2018年8月30日木曜日

遺跡データベースの重要コンテンツとしての遺跡資料を収録 2

この記事は2018.08.04記事「遺跡データベースの重要コンテンツとして遺跡資料を収録」のその後の遺跡データベース構築状況のメモです。

私家版暫定版GIS連動千葉県遺跡データベースを学習ツールとして活用するためにコンテンツとして「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)に掲載されている「遺跡資料」の収録を進めています。作業の山を越したので、作業上気が付いたことと感想をメモします。

1 図書の解体、スキャン、遺跡別pdfファイル作成
1-1 図書の解体
図書を解体して裁断機でスキャンしやすい大きさにしました。

解体・裁断した図書
1000ページの図書ですから解体・裁断に30分かかりました。

1-2 スキャン
scansnapを使ってスキャンそのものは1時間かかりました。pdfを検索可能にする透明テキスト作成は2時間半かかりました。

1-3 遺跡別pdfファイル作成
遺跡別にファイルを小分けする作業は1時間程度です。

遺跡別に小分けしたpdfファイル
旧石器時代と縄文時代の遺跡は全部で266あります。

ここまでの作業は特段の問題はなく、全部で2日ほどの作業で遺跡データベースに遺跡資料を収録できる予定に狂いはないだろうとタカをくくっていました。
ところが大伏兵があらわれて、次からの作業が難渋します。

2 図書収録遺跡名称と遺跡データベースの遺跡名称の対応作業
図書収録の遺跡名称は近隣遺跡をグループにして新たな説明用名称を付けているものが幾つかあることは知っていました。しかし、ほとんどの遺跡名称は図書でもデータベースでも同じ千葉県資料ですからほぼ一致すると考えていました。しかしこの予想は大きく崩れました。なんと全体の45%(約120)が遺跡名称で一致させることができません。

しかたがないので、1件1件について図書掲載地図とデータベース画面(GIS画面)を突き合わせて対応関係を検討しました。この作業に予期しない2日以上の時間をつかいました。
なぜ45%もの遺跡名が対応しないのかという理由の最大のものは文化財関係者の間における遺跡名称記述方法に基準がないことによると考えました。「の、ノ」「か、カ、ヵ」等の混在、「1、Ⅰ」「2、Ⅱ」の混在、「〇〇遺跡、〇〇貝塚」の混乱、遺跡名称に旧名称を括弧に入れて附記する風習などが自由奔放におこなわれています。従って遺跡管理番号でリレーションをとればほとんどが対応するにもかかわらず、遺跡名称では打率5割5分になってしまいます。

この作業では19600以上の遺跡と266事例との対応にてこずったのですが、それは遺跡データベースの特質を改めて知るよい機会になりました。生の19600遺跡データベースと自分の興味との間になにかのインタフェースが必要で、その一つが図書遺跡資料だということに気が付きました。

3 遺跡資料の時代別分布図
遺跡資料の名称と遺跡データベースの遺跡名称との対応関係を100%とりましたので、遺跡資料(pdfファイル)をGIS画面との対応のなかで探して読むことができるようになりました。

遺跡資料の時代別分布図を作成すると、各時代の代表的遺跡ですから、各時代の社会の様子を示している意味のある分布図として見ることができるような気がして、学習意欲が強くそそられました。

旧石器時代遺跡

縄文時代草創期遺跡

縄文時代早期遺跡

縄文時代前期遺跡

縄文時代中期遺跡

縄文時代後期遺跡

縄文時代晩期遺跡

4 感想
データベース収録作業なかで、計らずも図書コンテンツをかなり読んだ(眺めた)のですが、その内容レベルが自分の知識レベルと大きな乖離はなく、学習に期待がふくらみました。また遺物等の写真やスケッチが豊富で否が応でも強い刺激を受けます。多数の縄文遺跡から私にとっては「異様な」土偶が多出していて、それだけを並べるだけでもいろいろなことが判りそうです。
図書コンテンツを全部読めば、学習上の自己意識が少し変わるかもしれないと予感しました。
9月中には「千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)」「同 考古3(奈良・平安時代)」も解体、スキャン、遺跡別pdfファイル作成して遺跡データベースに収録することにします。さらに同シリーズ本で所持する残り歴史5冊も全部電子化することにします。

2018年8月28日火曜日

参考 村田川河口低地付近 旧石器時代遺跡

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 3

参考として村田川河口低地付近の旧石器時代遺跡分布を時期別にみてみました。

1 旧石器時代遺跡時期別分布

ナイフ初

ナイフ前

ナイフ後

末~草創期

時期による数の消長は顕著でナイフ前とナイフ後でその数が多くなります。しかし時期別に地形の利用の仕方に特徴を見出すことは出来ませんでした。

旧石器時代の狩は獲物を仕留める場所とその獲物を解体したり皮を干したりする場所が遠く離れていることはあり得ないと考えます。従って上記遺跡分布図(=旧石器出土場所)は獲物を仕留めた場所でもあり獲物を解体し、その皮を干したりしたキャンプの場所でもあったと考えます。おそらく台地平坦面を季節移動する動物を追って細尾根まできて、その地形(崖)を利用して獲物を仕留めたと考えます。細尾根が続く複雑な地形が旧石器時代人の絶好の狩場であり、キャンプの場所であったと考えます。この場所なら谷底には湧き水がありますから動物の解体には絶好の場所です。

縄文時代早期遺跡(=炉穴出土場所)も同じように、その付近がある時期(ある年)には陥し穴による狩猟の場であり、ある時期(ある年)にはキャンプの場であったと考えました。2018.08.26記事「村田川河口低地付近 遺跡と地形との関係」参照

参考 縄文時代早期遺跡の分布

2 千葉県旧石器時代遺跡分布
千葉県旧石器時代遺跡を正確に地図にプロットすると次図のようになります。

千葉県旧石器時代遺跡分布
広々とした台地面に遺跡は少なく、台地縁が開析されて細尾根になった場所に遺跡が密集しています。これは狩の様子を表現していて、台地縁の細尾根の急崖を利用して動物を仕留めていたからだと考えます。村田川河口低地付近の台地縁細尾根はまさに旧石器時代人が好んだ狩場であったのです。
なお、千葉県では台地からはなれた山間地では旧石器時代遺跡は極めて少なく、狩場ではなかったことは確実です。これは全国的に共通していて、広い台地が広がる平野以外の場所では旧石器時代遺跡は大変少なくなっています。


2018年8月26日日曜日

村田川河口低地付近 遺跡と地形との関係

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 2

2018.08.25記事「村田川河口低地付近縄文集落の消長分析」で作成した遺跡分布図と地形との関係をより直観的に知るために、背景図を1960年代空中写真にして考察しました。

1 1960年代空中写真

村田川河口低地付近 1960年代空中写真
1960年代空中写真と旧版地形図1/25000蘇我を乗算結合して緑色にした画像です。開発前の地形を直観できます。赤点線は過去の海岸線、ベージュ実線は主要な台地分水界(尾根線)、白点線は開発区域(千葉東南部地区)です。

2 遺跡の分布

遺跡の分布
南北に通る主要尾根線の西側(海側)の細尾根地帯に遺跡が集中します。東西方向に延びる細尾根が歴史の主要舞台であったことが判ります。

3 旧石器時代遺跡の分布

旧石器時代遺跡の分布
細尾根西端の低い段丘面を除いて全域に旧石器時代遺跡が分布するように捉えることができます。
季節移動する動物(シカなど)は南北の尾根線を通ってやってきて、東西の尾根線伝いに展開したとするならば、そのルートに沿って旧石器時代人は狩をしたと考えます。尾根の西端まで移動する動物は少なく、従って狩も西端付近では少なかったと想像します。
旧石器時代遺跡とは即ち旧石器時代石器が出土した場所(ブロックが出土した場所)であり、そこでキャンプしたり動物の解体を行った場所であり、すなわちそのすぐ近くで狩が行われたと考えます。
図書(有吉南貝塚発掘調査報告書)にはこれらの旧石器時代遺跡の情報がさらに時代別に記述(ナイフ初、前、後、末~草創期)されていますので、向学のためにその分布図も作成して検討することにします。

4 縄文時代早期遺跡の分布

縄文時代早期遺跡の分布
旧石器時代遺跡分布より東側に移動しているように感じられます。狩猟圧により旧石器時代よりも狩場が南北移動路に近い部分に限られるようになったのかもしれません。あるいは縄文海進の影響により真水取得が尾根西端付近では困難であり、そのために炉穴(=キャンプ地)分布が尾根西端付近で少ないのかもしれません。
炉穴と陥し穴が一緒に出土する遺跡が多いので、ある季節(ある年)はキャンプ地として使い、別の季節(別の年)は陥し穴による狩猟の場として使っていた場所を炉穴が示していると考えます。
縄文早期までは旧石器時代と同様にこの場所が狩場であったのです。

5 縄文時代前期遺跡の分布

縄文時代前期遺跡の分布
南北に通じる尾根線から東西尾根線が判れる部分に前期拠点集落が立地します。従ってこのころは大膳野南貝塚が立地する東西尾根線に移動性動物は少なく、狩場としての意義は少なかったと考えます。おそらくメインの狩場は大膳野南貝塚の東の台地方面であったと考えます。東西尾根線のある一体は堅果類採集など、植物を利用する場であったと考えます。

6 縄文時代中期遺跡の分布

縄文時代中期遺跡の分布
中期の拠点集落である有吉北貝塚と有吉南貝塚が幹線路である南北尾根線ではなく、そこから派生する支尾根である東西尾根線に立地しています。このことから、中期拠点集落は近隣集落との緊密な交流は希薄であったと考えられます。

7 縄文時代後晩期遺跡の分布

縄文時代後晩期遺跡の分布
六通貝塚は幹線交通路である南北尾根線が屈曲する部分でかつ東西尾根線との分岐部という要衝に立地していて、拠点集落として計画的に建設されたと推察できます。この図を遥かにはみ出した広域的な土地における後期縄文社会の関係性のなかでこの場所が1つの拠点として選定されたと考えます。縄文後期社会には広域を視野にいれた意思や計画性が存在していたと考えられます。それは中期社会には見られない組織性であると考えます。
六通貝塚が親拠点となり、さらに大膳野南貝塚、小金沢貝塚、木戸作貝塚、上赤塚遺跡という子拠点を建設して、南北尾根線より西側の細尾根地域を植物性食料や木材等入手テリトリーとして占有していたと考えます。
狩猟のメインフィールドは南北尾根線より東側に存在していたと考えます。

8 弥生~奈良・平安時代遺跡の分布

弥生~奈良・平安時代遺跡の分布
弥生~奈良・平安時代でくくると、全ての遺跡が該当しました。今後、向学のために弥生時代遺跡や古墳について分布図を作成して地形の利用方法を知ることにします。

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記事シリーズ名で「村田川河口低地付近縄文集落」という言い方をしていますが、村田川河口低地に存在した海や干潟を生業の場として活用した縄文集落という意味であり、縄文集落そのものは標高50m程度の台地に立地しています。

2018年8月25日土曜日

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 1

大膳野南貝塚学習成果を近隣遺跡に投影して比較学習するにあたり、まずこの付近の縄文集落消長の様子を予察的に学習し、問題意識を深めたいと思います。
有吉南貝塚の発掘調査報告書(平成20年)に掲載されている近隣遺跡情報から縄文遺跡だけをピックアップして時期別に並べて眺めてみました。

1 縄文時代全期

縄文時代遺跡の分布
黒点線は「千葉東南部地区」(開発区域)、5000年前、3500年前は別資料から転記した過去海岸線、〇は私家版データベースから転記した時期別遺跡(この図では縄文全期)であり開発区域内でいえば〇は調査歴のある顕著な遺跡ではなく土器片などが地表で見つかったことがある包蔵場所を表現していると考えられます。

縄文時代遺跡が地形からみてある特定の場所に分布しているように見えます。台地縁とそこから延びる細尾根に分布し、それも5000年前海岸線に近い部分にはありません。縄文遺跡と地形との関係は重要な検討課題であるとの興味を得ることができます。旧石器時代遺跡との比較に興味が湧きます。[問題意識1 縄文時代遺跡と旧石器時代遺跡分布の比較]

2 縄文時代早期

縄文時代早期遺跡の分布
正確には「早期炉穴群」が存在する遺跡です。
広々とした台地面ではなく台地の縁とそこから延びる細尾根で5000年前海岸線には近くない場所に分布しているように観察できます。
ただし、縄文時代早期の海岸線は谷津深く侵入していたので早期遺跡は海との関わりを意識して立地していた可能性があります。縄文海進最盛期頃(6500年前)の海岸線情報が小金沢貝塚発掘調査報告書に掲載されているのであらためて検討することにします。[問題意識2 早期遺跡と海岸線との関係]
炉穴があるのですからそこでキャンプして炊事をしています。キャンプするのに都合がよい理由としてその周辺で主食の堅果類採集がしやすいことがあるのではないだろうかと想定します。堅果類以外にも細尾根の複雑な地形には多様な環境が存在していろいろな食糧資源や生活資源が存在していた可能性があります。[問題意識3 細尾根は食糧資源が豊富であったか]
また細尾根の地形では泉のある小谷底が多くあり、真水の入手が容易だった可能性があります。[問題意識4 細尾根は真水の入手が容易であったか]
同時にこれらの場所に陥し穴が存在していて、その場所でキャンプをしていない季節や年には狩猟場であったと考えます。大膳野南貝塚では炉穴と陥し穴の双方が見つかっているので、同じような状況がこれらの早期遺跡に共通していた可能性が濃厚であると考えます。[問題意識5 細尾根は狩場としての意義があったか、動物が細尾根まで移動してきたか]

3 縄文時代前期

縄文時代前期遺跡の分布
大膳野南貝塚に縄文時代前期の拠点集落が存在していたという情報は大膳野南貝塚発掘調査報告書からのものです。

前期集落が台地縁と細尾根の間の空間に存在していることは多くのことを物語ると考えます。この位置は海から遠く、標高も50mあり明らかに漁労のために建設した拠点ではなく、狩猟と堅果類採集のために建設した拠点であると考えることができます。大膳野南貝塚前期集落から出土する貝は少なく、漁労は生業において主要なものではありませんでした。[問題意識6 各地に通じる台地平面と細尾根の間に位置する場所が拠点集落を建設する要件であった][問題意識7 大膳野南貝塚前期集落立地は狩猟と堅果類採集を主な生業とする集団に対応していて、漁労のことはほとんど考えられていない]

4 縄文時代中期

縄文時代中期遺跡の分布
この付近では有吉北貝塚、有吉南貝塚と草刈遺跡(未表示)が中期の拠点集落です。[問題意識8 草刈遺跡の情報の追加]
有吉北貝塚、有吉南貝塚と海岸との位置関係、地形的関係を知る必要があります。[問題意識9 有吉北貝塚、有吉南貝塚と海岸(漁労の場)との関係、生業からみた集落立地要件の整理…狩猟場、堅果類採集場はどこか]
拠点集落以外の中期遺跡(中期住居出土遺跡)と拠点集落との関係を考察する必要があります。[問題意識10 有吉北貝塚、有吉南貝塚と同期隣接遺跡群の関係はどのようなものか]

5 縄文時代後晩期

縄文時代後晩期遺跡の分布
・六通貝塚が後期におけるこの付近の母集落で上赤塚遺跡、木戸作貝塚、小金沢貝塚、大膳野南貝塚は六通貝塚から派生分家した集団の集落のようです。[問題意識11 六通遺跡はこの付近の母集落か]
・六通貝塚から4つの集落が派生した時期(堀之内式期)には六通貝塚は縮小しています。[問題意識12 六通貝塚集団が4つの派生拠点を建設して、自らの本部機能は縮小したというような計画的・戦略的展開を想定することは如何]
・4つの派生拠点集落は主な生業として漁労を行っていて、その漁場も近接すると考えられることから、この時期(堀之内式期)に特段に漁労に有利な環境が生れた可能性、あるいは漁獲量を飛躍的に増大できる道具・技術の発明、さらには拠点集落が協同して漁労とそれ以外の生業(狩猟・堅果類採集など)を組織的・計画的に行いその分配が合理的であるという最適社会システムの開発が行われたなどの画期が存在したと考えられます。[問題意識13 六通貝塚と4つの派生分家拠点が同時に漁労生計を可能にした画期的出来事は何か…漁労に特段に有利な環境の出現か、道具・技術の発明か、社会システムの発明か]
[問題意識14 各拠点集落の漁場分布(漁業権域図)は]
・4つの派生拠点集落の1つである大膳野南貝塚では階層上下のある2集団が存在していました。このことから後期社会になると奴隷的労働力を利用できるようになり、それが画期となり六通遺跡と派生4分家拠点の同時存在という発展につながった可能性について検討する価値があると考えます。[問題意識15 奴隷的労働力が生れ、社会発展の画期となったか]
・六通貝塚と木戸作貝塚、小金沢貝塚はそれぞれ400m程度しか離れていません。それだけの隣接した場所に別の貝塚が形成されるのですからその3つの集落の間には明瞭な機能の違いが存在したはずです。六通貝塚は管理・本部機能、木戸作貝塚と小金沢貝塚は現業部門機能であり、木戸作貝塚と小金沢貝塚は同じ現業部門でも労働対称・場所・方法などが異なっていたに違いありません。[問題意識16 近接する六通貝塚、木戸貝塚、小金沢貝塚の機能の違い]
・六通貝塚と4つの派生した4拠点の狩猟の場、堅果類採集の場はどのように調整されていたか検討することが大切であると考えます。[問題意識17 六通貝塚と派生4拠点の狩猟の場、堅果類採集の場はどこか]
・加曽利B式期頃になると派生4拠点は衰滅し六通貝塚だけが残り発展し、六通貝塚がピーク期を迎えます。派生4拠点が六通貝塚に吸収されたように観察できます。その要因について分析を深めたいと思います。[問題意識18 六通貝塚が派生4拠点を吸収したのか、それは何故か、その後六通貝塚が発展したのはなぜか]
[問題意識19 六通貝塚は衰滅して最後はどのようになったのか]

・六通貝塚と派生4拠点は中期拠点の有吉北貝塚と有吉南貝塚の立地する細尾根を避けて存在しています。つまり後期集落を形成した集団は中期集落の場所とそれが立地した細尾根を忌避しています。これから中期集落と後期集落の間につぎのような特別の関係が存在していた可能性があります。
1 中期集落集団がなにかの理由で廃絶して、その後に後期集落集団が入植した、入植集団は廃絶集団の集落跡を忌避して集落を立地させた。
2 中期集落集団テリトリーに後期集落集団が侵入して中期集落集団を滅ぼした。後期集落集団は中期集落集団の拠点(有吉北貝塚と有吉南貝塚)を忌避して集落立地場所を選定した。滅ぼされた中期集落集団は後期集落集団の奴隷的階層に編入された。
[問題意識20 六通貝塚を母集落とする集団が有吉北貝塚と有吉南貝塚付近を集落立地場所として忌避している理由は]

5枚の分布図から問題意識を深めることができました。

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参考 
六通貝塚と大膳野南貝塚 竪穴住居住居時期の概略対応




2018年8月24日金曜日

大膳野南貝塚学習で獲得した興味の投影学習の組み立て

1 学習視野狭窄の恐れ
大膳野南貝塚学習の中間とりまとめ資料」を公開して一区切りついたのでそこで得た興味を近隣遺跡や広域に投影する活動を行っています。その活動により大膳野南貝塚学習で生れた興味や問題意識が的を得たものであるかどうかわかりますし、また最も本質的な興味である縄文集落の発展・衰退の要因分析に迫ることができます。

なにはともあれということで六通貝塚の分析を始めました。また基礎知識を習得するために遺跡データベースづくりとそれ収録するコンテンツ(説明事例)の電子化を始めました。

六通貝塚の学習に着手すると予期した通りのことがわかりそうだという幾つかの実感が生れる一方、木をみて森を見ずという視野狭窄的状況に陥る恐れも感じるようになりました。六通貝塚は極限られた範囲しか発掘されていないため情報が断片的であることや六通貝塚の活動縮小期と大膳野南貝塚の活動発展期が見事に重なっていて、同時期の直接比較が困難であることなどがこの感覚の背景にあります。

そこで学習視野狭窄に陥ることなく、より円満に興味を深めることができるように六通貝塚だけでなく近隣遺跡も一緒に検討することに投影学習を組み立てなおすことにしました。

2 投影学習の組み立て
次のように投影学習を組み立てます。

投影学習の組み立て

2-1 投影学習チェックリスト
自分の興味そのものを整理して常時意識できるようにしました。

投影学習チェックリスト
自分の個別具体の興味は全て縄文集落消長の要因分析に収れんさせるつもりです。

2-2 近隣遺跡の分析と投影
当面資料を手元に用意できた次の4遺跡を対象にその遺跡分析を投影学習のために行います。

図書館から借用した発掘調査報告書 有吉南貝塚 六通貝塚

図書館から借用した発掘調査報告書 小金沢貝塚 上赤塚遺跡
別の人がこれらの図書を予約しない限り、月に1回これらを持参して近隣図書館に出向けば継続して手元に置くことが出来ます。

2-3 村田川河口低地付近縄文集落の消長分析
有吉南貝塚発掘調査報告書などに村田川河口低地付近の詳しい遺跡一覧表と分布図が掲載されています。

詳しい遺跡一覧表 縄文集落を青色に塗色 有吉南貝塚発掘調査報告書掲載資料

遺跡分布図 縄文集落を青色に塗色 有吉南貝塚発掘調査報告書掲載資料 
この資料をGISに取り込むとともに、個別遺跡分析情報をデータベースに蓄積して六通貝塚や大膳野南貝塚を含む縄文遺跡の関連・消長を分析検討することにします。この分析検討を行うことにより投影学習が視野狭窄に陥ることはないと思います。

2-4 千葉県縄文遺跡 既存情報の整理
千葉県縄文遺跡の既存情報を自分がより効率的に学習する(頭に入れる)ために、遺跡データベースをより使い勝手のよいものにするとともに、データベースに事例資料や「貝塚」情報を取り込みます。

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参考 投影学習チェックリスト

大膳野南貝塚学習で得た興味の
近隣・広域への投影学習
チェックリスト
  • 集落消長
    • 集落消長の実態
    • 集落消長と近隣集落との関係
    • 集落消長の主な要因

  • 漆喰貝層有無2集団が存在するか
    • 竪穴住居に差異があるか
      • 分布特性
      • 時期別特性
      • 面積
      • 重複関係
    • 出土物に差異があるか
      • 出土物総量
        • 中テン箱数
      • 石器出土数
      • 獣骨出土数
      • 貝製品
      • 装身具
    • 廃屋墓・ヒト骨出土
      • 遺構数
      • 埋葬形式
    • 環状焼土
  • 貝殻・獣骨・土器片出の状況
    • 貝殻
      • 完形貝・破砕貝・漆喰の割合
        • 竪穴住居
        • 土坑
        • 貝層
    • 獣骨
      • 頭部骨の割合
      • 竪穴住居に埋納が見られるか
    • 土器片
      • 全て意図的に破壊されたものであるか
  • 埋葬の様相
    • 人骨出土遺構
      • 竪穴住居
      • 土坑
      • 埋甕
      • 露地
    • 集骨葬と非集骨葬
      • 集骨葬
      • 非集骨葬
    • 正式埋葬とオマケ埋葬
      • 正式埋葬
      • オマケ埋葬
  • 狩猟方法
    • 旧石器時代
      • 狩場の地形イメージ
    • 縄文時代早期頃
      • 陥し穴と炉穴の分布
        • 陥し穴分布
        • 炉穴分布
      • 陥し穴の工夫
        • 誘導柵の設置
        • 連続設置
    • 前期集落・後期集落
      • 犬の利用
      • 狩猟対象獣種
    • 屋内炉
      • 漆喰炉
      • 地床炉
      • 土器囲炉
      • 漏斗型断面炉
    • 屋外炉
      • 漆喰炉
      • 土坑炉
        • ピット付土坑炉
        • 廃屋土坑炉
  • 竪穴住居
    • 床面傾斜
    • 住居壁有無
      • 住居壁有
      • 住居壁無
    • 張出部方向
      • 床面傾斜との関係 



2018年8月22日水曜日

資料「縄文後期イナウ似木製品の意匠と解釈」の公開

資料「縄文後期イナウ似木製品の意匠と解釈」(pdf)を公開しました。

資料「縄文後期イナウ似木製品の意匠と解釈」(pdf 4MB 10ページ)

8月14日~21日のブログ記事をペーパー風にまとめたものです。
なにかの参考になれば幸いです。

資料「縄文後期イナウ似木製品の意匠と解釈」Adobe Acrobat DCサムネール画面

この資料を含めて私が作成した主な資料・パワポはサイト「考古と風景を楽しむ」にも掲載しています。

2018年8月21日火曜日

縄文後期イナウ似木製品と関連する可能性のある後世祭具等

縄文後期イナウ似木製品の観察と解釈例 8

印西市西根遺跡出土縄文後期イナウ似木製品と関連する可能性のある後世祭具等をまとめてみました。

印西市西根遺跡出土縄文後期イナウ似木製品との関連を考察する価値があると考える祭具等

1 弥生時代鳥型
稲作農業を生業とする弥生時代人の鳥型とその習俗が弥生時代に全く初めて生まれたものではなく、縄文時代の堅果類収穫祭祀で使われた鳥造形イナウ似木製品と鳥信仰習俗が基になっているとする仮説を立てることができます。この鳥信仰継続仮説は検討する価値があると考えます。

2 アイヌイナウ
削かけ跡や刻印、枝の残置、全体の形状などからアイヌイナウの原型が縄文時代鳥造形イナウ似木製品にあるとする仮説を立てることができます。アイヌイナウの原型が縄文時代に遡ることができるという仮説は大いに検討する価値があると考えます。

3 ぬさ(幣帛)
ぬさのルーツがイナウのルーツと同じものであり、それが縄文時代イナウ似木製品であるとする仮説を立て、検討する価値があると考えます。

4 伝統工芸(お鷹ポッポ)
伝統工芸(お鷹ポッポ)のルーツが縄文時代イナウ似木製品にあるとする仮説を立て、検討する価値があると考えます。

5 ぼんでん(梵天)
ぼんでん(梵天)の飾りがぬさやアイヌイナウの削りかけと通底し、その意匠の原型が縄文時代イナウ似木製品にたどりつくことができるとする仮説を立て、検討する価値があると考えます。

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シリーズ記事「縄文後期イナウ似木製品の観察と解釈例」を終了します。

2018年8月20日月曜日

縄文後期イナウ似木製品に関する考察

縄文後期イナウ似木製品の観察と解釈例 7

2018.08.19記事「縄文後期イナウ似木製品は鳥の造形物」でイナウ似木製品は鳥を造形していると解釈しましたが、その意味を考察します。

縄文後期イナウ似木製品が鳥の造形であるとする解釈

イナウ似木製品の出土状況は次の写真の通りで、破壊された多量の土器、枝の燃え殻、多量の焼骨と一緒に出土します。これらの出土物が意味するものととイナウ似木製品が鳥の造形であることを関連付けて分析することが大切であると考えます。

イナウ似木製品の出土状況
これまでの検討で多量の破壊土器は堅果類アク抜き用土器の廃用土器をこの場で破壊した土器送りであり、それは堅果類収穫の感謝や増収祈願の祭祀であったことを想定しました。
焚火の跡と多量の焼骨は飾り弓出土とも関連して獣送りの跡であり、イオマンテ類似活動が行われ獣を食し、焼骨をつくった祭祀の跡であることを想定しています。
これからの祭祀のうち鳥を造形したイナウ似木製品は堅果類収穫祭祀と関連するのではないかと考えました。狩猟祭祀ではイノシシやシカの骨が焼骨となっていて鳥は明らかに狩猟のメイン対象ではないので、鳥造形と狩猟祭祀を結びつけるのは困難です。
鳥造形と堅果類収穫祭祀は鳥が堅果類をもたらす使者であると縄文人が考えていたとすると密接に結びつきます。
鳥が夏にやってきて堅果類の実を木々にもたらし、その結果秋に豊かな堅果類収穫があるという物語をイナウ似木製品は表現していると考えられます。
B面は夏に鳥がやってきて木々に堅果類の実をもたらしている様子を、A面はやってきた鳥が梢にとまりさえずり、堅果類が育っていく様子を見守っている様子を表現していると考えることができます。
夏にやってくる鳥は縄文人がだれでもその来訪を知ることができるホトトギスであると考えます。初夏に来訪したホトトギスが昼夜を分かたず飛びながら、あるいは梢でけたたましい声で鳴く様子からそれと堅果類が木々で育っていく様子を重ね合わせたのだと考えます。
イナウ似木製品は堅果類収穫感謝あるいは堅果類増収祈願の祭具であり、それにふさわしい鳥の造形をほどこしたのだと思います。
イナウ似木製品は祭壇を構成するような祭具(祈願具)として使われたのではないかと考えます。
このような考えで西根遺跡の収穫祭祀全体をまとめると次のようになります。

西根遺跡における収穫祭祀全体像(想定)

なお、発掘調査報告書では多量の生活用土器が出土しているのに祭祀用土器がただの1点も出土しないことが特記されています。その意味は野外における収穫関連祭祀では「祭祀用土器」が使われないで、祭具としてイナウ似木製品や飾り弓が使われたと考えると合点がゆきます。「祭祀用土器」は住居内における「生と死」「出産、育児」「もがり、葬送」「病気と健康」「祖先との交流」など生業と離れた分野の祭祀専用であったのかもしれないと考え、学習を深めることにします。

2018年8月19日日曜日

縄文後期イナウ似木製品は鳥の造形物

縄文後期イナウ似木製品の観察と解釈例 6

縄文後期イナウ似木製品を鳥の造形物として解釈できますの記録しておきます。
A面は羽を休める鳥、B面は飛ぶ鳥を造形していると解釈します。

A面の解釈 羽を休める鳥
削りかけ跡をたたまれた主翼であると見立てました。

B面の解釈 飛ぶ鳥
刻印2が翼を象徴すると考えます。(刻印2の平面形状が翼の断面形状を表現していると考えます。)さらに刻印2の中に深い小孔があり、この小孔に鳥の羽が射しこまれていたのではないかと想像します。

A面、B面ともに多数ある小孔は小さな羽を木肌に食い込ませて木製品に鳥のイメージを醸し出していたのではないだろうかと考えます。

この木製品について全く別のより合理的解釈があり得るかどうか、考え続けていくことにします。

当面は縄文後期イナウ似木製品が鳥の造形物であるとする解釈(仮説)に基づいて、次の考察を行っていくことにします。
1 西根遺跡の意義(収穫祭跡)における鳥造形木製品の意味
・西根遺跡は堅果類の収穫感謝とか増収祈願のために土器を破壊した遺跡であり、堅果類をもたらす鳥を造形したと考えるとつながります。鳥は夏に林にやってくる渡り鳥になります。
2 弥生時代鳥型との関係
弥生時代鳥型の祖形かもしれません。
3 アイヌイナウとの関係
アイヌイナウの原型そのものと考えます。
4 幣(ぬさ)、梵天などとの関係
紙をつかう幣や梵天の遠い祖先であると考えます。
5 笹野一刀彫「お鷹ポッポ」などの木彫り工芸品との関係
お鷹ポッポはこの木製品に似ています。おそらく通底します。

縄文後期イナウ似木製品の造形詳細 追補

縄文後期イナウ似木製品の観察と解釈例 5

2018.08.17記事「縄文後期イナウ似木製品の造形詳細」に次の観察事項を追補します。

追補事項
1 圧迫痕(縛り跡)の追加
紐でモノを縛り付けたような跡が枝基部残置の下にもA面、B面ともに観察されます。
縛り跡は枝基部の上に2筋、下に1筋あり合計3筋となります。

2 圧着痕の追加
棒状のモノを丸木縦方向に圧着したような跡がA面、B面ともに観察されます。
3筋の縛りで縛られたモノが丸木に圧着した様子であると考えます。丸木に圧着したモノとは丸木保存袋に同封されていた小型棒状木製品(※)ではないかと考えます。圧着痕の様子から棒状のモノは丸木からはみ出していて、2本の足があったような状況を想定することができます。
※2018.08.14記事「縄文後期イナウ似木製品の実見」参照

追補事項を含めて造形詳細を整理すると次の図になります。

縄文後期イナウ似木製品 石器による加工跡等


2018年8月17日金曜日

縄文後期イナウ似木製品の造形詳細

縄文後期イナウ似木製品の観察と解釈例 4

1 造形詳細
丸木の皮をはぎ、不必要な枝を掃ったあとの木製品に加えられた石器による加工跡等をまとめてみました。

石器による加工跡等
●基本構造
頂部削り出し、下部削り出しと刻印1及び枝基部残置はA面、B面共有項目で、この木製品の基本構造をつくっています。
●面取り部
A面B面ともに頂部にかかる部分に面取り部(平らにした部分)が存在し、その中に刻みと小孔集中がみられます。A面B面で面取り部の大きさや刻みの傾き方向が異なるのですが、共通する造形セットは共通する「何か」を表現していて、かつその「何か」が少し異なる様子を表現していると想定できます。
面取り部が文字通り「面」(顔)を表現していると考えると頂部が頭、刻みが目、小孔集中が頬、刻印1が口という想像も生まれ、A面B面で違う表情の顔ということになります。この想像が役立つものであるかどうか、詳しく検討することにします。
●削りかけ跡と刻印2
面取り部の下にはA面は削りかけ跡、b面は刻印2が存在しA面B面で造形がことなります。
A面削りかけ跡は単に筋を引いたというものではなくアイヌイナウの削りかけ(木の表面を薄く削って残しカールした部分)と同じようなものを作った跡のように観察できます。もちろん削り掛けそのもの(カールした鉋屑のような部分)はないのですが、溝の形状が削りかけを作った跡として観察できます。
B面刻印2は刻印1より深く削られ立派です。刻印2は刻印1と同じく水平に彫られています。また刻印2はその直上だけでなく刻印の中にも小孔があります。
A面の削りかけ跡とB面の小孔付刻印は表すものは異なりますが、面取り部の下に存在するものであるという意味で対応するものであると考えます。つまりA面削りかけとB面小孔付刻印は同じものの異なる様相を表現している可能性があります。
もし面取り部が文字通り「面」(顔)ならば削りかけ跡と小孔付刻印は体の上部付近にあたるのかもしれません。
●縛り跡
A面削りかけ跡とB面小孔付刻印の下にA面B面共通となりますが、木製品の表面を紐のようなもので硬く縛った跡(圧迫痕)が2筋存在します。B面では2筋の上の圧迫痕に付着物が残存しているように観察できます。ツタのようなものを2筋にわたって硬く縛り付け、それが脱落しないように接着剤を使った可能性が浮かび上がります。付着物はウルシとかマツヤニとかタールみたいなものではないかと考えます。
接着剤をつかってまでこの木製品を縛ったのはこの木製品を別の何かに縛り付けたか、あるいは別の何かをこの木製品にとりつけたかのどちらかだと考えます。木製品が別のものに固定されていたのでないことは出土状況から判明していますから、この木製品に付属物が取り付けられていた可能性が濃厚です。その付属物は一緒に出土した木片製品(太い箸のような木製品)であったのかもしれません。もしそうならこの木製品に「足」が付いていた可能性が浮上します。
●小孔
小孔はA面B面ともに多数存在します。小孔はその形状が4つの角をもつ特徴があり、同じ石器工具で開けられた可能性が濃厚です。またその大きさは5mm程ですから小孔そのものに造形的な意味は考えにくいです。小孔の深さが浅いものが多いことから、鳥の羽根や薄い葉っぱや茎をこの木製品に押しつけ食い込ませて取り付けた跡のように観察できます。この木製品は鳥の羽根やあるいは草などで飾られていたことが想定できます。

2 参考 付着物と縛り跡の様子

付着物と縛り跡の様子

3 参考 同一工具(石器)跡と考えられる小孔画像

同一工具(石器)跡と考えられる小孔画像

同一工具(石器)跡と考えられる小孔

4 参考 木製品拡大図

木製品拡大図 1 写真は千葉県教育委員会所蔵

木製品拡大図 2 写真は千葉県教育委員会所蔵

木製品拡大図 3 写真は千葉県教育委員会所蔵

木製品造形の意味解釈を次の記事で行います。