2015年2月27日金曜日

地名「犢橋(コテハシ)」の語源

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.75 地名「犢橋(コテハシ)」の語源

上ノ台遺跡の牛骨出土情報に端を発し、延喜式記載浮島牛牧と関連付けて、上ノ台遺跡のメイン生業として牛牧を想定しました。

さらにその情報に基づいて、その場所の地名「幕張(マクハリ)」の語源は「牧懇(マキハリ)」であるとする考察を行いました。

そうした経緯の中で、前から気になっていた難読地名「犢橋(コテハシ)」の語源が、「幕張(マクハリ)」と同じように古代の牛牧に関連するものであるとする思考が、自然に、スッと生れましたので、記録しておきます。

次に「参考図 近世犢橋村境界と関連地物」を掲載しておきます。

参考図 近世犢橋村境界と関連地物
基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)、水系は現代水系

「犢橋(コテハシ)」の語源は「特牛(コトイ)階(ハシ)」であると考えました。

特牛(コトイ)とは次の様に説明されています。

ことい【特牛】 コトヒ
(コト(殊)オヒ(負)の約かという)「こといのうし」「こというし」の略。夫木和歌抄(33)「やまと—のかけずまひする」
『広辞苑 第六版』 岩波書店

ことい‐うし ことひ‥【特牛】
〖名〗 (古く「こというじ」とも) 強健で大きな牡牛。頭の大きい牛。また、単に牡牛のこと。こって。こってい。こってうし。こっていうし。こっとい。ことい。こといのうし。
※俳諧・玉海集(1656)一「たかやすは象とや見まし特うし〈良利〉」
※万葉(8C後)一六・三八三八「わぎもこが額に生ふる双六の事負乃牛(ことひノうし)の鞍の上の瘡(かさ)」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館

以上の説明から、「コテ」とは、ことおい→ことい→こって→こてと音が変化してきたことばで、強健な牡牛の意味であることがわかりました。

古代では、牛は兵器に準じるような軍事的重要性があり、もっぱら駄用として、主として戦時の物資輸送に備えるために兵部省が官牧で繁殖につとめていました。(2015.02.24記事「上ノ台遺跡 軍需品としての牛、殺牛・祭神・魚酒」参照)

コテ(特牛)とはその軍需品(現代風にいえば軍用トラック)としての駄用牛そのものだと思います。

階(ハシ)とは次のように説明されています。

はし【階・梯】
〖名〗
① (階) 庭から屋内に上る通路として設ける階段。きざはし。きだはし。あがりだん。〔十巻本和名抄(934頃)〕
※古今著聞集(1254)五「式部はしのかたをみいだしてゐたりけるに」
② (梯) はしご。かけはし。
※書紀(720)垂仁八七年二月(熱田本訓)「神庫(ほくら)高しと雖も我能く神庫の為に梯(ハシ)を造(たて)る」
※大鏡(12C前)二「もののすすけてみゆるところの有ければ、はしにのぼりてみるに」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館

つまりあがり階段のことです。

コテハシ=「特牛(コトイ)階(ハシ)」とは、浮島牛牧で生産した軍需品としての強健な駄用牡牛を戦地(陸奥国)方面に運ぶために、花見川谷底から台地面にあがる(のぼる)場所を意味したのだと考えます。

花見川谷底は犢橋付近から急に狭くなり、そこは化灯土が堆積する低湿地です。その場所を牛が歩くことが困難であったのだと思います。

そのため犢橋付近で牛を台地に引き上げた場所があり、その場所を「特牛(コテ)階(ハシ)」と呼んで、その場所の地名が生れたのだと考えます。

牛を台地に引き上げる場所に地名が生まれる程ですから、長期にわたり継続的に牛がこの場所を通過したのだと思います。
また、地名に残るのですから、牛を台地の上にのぼらせることが一苦労だったのだと思います。牛輸送(といっても牛を歩かせて移動させる)の難所の一つが犢橋だったのだと思います。

牛は犢橋で台地にのぼり、そこから高津まで歩き、高津で船に載せられたのか、あるいは台地上を北東に向かって歩いたのか、その行程は今後の検討課題とします。



なお、「犢」という漢字の読みは「トク」であり「コテ」とは読みません。またその意味は「子牛」であり「強健な牡牛」ではありません。しかし、漢字は牛偏であり、牛に関する言葉です。

コテハシが浮島牛牧で生産した強健な牡牛を台地に引き上げる場所という語源にも関わらず、「犢橋」という漢字が当てられた経緯を次のように想像します。

1 「特牛(コトイ)階(ハシ)」が転じてコテハシという地名が生まれる。音としての地名であり、漢字が充てられていなかった。【古代、牛牧が存在していた時代】

牛牧の時代が終わっても、コテハシという音の地名は伝世するが、その正確な意味は忘れられる。

2 土地開発等のために、コテハシという地名に当て字を充てる必要が生じる。【中近世】

その際、この場所が牛に関わる土地であるというかすかな伝承が社会に伝わっていた。

当て字を考えた人々は、コテは焼きごてのコテであり、焼きごてで牛に印を押す場合、それは必ず子牛であるから、コテからイメージする牛とは子牛のことであると考えた。

子牛は、漢字で書けば「犢」であるから、「犢」の読み「トク」とは異なるが、強引にその漢字を充てた。

また、小手(小さい手)という漢字からも子牛をイメージできる。

ハシは「子牛が花見川を渡る」というイメージから「橋」を充てた。

結果として、当て字「犢橋」が生れた。

2015年2月26日木曜日

国土地理院地図の3D表示機能

別の目的で国土地理院のWEBサイトを訪れた際、最近新装した「国土地理院地図」(電子国土WEB)を覗いてみると、3D表示機能がありました。

3D表示機能が実際はどのようなものであるか、試験的に使ってみると、きわめて高機能でかつ使いやすいことがわかりました。

これまで地形3D表示で常用してきたKashmir3Dは極めて高機能ですが、国土地理院地図3Dは使い勝手の側面でそれをしのぐ場面がありました。

国土地理院地図3Dの将来性に期待するところ大であると感じましたので、紹介報告します。

1 国土地理院地図の3D表示方法
国土地理院地図サイトの画面で自分の必要とする範囲を表示し、画面右上「機能」をクリックして「3D」を表示してそれをクリックすると3D画面が表示されます。

3D表示画面 1
高さ方向の倍率に「30」を書きこんだ時の画面(カーソル移動では10倍までしか表示されない。)

参考 ここをクリックすると上記3D表示画面が別ウィンドウで開き、操作できます。

この画面で、マウスで3D画像を自由にくるくる回して様々な角度で表示したり、拡大縮小したり、(使い道は少ないと考えらえますが)逆さまに地形を吊り下げて表示することまでできます。

3D表示画面 2

3D表示画面の操作がきわめてスムーズで、「鈍重」さを全く感じないのでとても素晴らしいことだと思います。

また、3D画像を1枚の画像に定着させるとその立体性が失われてしまう部分(認識できなくなる部分)が多いのですが、3D画像をマウスで自由に動かすと、立体性が強く印象付けられ、立体性の詳細な認識ができます。この点も素晴らしいことだと思います。

3D表示は航空写真でも可能です。

最新航空写真の3D表示

3Dの基となる地形情報は10mメッシュです。将来5mメッシュが全国整備されてそれにより3D表示ができるようになれば、利用価値はさらに向上すると思います。

なおKashmir3Dでは5mメッシュを使えますので、このブログでは精細な地形の3D検討に使っています。

2 3Dデータをダウンロードしてオフラインで3D表示する
3D表示のデータをダウンロードできます。
ダウンロードは3Dプリンター用データ(色なし用、カラープリンター用)とブラウザでぐるぐる回す用のデータができます。

3Dプリンターは現在所持していないので、ブラウザ表示用データをダウンロードしました。

ブラウザでぐるぐる回す用のデータ(WebGL用ファイル)をダウンロードして、ブラウザ(Firefoxのみ)で表示すると、オフラインで3D表示を国土地理院地図WEBサイトで行ったと同じように出来ます。

オフラインでの利用では、工夫すると自分の持っている地図画像を貼り付けて3D表示することもできました。

任意の画像(迅速図を基図とした画像)を3D表示に貼り付けて表示した例1

例2

例3

偶然知った国土地理院地図3Dですが、これから大いに活用したいと思います 。

ICT技術の進歩が、自分の想定をはるかに上回るスピードであることを実感させられました。

2015年2月25日水曜日

地名「幕張」の語源

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.74 地名「幕張」の語源

上ノ台遺跡の牛骨出土から、上ノ台遺跡(集落)のメイン生業として牛牧(ウシマキ)を想定しました。(2015.02.24記事「上ノ台遺跡 軍需品としての牛、殺牛・祭神・魚酒」参照)

この想定は牛骨出土と延喜式記載浮島牛牧が結びついたことに因るものです。(2015.02.14記事「上ノ台遺跡から出土した古墳時代牛骨の重要意義」参照)

さて、この検討により、現代地名「幕張」(あの幕張メッセの“マクハリ”)の語源が判ったという心理・思考状況が現出しましたので、記録しておきます。

参考図として次に近世馬加村の境界と関連地物を迅速2万図(明治15年測量)にプロットしました。

参考図 近世馬加村境界と関連地物

幕張(あるいは別表記「馬加」)(読みは同じマクハリ)の語源は牧墾(マキハリ)だと思います。

「幕」(マク)は牛牧(ウシマキ)のマキがマクに転じたのだと思います。

もともと牧(マキ)の意味は「 牛・馬などを放し飼いにする場所。」(出典:『精選版 日本国語大辞典』 小学館)です。

この言葉の動詞形は「まく【 撒く】散らしかける。ばらまく。撒布する。」(出典:『広辞苑 第六版』 岩波書店)です。

牛や馬を撒いた(放し飼いにした)ので牧(マキ)という言葉が生まれたのです。

ですから、マクとマキは通じています。

また、ハリは「はり【墾】〖名〗 (動詞「はる(墾)」の連用形の名詞化)① 開墾すること。「にいばり」「はりみち」など、他の語と複合して用いられ、現在でも、「春」「張」などの字を当てて、地名となっている所が多い。② 徳島県などで開墾地をいう。山梨県でも畠の数を一はり、二はりと数える。」(出典:『精選版 日本国語大辞典』 小学館)だと思います。

ひとことで言えば、牧懇(マキハリ…牧場開墾地)の読みが転じて「マクハリ」となり、当て字「幕張(あるいは馬加)」が付けられたのです。

近世以降には当て字「幕張(あるいは馬加)」に基づいて様々な語源説が唱えられるようになり、現代の地名辞典や「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」等ではこの当て字にもとづいた語源説を紹介しています。

上ノ台遺跡における牛骨出土情報の再発見を契機に、古墳時代の人々の活動をあぶり出すことによって、地名「マクハリ」の語源が判ったことは自分ながら痛快です。

2015年2月24日火曜日

上ノ台遺跡 軍需品としての牛、殺牛・祭神・魚酒

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.73 上ノ台遺跡 軍需品としての牛、殺牛・祭神・魚酒

古墳時代遺跡上ノ台遺跡の住居趾から牛骨が出土したことに関して、第1報として浮島牛牧(奈良・平安時代、上ノ台隣接地)との関連について記事を書きました。(2015.02.14記事「上ノ台遺跡から出土した古墳時代牛骨の重要意義」参照)

この記事に加え、牛骨出土に関して深めた考察内容を記録しておきます。

1 牛骨出土状況
牛骨の出土住居趾は遺跡(集落)のほぼ中央付近に存します。

牛骨出土住居趾の位置

牛骨出土住居趾の西側は住居趾分布がまばらになっていて、おそらくその付近がこの遺跡(集落)の広場があった場所であると考えています。

出土牛骨は、上顎の歯9乃至10個、下顎の歯4個、脛骨切断品1個です。

出土状況写真は次の通りです。

牛骨出土状況写真 1
「千葉・上ノ台遺跡 図版編1」(1983、千葉市教育委員会)より引用

牛骨出土状況写真 2
「千葉・上ノ台遺跡 図版編1」(1983、千葉市教育委員会)より引用

2 古墳時代の牛の意義 -軍需品としての牛-
佐伯有清著「牛と古代人の生活」(日本歴史新書、至文堂、1967)には古墳時代の牛について次のような記述があります。

「家牛が日本に農耕文化とともにはいってきた時代には、すでに牛は一部の共同体の首長の所有物としてであり、当時の牛が水田の耕耘にもちいられたことは、まず考えられず、主として宗教儀礼のために飼養され、とくに共同体の成員のなかでも、首長クラスの葬礼とか、また祭祀的首長の管理のもとに、農耕儀礼か、あるいは病気平癒のための呪術的な儀礼に牛が犠牲とされていた可能性がつよい。」

この文章を読んで、特に水田耕作にもちいられたことは、まず考えられないという記述に、自分に専門的知識が無いにもかかわらず、強く感心し共鳴しました。

上ノ台遺跡では米が食べられたことがあるという証拠はありますが、牛による耕耘が効率化をもたらしたに違いないと考えられるような広い水田があったとは、とてもとても考えられません。(2015.02.19記事「上ノ台遺跡 米・雑穀栽培」参照)

また雑穀や麻等の栽培で牛を使ったとイメージできるような状況を見つけることができません。

従って、上ノ台遺跡の牛は耕耘用に飼養された牛ではなく、別の意義のある牛だと考えます。

以下、上記図書の「官牛牧の成立」の項の記述を参考に、自分なりに上ノ台遺跡の牛について考察を深めてみます。

上ノ台遺跡の牛について考えるヒントは、奈良時代になって上ノ台遺跡隣接砂丘上に官牧としての浮島牛牧が設置されることにあると考えます。

上記図書では官牛牧とは兵部省が所管し、その意味として、牛とは兵器や馬と同じ重要な軍国の資であったことを詳しく説明しています。

つまり牛はもっぱら駄用として、主として戦時の物資輸送に備えるために国家管理していたことが述べられています。私牛についてさえも全て国家が把握していたとのことです。

現代風にいえば、牛はさしずめ軍用トラックです。

奈良時代には、牛は重要な軍需品であったことがわかったのですが、上ノ台遺跡が存在した6-7世紀の古墳時代にあっても、牛のこのような意義がすでに存在したと考えました。

つまり、上ノ台遺跡(集落)の人々によって、隣接砂丘上で牛の繁殖・飼養が行われ、軍需品として出荷されていたのではないかと想像します。

逆に言えば、6-7世紀頃に上ノ台遺跡(集落)で牛の繁殖・飼養が産業となっていたからこそ、奈良時代にその場所が官牧としての浮島牛牧設置に至ったのだと思います。

また、6-7世紀頃に上ノ台遺跡(集落)で牛の繁殖・飼養が産業となっていて、多数の牛を抱えていたからこそ、牛がきわめて貴重な物であるにもかかわらず、集落の人々は1頭の牛を殺して、その骨を住居内に残したのだと思います。

3 住居内出土牛骨の意義 -殺牛・祭神・魚酒-
出土牛骨に切断された脛骨が含まれていることに強い興味を持ちます。

住居内で牛肉を酒の肴にして宴があった証拠であると考えます。

牛の頭骨を置いて、その傍で集落のメイン生業である牛の繁殖・飼養の成功祈願をし、牛肉を一緒に食うことで関係集団の結束を図ったものだと考えます。

殺牛し祭神し魚酒したのだと思います。

2015年2月23日月曜日

上ノ台遺跡 鍛冶遺物出土住居趾

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.72 上ノ台遺跡 鍛冶遺物出土住居趾

上ノ台遺跡では鍛冶遺物等が出土した住居趾が4軒ありますので整理しておきます。

上ノ台遺跡の鍛冶遺物等出土住居趾
写真は「千葉・上ノ台遺跡 付篇」「千葉・上ノ台遺跡 図版編2」から引用

V-60住居趾「床面付近から鉄滓が数点出土している」
X-48住居趾 「羽口出土(土製品、位置:覆土、裾径10.5㎝、現高10.1㎝、脚部1/4残、上部がコークス状に多孔質となり黒色を呈する。胴部中位まで熱が伝わり粗れている。多孔質になる範囲は外面の方が広い)」
2K-45住居趾 「鉄滓出土 4.5㎝-2.8㎝-2.1㎝、2.9g、一部に砂粒の酸化物が付着している。繊維状の酸化した付着物あり。」
2W-31住居趾「鉱塊出土」

「千葉・上ノ台遺跡 付篇」ではV-60住居趾出土鉄滓とX-48住居趾出土羽口付着スラグについて化学分析等を行い、鉄滓は鍛錬鍛冶滓、羽口は鉄羽口であると判定しています。また鍛冶工房は1時期1軒と想定しています。

2015年2月22日日曜日

上ノ台遺跡 紡錘車出土と機織り

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.71 上ノ台遺跡 紡錘車出土と機織り

古墳時代上ノ台遺跡から紡錘車16個が16軒の住居趾から出土しています。

紡錘車は繊維をねじってヨリを付けて糸をつくる道具(紡錘、つむ、spindle)の回転力をつけるための錘部分です。

この道具が出土するということは、①近くの台地で麻類を栽培して、その繊維を採っていた、②桑を植えてカイコを飼い繭を生産していた、③その双方を行っていたという3つの可能性のどれかが行われていたということです。

また、繊維から糸をつくるだけでなく機織りをして布をつくっていたこともほぼ確実だと考えます。

上ノ台遺跡の紡錘車出土住居趾

上ノ台遺跡出土紡錘車の例
「千葉・上ノ台遺跡本文編2」(1982、千葉市教育委員会)、「千葉・上ノ台遺跡図版編2」(1983、千葉市教育委員会)から引用

機織りは上ノ台遺跡において稼ぐ力のある仕事(産業)であったと考えます。

その考えは紡錘車出土住居趾が全住居趾と比べて玉類・装身具・滑石製品出土の割合が高いことから裏付けられます。

玉類・装身具・滑石製品出土住居趾分布と紡錘車出土住居趾分布のオーバーレイ図

玉類・装身具・滑石製品出土住居趾の割合

全住居趾より紡錘車出土住居趾の方が玉類等出土割合が2倍以上となっています。

なお、玉類・装身具・滑石製品出土住居趾にはその生産者が含まれていますので、念のため未製品だけを出土する住居趾を対象から除外して、その割合を求めてみました。

未製品を除いた玉類・装身具・滑石製品出土住居趾の割合

より厳密に統計をとっても紡錘車出土住居趾は全住居趾と比べて玉類等の出土が多いことがわかりました。

つまり、紡錘車を使って麻糸あるいは生糸を撚り、それを使って麻織物あるいは絹織物を織っていた住居(家族)は豊かで富を持ち、集落の中で上層階層に位置していたと考えられます。

紡錘車もまた金属製品と同じく古墳時代の先端ハイテクツールであったのです。

なお、金属製品出土住居趾分布と紡錘車出土住居趾分布をオーバーレイすると興味深い事実が浮かび上がりました。

金属製品出土住居趾分布と紡錘車出土住居趾分布のオーバーレイ図

金属製品出土住居趾(38軒)と紡錘車出土住居趾(16軒)が重なる場合がたった2軒しかないのです。

グラフで表すと、住居趾全体を母数とした時と紡錘車出土住居趾を母数とした時のそれぞれの金属製品出土住居趾の割合がほとんど同じということです。

金属製品出土住居趾の割合

つまり、それぞれが生産を効率化する先端ハイテクツールであった金属製品出土と紡錘車出土が相関していないことを示しています。

この情報から次の思考を導くことができます。

● 金属製品(刀子、鎌、鉄斧、鏃、摘鎌、釘、釣針等)を使う場面は主に野外であり、動的な肉体作業を伴う労働で使うものです。一方紡錘車を使う場面は住居内やその近くであり、肉体作業としては静的な労働で使うものです。
そしてその二つの製品が随伴して出土する傾向が存在しないということは、二つの労働自体が住居(家族)単位で明瞭に分離していたことを示しています。
つまり集落内における労働種別専業化が高度に進んでいたことが証明されます。

●この労働種別専業化はおそらく、金属製品をつかった野外労働内でも存在していたと考えます。つまり、米栽培、雑穀栽培、麻や桑栽培、牧畜などです。また滑石模造品作製、鍛冶、鍛冶の為の炭焼き、土器生産なども当然ながら専業化していたと考えます 。

2015年2月21日土曜日

上ノ台遺跡 玉類等出土住居趾の意義

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.70 上ノ台遺跡 玉類等出土住居趾の意義

上ノ台遺跡(集落)の生業検討の一環で滑石模造品工房の検討をしました。その検討の中で、玉類・装身具・滑石製品出土住居趾が、遺跡の中で一種の上流階層に該当しているらしいという分析情報が得られましたので紹介します。

1 古墳時代における金属製品の意義
古墳時代の金属製品(ほとんど鉄製品、一部に青銅製品を含む)は現代でいえば最先端ハイテク工具・道具・部品であり、生産活動に多大な効率化をもたらし、富を増大させる貴重な物であったと考えられます。

従って、金属製品の所持利用を住居趾を単位にみると、満遍なくいきわたっている製品ではなく、集落社会の上層部、指導部に偏在していたことが想定されます。

上ノ台遺跡の全住居趾309軒に対して、金属製品出土軒数は38軒であり、その割合は12.3%となっています。

2 玉類・装身具・滑石製品出土住居趾分布と金属製品出土住居趾分布のオーバーレイ図作成
玉類・装身具・滑石製品出土住居趾分布と金属製品出土住居趾分布のオーバーレイ図を作成してみました。

玉類・装身具・滑石製品出土住居趾分布と金属製品出土住居趾分布のオーバーレイ図

玉類等出土住居趾(全49軒)のうち金属製品出土住居趾は12軒であり、その割合は24.5%となります。

玉類等出土住居趾のなかには滑石製品作製工房や準工房が含まれていてそれらは生産者であり消費者ではありません。

ですから玉類等出土住居趾の中から未製品だけを出土する住居趾を取り除き、製品としての玉類等が出土した住居趾、つまり玉類等の消費者であったと考えられる住居趾(33軒)を対象にして金属製品出土住居趾をカウントすると11軒となり、その割合は33.3%に高まります。

玉類等出土別に見た金属製品出土住居趾の割合

以上のような統計から玉類等出土住居趾(特に未製品を除いた玉類等出土住居趾)は金属製品出土割合が一般住居趾より高く、集落社会の中で上層階層、指導階層に属していた家族が居住していた割合が高いものと考えます。

2015年2月20日金曜日

上ノ台遺跡 滑石模造品工房

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.69 上ノ台遺跡 滑石模造品工房

古墳時代遺跡である上ノ台遺跡(集落)の生業の検討をしています。

この記事では滑石模造品の作製工房について検討します。

次に玉類・装身具・滑石製品出土分布を示します。

玉類・装身具・滑石製品出土分布

この図では未製品だけが出土した住居趾と滑石未製品が多出した住居趾が判る様に示してあります。

滑石未製品多出住居趾が4軒あります。滑石製品作製工房であると考えられます。

滑石製品作製工房から出土した製品・未製品の写真例
「千葉・上ノ台遺跡 図版編2」(1983、千葉市教育員会)から引用

また、その近くに未製品だけを複数点出土する住居趾、未製品だけを出土する住居趾が分布しています。これらの住居趾は準工房であった可能性が濃厚です。

遺跡(D地区)全体を俯瞰すると、東側は製品が出土し、西側は工房、準工房が分布するような状況になっています。

また遺跡(D地区)に西隣するA・B地区で同様の滑石製品作製工房が3軒見つかっています。

このような情報から、上ノ台遺跡の西側は滑石製品作製工房地帯としてイメージしました。

滑石製品作製工房地帯のイメージ

滑石製品作製工房地帯を形成する住居趾が全て同時に存在していたことはあり得ないと思いますが、この地帯がある期間は継続して工房地帯を形成していたと考えます。

上ノ台遺跡(集落)の生業を考えるときに、無視できない要素になると思います。


滑石模造品は住居毎(家族毎)の祭祀に使う道具と考えます。

上ノ台遺跡(集落)の統治支配者(つまり花見川・浜田川流域圏の統治支配者)が自ら居住する拠点で工房をつくって滑石模造品を量産させ、統治支配地域の住民に配布して権力基盤を強化したものと想像します。

上ノ台遺跡における、未製品を除く玉類・装身具・滑石製品の出土状況は、全ての住居趾に対して極めて限られています。

その状況から勘案して滑石模造品を入手出来る家族はある程度限定されていて、滑石模造品の所持自体が一種のステータスシンボルであったように感じます。

玉類・装身具・滑石製品出土住居趾が、遺跡の中で一種の上流階層に該当しているらしいという分析結果が得られましたので、次の記事で書きます。

2015年2月19日木曜日

上ノ台遺跡 米・雑穀栽培

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.68 上ノ台遺跡 米・雑穀栽培

古墳時代遺跡である上ノ台遺跡(集落)の生業の検討をしています。

漁業については集落の住民各人が副食用小魚と貝を獲っていたことを出土土錘と貝層分布から想定しました。産業としての漁業(交易品産出)の跡は見られませんでした。

この記事では米・雑穀栽培について検討します。

1 米栽培の痕跡
「千葉・上ノ台遺跡(付篇)」(1981、千葉市教育委員会)には古墳時代住居趾竃の灰像分析結果が掲載されています。

その概要は次の通りです。
・イネに注目すると31軒の住居趾サンプルのうち3つの住居趾からイネモミに相当する灰像が検出され、もっぱらイネモミ相当の灰像だけが見出されたサンプルからは炭化したモミに付着したイネの炭化粒が数点見出された。
・他のサンプルからはイネモミの灰像の他に、イネ、マコモ、サヤヌカグサなどイネ族に特有のイネ細胞の列が見出されているが、イネ以外の植物に由来すると考えられる灰像も多く、ヨシの稈の灰像に類似しているものが最も目立っている。
・別のサンプルからはヨシ、メダケ、ツルヨシなどに由来するイネ細胞が少数見出されている。
・従って、この遺跡の古墳時代後期のかまどの燃料としてはツルヨシやメダケなど野生のイネ科植物の利用が行われていたのではないかと考えられる。
・イネを栽培し、ワラも十分に利用していたとしたら、宮城県の留沼遺跡の灰像からのように、明瞭なイネの葉身、葉鞘、稈の灰像がもっと見出されてもよいように思われる。従って、モミの灰像や炭化粒によってイネを有していた証拠が得られ、イネを食していたことは明白といえるが、燃料として利用したのは、イネワラよりもむしろ、近くに生育していた野生のイネ科植物であったといえよう。

この情報から、上ノ台遺跡ではイネのワラを焚き木としてほとんど利用していなかったことがわかりました。
近くに水田が少なかったのだと思います。

2 水田開発条件の劣悪さ
古墳時代に、充分な谷津田開発ができなかった様子は、次の近世新田開発絵図からも類推できます。

屋敷村絵図 1687(貞享4)年11月作成の写 (国立国会図書館所蔵)
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)から引用 追記

屋敷村絵図が表現している範囲

屋敷村絵図は西生田川谷津の源頭部付近において、1687年頃以前から既に開発されていた水田(古田)は谷津の台地斜面沿いの帯状の部分(赤色)であることを示しています。

絵図は貞享年間に開発された新田(肌色)の分布とそれでも残された谷津中央の谷地(紺色)を示しています。

つまり、1687年の水田は谷津谷底全部には存在しないで、谷津谷底の一部にしか存在していなかったのです。

この近世の情報から、古墳時代の谷津田開発は狭小谷津内のさらに極一部しか開田できなかったことを教えられます。

上ノ台遺跡の近くには広い谷津が存在しないから水田耕作は盛んでなかったという一般理解とともに、土地条件の劣悪さから狭小谷津における水田開発がなお一層極めて困難であったことがわかります。(この付近の谷津には化灯土…泥炭が堆積しています。)

このように古墳時代の上ノ台遺跡付近では水田開発はなかなか進まなかったと考えます。

【検討課題】
しかし、だからといって一方的に米の消費が近隣集落と比べて少なかったと考えることは早計だと思います。

上ノ台遺跡(集落)は古墳時代の花見川・浜田川流域圏全体の支配統治拠点ですから、流域圏内の別の小拠点から多少の米上納があったかもしれません。

また、上ノ台遺跡(集落)が主導して流域圏内の各地の谷津に水田開発を進めたことも考えられます。

後日別記事として詳細検討しますが、花見川・犢橋川右岸の支谷津水田開発は幾つかの情報から上ノ台遺跡(集落)と関わりがあるのではないかと考えています。

そのように考えると、上ノ台遺跡(集落)の周辺には水田は少ないが、流域内の別の場所に開発した水田から上ノ台遺跡(集落)に「上がり」が多少はあった可能性もあると思います。

上納や「上がり」の米の量があったのか、その量はどれほどであったのか、将来考えたいと思います。

いずれにしろ、米を必要なだけ食べることは出来なかったと考えますから、上ノ台遺跡(集落)の主食における雑穀の役割は大きかったと想定します。

3 米・雑穀栽培に使ったと考えられる遺物
出土した金属製品(ほとんど鉄製品)のうち、鉄製鎌と鉄製摘鎌の出土数とその分布を示します。

●上ノ台遺跡出土鉄製鎌と鉄製摘鎌の出土数
・鉄製鎌…6点
・鉄製摘鎌…8点

鉄製鎌と鉄製摘鎌の出土地点分布図

摘鎌はイネや雑穀の穂摘みに利用されたと考えますが、分布図北西部の住居趾ではない場所から2点出土していて、この付近が雑穀か陸稲の畑になっていた可能性が濃厚です。

上ノ台遺跡付近の台地面は雑穀(や陸稲)、麻(あるいは桑)の畑として利用が進んでいたものと考えます。

2015年2月18日水曜日

上ノ台遺跡 土錘出土地点分布

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.67 上ノ台遺跡 土錘出土地点分布

2015.02.17記事「上ノ台遺跡の生業と漁業活動」の追補情報です。

1 土錘の写真
次に土錘の写真と形状記録の例を示します。

土錘の写真 例 「千葉・上ノ台遺跡5」(1983、千葉市教育委員会)より引用
写真35の寸法は2.5-2.4㎝、写真28は3.5-3.5㎝

2 土錘出土地点分布
次に土錘出土地点分布を示します。

土錘出土地点分布図(細管形土錘を除く)

土錘出土地点分布はほぼ住居趾分布に対応しています。

報告書では次のように説明しています。
「上ノ台遺跡を特徴づける遺物に土錘がある。形態から見ると二種類に大別される。一方は俵形の管状のもので、他方は球形のものである。前者をさらに管形と細管形に区別することができる。細管形は表土出土のものが主で、古墳時代のものではない。
土錘を出土した住居趾は全部で143軒、つまり住居趾2軒に1軒は土錘を出土している。かなり確率は高い。最も多く土錘を出土した住居趾は2C-65住居趾の63個である。各形態別にみると、球形のものは412個、管形のものは12軒で20個である。これを平均すると、土錘を出土する住居趾では一戸あたり3.1個の計算になり、住居趾全戸に当てはめると1.4個平均である。土錘には未使用、あるいは焼成中のものも認められることから集落内で製作されたとみられる。2U-71住居趾では粘土とともに床面に多量の土錘が検出された。」

土錘出土住居趾と鍛冶遺物出土住居趾、石製模造品工房住居趾、紡錘車出土住居趾、牛骨出土住居趾がほとんど重なります。

このことから、各住居趾で営まれていたメインの生業にかかわりなく住民の大半は土錘を使った小魚獲りを行っていたと想像しました。

恐らく、集落として近くの浜の一定範囲について排他的に専用漁業権を有していて、集落住民が副食用小魚・貝獲りを頻繁に行える環境があったのだと思います。

上ノ台遺跡集落から離れた場所には、恐らくの漁業専業集落があり産業としての漁業を行っていたと想像します。

2015年2月17日火曜日

上ノ台遺跡の生業と漁業活動

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.66 上ノ台遺跡の漁業活動

上ノ台遺跡(集落)の生業の検討を始めます

1 上ノ台遺跡(集落)の生業リスト
上ノ台遺跡(集落)の生業として、次のような活動を考えています。

●想定される上ノ台遺跡(集落)の生業
1 米・雑穀生産(鎌、摘鎌等が検出されている)
1-1 水田(米や藁が検出されている)
1-2 雑穀栽培
2 機織
2-1 麻栽培(あるいは桑栽培)
2-2 機織(紡錘車が検出されている)
3 牧畜(牛骨が検出されている)
3-1 牛生産
3-2 乳製品生産(醍醐等)
4 狩猟(鹿骨、鉄鏃が検出されている)
5 漁業(貝層、魚骨、鉄釣針が検出されている)
6 石製模造品作成(石製模造品工房が検出されている)
7 鉄製品作成(鍛冶関連遺物が検出されている)
8 支配統治業務(上ノ台遺跡は前方後円墳のある東鉄砲塚古墳群対応していて、花見川・浜田川流域圏の統治拠点であったと推察している。)

現時点では稼ぐ力のあった生業(花見川・浜田川流域圏域外にいわば輸出できる物品のある産業)の可能性のあるものとして機織、牧畜、石製模造品工房が該当するのではないだろうかと空想しています。

この記事では生業としての漁業について検討します。

2 漁業
ア 貝層の分布と食料資源としての意義
次の図は貝層と魚骨出土の分布図です。

貝層と魚骨出土分布図

貝層は竪穴住居の覆土層中に堆積しているものですから、竪穴住居が廃滅した後その場所がゴミ捨て場として利用されたことを示しています。
検出された竪穴住居趾の分布に対応して、満遍なく分布しているように見えます。

報告書(「千葉・上ノ台遺跡(付篇)」)によれば、貝層と魚骨について次のような検討が行われています。
検出された貝は14種でハマグリとシオフキガイの出現頻度が圧倒的に高く、漁場は近くの東京湾北東岸である可能性が高い。
ハマグリが一度に捨てられた貝の量は小さく見積もられ、食糧資源での貝の占める割合は比較的小さかったと想像される。
ハマグリは5年以上を経た成熟貝の占める比率が非常に高い。本遺跡では捕獲圧の影響は認められない。

貝層の分布と報告書の記述から、貝は集落内でおかずとして利用されたもので、交易品等になることは無かったと考えます。

イ 魚骨の出土量
魚骨は4箇所からのみ検出されています。

魚骨出土が少ない理由について報告書ではもともと漁獲量がすくなかったか、あるいは魚の骨だけ別の場所に捨てか、2つの可能性を論じています。
貝層の分布が当時のゴミステーションを示していると考えると、魚の骨だけ別の場所に捨てたということは考えにくいことです。
したがって魚の漁獲量が少なかったのだと思います。

より正確に思考すれば、骨を食べないで残すような中~大型の魚(タイなど)の漁獲が少ないということであり、骨ごと食べる小型の魚(イワシなど)はある程度あったと考えます。

次のグラフは土錘の出土個数別住居趾数ですが、小型魚は漁獲していた傍証になります。

土錘の出土個数別にみた住居趾数
(2015.02.18 画像訂正)

土錘検出が1個の住居趾が最も多く、1個から5個までの出土住居趾数(119)は土錘出土全住居趾数(141)の84%にあたります。
土錘がどのように利用されたのか確かなことは不明ですが、釣りの錘、漁網の錘に使ったのだと思います。土錘1個出土の住居趾が多いことを考えると、釣りの錘に使った割合が高いと考えます。干潟の海で釣りをする場合、小型の魚しか採れないと思います。

また数個の土錘を漁網に付けた場合も、個人用の網であり、集団が使う網と考えることができませんから、採れる魚は小型のものに限られます。

このように、土錘の出土個数から、魚は小型魚しか採っていなかったと考えられます。

小型魚は骨ごと食べることが多いですし、あるいは肉を食べて残った骨を火で焼いて食べてしまい、骨が残ることは無かったと考えます。

ウ 出土金属製品における釣針の割合
次の図に出土金属製品分布と釣針出土地点を示しました。

出土金属製品分布と釣針出土地点

出土金属製品の中で釣針はわずか2点です。貴重な鉄を使う生業は漁業以外にあったことを示しています。

エ 上ノ台遺跡における漁業の意義
ア、イ、ウの検討から、上ノ台遺跡では漁業は稼ぐ生業ではなかったと考えることができます。

2015年2月16日月曜日

2015.02.16 今朝の花見川

ゆっくりと天気が下り坂とのことで、高空に雲が多い朝です。
朝焼けで空が赤くなり、華やかな風景が花見川に拡がっています。

花見川 柏井付近

花見川 弁天橋から下流

花見川 弁天橋から上流

弁天橋
いつの間にかメカニカルな弁天橋が好きになり、毎日飽きもせず弁天橋の一部が写る写真を撮ります。

次のWindows7附録壁紙写真(工事中高速道路写真)が好きで、ながらく壁紙にしていたことがあるのですが、おそらくその面影を弁天橋に投影しているのだと思います。

Windows7附録壁紙(メカニカルの1枚)

雲の帯模様が高度別に方向と規模が異なり、レイヤー状に重なっているありさまに興味を持ちました。

高度別に異なる雲帯模様が拡がる空

2015年2月15日日曜日

上ノ台遺跡の遺構・遺物分布図の作成

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.65 上ノ台遺跡の遺構・遺物分布図の作成

1 上ノ台遺跡のイメージ構築
これまで上ノ台遺跡の重要な意味(古墳時代花見川・浜田川流域の中枢集落)について検討してきています。また上ノ台遺跡の膨大な発掘情報(報告書10数冊の情報)に接しました。この2つのことから、自分なりに上ノ台遺跡の生き生きしたイメージを構築したいという意欲が湧いてきました。

そこで、次の2点について検討することにします。

●上ノ台遺跡について構築したい自分なりのイメージ
ア 上ノ台遺跡(集落)の基本的特性…平べったくいえばどうして食っていたか、つまり生業は何かということ。
イ その「消滅」の原因と「消滅」と引き替えに新たに生み出されたもの


上ノ台遺跡(集落)の基本的特性について、発掘調査報告書では「土錘や貝出土から海とのかかわりは深いが、ほかの漁労具がないなどから漁業集落とは断定できない」という趣旨の結論になっています。35年前には集落特性の明確なイメージが形成されなかったということです。

一方、これまでに上ノ台遺跡が単なる東京湾岸海浜地帯に存在する1集落ではなく、花見川・浜田川流域の中枢集落であるということが既にイメージできています。

また発掘調査報告書をよく読むと、それなりに生業に関する情報を汲み取ることが出来そうです。

そこで、上ノ台遺跡の発掘情報を地図上で一つ一つ確認しながら検討し、遺跡(集落)の基本的特性について検討することにします。


上ノ台遺跡(集落)が古墳時代の終焉とともに消滅した原因について、35年前には考察がありません。

一方、このブログでは、律令国家の時代(奈良時代)になるとこの付近には東海道本路が通り、浮島駅家や官牧浮島牛牧が出来、また、東海道水運支路として花見川-平戸川水運路が、船越部に直線道路を設けて、開かれたことを検討してます。検見川台地には玄蕃所(俘囚収容施設)が開設されました。

そうした背景を考えると、上ノ台遺跡(集落)は単純に「消滅」したのではなく、集落に居を構えていた指導者とその配下住民は、国家中央が要請する交通拠点機能や官牧浮島牛牧、さらに玄蕃所の維持管理運営を司る近隣集落や拠点に発展的に移住したと考えることが自然です。
のんびりと台地上で牧歌的な生活を送れる時代は古墳時代に終わったのだと思います。


そこで、古墳時代上ノ台遺跡(集落)の基本特性と律令国家中央から要請される地域の基本機能(浮島駅家、浮島牛牧、花見川-平戸川水運、玄蕃所等)の間に生じる齟齬(食い違い)を検討します。

その齟齬にもとづいて、指導者とその配下住民が、上ノ台遺跡から砂丘上や近隣台地に活動拠点(居住地)を移した有様を合理的に説明できるようにしたいと考えています。

2 上ノ台遺跡の遺構遺物分布図の作成
上で述べた上ノ台遺跡について構築したい自分なりのイメージつくりの基礎資料とするために、上ノ台遺跡の遺構・遺物分布図を作り出しましたので、作業途中ですが、報告します。

次の図は上ノ台遺跡全体の4つの調査区を示した図です。

上ノ台遺跡全体の4つの調査区
「千葉・上ノ台遺跡 本文編」(1981、千葉市教育委員会)より引用


この調査区のうち、情報が揃っているD地区について遺構遺物分布図を作成することにします。

次の図は遺構遺物分布図の例です。

上ノ台遺跡D地区 遺構遺物確認のための分布図作成 例

発掘調査報告書には遺構・遺物の検出地点が詳しく掲載されていますので、できるだけ多数の項目について分布図を作成して、遺跡(集落)の生業等について検討するつもりです。

現在は上記分布図例に示したような項目について図化していますが、更に土錘出土住居、貝・魚類骨出土住居、鉄製品等出土住居、玉類等出土住居、須恵器出土住居等について図化し、D地区の地域構造をあぶり出し、それに基づいて集落の生業について考察する予定です。

遺構遺物分布図の検討は別記事で行います。

2015年2月14日土曜日

上ノ台遺跡から出土した古墳時代牛骨の重要意義

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.64 上ノ台遺跡から出土した古墳時代牛骨の重要意義

上ノ台遺跡から古墳時代牛骨が出土していますので、その重要な意義を検討します。

上ノ台遺跡から古墳時代牛骨が出土しているという情報は「千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)」における上ノ台遺跡紹介等、現在この遺跡について触れることのできる情報には、鍛冶遺跡と同様に欠落していて、忘れ去られている情報です。

1 上ノ台遺跡における骨類出土状況
上ノ台遺跡から出土した骨類一覧表及び写真を示します。

上ノ台遺跡出土骨類一覧表 「千葉・上ノ台遺跡3」(1982、千葉市教育委員会)より引用

牛骨は住居床面から出土していて、古墳時代遺物であることが層位的に確かめられています。

上ノ台遺跡出土の獣骨
「千葉・上ノ台遺跡(付篇)」(1981、千葉市教育委員会)より引用、追記

獣骨として鹿、馬、牛が出土しています。

この獣骨について「千葉・上ノ台遺跡(付篇)」(1981、千葉市教育委員会)では次のように分析しています。

・鹿は狩猟で捕獲されたもの。
・馬は家畜として飼養されたもので、時代は中世より近世に及ぶある時期のもの。
・牛は家畜として飼養されたもので、古墳時代後期7世紀代のものと考えられる。馬にくらべて出土例が少なく貴重な資料。厳密な出土状況のもとに報告された例は極めて少ない。
・住居内から馬・牛の遺骸出土は、その宗教的な意義を充分に考慮しなければならない。
・牛の場合は農耕に関わる儀礼が最も蓋然性を以って考え得る。

2 上ノ台遺跡出土の古墳時代牛骨の意義
古墳時代後期7世紀代に上ノ台遺跡付近で牛が飼養され、牛に関わる宗教的儀礼が住居内で営まれていたことがわかりました。

一方、延喜式に官牧として下総国に「浮島牛牧」が記載されています。

この浮島牛牧の位置は次の図に示すように上ノ台遺跡に隣接する砂丘(浮島)に推定しています。

浮島牛牧の推定場所

つまり、古墳時代に、既に牧畜の繁栄を願う宗教儀礼が行われるほど規模が大きく継続した牧(牧場)が存在し、その牧が奈良・平安時代になると官牧「浮島牛牧」として位置付けられたと考えることができます。

つまり、上ノ台遺跡出土牛骨は、浮島牛牧の始源牧存在の動かしがたい物証です。

ひいては、浮島牛牧が砂丘(浮島)に存在していたことの有力物証であるということもできます。

上ノ台遺跡の考古情報から文字情報として伝わってきている浮島牛牧の位置が確定したことになります。

上ノ台遺跡出土牛骨はまことに重要な意義を有しているのです。

……………………………………………………………………
【参考】 「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)における浮島牛牧に関する記述

浮島(うきしま)牛牧

浮島駅家との関係が考えられ、千葉市花見川幕張町と推定される。このほか、東京都墨田区牛島付近とする説もある。
……………………………………………………………………

なお、「千葉・上ノ台遺跡(付篇)」(1981、千葉市教育委員会)では牛骨について動物学的検討(古代牛と現代牛の比較など)が行われていますが、浮島牛牧あるいは牧一般との関連についての考察はありません。

「千葉・上ノ台遺跡(付篇)」(1981、千葉市教育委員会)が発行されてから35年間にわたり、牛骨出土情報が浮島牛牧と結びつかなかった理由は、上ノ台遺跡の膨大な情報を最初に要約した資料に牛骨出土情報が欠落したため、以後考古歴史家が考察する機会が生れなかったのだと思います。

このブログで実施しだした花見川-平戸川筋古代遺跡に関する文献悉皆閲覧活動から、成果が少しずつ生れ出しました。(2015.01.18記事「遺跡文献の悉皆閲覧計画」参照)

2015年2月13日金曜日

上ノ台遺跡報告書を閲覧し、鍛冶遺跡があることに気がつく

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.63 上ノ台遺跡報告書を閲覧し、鍛冶遺跡があることに気がつく

1 上ノ台遺跡発掘調査報告書の閲覧
上ノ台遺跡は花見川・浜田川流域唯一の前方後円墳が所在する東鉄砲塚古墳群と関わりがあるのではないかと考えている古墳時代をメインとする集落遺跡です。

花見川・浜田川流域をミニ国家に擬せば、その首都にあたる遺跡だと想定しています。

この遺跡の発掘調査報告書を図書館で帯出してきました。

図書館の検索では、この遺跡の発掘調査報告書が全部で13冊ヒットしました。

とりあえず重要度が高いと考えた10冊を帯出しました。(館外帯出は10冊までしかできません。)

図書館から帯出した上ノ台遺跡発掘調査報告書

昨日まで製鉄・鍛冶遺跡や水運とハタ地名(秦氏の活動)との関係について検討してきています。
古墳時代に秦氏の水運ネットワークができていて、地域社会の中で大きな役割を果たしていたという考え(想定)が、自分の思考のなかで有力になってきています。

ですから、上ノ台遺跡発掘調査報告書を読みながら、どうしてもその考え(鍛冶、水運、秦氏の関連)との関連を絶えず考えながら報告書記述を読むことになります。

恐らく、漫然と発掘調査報告書を読むより、このような問題意識投影型閲覧のほうが報告書から得られる情報やヒントの質が高まり、量が増えると思います。

自分の問題意識を投影して10冊の報告書を閲覧してみると、いろいろな思考(感想)がうまれましたので、順不同にメモするつもりですが、まず気がついたこととして、鍛冶遺物出土について書きます。

2 上ノ台遺跡からの鍛冶遺物出土
上ノ台遺跡が鍛冶遺跡でもあるという事実をはじめて知りました。

上ノ台遺跡で検出された鍛冶遺物
「千葉・上ノ台遺跡(付篇)」(1981、千葉市教育委員会)より引用、追記

「千葉・上ノ台遺跡(付篇)」(1981、千葉市教育委員会)では「上ノ台遺跡出土の鉄滓・羽口先端溶着スラグの調査」という特別研究を12頁にわたって掲載しています。

この中で、鉄鉱石系素材の使用可能性、6~7世紀においては80~100軒に1軒程度の鍛冶工房で鉄器の鍛冶加工がなされたと推定が書かれています。

上ノ台遺跡に鍛冶工房があったことがわかったので、2015.02.07記事「花見川-平戸川筋の古墳時代鍛冶遺跡分布」掲載図を改訂して再掲します。


花見川-平戸川付近の古墳時代鍛冶遺跡分布図

【感想1】
上ノ台遺跡の鍛冶遺跡と杉葉見遺跡の時期的な対応や特性の比較が気になります。

杉葉見遺跡は「古墳時代中期」で上ノ台遺跡は「6世紀主体」ですから、杉葉見遺跡の方が早く出現しているようです。

杉葉見遺跡はハタ集落や妙見信仰と深くかかわるにも関わらず、立地場所が集落や信仰拠点から離れた場所に設置された特設工房です。

恐らく「杉食み(スギハミ)」の名称のとおり木材(木炭)を多量に消費することを念頭に、木材を多量に伐採できる場所の近くに計画的に建設された工房です。

畑集落で使う鉄器を賄うための工房ではなく、近在に鉄器を供給する産業としての工房だと考えます。

背後には原材料や鉄製品という重量物運搬に適した秦氏ブランドの水運ネットワークが控えていたと考えます。

一方上ノ台遺跡は80~100軒の集落の鉄器を賄うための、集落内につくられた工房です。文字通り街の鍛冶屋です。

出土物の量もそうですが、実体としても鍛冶の生産性は杉葉見遺跡のより小さかったと考えます。使っている鉄器の補修やリサイクルなどが主な業務だったかもしれません。

【感想2】
ふさの国文化財ナビゲーションの情報や千葉県内の製鉄・鍛冶遺跡一覧表(丸井敬司「房総地方の妙見信仰と製鉄・鍛冶について」(2005、千葉市立郷土博物館紀要第11号掲載)に上ノ台遺跡の鍛冶遺跡情報が出てきません。

その理由の想像がつきました。

上ノ台遺跡発掘調査報告書は10数冊になります。それを全部閲覧することは、読む手間もさることながら、報告書が30~40年前に出版されたことを考えると、揃えること自体がまずもって困難を伴います。

従って、勢い既存の要約情報を活用することになります。

しかし、情報量が膨大な遺跡の要約情報にたまたま鍛冶遺跡存在情報が欠落することは有り得ることです。

一旦そういう要約情報ができてしまうと、千葉県なり千葉市なりの製鉄・鍛冶遺跡検討が行われる度に、いつも上ノ台遺跡の情報が欠落します。

下記の【参考 上ノ台遺跡の概要】に示したように「千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)」の上ノ台遺跡紹介にも鍛冶遺跡情報は欠落しています。

……………………………………………………………………
【参考 上ノ台遺跡の概要】
「千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)」によれば、上ノ台遺跡の概要は次の通りです。

遺跡は1972年に発見され、A~D地区に分かれる。1973年~1980年にかけて発掘された。

A・B地区では古墳時代中期から後期の竪穴住居跡12軒を検出し、うち滑石製模造品工房跡は3軒である。C・D地区からは縄文時代の土坑21基、C地区から縄文時代早期末の炉穴13基が確認された。またD地区からは古墳時代中期から後期の竪穴住居跡357軒が検出され、うち23軒は拡張住居で、3軒が滑石製模造品工房跡である。同時期の掘立柱建物跡は5棟、柱穴群4基、小竪穴遺構5基、道路状遺構3基、墓壙3基などである。

出土物は土師器が主体で須恵器も70軒130点が出土。

土錘が156軒から球形624個、管形20個出土。集落内で製作。魚骨出土量わずか。貝は59軒から出土。ハマグリとシオフキが多い。

紡錘車は16点、内滑石製7点。

鉄製品は38軒から刀子5、鉄斧1、鏃7、摘鎌1、釘5、釣針1などが出土する。銅製品3点。

玉類は管玉2、ガラス玉1、勾玉1点である。

カマドの灰像資料として稲の葉や籾痕、ヨシの棹、ツルヨシ類似が出土。

集落は5世紀後半に出現し、6世紀代が主体で、7世紀に減少し後半には消滅する。

土錘や貝出土から海とのかかわりは深いが、ほかの漁労具がないなどから漁業集落とは断定できない。

2015年2月12日木曜日

ハタ地名検討の重大な意義に気がつく

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.62 ハタ地名検討の重大な意義に気がつく

2015.02.08記事「古墳時代の鍛冶遺跡-妙見信仰-秦氏」で製鉄・鍛冶遺跡と妙見信仰と秦氏との関わりに気がつき、今後検討を深めたい旨書きました。

この記事を書いた時点では「製鉄・鍛冶遺跡と妙見信仰と秦氏」と水運交通との関係について、はっきり言って無頓着でした。

ですから、「製鉄・鍛冶遺跡と妙見信仰と秦氏」は極めて興味ある話題ですが、自分本来の問題意識「古代水運の船越実在実証とその意義検討」と強く結びついていませんでした。

しかし、秦氏に関する興味をとりあえず断ち切るということが、どうしてかできず、意識表層に逆らって、パソコンに向かうと秦氏検討の材料となるデータベースつくりに熱中してしまいました。(2015.02.09記事「Illustratorによる千葉県全域小字(10万件)の簡易データベース完成」参照)

そして、無意識のなせるワザのようですが、予定外の活動として、小字分布情報が存在する千葉市と八千代市を対象にハタ地名の抜出、GISプロットという根気を要する手作業を実施してしまいした。

その作業結果を見ると、ハタ地名が秦氏の活動を表現していて、それが水運と強い関係にあることが直感できましたので、報告します。

1 ハタ地名の抽出
角川「千葉県地名大辞典」資料の小字一覧のうち、千葉市と八千代市を対象にハタ地名をIllustrator画面上の小字リストから、手作業により抽出しました。

小字リストにハタ地名をチェックした様子

ハタ地名として次の地名を対象としました。

○畑(ハタケよみも含む)、○幡、○旗、和田、辺田等

ハタ地名の抽出数は次の通りです。

ハタ地名抽出数

2 ハタ地名分布図の作成
ハタ地名をGIS上にプロットしました。

千葉市・八千代市域のハタ地名分布

GIS上にプロットするために使った資料は次の通りです。
千葉市:「絵にみる図でよむ千葉市図誌 上巻・下巻」(千葉市発行)
八千代市:「八千代市の歴史 資料編 近代現代Ⅲ石造文化財 附録小字分布図」(八千代市発行)

作業はパソコンで行うのですが、実態は紙資料を机に広げて行う手作業そのものです。

抽出したハタ地名のカウントは、なんと、30年前に購入した手でスイッチを押すカウンターを使いました。

また、千葉市域の13箇所ハタ地名は資料に情報が掲載されていないため、GIS上にプロットできませんでした。

3 ハタ地名分布の特徴(感想)
ハタ地名分布図を見て、つぎの顕著な特徴を把握することができます。

●ハタ地名の水系沿い偏在分布
ハタ地名が水系沿いに偏在分布します。

この偏在分布から次の思考(感想)を導くことができます。

ア 古代において秦氏が内陸水運を押さえていた可能性が高いこと。(秦氏主導の水運ネットワーク形成)
秦氏が水運技術(船の所有、操船運搬技術の所有、ミナト建設技術の所有等)にたけていて、それをツールに房総で影響力を拡げたことが考えらえれます。
房総の在来勢力より優れた水運技術をベースにして、製鉄・鍛冶技術、機織り技術等の産業技術を房総にもたらし、開拓を積極的に行い、その生産品の交易を水運で行っていたことが考えられます。
これだけ多数のハタ地名が現在まで伝わるということは、古代において秦氏の進出生産拠点が水運ネットワークで結ばれていて、そのネットワークが地域発展に果たした産業上の役割が大きかったことを物語っていると考えます。

古墳時代製鉄遺跡・鍛冶遺跡と秦氏との関係が密接であることから類推して、古墳時代において、秦氏が内陸水運を押さえていた(半ば独占していた)可能性もあるかもしれません。
律令国家となり、蝦夷戦争を始めた奈良時代になって、秦氏の果たした役割がどうであったのか、その状況が同じか、変化したのか、興味が湧きます。

ハタ地名の分布から(=秦氏水運ネットワークから)花見川-平戸川船越が地域の物流幹線ルートとして利用されていたことが推定できます。
律令国家が船越に直線道路を建設する前に、すでに何らかの交通施設の存在を想定することができます。

また、東海道(陸路)の鳥取駅と鹿島川沿いのハタ地名が関連する可能性があるかもしれないと予感し、検討したいと考えています。(千葉市若葉区上泉町の鹿島川沿いに「宿畑」地名がある。)

イ ハタ地名の読み方変異は限定される
今回ハタ地名として「○畑(ハタケよみも含む)、○幡、○旗、和田、辺田等」に着目しましたが、結果としてこれらの地名は同根であり本来は一つの言葉からうまれたものと推察できました。

例えば前畑(マエバタケ)や辺田(ヘタ)もその分布からハタ地名であることを確認できました。

「○畑(ハタケよみも含む)、○幡、○旗、和田、辺田等」が同根の地名であることを追ってデータで示します。

また、白幡(白旗)、台畑(ダイハタ、ダイバタケ)、前畑(マエハタ、マエバタケ)、辺田(ヘタ)などが各地で多数出てきますが、そのニュアンスも次のように感じることができました。

白幡(白旗):新羅(シンラ、シラ)から渡来した秦氏、つまり新羅(シラギ)系秦氏。
台畑(ダイハタ、ダイバタケ):大(ダイ)秦氏=裕福な秦氏のニュアンス。
前畑(マエハタ、マエバタケ):最近来訪したグループではなく、ずっと以前に来訪してすでに居を構えている秦氏のニュアンス。
辺田(ヘタ):下手(ヘタ)や端田(ヘタ)など低い価値を示す言葉に秦氏をなぞらえようとするニュアンス。裕福で技術を持つ秦氏に対する嫉妬心の表れ?

今回ピックアップしたハタ地名の全てが秦氏関連の地名(古代に生まれた地名)とは限らないと思います。
しかし今回の作業では、「このハタ地名はどう考えても後世に名付けられた別意味の地名である」と感じられるものはありませんでした。

八幡(ヤワタ)が秦氏起源のハタ地名にはいるのかどうか、今後検討したいと思います。

2015年2月11日水曜日

2015.02.11 今朝の花見川

最近、東の空が白む時刻が毎日早まることを実感しています。

南の空の半月が印象的な朝でした。

花見川の風景
横戸緑地下付近
半月の上の黒点はカラス

今朝は風がないので、カメラを持つ手がかじかみませんでした。
慣れた寒さも昨日今日がこの冬のピークのようです。

花見川の風景
弁天橋から下流

水面で揺れる半月

日の出

水鳥