横戸川流域紀行3 こてはし台調整池
桜がきれいなこてはし台調整池
上流地下水路から調整池に流入する付近
こてはし台調整池は花見川流域では唯一の市民参加型環境整備が行われた調整池です。
調整池というと金網で進入禁止となっており、中はコンクリート製プールであったり、アシ等が繁茂している場合が多いのですが、この調整池は水と親しめる憩いの場として整備されており、住宅地周辺に位置する他の調整池の今後のあり方の参考となるものです。
こてはし台調整池の事業の概要(パンフレット「こてはし台調整池」より引用)
「『こてはし台調整池』は、大雨のとき一時的に水を貯めて下流の川があふれるのを防ぎます。今までは管理型調整池であったので人が入ることが出来ませんでした。この度『水と親しめる憩いの場』となるよう、みんなで考え、普段から使えるようになりました。」
主な施設
・大雨の日は、避難を知らせる警報装置(赤色回転灯)
・照明灯
・池内を散策できるボードウォーク
・あずまや
諸元
・敷地面積:10000平方m
・調整池容量:12000立方m
・流域面積:228.97ha
・事業計画年度:平成16年度~20年度(平成21年4月オープン)
こてはし台調整池空中写真(グーグルアース)
利用案内看板
こてはし台調整池は「こてはし台調整池水辺づくり協議会」をつくり検討を重ねてつくられました。
地域の憩いの場となる多自然調整池づくりのための4者協働のイメージ(パンフレット「こてはし台調整池」より)
・こてはし台小学校(夢のプラン作成、環境・体感教育の活用)
・こてはし台の住民(「憩いの場」にするためのアイディア、住民で出来る維持修繕)
・千葉大学(協働運営のコーディネイト、専門的なアドバイス)
・千葉市(施設の整備、維持管理)
2011年6月29日水曜日
2011年6月28日火曜日
横戸川流域の風景
横戸川流域紀行2 横戸川流域の風景
勝田川の改修により、勝田川と横戸川の合流点が次の写真のような状況になりました。
勝田川合流部(2011.4.5撮影)
現在の横戸川はコンクリート製柵渠です。この梁の下をカワセミが直線的に飛翔して移動していることを見かけます。この水路にも餌となるザリガニなどがいるようです。
横戸川の現況
横戸川の谷津の風景は田園的な雰囲気が残っています。
横戸川谷津の風景
こてはし団地調整池は環境整備され、市民の憩いの場になっています。桜の木が植えられ、4月には素晴らしい光景になります。
こてはし団地調整池
調整池から上流は住宅団地と工業団地の開発により自然地形はほとんど失われています。
宇那谷谷の谷地形遺物としての坂(千種町)
勝田川の改修により、勝田川と横戸川の合流点が次の写真のような状況になりました。
勝田川合流部(2011.4.5撮影)
現在の横戸川はコンクリート製柵渠です。この梁の下をカワセミが直線的に飛翔して移動していることを見かけます。この水路にも餌となるザリガニなどがいるようです。
横戸川の現況
横戸川の谷津の風景は田園的な雰囲気が残っています。
横戸川谷津の風景
こてはし団地調整池は環境整備され、市民の憩いの場になっています。桜の木が植えられ、4月には素晴らしい光景になります。
こてはし団地調整池
調整池から上流は住宅団地と工業団地の開発により自然地形はほとんど失われています。
宇那谷谷の谷地形遺物としての坂(千種町)
横戸川流域の概要
横戸川流域紀行1 横戸川流域の概要
横戸川流域は河川延長が約1.3km、流域面積が約2.1平方kmです。現在の水路上流端にはこてははし台の調整池が位置します。
調整池から勝田川合流部までの谷津谷底は水田として耕作され、谷津全体の風景も既存集落と斜面林が織り成す田園的なものとなっています。
調整池から上流はこてはし台団地、千種町から三角町にかけて広がる工業団地として開発され、自然地形はほとんど失われています。
横戸川の谷津谷底はかつて「横戸谷津」と呼ばれていて、旧宇那谷村の範囲です。調整池より上流の、現在は谷津地形が失われている部分(こてはし台3丁目から千種町付近)は「宇那谷谷」と呼ばれていました。東にある別の宇那谷川と紛らわしい名前ですが、「宇那谷村の範囲である谷」という意味であり、所有関係を明示するために意識的につけられた地名であると考えられます。
旧版1万分の1地形図(三角原)に見られる「宇那谷谷」地名
横戸川流域は河川延長が約1.3km、流域面積が約2.1平方kmです。現在の水路上流端にはこてははし台の調整池が位置します。
調整池から勝田川合流部までの谷津谷底は水田として耕作され、谷津全体の風景も既存集落と斜面林が織り成す田園的なものとなっています。
調整池から上流はこてはし台団地、千種町から三角町にかけて広がる工業団地として開発され、自然地形はほとんど失われています。
横戸川の谷津谷底はかつて「横戸谷津」と呼ばれていて、旧宇那谷村の範囲です。調整池より上流の、現在は谷津地形が失われている部分(こてはし台3丁目から千種町付近)は「宇那谷谷」と呼ばれていました。東にある別の宇那谷川と紛らわしい名前ですが、「宇那谷村の範囲である谷」という意味であり、所有関係を明示するために意識的につけられた地名であると考えられます。
旧版1万分の1地形図(三角原)に見られる「宇那谷谷」地名
2011年6月26日日曜日
このブログのふりかえり2
2このブログにおける花見川流域区分とブログ記事
このブログでは次図に示すように花見川流域を花見川本川、勝田川、高津川の3つの流域に区分し、それぞれについてさらに流域を区分して合計15の小流域を設定しました。
現在までに次の小流域の記事を掲載しています。
ア 花見川上流
イ 花見川中流
ウ 花見川下流
エ 北高津川
オ 高津川
カ 芦太川
キ 勝田川
ク 宇那谷川
これから次の順番で残りの小流域の記事を掲載する予定です。
ケ 横戸川
コ 小深川
サ 東小深川
シ 長作川
ス 犢橋川
セ 畑川
ソ 浪花川
花見川の小流域区分図
3深まった興味・テーマ
このブログ記事を書きながら特に興味が深まった主なテーマの例を次に挙げます。
ア 花見川流域界の把握(地形学的流域界の把握と問題点)
イ 堀割普請による地形改変の実際(堀割普請以前の自然地形の復元)
ウ 花見川河川争奪や長沼池成因などの地象分析
エ 縄文時代における花見川の回廊機能(印旛沼と東京湾の連絡通路)
オ 古代における花見川流域の居住環境(地形、遺跡、地名などを手がかりにした分析)
カ 旧軍演習場利用の実際(旧軍の演習場における活動そのもの)
アイウは、自然地理的観点からの興味です。流域のことを考える際に、私の拠って立つ基盤をここにつくりたいと思っています。GIS上で行う地形分析にチャレンジしたと思っています。
エオは、新たに得る自然地理的情報を既存の古代文化情報(遺跡・遺物情報等)に投影して、新しい知見を得たいという興味です。私は、別のブログ(「ジオパークを学ぶ」)で古代社会の思考方法について学習しており、その学習とこのブログ活動が共鳴しつつあります。
カは、私の好みとは少し異質ですが、勝田川流域に毒ガス演習場(特殊演習場)があったことを発見してしまったので、興味を持たざるを得なくなりました。引くに引けません。
4ブログ第1ステップの完結を目指して
ブログ記事を書いていると、どうしても欲張ってしまします。たとえば勝田川流域で旧軍下志津演習場について興味が深まると、高津川流域の旧軍習志野演習場についても同じように興味を深める活動を直ぐにでも展開したくなります。
しかし、このブログはもともと体系的な記事や資料の作成を目指したものではありません。ページ「散歩論」で述べたように、受身的観察タイプの散歩を実践してみて、その結果を記録しようとしているものです。
そうしたこのブログ趣旨から、深まる興味に直ぐにでも取り組もうとする気持ちを少し押さえたいと思います。とりあえず15の小流域全部の記事を早く完結させることに励みたいと思います。そして、流域全体の体系的な記述とか、興味をさらに深める活動は次のステップで行いたいと思います。秋にはこのブログの第1ステップを完結して、次のステップに進めるようにしたいと思います。
このブログのふりかえり1
今年1月15日にこのブログを開設して5ヶ月と10日たちました。このブログに来訪していただいた方に心から感謝申し上げます。
前回まで軍事に関する記事が続き、少し肩が凝ったので、一息入れるために、このブログ情報発信を振り返り、思い浮かんだ感想を記録しておきます。
最初にこのブログの統計を、Blogger標準搭載統計の情報(6月26日現在)から転載します。
1このブログの統計
●全期間のページビュー履歴 6775
●全期間ページビュー上位記事
花見川中流紀行 8河川景観と送電線鉄塔 2011/02/23 132 ページビュー
緊急報告 東日本巨大地震による花見川被災状況 2 2011/03/24 74 ページビュー
長沼池と縄文遺跡 2011/05/23 40 ページビュー
印旛沼堀割普請の丁場と素掘堀割の残存 2011/03/26 39 ページビュー
花見川の出自と被災箇所の対応 2011/03/25 32 ページビュー
トピックス KASHMIR 3Dで基盤地図情報5mメッシュを運用してみる 2011/03/01 32 ページビュー
花見川中流紀行 21昭和5年の花見川橋 2011/03/30 31 ページビュー
続保定記絵地図のデジタル巻物化 2011/03/22 31 ページビュー
迅速図視図に描かれた馬防土手 2011/05/01, コメント(6) 30 ページビュー
長沼池の成因 2011/05/22 30 ページビュー
●主なトラフィック
http://science.blogmura.com/engineering/ 119
http://localkantou.blogmura.com/chiba_town/ 86
http://japanese-bloggers.appspot.com/ 55
●主な参照元サイト
www.google.co.jp 1094
search.yahoo.co.jp 779
science.blogmura.com 159
localkantou.blogmura.com 102
www.google.com 87
●主な国別のページビュー
日本 6218
アメリカ合衆国 332
マレーシア 95
●主なブラウザ別のページビュー
Internet Explorer 73%
Firefox 10%
Chrome 7%
Safari 7%
●主なオペレーティングシステム別のページビュー
Windows 88%
Macintosh 4%
Other Unix 2%
Linux 1%
iPhone 1%
2011年6月23日木曜日
下志津射場図9 畑貸付地と廃弾拾い
宇那谷川流域紀行19 下志津射場図9 畑貸付地と廃弾拾い
下志津演習場の畑貸付地
1畑貸付地
近衛師団管轄演習場規程別冊付図には畑貸付地が図示されています。いずれも勝田川流域で、宇那谷川と長沼池上流部、小深川、東小深川、横戸川の谷津谷底の水田が示されています。実弾演習をしない時は演習場内に農民が入って耕作していたようです。
2廃弾拾い
佐倉市史第4巻には「廃弾払い下げ事件」が記述されていおり、戦前の下志津演習場の廃弾拾いは周辺町村の貴重な収入源になっていたことがわかります。
佐倉市史によれば、陸軍経理部が廃弾を払い下げ、それを受けた地区が請負人に売却して大きな利益を上げていたことが書かれています。習得利益金の分配をめぐって町村が対立し、千葉郡犢橋村(千葉市花見川区)と印旛郡旭村鹿渡(四街道市)、千代田村畔田(佐倉市)との間に対立があり、さらに千葉郡都賀村(千葉市若葉区)、大和田町(八千代市)も加わり、千葉・印旛郡長の斡旋があり、利益配分は各町村に公平に分配することで同意を得た旨の記述があります。
(下志津射場図シリーズ 終 )
下志津演習場の畑貸付地
1畑貸付地
近衛師団管轄演習場規程別冊付図には畑貸付地が図示されています。いずれも勝田川流域で、宇那谷川と長沼池上流部、小深川、東小深川、横戸川の谷津谷底の水田が示されています。実弾演習をしない時は演習場内に農民が入って耕作していたようです。
2廃弾拾い
佐倉市史第4巻には「廃弾払い下げ事件」が記述されていおり、戦前の下志津演習場の廃弾拾いは周辺町村の貴重な収入源になっていたことがわかります。
佐倉市史によれば、陸軍経理部が廃弾を払い下げ、それを受けた地区が請負人に売却して大きな利益を上げていたことが書かれています。習得利益金の分配をめぐって町村が対立し、千葉郡犢橋村(千葉市花見川区)と印旛郡旭村鹿渡(四街道市)、千代田村畔田(佐倉市)との間に対立があり、さらに千葉郡都賀村(千葉市若葉区)、大和田町(八千代市)も加わり、千葉・印旛郡長の斡旋があり、利益配分は各町村に公平に分配することで同意を得た旨の記述があります。
(下志津射場図シリーズ 終 )
2011年6月22日水曜日
下志津射場図8 演習場の通信装置
宇那谷川流域紀行18 下志津射場図8 演習場の通信装置
下志津演習場の通信装置
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)424pに掲載されている昭和17年4月近衛師団管轄演習場規程別冊付図(部分)の画像をGISに取り込み、通信線関連の情報を抽出しました。
1通信線と通信線端末
架設往復通信線がほぼ演習場の境に沿って設置されています。通信線端末は掲載された部分について、片道分23箇所で往復分46箇所が設置されています。
演習効率を上げるために、砲から着弾観測場所までその都度電話線を引くのではなく、「砲から通信線端末」と「着弾観測場所と通信線端末を」つないで演習を実施したものと想像します。
2電気発火用疑砲火埋設線(地下4m)
電気発火用疑砲火の実態と役割に関する情報はゼロですが、次のように想像します。
着弾観測兵は通信線端末から観測場所まで電話線を引き、そこで着弾箇所と目標とのずれを観測して、砲の発射兵にその情報を電話で連絡します。この活動により、次の射撃の精度を上げます。この観測兵の訓練として、電気発火用疑砲火で近隣における爆発を発生させ、戦場における臨場感(様々な困難)を発生させたのではないかと思います。あるいは疑砲火の場所と友軍射撃着弾場所や真の目標とのずれの観測を訓練させたのかもしれません。(すみません100%想像です。)
電気発火用疑砲火埋設線(地下4m)の設置場所がこの演習場のメイン射撃目標区域になります。宇那谷川と小深川に挟まれた、現在の四街道市大作岡や鹿放ヶ丘の台地です。
下志津演習場の通信装置
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)424pに掲載されている昭和17年4月近衛師団管轄演習場規程別冊付図(部分)の画像をGISに取り込み、通信線関連の情報を抽出しました。
1通信線と通信線端末
架設往復通信線がほぼ演習場の境に沿って設置されています。通信線端末は掲載された部分について、片道分23箇所で往復分46箇所が設置されています。
演習効率を上げるために、砲から着弾観測場所までその都度電話線を引くのではなく、「砲から通信線端末」と「着弾観測場所と通信線端末を」つないで演習を実施したものと想像します。
2電気発火用疑砲火埋設線(地下4m)
電気発火用疑砲火の実態と役割に関する情報はゼロですが、次のように想像します。
着弾観測兵は通信線端末から観測場所まで電話線を引き、そこで着弾箇所と目標とのずれを観測して、砲の発射兵にその情報を電話で連絡します。この活動により、次の射撃の精度を上げます。この観測兵の訓練として、電気発火用疑砲火で近隣における爆発を発生させ、戦場における臨場感(様々な困難)を発生させたのではないかと思います。あるいは疑砲火の場所と友軍射撃着弾場所や真の目標とのずれの観測を訓練させたのかもしれません。(すみません100%想像です。)
電気発火用疑砲火埋設線(地下4m)の設置場所がこの演習場のメイン射撃目標区域になります。宇那谷川と小深川に挟まれた、現在の四街道市大作岡や鹿放ヶ丘の台地です。
2011年6月21日火曜日
下志津射場図7 演習場の危険予防
宇那谷川流域紀行17 下志津射場図7 演習場の危険予防
下志津演習場の危険予防
昭和17年4月近衛師団管轄演習場規程付図から、射撃に関する周辺集落に対する危険予防策を読み取ると、次のようになります。
1危険予防上注意区域の設定
演習場境界から1km以内の集落(一部軍施設を含む)を対象に危険予防上注意区域を設定しています。この区域を設定し、付図に赤ハッチで明示することにより、演習部隊に誤射しないよう注意喚起しているものと考えます。
2警戒標の設置
演習場境界付近に合計13箇所の警戒標を設置し、住民に対して演習場の存在を示しています。
3警戒旗の掲揚
演習場の内側に設定された射撃目標設定区域の周辺に合計7箇所の警戒旗掲揚場所が設置されています。下志津、六方野、三角原の各射場の射撃利用パターンによって、警戒旗掲揚場所が異なっていました。
廃弾拾いなどで住民は演習場に入ることもあり、警戒旗掲揚によって付近で実弾演習がおこなわれることを知ることが出来ます。
4射撃目標設定区域の設定
射撃目標を演習場の中央部に区域を指定して設定しています。これにより周辺集落に対する誤射を防止しようとしています。同時に射撃目標をある程度集約して、電気発火用疑砲火や射弾下掩蔽部の利用などを含めて演習の効果的効率的実施を図っていたものと考えられます。
下志津演習場の危険予防
昭和17年4月近衛師団管轄演習場規程付図から、射撃に関する周辺集落に対する危険予防策を読み取ると、次のようになります。
1危険予防上注意区域の設定
演習場境界から1km以内の集落(一部軍施設を含む)を対象に危険予防上注意区域を設定しています。この区域を設定し、付図に赤ハッチで明示することにより、演習部隊に誤射しないよう注意喚起しているものと考えます。
2警戒標の設置
演習場境界付近に合計13箇所の警戒標を設置し、住民に対して演習場の存在を示しています。
3警戒旗の掲揚
演習場の内側に設定された射撃目標設定区域の周辺に合計7箇所の警戒旗掲揚場所が設置されています。下志津、六方野、三角原の各射場の射撃利用パターンによって、警戒旗掲揚場所が異なっていました。
廃弾拾いなどで住民は演習場に入ることもあり、警戒旗掲揚によって付近で実弾演習がおこなわれることを知ることが出来ます。
4射撃目標設定区域の設定
射撃目標を演習場の中央部に区域を指定して設定しています。これにより周辺集落に対する誤射を防止しようとしています。同時に射撃目標をある程度集約して、電気発火用疑砲火や射弾下掩蔽部の利用などを含めて演習の効果的効率的実施を図っていたものと考えられます。
陸上自衛隊下志津駐屯地広報史料館の見学
広報史料館と野外展示されている高射兵器
向学のために、陸上自衛隊下志津駐屯地広報史料館を見学させていただきました。
この駐屯地には高射学校が設置されており、高射教導の方に説明していただきました。
広報史料館には駐屯地の歴史・現代の防空システム、自衛隊の現況が一目でわかる各種資料が展示されています。防空システムの歴史と現在の最新鋭の姿を理解することができました。貴重な学習の機会でした。
一方この広報資料館には、旧軍関係の貴重な資料が多数展示されています。このブログとの関係でいうと、旧軍の装備や野戦砲兵学校・陸軍飛行学校等の歴史が詳しい年表や写真、現物資料展示でもって理解できるようになっています。旧軍関係の知識がほとんどない私にとってはまたとない学習となりました。
例えば、下志津陸軍飛行学校について、私は手持ちの資料から次のようにだけ理解していました。
「学生に偵察飛行隊に必要なる学術を習得せしめ之を各隊に普及し此等学術に関する調査研究を行ひ以て偵察飛行隊教育の進歩を図り且偵察飛行隊に必要なる兵器の調査、研究及試験の外写真の研究を為す。」(昭和18年版陸海軍軍事年鑑、財団法人軍人会館図書部発行、昭和18年6月)
しかし、広報史料館の展示には下志津陸軍飛行学校年表の最後に、ここから特攻隊が出撃したことが写真多数掲載して説明してありました。通常の特科学校から戦争末期には実戦力部隊に変貌したことを始めて知りました。
見学後自宅でWEB検索して調べると、次のようなことがわかりました。
「終戦まで主として航空偵察の教育を行っていたが、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)6月には、下志津教導飛行師団を編成して戦力化され、戦局が急を告げるに従い特攻作戦の一部を分担することになった。その後、下志津陸軍飛行学校は、特攻基地となった」(Wikipedia)
こうした事実から、平成17年4月近衛師団管轄演習場規程付図に掲載されている下志津演習場三角原射場の「爆撃基本目標」の意義について、その理解がより深まりました。
広報史料館見学の最後に各種パンフレットをいただきました。東日本大震災救援活動のパンフレットもいただきました。案内していただいた高射教導の方も震災救援活動に従事されたとのことです。
国民の期待に応えて震災救援・復旧復興に活躍していただいている自衛隊に感謝します。
陸上自衛隊パンフレット
向学のために、陸上自衛隊下志津駐屯地広報史料館を見学させていただきました。
この駐屯地には高射学校が設置されており、高射教導の方に説明していただきました。
広報史料館には駐屯地の歴史・現代の防空システム、自衛隊の現況が一目でわかる各種資料が展示されています。防空システムの歴史と現在の最新鋭の姿を理解することができました。貴重な学習の機会でした。
一方この広報資料館には、旧軍関係の貴重な資料が多数展示されています。このブログとの関係でいうと、旧軍の装備や野戦砲兵学校・陸軍飛行学校等の歴史が詳しい年表や写真、現物資料展示でもって理解できるようになっています。旧軍関係の知識がほとんどない私にとってはまたとない学習となりました。
例えば、下志津陸軍飛行学校について、私は手持ちの資料から次のようにだけ理解していました。
「学生に偵察飛行隊に必要なる学術を習得せしめ之を各隊に普及し此等学術に関する調査研究を行ひ以て偵察飛行隊教育の進歩を図り且偵察飛行隊に必要なる兵器の調査、研究及試験の外写真の研究を為す。」(昭和18年版陸海軍軍事年鑑、財団法人軍人会館図書部発行、昭和18年6月)
しかし、広報史料館の展示には下志津陸軍飛行学校年表の最後に、ここから特攻隊が出撃したことが写真多数掲載して説明してありました。通常の特科学校から戦争末期には実戦力部隊に変貌したことを始めて知りました。
見学後自宅でWEB検索して調べると、次のようなことがわかりました。
「終戦まで主として航空偵察の教育を行っていたが、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)6月には、下志津教導飛行師団を編成して戦力化され、戦局が急を告げるに従い特攻作戦の一部を分担することになった。その後、下志津陸軍飛行学校は、特攻基地となった」(Wikipedia)
こうした事実から、平成17年4月近衛師団管轄演習場規程付図に掲載されている下志津演習場三角原射場の「爆撃基本目標」の意義について、その理解がより深まりました。
広報史料館見学の最後に各種パンフレットをいただきました。東日本大震災救援活動のパンフレットもいただきました。案内していただいた高射教導の方も震災救援活動に従事されたとのことです。
国民の期待に応えて震災救援・復旧復興に活躍していただいている自衛隊に感謝します。
陸上自衛隊パンフレット
下志津射場図 6 演習場の区分
宇那谷川流域紀行16 下志津射場図 6 演習場の区分
昭和17年4月発行近衛師団管轄演習場規程付図に掲載されている情報から、下志津演習場は次のように下志津射場、六方野射場、三角原射場、練兵場に4区分されて管理運用されていることがわかりました。
下志津演習場の区分
次の図は演習場区分図に演習機能情報をオーバーレイ表示したものです。
下志津演習場の運用
下志津射場と六方野射場は主に砲兵の射撃演習に使われたようです。近衛師団管轄演習場規程には両演習場の射撃は南北方向の射撃を基本とする旨書いてあります。
図上において射撃陣地の概ねの位置と射撃目標を設定してよい区域が設定されています。
射撃陣地の最も遠方のものは図の最も下に位置する歩兵学校演習場内のものです。この陣地と射方向を示す赤矢印は点線で表示されています。(点線の意味は近衛師団と歩兵学校との組織関係に関連するものと想像します。)この点線矢印の距離は約6kmです。
下志津射場および六方野射場の射撃陣地からの射方向を示す赤矢印はいずれも下志津射場内を指しています。矢印の距離は2km~4kmです。
下志津射場および六方野射場の双方に射弾下掩蔽部(着弾状況の体感訓練及び観測訓練を行うための施設)が1箇所ずつ設置されています。
六方野射場には射撃陣地からの射撃でない短距離(約500m)の射方向矢印が示されています。方向も南北方向ではありません。迫撃砲の演習を示しているようです。
三角原射場は爆撃基本目標と特殊演習場(毒ガス演習場)が設定されていて、通常の砲兵射撃演習とは異なる目的の演習に運用されていたことがわかります。
昭和17年4月発行近衛師団管轄演習場規程付図に掲載されている情報から、下志津演習場は次のように下志津射場、六方野射場、三角原射場、練兵場に4区分されて管理運用されていることがわかりました。
下志津演習場の区分
次の図は演習場区分図に演習機能情報をオーバーレイ表示したものです。
下志津演習場の運用
下志津射場と六方野射場は主に砲兵の射撃演習に使われたようです。近衛師団管轄演習場規程には両演習場の射撃は南北方向の射撃を基本とする旨書いてあります。
図上において射撃陣地の概ねの位置と射撃目標を設定してよい区域が設定されています。
射撃陣地の最も遠方のものは図の最も下に位置する歩兵学校演習場内のものです。この陣地と射方向を示す赤矢印は点線で表示されています。(点線の意味は近衛師団と歩兵学校との組織関係に関連するものと想像します。)この点線矢印の距離は約6kmです。
下志津射場および六方野射場の射撃陣地からの射方向を示す赤矢印はいずれも下志津射場内を指しています。矢印の距離は2km~4kmです。
下志津射場および六方野射場の双方に射弾下掩蔽部(着弾状況の体感訓練及び観測訓練を行うための施設)が1箇所ずつ設置されています。
六方野射場には射撃陣地からの射撃でない短距離(約500m)の射方向矢印が示されています。方向も南北方向ではありません。迫撃砲の演習を示しているようです。
三角原射場は爆撃基本目標と特殊演習場(毒ガス演習場)が設定されていて、通常の砲兵射撃演習とは異なる目的の演習に運用されていたことがわかります。
2011年6月19日日曜日
下志津射場図 5 近衛師団管轄演習場規程(下)
宇那谷川流域紀行15 下志津射場図 5 近衛師団管轄演習場規程(下)
近衛師団管轄演習場規程の短時間閲覧で発見した2つの重要な事実の2番目は、次の通り特殊演習場の意味が確認できたことです。
2 宇那谷集落を移転させ毒ガス演習場を作ったこと
宇那谷集落を移転させて昭和15年3月までに下志津演習場が拡張しました。そして、この区域に「特殊演習場」が設定されています。
特殊演習場の凡例と位置(近衛師団管轄演習場規程付図)
この「特殊演習場」の意味が付図からは確認できませんでした。しかし、近衛師団管轄演習場規程の中に次の文章を見つけ、「特殊演習場」が毒ガス演習場であることを確認しました。
近衛師団管轄演習場規程 昭和十七年四月一日
第4章 演習場ノ警戒及取締
其ノ一 通則
第三十八条
(五)特殊演習ヲ実施シタル地域ハ厳密ニ危害除去作業ヲ行ヒ尚必要アル期間立入禁止等ノ処置ヲナシ演習場司令官並ニ主管ニ報告又ハ通報スルモノトス
特殊演習場の位置を現在の地図にプロットすると、次図のようになり、国道16号が中央南北に通過している場所です。
特殊演習場の位置
特殊演習場はGIS上の計測では東西方向460m、南北方向350mで約15.85ヘクタールです。
習志野演習場とは別に下志津演習場にも毒ガス演習場があったとの情報は、私はこれまで知りません。
毒ガス演習の実態はどうであったのか、毒ガス演習場の存在がこれまでどれだけ知られているのか、現代の地域づくりにおいて配慮に値する情報であるのか(現代環境問題は100%無いと断言できるのか)など、情報を集めたいと思っています。
次の写真は特殊演習場であった場所の現状です。(2011.3.24撮影)国道16号から南方向を写しています。特殊演習場の中央北端から写し、赤信号の交差点が特殊演習場中央南端です。
特殊演習場位置の現状
参考
実は、上記の「特殊演習場の現状」写真はこの記事の説明のために撮ったものではありません。この写真で示す場所に次の「宇那谷村畑中の独立樹」があったので、その説明のためのピンポイント現状写真として撮ったものです。計らずも転用しました。
「宇那谷村畑中の独立樹」
迅速図「千葉県下総国千葉郡長沼新田印旛郡宇那谷村」図幅(明治15年1月測図)の視図
この視図は改めて掲載して記事にする予定です。
近衛師団管轄演習場規程の短時間閲覧で発見した2つの重要な事実の2番目は、次の通り特殊演習場の意味が確認できたことです。
2 宇那谷集落を移転させ毒ガス演習場を作ったこと
宇那谷集落を移転させて昭和15年3月までに下志津演習場が拡張しました。そして、この区域に「特殊演習場」が設定されています。
特殊演習場の凡例と位置(近衛師団管轄演習場規程付図)
この「特殊演習場」の意味が付図からは確認できませんでした。しかし、近衛師団管轄演習場規程の中に次の文章を見つけ、「特殊演習場」が毒ガス演習場であることを確認しました。
近衛師団管轄演習場規程 昭和十七年四月一日
第4章 演習場ノ警戒及取締
其ノ一 通則
第三十八条
(五)特殊演習ヲ実施シタル地域ハ厳密ニ危害除去作業ヲ行ヒ尚必要アル期間立入禁止等ノ処置ヲナシ演習場司令官並ニ主管ニ報告又ハ通報スルモノトス
特殊演習場の位置を現在の地図にプロットすると、次図のようになり、国道16号が中央南北に通過している場所です。
特殊演習場の位置
特殊演習場はGIS上の計測では東西方向460m、南北方向350mで約15.85ヘクタールです。
習志野演習場とは別に下志津演習場にも毒ガス演習場があったとの情報は、私はこれまで知りません。
毒ガス演習の実態はどうであったのか、毒ガス演習場の存在がこれまでどれだけ知られているのか、現代の地域づくりにおいて配慮に値する情報であるのか(現代環境問題は100%無いと断言できるのか)など、情報を集めたいと思っています。
次の写真は特殊演習場であった場所の現状です。(2011.3.24撮影)国道16号から南方向を写しています。特殊演習場の中央北端から写し、赤信号の交差点が特殊演習場中央南端です。
特殊演習場位置の現状
参考
実は、上記の「特殊演習場の現状」写真はこの記事の説明のために撮ったものではありません。この写真で示す場所に次の「宇那谷村畑中の独立樹」があったので、その説明のためのピンポイント現状写真として撮ったものです。計らずも転用しました。
「宇那谷村畑中の独立樹」
迅速図「千葉県下総国千葉郡長沼新田印旛郡宇那谷村」図幅(明治15年1月測図)の視図
この視図は改めて掲載して記事にする予定です。
2011年6月18日土曜日
下志津射場図 4 近衛師団管轄演習場規程(上)
宇那谷川流域紀行14 下志津射場図 4 近衛師団管轄演習場規程(上)
防衛省防衛研究所で近衛師団管轄演習場規程を閲覧することができました。残念ながら別冊付図は欠落しています。昭和20年の降伏に際して米軍に押収され、昭和37年に米国国務省公文書部から返還されたという付箋が貼ってありました。170ページの冊子でした。電子ファイル化をお願いでき、後日入手できますので、細部の検討はそれからです。
短時間でしたが全体をざっと閲覧しました。とりあえず、重要な事実が2つ見つかりました。
1 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載図は昭和17年4月発行の「近衛師団管轄演習場規程付図」であること。
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」551ページ掲載図は「下志津射場図」(昭和15年3月修正 野戦砲兵学校作製)として紹介され、出典として「近衛師団管轄演習場規程(別冊第一)」として紹介されています。
しかし、正しくは、この図は昭和17年4月発行近衛師団管轄演習場規程付図(以下付図と称します)であることが確認できました。この付図作成に利用した基図が「下志津射場図」(昭和15年3月修正 野戦砲兵学校作製)であるということです。
この付図には昭和15年3月以降の演習場拡張の情報が盛り込まれています。
「下志津射場図」(昭和15年3月修正 野戦砲兵学校作製)は国会図書館でそのコピーを入手しましたので、この付図と照らし合わせて確認できました。
国会図書館では大正15年3月の下志津射場図のコピーも入手できましたので、演習場区域や関連施設の情報は3時点そろうことになります。
前報までで付図のGIS取込みを報告しましたが、同様の方法で下志津射場図の昭和15年版、大正15年版をGISに取り込み、GIS上で正確に3時点の情報を比較できるようにしました。
演習場区域について3時点の変化を見ると次のようになります。
下志津演習場の拡張
大正15年から昭和15の間にかけて3箇所で演習場の拡張が行われています。1箇所は飛び地だった歩兵学校練兵場が演習場本域と繋がっています。別の箇所は長沼池上流の東金街道付近です。3箇所目は宇那谷川流域の宇那谷集落付近が含む大面積の地域が演習場の組みいられています。ここでは、大正15年にあった宇那谷集落の地図記号が昭和15年では削除されています。
演習場地図から消滅した宇那谷集落
左は大正15年3月の下志津射場図(野戦砲兵学校)、右は昭和15年3月修正の下志津射場図(野戦砲兵学校)
集落記号だけなく、警戒標(黒十字の中心白抜き記号)3箇所もなくなっています。
昭和15年から昭和17年の間にかけては、下志津飛行学校隣接2箇所で演習場の拡張が行われています。
(つづく)
防衛省防衛研究所で近衛師団管轄演習場規程を閲覧することができました。残念ながら別冊付図は欠落しています。昭和20年の降伏に際して米軍に押収され、昭和37年に米国国務省公文書部から返還されたという付箋が貼ってありました。170ページの冊子でした。電子ファイル化をお願いでき、後日入手できますので、細部の検討はそれからです。
短時間でしたが全体をざっと閲覧しました。とりあえず、重要な事実が2つ見つかりました。
1 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載図は昭和17年4月発行の「近衛師団管轄演習場規程付図」であること。
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」551ページ掲載図は「下志津射場図」(昭和15年3月修正 野戦砲兵学校作製)として紹介され、出典として「近衛師団管轄演習場規程(別冊第一)」として紹介されています。
しかし、正しくは、この図は昭和17年4月発行近衛師団管轄演習場規程付図(以下付図と称します)であることが確認できました。この付図作成に利用した基図が「下志津射場図」(昭和15年3月修正 野戦砲兵学校作製)であるということです。
この付図には昭和15年3月以降の演習場拡張の情報が盛り込まれています。
「下志津射場図」(昭和15年3月修正 野戦砲兵学校作製)は国会図書館でそのコピーを入手しましたので、この付図と照らし合わせて確認できました。
国会図書館では大正15年3月の下志津射場図のコピーも入手できましたので、演習場区域や関連施設の情報は3時点そろうことになります。
前報までで付図のGIS取込みを報告しましたが、同様の方法で下志津射場図の昭和15年版、大正15年版をGISに取り込み、GIS上で正確に3時点の情報を比較できるようにしました。
演習場区域について3時点の変化を見ると次のようになります。
下志津演習場の拡張
大正15年から昭和15の間にかけて3箇所で演習場の拡張が行われています。1箇所は飛び地だった歩兵学校練兵場が演習場本域と繋がっています。別の箇所は長沼池上流の東金街道付近です。3箇所目は宇那谷川流域の宇那谷集落付近が含む大面積の地域が演習場の組みいられています。ここでは、大正15年にあった宇那谷集落の地図記号が昭和15年では削除されています。
演習場地図から消滅した宇那谷集落
左は大正15年3月の下志津射場図(野戦砲兵学校)、右は昭和15年3月修正の下志津射場図(野戦砲兵学校)
集落記号だけなく、警戒標(黒十字の中心白抜き記号)3箇所もなくなっています。
昭和15年から昭和17年の間にかけては、下志津飛行学校隣接2箇所で演習場の拡張が行われています。
(つづく)
2011年6月17日金曜日
下志津射場図 3 10秒4の補正(GIS取込の実際)
宇那谷川流域紀行13 下志津射場図 3 10秒4の補正(GIS取込の実際)
1 前報訂正
前報の「下志津射場図 2 GIS取込技法」の最後に次の文章がありますが、間違っていましたので訂正します。
誤
なお、今回の作業には関係ありませんが、大正7年以前の地形図は、記載されている経度情報に10秒4の補正を加えて、正しい日本測地系のデータを得る必要があります。
(このブログの作業で使っている旧版1万分の1地形図は大正6年測量であるために、経度10秒4の補正をして正しい日本測地系のデータを得、それを世界測地系データに変換してGIS取込に利用しました。)
正
なお、下志津射場図は昭和15年3月修正となっていますが、経緯度情報は大正7年以前の測量成果をそのまま利用しています。そのため、このブログの作業で使っている旧版1万分の1地形図(大正6年測量)と同様に、経度10秒4の補正をして正しい日本測地系のデータを得、それを世界測地系データに変換してGIS取込に利用しました。
下志津射場図の基図は野戦砲兵学校が製作したもので、陸地測量部発行地形図ではありません。従って陸地測量部地形図のような経度の修正は行わなかったものと考えられます。
また、下志津射場図掲載の緯度情報が1箇所間違っています。35度42分であるべきところが36度42分になっています。この間違いは大正15年版にも、昭和15年版にも同じ箇所にあり途中修正されていません。このことから、演習活動では緯度経度情報は重要なものではなかったと考えられます。
なお下志津射場図の基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)を編集したものと考えられます。
10秒4の補正をしなかった場合のずれ(花見川のずれが確認できます)
●10秒4の補正とは
1892年(明治25年)に陸地測量部が日本経緯度原点を告示し、以後これに基づいて地図測量が実施されました。その後の調査で経度について10秒4.05の誤差が認められ、1918年(大正7年)9月に日本経緯度原点の経度が変更されました。従って、大正7年9月以前発行の地形図は図郭に10秒405の誤差があります。大正7年9月発行以降の地形図は、図郭の経度に10秒4の端数を記入して対応し、昭和30年代頃までは続きました。
10秒4の端数のある地形図(昭和37年発行)
2 GIS取込の実際
次に示す画像は緯度経度情報に経度10秒4の補正をして日本測地系データを得、それを世界測地系データに変換してその通りにGISに貼り付けた画像です。GISに正確に取り込んである旧版1万分の1地形図や現代情報とずれがあります。
緯度経度を使って貼り付けときの誤差
この誤差はおそらく下志津射場図図郭外整飾部の緯度経度位置が正確でないことに由来しているものと考えられます。(緯度経度情報は使わないから飾りとして大雑把に書き込み、だからミスも訂正されないでいつまでも残ったという状況だと思います。)
一方上図から下志津射場図の左辺は旧版1万分の1地形図の図郭線であることがわかりました。
そこで、後は手仕事で微調整移動して、下志津射場図をGISの中で各種誤差が最小になるように位置を決めました。結果としてかなり満足のいくGIS貼り付けが出来ました。
微調整後
1 前報訂正
前報の「下志津射場図 2 GIS取込技法」の最後に次の文章がありますが、間違っていましたので訂正します。
誤
なお、今回の作業には関係ありませんが、大正7年以前の地形図は、記載されている経度情報に10秒4の補正を加えて、正しい日本測地系のデータを得る必要があります。
(このブログの作業で使っている旧版1万分の1地形図は大正6年測量であるために、経度10秒4の補正をして正しい日本測地系のデータを得、それを世界測地系データに変換してGIS取込に利用しました。)
正
なお、下志津射場図は昭和15年3月修正となっていますが、経緯度情報は大正7年以前の測量成果をそのまま利用しています。そのため、このブログの作業で使っている旧版1万分の1地形図(大正6年測量)と同様に、経度10秒4の補正をして正しい日本測地系のデータを得、それを世界測地系データに変換してGIS取込に利用しました。
下志津射場図の基図は野戦砲兵学校が製作したもので、陸地測量部発行地形図ではありません。従って陸地測量部地形図のような経度の修正は行わなかったものと考えられます。
また、下志津射場図掲載の緯度情報が1箇所間違っています。35度42分であるべきところが36度42分になっています。この間違いは大正15年版にも、昭和15年版にも同じ箇所にあり途中修正されていません。このことから、演習活動では緯度経度情報は重要なものではなかったと考えられます。
なお下志津射場図の基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)を編集したものと考えられます。
10秒4の補正をしなかった場合のずれ(花見川のずれが確認できます)
●10秒4の補正とは
1892年(明治25年)に陸地測量部が日本経緯度原点を告示し、以後これに基づいて地図測量が実施されました。その後の調査で経度について10秒4.05の誤差が認められ、1918年(大正7年)9月に日本経緯度原点の経度が変更されました。従って、大正7年9月以前発行の地形図は図郭に10秒405の誤差があります。大正7年9月発行以降の地形図は、図郭の経度に10秒4の端数を記入して対応し、昭和30年代頃までは続きました。
10秒4の端数のある地形図(昭和37年発行)
2 GIS取込の実際
次に示す画像は緯度経度情報に経度10秒4の補正をして日本測地系データを得、それを世界測地系データに変換してその通りにGISに貼り付けた画像です。GISに正確に取り込んである旧版1万分の1地形図や現代情報とずれがあります。
緯度経度を使って貼り付けときの誤差
この誤差はおそらく下志津射場図図郭外整飾部の緯度経度位置が正確でないことに由来しているものと考えられます。(緯度経度情報は使わないから飾りとして大雑把に書き込み、だからミスも訂正されないでいつまでも残ったという状況だと思います。)
一方上図から下志津射場図の左辺は旧版1万分の1地形図の図郭線であることがわかりました。
そこで、後は手仕事で微調整移動して、下志津射場図をGISの中で各種誤差が最小になるように位置を決めました。結果としてかなり満足のいくGIS貼り付けが出来ました。
微調整後
2011年6月16日木曜日
下志津射場図 2 GIS取込技法
宇那谷川流域紀行12 下志津射場図 2 GIS取込技法
ゆがみ補正前(左)とゆがみ補正後(右)
下志津射場図に記載されている情報を効果的かつ正確に取り出し、他の地図情報と重ね合わせて検討できるようするため、下志津射場図をデジタル化しGISに取り込みました。
次にGIS取込で私が使っている方法を説明します。レトロな雰囲気のするパソコン手作業です。しかし、この作業をすることにより、書籍掲載地図情報や紙の地図をGISに取り込むことができるので、汎用性の高い方法であると思います。興味のある方には役立つと思います。
なお、下志津射場図は緯度経度が掲載されている資料ですので、正確にGISに落とせますが、緯度経度が出ていなくても、精度をあまり気にしなければGISに付属する機能を用いて落とすことが出来ます。
1 スキャン
・「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)551ページをスキャンします。
・今回は、通常のスキャナーで、カラー、解像度1000dpiでスキャンしました。(A4判、jpegファイルで保存)
・紙の地図からスキャンする場合、私は普通、解像度を600 dpiにするのですが、今回は原本A2サイズがA4サイズに縮小して複写掲載されたもののスキャンになります。したがって、解像度を上げました。
2 ゆがみ補正
・スキャンした画像ゆがみを訂正して図を正四角形にします。
・「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」掲載図版は原本の段階で破れたところをセロテープで張り合わせたりしており、既に大きなゆがみがありますので、これを補正します。
・紙の地図から直接スキャンする場合もゆがみは必ず発生しますので、その補正は必須です。
・私は、作業をフォトショップ(Adobe)で行いました。以下のフォトショップの操作手順説明はバージョンの違いにより多少異なるかもしれません。
・なおパソコン画面が大きいと作業がしやすくなり精度も上がります。ディスプレイを2台、3台とつなげれば作業効率は飛躍的に向上します。
作業A 準備
・フォトショップにスキャンしたファイル(jpegファイル)を取り込みます。
・画面にグリッドを表示します。(ビュー→グリッドを表示)
・グリッドのマス目は、私は、カラーはシアン、スタイル実線、グリッド線1ピクセル、分割線8に設定しています。(ファイル→環境設定→ガイド・グリッドで変更できます。)
・画面上の画像の大きさを最大付近まで拡大します。(ctrlと+)
作業B 図の1辺を水平(あるいは垂直)にする
・4つの図郭線のうち直線性の最も優れている辺(図郭線が途中で曲がっていない辺)を対象にして、その辺をパソコン上で正確に水平(あるいは垂直)にします。
・フォトショップのものさしツールで、直線性の最も優れた図郭線に合わせてものさし線を引きます。表示はされませんが、それだけで角度の計測がパソコン内で行われています。
・イメージ→画像回転→角度入力を次々にクリックすると、角度入力欄にすでに数値が入っています。ものさしツールで計測しておいた数値です。OKをクリックすると画像全体が回転して対象辺が水平(あるいは垂直)になります。
作業C 図を正四角形にする。
・ゆがんだ図を、矩形選択ツールを利用して、ゴム布を引っ張るように変形させて正四角形にします。
・ただし、作業は少し複雑です。多少のなれが必要です。ゆがんだ4点をつまんで正四角形の4点に会わせる作業ができれば簡単なのですが、それは出来ません。
・ゆがんだ図の近くに設定した正四角形(矩形選択ツールで設定する)をつまんでゆがませることによって、ゆがんだ図を補正するという方法になります。つまりゆがんだ図の近くに設定した正四角形を反対にゆがませ、結果として図を補正します。
原理を次に図解します。
ゆがんだ地図
ゆがんだ地図に矩形選択ツールで矩形を設定します
編集→変形→自由な形をクリックして矩形角にマークをだします
マークをつまんで画像のゆがみを補正する位置に移動させます。
矩形選択ツールのアイコンをクリックして、適用画面を出して適用をクリックします
結果としてゆがんだ地図が補正され正四角形になります
3 後処理
・ゆがみ補正の済んだ画面の余白部分を全て切り取り、図郭だけの情報ファイルにします。(矩形選択ツールで選択→イメージ→切抜き)
4 GIS取込
地図画像の四隅の緯度経度情報を使ってGISに取り込みます。
下志津射場図は四隅の緯度経度は出ていませんが、緯度経度情報が図郭外整飾部分に複数個所記載されていますので、按分比例計算で四隅の緯度経度を求めました。この日本測地系のデータを世界測地系に変換して、GIS取込に利用します。
なお、今回の作業には関係ありませんが、大正7年以前の地形図は、記載されている経度情報に10秒4の補正を加えて、正しい日本測地系のデータを得る必要があります。
(このブログの作業で使っている旧版1万分の1地形図は大正6年測量であるために、経度10秒4の補正をして正しい日本測地系のデータを得、それを世界測地系データに変換してGIS取込に利用しました。)
上記文章を次のように訂正します。(2011.6.17)
なお、下志津射場図は昭和15年3月修正となっていますが、経緯度情報は大正7年以前の測量成果をそのまま利用しています。そのため、このブログの作業で使っている旧版1万分の1地形図(大正6年測量)と同様に、経度10秒4の補正をして正しい日本測地系のデータを得、それを世界測地系データに変換してGIS取込に利用しました。
詳しくは6月17日記事「下志津射場図 3 10秒4の補正(GIS取込の実際)」をごらんください。
ゆがみ補正前(左)とゆがみ補正後(右)
下志津射場図に記載されている情報を効果的かつ正確に取り出し、他の地図情報と重ね合わせて検討できるようするため、下志津射場図をデジタル化しGISに取り込みました。
次にGIS取込で私が使っている方法を説明します。レトロな雰囲気のするパソコン手作業です。しかし、この作業をすることにより、書籍掲載地図情報や紙の地図をGISに取り込むことができるので、汎用性の高い方法であると思います。興味のある方には役立つと思います。
なお、下志津射場図は緯度経度が掲載されている資料ですので、正確にGISに落とせますが、緯度経度が出ていなくても、精度をあまり気にしなければGISに付属する機能を用いて落とすことが出来ます。
1 スキャン
・「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)551ページをスキャンします。
・今回は、通常のスキャナーで、カラー、解像度1000dpiでスキャンしました。(A4判、jpegファイルで保存)
・紙の地図からスキャンする場合、私は普通、解像度を600 dpiにするのですが、今回は原本A2サイズがA4サイズに縮小して複写掲載されたもののスキャンになります。したがって、解像度を上げました。
2 ゆがみ補正
・スキャンした画像ゆがみを訂正して図を正四角形にします。
・「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」掲載図版は原本の段階で破れたところをセロテープで張り合わせたりしており、既に大きなゆがみがありますので、これを補正します。
・紙の地図から直接スキャンする場合もゆがみは必ず発生しますので、その補正は必須です。
・私は、作業をフォトショップ(Adobe)で行いました。以下のフォトショップの操作手順説明はバージョンの違いにより多少異なるかもしれません。
・なおパソコン画面が大きいと作業がしやすくなり精度も上がります。ディスプレイを2台、3台とつなげれば作業効率は飛躍的に向上します。
作業A 準備
・フォトショップにスキャンしたファイル(jpegファイル)を取り込みます。
・画面にグリッドを表示します。(ビュー→グリッドを表示)
・グリッドのマス目は、私は、カラーはシアン、スタイル実線、グリッド線1ピクセル、分割線8に設定しています。(ファイル→環境設定→ガイド・グリッドで変更できます。)
・画面上の画像の大きさを最大付近まで拡大します。(ctrlと+)
作業B 図の1辺を水平(あるいは垂直)にする
・4つの図郭線のうち直線性の最も優れている辺(図郭線が途中で曲がっていない辺)を対象にして、その辺をパソコン上で正確に水平(あるいは垂直)にします。
・フォトショップのものさしツールで、直線性の最も優れた図郭線に合わせてものさし線を引きます。表示はされませんが、それだけで角度の計測がパソコン内で行われています。
・イメージ→画像回転→角度入力を次々にクリックすると、角度入力欄にすでに数値が入っています。ものさしツールで計測しておいた数値です。OKをクリックすると画像全体が回転して対象辺が水平(あるいは垂直)になります。
作業C 図を正四角形にする。
・ゆがんだ図を、矩形選択ツールを利用して、ゴム布を引っ張るように変形させて正四角形にします。
・ただし、作業は少し複雑です。多少のなれが必要です。ゆがんだ4点をつまんで正四角形の4点に会わせる作業ができれば簡単なのですが、それは出来ません。
・ゆがんだ図の近くに設定した正四角形(矩形選択ツールで設定する)をつまんでゆがませることによって、ゆがんだ図を補正するという方法になります。つまりゆがんだ図の近くに設定した正四角形を反対にゆがませ、結果として図を補正します。
原理を次に図解します。
ゆがんだ地図
ゆがんだ地図に矩形選択ツールで矩形を設定します
編集→変形→自由な形をクリックして矩形角にマークをだします
マークをつまんで画像のゆがみを補正する位置に移動させます。
矩形選択ツールのアイコンをクリックして、適用画面を出して適用をクリックします
結果としてゆがんだ地図が補正され正四角形になります
3 後処理
・ゆがみ補正の済んだ画面の余白部分を全て切り取り、図郭だけの情報ファイルにします。(矩形選択ツールで選択→イメージ→切抜き)
4 GIS取込
地図画像の四隅の緯度経度情報を使ってGISに取り込みます。
下志津射場図は四隅の緯度経度は出ていませんが、緯度経度情報が図郭外整飾部分に複数個所記載されていますので、按分比例計算で四隅の緯度経度を求めました。この日本測地系のデータを世界測地系に変換して、GIS取込に利用します。
上記文章を次のように訂正します。(2011.6.17)
なお、下志津射場図は昭和15年3月修正となっていますが、経緯度情報は大正7年以前の測量成果をそのまま利用しています。そのため、このブログの作業で使っている旧版1万分の1地形図(大正6年測量)と同様に、経度10秒4の補正をして正しい日本測地系のデータを得、それを世界測地系データに変換してGIS取込に利用しました。
詳しくは6月17日記事「下志津射場図 3 10秒4の補正(GIS取込の実際)」をごらんください。
2011年6月15日水曜日
共振音を発する高圧線鉄塔
鉄骨から共振音を出す高圧線鉄塔
今朝の散歩で、高圧線鉄塔からかなり大きな音の共振音が聞こえていましたので、記録しておきます。
花見川沿い左岸の字「高台」(実際に1段高い地形面となっている)の高圧線鉄塔(吉橋32号)から、鉄骨を小刻みに叩いたような共振音が聞こえていました。周期的に音が大きくなったり、小さくなったりしていました。そばの道路を走るパトカーとバイクの音と較べてください。
高圧線鉄塔の碍子から「ジリジリ」という音が聞こえることはよくありますが、鉄骨自体の共振音は初めて聞きました。どこかのボルトが甘くなっているかも。
2011年6月14日火曜日
下志津射場図 1
宇那谷川流域紀行11 下志津射場図 1
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)550、551ページ
このページには下志津射場図と演習場境界プロット図が掲載されています
1 下志津射場図の解読を目指す
以前の記事「トーチカ五差路(遠近五差路)」で紹介したように「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)に下志津射場図が掲載されています。それに記載されている情報から、射弾下掩蔽部が遠近五差路の名称由来であることが判明しました。
この下志津射場図を良く見ると演習場境界、使用区域区分、特殊演習場、危険予防上の注意区域の区域などの情報とともに、射撃陣地と射方向、射弾下掩蔽部、爆撃基本目標の情報が赤と青の色刷りで出ています。
さらに基図の「注意」欄には「警戒旗掲揚ニ関スル規約」が掲載されており、実弾射撃をする使用区域毎に警戒旗掲揚場所の記述があります。その警戒旗掲揚場所の記号は「記号」欄に出ています。また「記号」欄には展望観測所、ペトン観測所、測点、警戒標などの記号も出ています。
これらの「注意」や「記号」を手がかりにしてこの下志津射場図を解読すれば、下志津演習場の運用実態の一部を垣間見ることができそうです。
また、「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)の424ページには「近衛師団管轄演習場規程」付図第六其二の一部が掲載されています。この図には射撃の目標を置いてはいけない区域や電気発火用疑砲火埋設線、畑貸与地などの情報が掲載されています。
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)424ページ
このページには「近衛師団管轄演習場規程」付図第六其二の一部が掲載されています
下志津演習場の運用実態が少しでもわかれば宇那谷川流域(勝田川流域)ひいては花見川流域の成り立ちの理解が進みます。そうすれば私の興味である「花見川流域の魅力、アイデンティティを徹底的に探る」ことの歩みを進めることに役立つことがいろいろあるのではないだろうかと思うようになりました。軍事的な事柄を忌避するのではなく、正面から歴史的事実を知りたいと思います。
2 関連資料の入手
下志津射場図を解読する手始めに、現物を一度手に取って確かめたくなりました。印刷の擦れもひどく読めないところもあります。また「近衛師団管轄演習場規程(別冊第一)」が出典であり、その「演習場規程」自体にも興味があります。
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」には付録として図版一覧があり、収録されている全ての情報について所蔵者を含む詳細情報が掲載されています。そこでこの図版一覧を調べたところ、下志津射場図(「近衛師団管轄演習場規程」付図)の所蔵者欄が空白です。そこで千葉市郷土博物館に問い合わせたところ、調べていただきましたが、判らないとの回答をいただきました。特殊史料であるため、情報提供者名を公表しない約束で情報提供を受けたなどの事情があったのかもしれません。
現物にはたどりつけていないのですが、次の資料コピーを国会図書館で入手できました。
下志津射場図(昭和15年3月 野戦砲兵学校)
下志津射場図(大正15年3月 野戦砲兵学校)
いずれも「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」収録カラー版の下志津射場図のカラー印刷部分を除いた基図部分の地図です。特に大正15年版は印刷が鮮明であり、文字や細かい図柄が完全に判るので、有用な資料です。
下志津射場図(昭和15年3月 野戦砲兵学校)
下志津射場図(大正15年3月 野戦砲兵学校)
また、「近衛師団管轄演習場規程」原本が防衛省防衛研究所に所蔵されていることがわかり、近々閲覧できる状況になりました。しかし、残念ながら別冊付図は欠落しているとのことでした。
3 下志津射場図の解読に着手する
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」に収録されたカラー版下志津射場図の画像2点とモノクロ版基図のコピー2点をそのままGISに取り込み、情報を取り出し、他の資料(1万分の1旧版地形図〔大正6年測量〕)の情報と重ね合わせて、演習場の実態解明の作業に着手しました。
(つづく)
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)550、551ページ
このページには下志津射場図と演習場境界プロット図が掲載されています
1 下志津射場図の解読を目指す
以前の記事「トーチカ五差路(遠近五差路)」で紹介したように「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)に下志津射場図が掲載されています。それに記載されている情報から、射弾下掩蔽部が遠近五差路の名称由来であることが判明しました。
この下志津射場図を良く見ると演習場境界、使用区域区分、特殊演習場、危険予防上の注意区域の区域などの情報とともに、射撃陣地と射方向、射弾下掩蔽部、爆撃基本目標の情報が赤と青の色刷りで出ています。
さらに基図の「注意」欄には「警戒旗掲揚ニ関スル規約」が掲載されており、実弾射撃をする使用区域毎に警戒旗掲揚場所の記述があります。その警戒旗掲揚場所の記号は「記号」欄に出ています。また「記号」欄には展望観測所、ペトン観測所、測点、警戒標などの記号も出ています。
これらの「注意」や「記号」を手がかりにしてこの下志津射場図を解読すれば、下志津演習場の運用実態の一部を垣間見ることができそうです。
また、「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)の424ページには「近衛師団管轄演習場規程」付図第六其二の一部が掲載されています。この図には射撃の目標を置いてはいけない区域や電気発火用疑砲火埋設線、畑貸与地などの情報が掲載されています。
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)424ページ
このページには「近衛師団管轄演習場規程」付図第六其二の一部が掲載されています
下志津演習場の運用実態が少しでもわかれば宇那谷川流域(勝田川流域)ひいては花見川流域の成り立ちの理解が進みます。そうすれば私の興味である「花見川流域の魅力、アイデンティティを徹底的に探る」ことの歩みを進めることに役立つことがいろいろあるのではないだろうかと思うようになりました。軍事的な事柄を忌避するのではなく、正面から歴史的事実を知りたいと思います。
2 関連資料の入手
下志津射場図を解読する手始めに、現物を一度手に取って確かめたくなりました。印刷の擦れもひどく読めないところもあります。また「近衛師団管轄演習場規程(別冊第一)」が出典であり、その「演習場規程」自体にも興味があります。
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」には付録として図版一覧があり、収録されている全ての情報について所蔵者を含む詳細情報が掲載されています。そこでこの図版一覧を調べたところ、下志津射場図(「近衛師団管轄演習場規程」付図)の所蔵者欄が空白です。そこで千葉市郷土博物館に問い合わせたところ、調べていただきましたが、判らないとの回答をいただきました。特殊史料であるため、情報提供者名を公表しない約束で情報提供を受けたなどの事情があったのかもしれません。
現物にはたどりつけていないのですが、次の資料コピーを国会図書館で入手できました。
下志津射場図(昭和15年3月 野戦砲兵学校)
下志津射場図(大正15年3月 野戦砲兵学校)
いずれも「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」収録カラー版の下志津射場図のカラー印刷部分を除いた基図部分の地図です。特に大正15年版は印刷が鮮明であり、文字や細かい図柄が完全に判るので、有用な資料です。
下志津射場図(昭和15年3月 野戦砲兵学校)
下志津射場図(大正15年3月 野戦砲兵学校)
また、「近衛師団管轄演習場規程」原本が防衛省防衛研究所に所蔵されていることがわかり、近々閲覧できる状況になりました。しかし、残念ながら別冊付図は欠落しているとのことでした。
3 下志津射場図の解読に着手する
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」に収録されたカラー版下志津射場図の画像2点とモノクロ版基図のコピー2点をそのままGISに取り込み、情報を取り出し、他の資料(1万分の1旧版地形図〔大正6年測量〕)の情報と重ね合わせて、演習場の実態解明の作業に着手しました。
(つづく)
泉
水滴の波紋が広がる泉
泉の水が路面を濡らす
泉の位置(弁天橋付近)グーグルアースより
以前の記事でも紹介しましたが、花見川の弁天橋近くのサイクリング道路脇に泉があります。どなたかが世話をしていて、いつもきれいな水が途切れません。小鳥の水飲み場となっています。今朝は梅雨時でもあり、この泉に水が滴って、波紋を描いていました。
この泉は位置的には台地崖の中腹にありますから、その付近に地層の境目があるのかもしれません。
泉の水が路面を濡らす
泉の位置(弁天橋付近)グーグルアースより
以前の記事でも紹介しましたが、花見川の弁天橋近くのサイクリング道路脇に泉があります。どなたかが世話をしていて、いつもきれいな水が途切れません。小鳥の水飲み場となっています。今朝は梅雨時でもあり、この泉に水が滴って、波紋を描いていました。
この泉は位置的には台地崖の中腹にありますから、その付近に地層の境目があるのかもしれません。
2011年6月12日日曜日
トーチカ五差路(遠近五差路)
宇那谷川流域紀行10 トーチカ五差路(遠近五差路)
遠近五差路
戦後開拓が行われた台地上の普通の五差路です。四街道市と千葉市稲毛区の境にあります。
最初道路標識を見て、「エンキン五差路」とは珍しい地名だと関心を持ちました。そして、標識を良く見ると、「トーチカ五差路」であり、びっくりです。
遠近五差路の標識
調べてみると、この付近は明治の頃から下志津軍用地として砲兵の射場として利用され、遠近五差路付近は射場中央付近の着弾地点として利用された場所です。
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」551ページには下志津射場図(1940〔昭和15〕年3月修正 野戦砲兵学校製作『近衛師団管轄演習場規程〔別冊第一〕』)が掲載されています。この射場図の(現在の)遠近五差路付近をみると、射弾下掩蔽部の記号が出ています。
射弾下掩蔽部(しゃだんしたえんぺいぶ)という言葉は、WEBで調べると現在の自衛隊でも使用している言葉です。その意味は「着弾状況の体感訓練及び観測訓練を行うための施設」です。敵の砲撃下の状況を実戦的に再現し、兵に体験・訓練させる施設です。これを周辺住民がトーチカと呼び、それが五差路の名称(地名)として残ったものです。
下志津射場図の射弾下掩蔽部の記号は近くの大日山にもあります。この二箇所の記号を比較すると、この記号が位置と意味だけを示すものではなく、施設の平面的配置状況と大きさを示しているものであることが推察されます。この推察を元に、この射場図から射弾下掩蔽部の記号をGISに転記して計測すると、射弾下掩蔽部はトーチカ五差路の北250mに位置し、面積約3200平方m、周長約280mのL字型形状の施設であったと推察されます。
下志津射場図に掲載されている射弾下掩蔽部
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」551ページより転載。(下志津射場図 1940〔昭和15〕年3月修正 野戦砲兵学校製作『近衛師団管轄演習場規程〔別冊第一〕』)(位置を示すために、数値地形図2500〔空間データ基盤〕の情報と現在の遠近五差路位置をオーバーレイしています)
射弾下掩蔽部と遠近五差路の位置
「百年以上も、この原野に撃ち込まれた砲弾類は、ばく大な量に達しているでしょう。その証拠に、最近でも、写真のような砲弾が掘り出されています。」と昭和56年2月の四街道町の町政だより記事(「地区探訪39下志津原①」)〔「地区探訪」四街道市発行〕は報じています。
▲畑から出た砲弾を手にした○○○の○○○○さん
四街道町の町政だより掲載写真を模写
戦前には演習場で廃弾拾いが盛んに行われていたこともあり、また軍関係者が開拓民に転じたこともあり、古くから住んでいる人々にとって、砲弾の発見はそれほど深刻な問題ではないのかもしれません。
しかし、この遠近五差路の近く(千葉市稲毛区域)で毒ガス弾が発見(平成21年度掘削確認調査では90mm迫撃砲弾171発発見)されました。この地域の戦後はまだ終わっていません。
地域づくりという観点で考えると、旧軍の悪(毒ガス)は高津川流域(習志野演習場)だけでなく、勝田川流域(下志津演習場)にも深刻な負の遺産として現存しています。
遠近五差路
戦後開拓が行われた台地上の普通の五差路です。四街道市と千葉市稲毛区の境にあります。
最初道路標識を見て、「エンキン五差路」とは珍しい地名だと関心を持ちました。そして、標識を良く見ると、「トーチカ五差路」であり、びっくりです。
遠近五差路の標識
調べてみると、この付近は明治の頃から下志津軍用地として砲兵の射場として利用され、遠近五差路付近は射場中央付近の着弾地点として利用された場所です。
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」551ページには下志津射場図(1940〔昭和15〕年3月修正 野戦砲兵学校製作『近衛師団管轄演習場規程〔別冊第一〕』)が掲載されています。この射場図の(現在の)遠近五差路付近をみると、射弾下掩蔽部の記号が出ています。
射弾下掩蔽部(しゃだんしたえんぺいぶ)という言葉は、WEBで調べると現在の自衛隊でも使用している言葉です。その意味は「着弾状況の体感訓練及び観測訓練を行うための施設」です。敵の砲撃下の状況を実戦的に再現し、兵に体験・訓練させる施設です。これを周辺住民がトーチカと呼び、それが五差路の名称(地名)として残ったものです。
下志津射場図の射弾下掩蔽部の記号は近くの大日山にもあります。この二箇所の記号を比較すると、この記号が位置と意味だけを示すものではなく、施設の平面的配置状況と大きさを示しているものであることが推察されます。この推察を元に、この射場図から射弾下掩蔽部の記号をGISに転記して計測すると、射弾下掩蔽部はトーチカ五差路の北250mに位置し、面積約3200平方m、周長約280mのL字型形状の施設であったと推察されます。
下志津射場図に掲載されている射弾下掩蔽部
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」551ページより転載。(下志津射場図 1940〔昭和15〕年3月修正 野戦砲兵学校製作『近衛師団管轄演習場規程〔別冊第一〕』)(位置を示すために、数値地形図2500〔空間データ基盤〕の情報と現在の遠近五差路位置をオーバーレイしています)
射弾下掩蔽部と遠近五差路の位置
「百年以上も、この原野に撃ち込まれた砲弾類は、ばく大な量に達しているでしょう。その証拠に、最近でも、写真のような砲弾が掘り出されています。」と昭和56年2月の四街道町の町政だより記事(「地区探訪39下志津原①」)〔「地区探訪」四街道市発行〕は報じています。
▲畑から出た砲弾を手にした○○○の○○○○さん
四街道町の町政だより掲載写真を模写
戦前には演習場で廃弾拾いが盛んに行われていたこともあり、また軍関係者が開拓民に転じたこともあり、古くから住んでいる人々にとって、砲弾の発見はそれほど深刻な問題ではないのかもしれません。
しかし、この遠近五差路の近く(千葉市稲毛区域)で毒ガス弾が発見(平成21年度掘削確認調査では90mm迫撃砲弾171発発見)されました。この地域の戦後はまだ終わっていません。
地域づくりという観点で考えると、旧軍の悪(毒ガス)は高津川流域(習志野演習場)だけでなく、勝田川流域(下志津演習場)にも深刻な負の遺産として現存しています。
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