やその製品を入手することはできません。奥東京湾筋や古鬼怒湾筋にでかけても凹石・磨石用礫を拾うことはできません。
これらの石材や石製品はすべて交易によって入手しなければなりません。
従って交易用の特産品を用意しなければなりません。

下総台地では(というか全国全てで)、自分の食糧確保活動の他に、必ず特産品生産活動をしなければ生活が成り立たないということです。

中期以降特に後晩期は祭祀活動が活発になり、装身具も華美になります。それらいわば贅沢品を入手するための特産品増産は焦眉の課題になっていたはずです。新たな特産品開発も活発化していたと考えます。

今さらですが、すべての縄文人が自分の食糧確保以外に、何らかの魅力あふれる特産品を必ず用意しなければならず、それがなければ社会を渡っていけないことに気が付きました。
(同時に、今さらそれがわかる自分も学習面では相当な奥手で、奥ゆかし人物であることにも気が付きました。)

2 交易用特産品の特定という視点から集落を観察する
土偶急増が指標するように中期以降、特に後晩期は祭祀活動が活発化します。それに伴い祭祀用石器製品、石製装身具、希少貝製装身具など地場では得られない製品の需要が急増します。房総では、それらの製品は交易ルートを通じて入手したのですが、そのためには必ず多量の特産品を提供する必要があります。
検討対象の集落・貝塚は何を特産品として提供したかという視点で集落・貝塚を観察することが大切であると考えます。
東京都中里貝塚では牡蠣養殖による干貝を特産品にしていたといわれています。
千葉県加曽利貝塚はイボキサゴ加工による固形調味料でしょうか?

イボキサゴ
加曽利貝塚博物館展示

時代は違いますが、千葉市神門遺跡(ハマ貝塚、前期)の学習をしたときイルカ解体跡と集石跡があり、「石焼鯨」が作られていたのではないかと考えたことがあります。イルカの保存用干し肉なども内陸で喜ばれる有力な特産品になりうるものです。

交易用特産品は何であったかという視点で縄文集落を考察することがとても重要であることに気が付きました。特産品は必ずあるのですから、学習は深まります。

3 特産品生産による社会の虚弱化
ア 超単純化した特産品生産目的(学習仮説)
・草創期~前期…特産品生産は生活必需品を入手するためだった。(房総でいえば狩猟用黒曜石とか日常必須である凹石・磨石等)
・中期~晩期…特産品生産は生活必需品のみならず祭祀具・装身具を入手するためで、祭祀具・装身具入手の割合が肥大化した。(石棒、翡翠大珠、オオツタノハ貝輪・・・)

イ 特産品生産による社会の虚弱化
特産品生産により、その反対給付として祭祀具や装身具を入手し、当然ながらその祭祀具や装身具を使った祭祀活動時間が増大する社会が縄文中期以降、特に縄文後晩期社会です。
その社会構造は房総のみならず、全国共通であると考えます。
そのような社会とは単純に言えば、自分のための食料確保時間を切り詰めている社会です。食糧確保に関する余裕が少なくなったリスクのある社会です。危機に対して虚弱な社会です。
縄文社会は中期以降、特に後晩期にそのような選択を自ら主体的に行ったということです。
人口のピークが加曽利E→加曽利B→安行とだんだん低くなっているのは社会の食糧確保能力が弱まっていることを表現しているのだと思います。同時にその背景に文化活動(祭祀活動)がますます活発化している状況があると思います。「農業はしません。でも農業社会の文化活動だけは取り入れます。」という都合の良い選択で、縄文人は最後に衰滅してしまいました。
縄文社会衰退の真の理由は社会の下部構造と上部構造のアンバランスです。ちまたでいわれる気温低下が作用したことがあるとすれば、それは短周期消長についてであり、長周期・大局的には無関係です。縄文後晩期の平均気温は現在よりも1度以上高いです。

縄文社会の選択
2020.07.07記事「縄文社会の選択」参照


2020年7月24日金曜日

安行2式末小型台付浅鉢(千葉市築地台貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文土器学習 434

加曽利貝塚博物館で開催中の夏休み企画展「調べて発見!わたしのまちの縄文時代」で展示されている安行2式末小型台付浅鉢(千葉市築地台貝塚)の観察記録3Dモデルを作成して観察しました。

1 安行2式末小型台付浅鉢(千葉市築地台貝塚) 観察記録3Dモデル

安行2式末小型台付浅鉢(千葉市築地台貝塚) 観察記録3Dモデル
説明:儀式で使う土器?
撮影場所:加曽利貝塚博物館 夏休み企画展「調べて発見!わたしのまちの縄文時代」
撮影月日:2020.07.21
ガラス越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.002 processing 76 images

展示の様子

特殊モード撮影
肉眼ではよく確認できない赤彩が浮かび上がりました。

GigaMesh Software Frameworkによる展開写真

動画

2 観察
・浅鉢の直径10.6㎝、高さ8.9㎝。
・口唇部に小突起が3つ集まった飾りが対向して合計4カ所あります。うち1箇所の小突起は真ん中が脱落していてありません。(脱落した跡が3Dモデルで観察できます。)
・肉眼では不明瞭な赤彩跡が特殊モード写真で明瞭に浮かび上がりました。
・神様に捧げる食べもの(すでに調理した食べ物)をこの小型台付浅鉢に入れて祭壇に置き、その前で祈願したのだと想像します。

有孔円板形土製品の感想

縄文土器学習 433

2020.07.23記事「君津市三直貝塚出土の有孔円板形土製品」で加曽利貝塚博物館展示三直貝塚出土「土版」が漁網等を撚る吊り下げ型回転錘であることがわかりました。
この学習でつかった論文に有孔円板形土製品の出土分布図が掲載されていますので、それに関する感想等をメモします。

1 有孔円板形土製品出土分布図に関する感想

有孔円板形土製品出土遺跡
宮原俊一著「重たい紡錘車-縄文晩期の有孔円板形土製品について-」(「日々の考古学3」(東海大学文学部考古学研究室編)から引用
この地図には有孔円板形土製品出土遺跡と前浦式・安行c式・安行d式遺跡も同時に掲載されていて見づらいので、出土遺跡だけ分離してみました。

有孔円板形土製品出土遺跡だけ赤丸で分離
宮原俊一著「重たい紡錘車-縄文晩期の有孔円板形土製品について-」(「日々の考古学3」(東海大学文学部考古学研究室編)掲載図から作成

大きな赤丸(出土数20以上のようです)の分布は房総に限定されています。また漁業とは縁のない内陸部の遺跡(例 内野遺跡など)も含まれています。
全体の分布は縄文晩期海岸線を意識すると、ひいき目にみても海域漁業活動の活発さとは相関しません。

次に手持ち資料で千葉県域の前浦式土器、安行c式土器、安行d式土器出土遺跡分布図を並べてみました。

千葉県域の前浦式土器、安行c式土器、安行d式土器出土遺跡分布図
自分には十分な知識がありませんが、前浦式土器と安行c式・安行d式土器の出土遺跡は同時に存在し、分布はある程度異にしていたようです。つまり前浦式土器集団と安行式土器集団がすみわけしながら共存していたようです。
そのような視点から土器分布図と有孔円板形土製品出土遺跡を見比べると、有孔円板形土製品出土遺跡分布はどちらかというと前浦式土器出土遺跡分布に近いように観察できます。
宮原俊一論文では有孔円板形土製品分布は安行c式・安行d式土器分布ではなく、前浦式土器分布そのものを表していると強調しています。

【感想】
有孔円板形土製品が漁網や釣り糸専用の撚り装置部品(吊り下げ型回転式錘)であることはよく理解できましたが、そのメインの分布が漁業活動とはおよそ結び付きません。
次のような仮説(想像)をメモします。
・房総前浦式土器集団は麻の栽培が得意であり、広大な畑で麻を栽培していた。
・麻を素材に、作成に高度な技術・装置を要する漁網や釣り糸を交易用に多量生産していた。
・品質の高い漁網や釣り糸を出荷し、それの反対給付として祭祀用石器など地場では得られないものを得ていた。

2 君津市三直貝塚出土の有孔円板形土製品の模様

イメージ
北極星を軸に地平が回る(=北極星を軸に天球が回る)様子をイメージしてしまいます。そのようなイメージがこの有孔円板形土製品をつくった縄文人にあったのではないか?