私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構築が現実化しつつあります。
これまでこのブログでは主なものとして次のデータベースを使ってきました。
千葉県遺跡データベース
千葉県墨書土器データベース
千葉県小字データベース
これら3つのデータベースを個々別々に使うのではなく、GIS上で連動させて、空間上でこれら3つのデータを同時に閲覧(情報取得)できるようにすれば、これまで気が付かなかったことに気が付くことができると考えます。
そこで、この記事では私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構想を検討してみます。
1 データベースの現状と課題
1-1 千葉県遺跡データベース
ふさの国文化財ナビゲーションサイト(千葉県教育委員会)から遺跡に関する次の情報をダウンロードして利用しています。
遺跡数(不明を除いたデータ)は約19500です。
ダウンロードできる遺跡情報項目
またサイトにはGIS画面が表示されていて、遺跡の位置情報を個別に知ることができます。
ブログ花見川流域を歩く番外編2016.09.06記事「遺跡のGIS用位置情報取得方法(千葉県)」参照
私のパソコン内部ではこのデータベースがほぼ出来ていて位置情報を含むリストがFile Makerファイル(データベースファイル)となっています。
現在は次のような使い方をしています。
知りたい情報(例 奈良・平安時代遺跡を知りたい)をFile Makerで検索します。
その検索結果をcsvファイルで出力します。
そのcsvファイルをGIS(地図太郎PLUS)で開いて図示して利用します。
奈良・平安時代遺跡プロットを利用した例
奈良・平安時代遺跡プロット画面を千葉県全体に広げると次のようになります。
遺跡データベースの利用の仕方は大元のFile Makerファイルで必要な検索をして、その結果をcsv出力して、それをGISに(地図太郎PLUSならば「他形式を編集レイヤーの読み込み→csvファイル(経緯度座標系)」で)インポートすることになります。
インポートした遺跡の情報項目は工夫すればプロット地点に表示させたり、カーソルを合わせれば表示させるなどができます。GIS画面上で一覧表を表示させることも可能です。
大元のFile Makerファイルの検索と出力機能はExcelやAccessとは比べものにならない使い勝手の良さがあり、自分はFile Makerが必須だと考えています。
●課題 1
このデータベースは既に実用していますが、現在最終調整して完成度を向上させています。
●課題 2
「千葉県の歴史」に収録されている銙帯リスト等の各種遺物・遺構リストをこのデータベースの下位に関連付けます。
1-2 千葉県墨書土器データベース
明治大学日本古代学研究所サイトからダウンロードした千葉県墨書土器データベース(本編、補遺1、補遺2)を利用しています。
データ数は次の通りです。
本編 21049
補遺1 1447
補遺2 4847
合計 27343
このファイルはFile Makerファイルです。
次のような多様な項目のデータベースであり、画像が含まれ、レコードは土器(片)単位です。
墨書土器データベースの項目・画面
●課題
このデータベースには位置情報がありません。
しかし遺跡名称が項目にあります。一方ふさの国文化財ナビゲーションの遺跡データベースには遺跡名称と位置データがあります。
ですから同じFile Makerファイルですから遺跡名称でリレーションすれば墨書土器データベースに位置情報を付加することができます。
個々の土器片の場所を示す位置にはなりませんが、広域の検討では有力な位置情報になります。
試行して行った結果から次のような墨書土器分布図を作成しています。
千葉県墨書土器出土分布図
特定墨書文字の出土状況をデータベースから検索して、その結果をExceファイル出力して、それを状況(遺跡別出土数など)に応じて調整して、csv出力してGISにプロットできるように原理的にはできるようになりました。
現在その使い勝手を改善中です。
1-3 千葉県小字データベース
角川千葉県地名大辞典附録小字一覧をこのブログで電子化してFile Makerファイルとしたものです。
小字数は約94000です。
情報項目は次の通りです。
千葉県小字データベース(File Makerファイル)の項目
・小字
・小字よみ
・大字
・大字よみ
・市町村
・市町村よみ
・区
・区よみ
・所在地表記
・備考(旧市町村等)
現在は位置情報がないため、所在地表記を利用したアドレスマッチングで分布図を作成しています。
アドレスマッチングを利用した小字プロットの例
●課題 1
明治年間の大字分布図などの存在を知り、大字の位置情報作成が可能であることが判ってきましたので、今後大字(約2950)の位置情報をデータベースに加えて、いちいちアドレスマッチングにたよらないで空間表示ができるようにするつもりです。
小字の詳細な位置情報作成については、花見川流域近隣地域で試行して、その技術的方法を検討するとともに、小字分布図の収集についても検討を始める予定です。
●課題 2
既に作成してある古代郡郷リスト(と分布図)や荘園リスト等を地名データベースの下に関連付けます。
●課題 3
資料を使った作業の効率化を図るため市町村変遷リスト(分布図)をこのデータベースの下位に関連付けます。
2 遺跡データベースと小字データベースのGIS上での連動方法
遺跡データベースと墨書土器データベースは遺跡名称という共通項目で原理的にリレーションできます。
一方、これら二つのデータベースと小字データベースは共通項目がないので現状ではリレーションできません。
現状ではGIS空間上で視覚的にその関係を確かめることになります。
今後遺跡データベースで遺跡の関連大字を項目化すれば、その大字名称を軸にリレーションできるようにすることが可能です。その技術的方法を今後検討することにします。
2016年6月30日木曜日
2016年6月29日水曜日
千葉県管内全図(明治27年)の購入
2016.06.24記事「千葉県郷名分布図のGIS背景地図取り込み」で戦後の印刷物である千葉県郷名分布図をGISに背景地図として取り込んだことをメモしました。
古代郷名分布に関する参考データとしての意味もありますが、それよりはるかに、その地図の基図である明治18年千葉県管内実測図の大字界線を取り込めたことの意義が大きいです。
千葉県の大字分布界線の概形をGIS上で知ることができたのは大成果です。
各種検討に大いに役立つことになります。
この作業をする中で、日本地図センターで「大日本管轄分地図 千葉県管内図(明治27年)」の電子ファイルを販売(1250円)していることを知りました。
年代からして千葉県管内実測図の一般向け編集地図であると察しましたので、何かの参考になるかもしれないと思い、購入してみました。
次のような地図であり、大字の文字が全て書かれている地図です。残念ながら大字の界線は書かれていません。
大日本管轄分地図 千葉県管内図(明治27年)
大日本管轄分地図 千葉県管内図(明治27年) 拡大
地図の他に付録として付いている説明パンフレットのファイルもついていました。
附録の一部
附録の一部
この地図もまたGISに簡易的にプロットしておき、千葉県郷名分布図の記載が込み入ったところなどをこの地図で簡易に確かめることができそうです。
紙の地図ではありませんから、その保管に気遣う必要がないので、参考資料として購入して良かったと思います。
古代郷名分布に関する参考データとしての意味もありますが、それよりはるかに、その地図の基図である明治18年千葉県管内実測図の大字界線を取り込めたことの意義が大きいです。
千葉県の大字分布界線の概形をGIS上で知ることができたのは大成果です。
各種検討に大いに役立つことになります。
この作業をする中で、日本地図センターで「大日本管轄分地図 千葉県管内図(明治27年)」の電子ファイルを販売(1250円)していることを知りました。
年代からして千葉県管内実測図の一般向け編集地図であると察しましたので、何かの参考になるかもしれないと思い、購入してみました。
次のような地図であり、大字の文字が全て書かれている地図です。残念ながら大字の界線は書かれていません。
大日本管轄分地図 千葉県管内図(明治27年)
大日本管轄分地図 千葉県管内図(明治27年) 拡大
地図の他に付録として付いている説明パンフレットのファイルもついていました。
附録の一部
附録の一部
この地図もまたGISに簡易的にプロットしておき、千葉県郷名分布図の記載が込み入ったところなどをこの地図で簡易に確かめることができそうです。
紙の地図ではありませんから、その保管に気遣う必要がないので、参考資料として購入して良かったと思います。
2016年6月28日火曜日
地名型「土居」「堀之内」の千葉県検索結果
1 鏡味完二の検討 地名型「土居」「堀之内」
鏡味完二は60年以上前に地名の層序年表を作成して、その中で21の地名型を設定しています。
地名型は「標準化石地名」ともいうべきものとして、過去のある時代の地域開発を物語る指標としています。
その地名型の12番目「土居」「堀之内」に関する鏡味完二の検討を紹介します。
……………………………………………………………………
Doi,Horinoutiの地名
"土居"と"堀之内"の地名は,共に豪族屋敷に因むものと一般に考えられている。
ただ菊地山哉氏は"堀之内"を「墾之内」と解して,それを単なる開墾地名であるとしている。
地名"堀之内"の発生時代については,奈良朝とか中世とかといわれ,"土居"については南北朝から応仁前後(1330~1470)とか称されている。
著者はここで地名学的方法で,それは1200年頃という結果を出した。
その方法は次のようである。
但しこの時代決定の見当は,大いにあつかって文献利用の上に立っているのである。
土居の地名は西南日本に卓越し,堀之内の地名は東北日本に圧倒的に多い。
しかし特に土居の地名において奇異な現象は,この地名が姫路以西に多く分布し乍ら,姫路から西南に引いた直線を以って,極めて顕著な不連続線を形成していることである。
しかるにここには地形的に文化の障壁となるようなものは存在していない。
また方言やアクセントによる地域区分線とも直接の関係はない。
関東を中心に多い"堀之内"の地名において,ほぼそれと同様のことがいえる。
そこで著者はこの両地名型を1つに合せて考え,それを〔地図篇,Fig.60〕と〔地図篇,Fig.106〕でみると,近畿を中心とした周圏的な分布の体勢が成立してくる。
よってこの2つの地名は西南と東北の日本で,同一の対象に対して異った言葉で表わされた結果,2つの地名型が生じたものではないかという推測に達することができる。
多くの論者のようにこれらの地名の意味を,矢張り豪族屋敷に関係があるものとしよう。
ただそれを西南日本では「土居」といい,東北日本では「堀」といっただけのもので,且つこの両語は殆んど同時代のものと'すれば,姫路と天竜川筋における不連続線の形成は,文化の中心からの方言伝播の時間によって決定されたものであるとみられるから,この両不連続線の位置は上方から等距離に横たわるという結果を来したものと解釈することができる。
そして近畿地方が大体充実地域と考えられて,そこにはこの地名の分布がなく,疎らな分布地域(前充実地域)を隔てて,開拓地域に移行している。
(Fig.22No.12)
ここに問題として考えねばならぬことは,豪族屋敷に因む地名が,どうして豪族の分布と関係なく,1~2の方言の発達圏に限定されてくるかということである。
濠や土塁に因んで,地名が新らしく生れるという社会状態は,集落が一応の発達をある文化水準において完了して,社会的に固定した地域にあっては,たとえその地方で濠や土塁が設けられたと仮定しても,それによって既に社会的に成長発達をとげてきた地名は容易に改名されることはないであろう。
地名が改名されるか或は新生することのできる気運にある社会状態というものは,その地域の開拓の進度や文化の程度など,一定の適わしい状態というものが存在する筈だからである。
この分布図にみる分布のPatternを,他の地名型と比較対照して,Kiziya・Rokuroと-yasikiとの2つの地名型の中間の位置に時代設定をすることができ,かくして1200年頃という答を見出すことができる。
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
……………………………………………………………………
2 土居に関する学習
百科事典では土居について次のような説明をしていて、60年前の鏡味完二の「土居」と「堀之内」を一体のものとして捉える考え方が間違っていないことを確認できます。
……………………………………………………………………
どい 【土居】
城郭や屋敷地の周囲に防御のために築いた盛土のこと。
土塁とほとんど同じ意味であるが,近世までは土居の語を用いた。
また土居で防御された敷地全体,例えば土居屋敷を単に土居と呼ぶ例が中世以来あり,とくに土佐,伊予,淡路などに多い。
平地の土居は堀を掘った土をかきあげて築いた。
部分的に▶石垣を用いる場合もあり,その石垣が上端にあるのを鉢巻土居,下端にあるのを腰巻土居という。
土をつき固めただけのものを敲〘たたき〙土居,さらにその表面に芝を張ったものを芝土居という。
土居の勾配は,近世の軍学では,敲土居は高さ3間に敷(基底部)3間,つまり45度の傾斜,芝土居は敷2間,つまり60度の傾斜を定法としたが,山城で地山を削り残した土居の場合は,これより急勾配のものがある。
土居の頂の平面を馬踏〘まふみ〙といい,塀や柵を設けた場合,その内側を武者走り,外側を犬走りという。
屋敷や居館まわりの土居には竹を植えて崩れ止めや目かくしとすることが多く,近世の絵図等では土居藪,土手藪と記され,土居が崩れていても残存する藪から土居の線を復原できることがある。
村田 修三
古代において,地方行政府たる国府の周囲にめぐらされた土塁は土居,土井,土手と称され,多賀城跡や周防,美濃,伊勢,佐渡などの国府には土塁の遺構が残る。
周防国府跡では〈土居八丁〉と呼ばれ,国府の周囲を土塁がめぐっていたことがわかる。
また,全国に建設された国分寺,国分尼寺のうち,遠江や陸奥国分寺では寺地境界に土塁を築いていたことが知られている。
中世においては土居の外側に▶堀(濠)をうがつことが多く,その内側を〈堀の内〉とも呼んだ。
土居のなかで最も大規模なものとして,1591年(天正19)に豊臣秀吉が京都の周囲にめぐらした〈御土居〘おどい〙〉がある。
御土居は東は鴨川,西は紙屋川,北は鷹峯,南は九条を限り,周囲全長22.5㎞に達する。
まず外周に幅3~18mの堀を掘り,その土を盛りあげて基底部の幅10~20m,高さ3~5mの土居を築き,四方に10口(7口)を設けて出入口とした。
御土居は防御機能よりもむしろ鴨川の氾濫を防ぐことで京都庶民の役に立ったといわれる。
17世紀後半には京都市街は御土居を越えて東方へ拡大していった。
高橋 康夫
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用
……………………………………………………………………
3 千葉県における地名「土居」「堀之内」検索結果
千葉県小字データベースから「ドイ」「ホリノウチ」に関する小字を検索したところ「ドイ」(土井、戸井など)は15件、「ホリノウチ」は128件抽出されました。
鏡味完二のいう通り、東日本にある千葉県では「土居」はすくなく、「堀之内」は多いという結果になりました。
その分布図を次に示します。
「土居」小字分布
ほとんどが上総国に分布します。「堀之内」も上総国が多くなっていますから「土居」と「堀之内」に関連があるのだと思います。
分布が比較的集中していることと、文字「土居」はなく、全て「土井」、「戸井」であることから、土木施設としての土居をつくるあるいは使う集団が西日本から千葉にやってきてその足跡を残したなどという空想も頭から排除できないと思います。
「堀之内」小字分布
上総国の分布が特に多くなっています。
この地名が密集する場所をよく見ると古代に開発された場所から少し離れた山間地域が多くなっています。
鏡味完二のいうように堀之内分布はある時代の開発前線を表現しているのだと考えます。
「土居」「堀之内」の分布について他の情報と重ね合わせて検討すれば、そこから有用な新情報を導き出すことができると考えますが、それは今後の課題とします。
鏡味完二は60年以上前に地名の層序年表を作成して、その中で21の地名型を設定しています。
地名型は「標準化石地名」ともいうべきものとして、過去のある時代の地域開発を物語る指標としています。
その地名型の12番目「土居」「堀之内」に関する鏡味完二の検討を紹介します。
……………………………………………………………………
Doi,Horinoutiの地名
"土居"と"堀之内"の地名は,共に豪族屋敷に因むものと一般に考えられている。
ただ菊地山哉氏は"堀之内"を「墾之内」と解して,それを単なる開墾地名であるとしている。
地名"堀之内"の発生時代については,奈良朝とか中世とかといわれ,"土居"については南北朝から応仁前後(1330~1470)とか称されている。
著者はここで地名学的方法で,それは1200年頃という結果を出した。
その方法は次のようである。
但しこの時代決定の見当は,大いにあつかって文献利用の上に立っているのである。
土居の地名は西南日本に卓越し,堀之内の地名は東北日本に圧倒的に多い。
しかし特に土居の地名において奇異な現象は,この地名が姫路以西に多く分布し乍ら,姫路から西南に引いた直線を以って,極めて顕著な不連続線を形成していることである。
しかるにここには地形的に文化の障壁となるようなものは存在していない。
また方言やアクセントによる地域区分線とも直接の関係はない。
関東を中心に多い"堀之内"の地名において,ほぼそれと同様のことがいえる。
そこで著者はこの両地名型を1つに合せて考え,それを〔地図篇,Fig.60〕と〔地図篇,Fig.106〕でみると,近畿を中心とした周圏的な分布の体勢が成立してくる。
よってこの2つの地名は西南と東北の日本で,同一の対象に対して異った言葉で表わされた結果,2つの地名型が生じたものではないかという推測に達することができる。
多くの論者のようにこれらの地名の意味を,矢張り豪族屋敷に関係があるものとしよう。
ただそれを西南日本では「土居」といい,東北日本では「堀」といっただけのもので,且つこの両語は殆んど同時代のものと'すれば,姫路と天竜川筋における不連続線の形成は,文化の中心からの方言伝播の時間によって決定されたものであるとみられるから,この両不連続線の位置は上方から等距離に横たわるという結果を来したものと解釈することができる。
そして近畿地方が大体充実地域と考えられて,そこにはこの地名の分布がなく,疎らな分布地域(前充実地域)を隔てて,開拓地域に移行している。
(Fig.22No.12)
ここに問題として考えねばならぬことは,豪族屋敷に因む地名が,どうして豪族の分布と関係なく,1~2の方言の発達圏に限定されてくるかということである。
濠や土塁に因んで,地名が新らしく生れるという社会状態は,集落が一応の発達をある文化水準において完了して,社会的に固定した地域にあっては,たとえその地方で濠や土塁が設けられたと仮定しても,それによって既に社会的に成長発達をとげてきた地名は容易に改名されることはないであろう。
地名が改名されるか或は新生することのできる気運にある社会状態というものは,その地域の開拓の進度や文化の程度など,一定の適わしい状態というものが存在する筈だからである。
この分布図にみる分布のPatternを,他の地名型と比較対照して,Kiziya・Rokuroと-yasikiとの2つの地名型の中間の位置に時代設定をすることができ,かくして1200年頃という答を見出すことができる。
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
……………………………………………………………………
2 土居に関する学習
百科事典では土居について次のような説明をしていて、60年前の鏡味完二の「土居」と「堀之内」を一体のものとして捉える考え方が間違っていないことを確認できます。
……………………………………………………………………
どい 【土居】
城郭や屋敷地の周囲に防御のために築いた盛土のこと。
土塁とほとんど同じ意味であるが,近世までは土居の語を用いた。
また土居で防御された敷地全体,例えば土居屋敷を単に土居と呼ぶ例が中世以来あり,とくに土佐,伊予,淡路などに多い。
平地の土居は堀を掘った土をかきあげて築いた。
部分的に▶石垣を用いる場合もあり,その石垣が上端にあるのを鉢巻土居,下端にあるのを腰巻土居という。
土をつき固めただけのものを敲〘たたき〙土居,さらにその表面に芝を張ったものを芝土居という。
土居の勾配は,近世の軍学では,敲土居は高さ3間に敷(基底部)3間,つまり45度の傾斜,芝土居は敷2間,つまり60度の傾斜を定法としたが,山城で地山を削り残した土居の場合は,これより急勾配のものがある。
土居の頂の平面を馬踏〘まふみ〙といい,塀や柵を設けた場合,その内側を武者走り,外側を犬走りという。
屋敷や居館まわりの土居には竹を植えて崩れ止めや目かくしとすることが多く,近世の絵図等では土居藪,土手藪と記され,土居が崩れていても残存する藪から土居の線を復原できることがある。
村田 修三
古代において,地方行政府たる国府の周囲にめぐらされた土塁は土居,土井,土手と称され,多賀城跡や周防,美濃,伊勢,佐渡などの国府には土塁の遺構が残る。
周防国府跡では〈土居八丁〉と呼ばれ,国府の周囲を土塁がめぐっていたことがわかる。
また,全国に建設された国分寺,国分尼寺のうち,遠江や陸奥国分寺では寺地境界に土塁を築いていたことが知られている。
中世においては土居の外側に▶堀(濠)をうがつことが多く,その内側を〈堀の内〉とも呼んだ。
土居のなかで最も大規模なものとして,1591年(天正19)に豊臣秀吉が京都の周囲にめぐらした〈御土居〘おどい〙〉がある。
御土居は東は鴨川,西は紙屋川,北は鷹峯,南は九条を限り,周囲全長22.5㎞に達する。
まず外周に幅3~18mの堀を掘り,その土を盛りあげて基底部の幅10~20m,高さ3~5mの土居を築き,四方に10口(7口)を設けて出入口とした。
御土居は防御機能よりもむしろ鴨川の氾濫を防ぐことで京都庶民の役に立ったといわれる。
17世紀後半には京都市街は御土居を越えて東方へ拡大していった。
高橋 康夫
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用
……………………………………………………………………
3 千葉県における地名「土居」「堀之内」検索結果
千葉県小字データベースから「ドイ」「ホリノウチ」に関する小字を検索したところ「ドイ」(土井、戸井など)は15件、「ホリノウチ」は128件抽出されました。
鏡味完二のいう通り、東日本にある千葉県では「土居」はすくなく、「堀之内」は多いという結果になりました。
その分布図を次に示します。
「土居」小字分布
ほとんどが上総国に分布します。「堀之内」も上総国が多くなっていますから「土居」と「堀之内」に関連があるのだと思います。
分布が比較的集中していることと、文字「土居」はなく、全て「土井」、「戸井」であることから、土木施設としての土居をつくるあるいは使う集団が西日本から千葉にやってきてその足跡を残したなどという空想も頭から排除できないと思います。
「堀之内」小字分布
上総国の分布が特に多くなっています。
この地名が密集する場所をよく見ると古代に開発された場所から少し離れた山間地域が多くなっています。
鏡味完二のいうように堀之内分布はある時代の開発前線を表現しているのだと考えます。
「土居」「堀之内」の分布について他の情報と重ね合わせて検討すれば、そこから有用な新情報を導き出すことができると考えますが、それは今後の課題とします。
2016年6月27日月曜日
轆轤(ロクロ)地名補足
千葉県の轆轤(ロクロ)地名は大きく6点に分かれて分布しています。このうち2個所は砂鉄運搬用轆轤(旭市横根の六郎木工)と古代船越の重量物運搬用轆轤(長南町蔵持・長南)と考えました。
他の場所についての詳しい検討は今後の課題とし、この記事では現在得ている情報から推察できることを想像します。
千葉県の「轆轤(ロクロ)」小字分布
勝浦市の大字を市野郷と訂正しました。
鴨川市外堀(江見)の位置を訂正しました。
1 横芝光町栗山
横芝光町栗山
栗山川河口部に位置していて、奈良・平安時代遺跡が密集してある場所ですから、古代には開発が進んでいた場所です。
舟運との関わりが強い場所であることに間違いありません。
砂洲と湿地の土地であり、めぼしい樹木はありそうにありませんから、木地屋の木工用轆轤が地名になったのではなく、ミナトの荷揚げ用轆轤が地名になったと考える方が順当のような気がします。
2 勝浦市市野郷
勝浦市市野郷
この場所だけ、周辺に奈良・平安時代遺跡が存在しません。また周辺の拠点集落から離れた場所です。
この場所は木地屋の活動があり、木工用轆轤がその地名の由来になったと考えてもそれを否定する情報はありません。
3 鴨川市外堀(江見)
鴨川市外堀(江見)
海岸に面していて、奈良・平安時代遺跡が海岸線沿いに分布していて、舟運との関わりが感じれます。
木地屋の活動は考えにくいと思います。
4 南房総市白浜
南房総市白浜
古代には白浜牧があった場所であり、奈良・平安時代遺跡が密集していて、古代の開発先進地域の一つです。
恐らく太平洋航路との関わりでそのような拠点になったのだと想像します。
従って、この場所の轆轤(ロクロ)地名も木地屋の活動というより、荷揚げ用轆轤に由来する地名だと考えます。
他の場所についての詳しい検討は今後の課題とし、この記事では現在得ている情報から推察できることを想像します。
千葉県の「轆轤(ロクロ)」小字分布
勝浦市の大字を市野郷と訂正しました。
鴨川市外堀(江見)の位置を訂正しました。
1 横芝光町栗山
横芝光町栗山
栗山川河口部に位置していて、奈良・平安時代遺跡が密集してある場所ですから、古代には開発が進んでいた場所です。
舟運との関わりが強い場所であることに間違いありません。
砂洲と湿地の土地であり、めぼしい樹木はありそうにありませんから、木地屋の木工用轆轤が地名になったのではなく、ミナトの荷揚げ用轆轤が地名になったと考える方が順当のような気がします。
2 勝浦市市野郷
勝浦市市野郷
この場所だけ、周辺に奈良・平安時代遺跡が存在しません。また周辺の拠点集落から離れた場所です。
この場所は木地屋の活動があり、木工用轆轤がその地名の由来になったと考えてもそれを否定する情報はありません。
3 鴨川市外堀(江見)
鴨川市外堀(江見)
海岸に面していて、奈良・平安時代遺跡が海岸線沿いに分布していて、舟運との関わりが感じれます。
木地屋の活動は考えにくいと思います。
4 南房総市白浜
南房総市白浜
古代には白浜牧があった場所であり、奈良・平安時代遺跡が密集していて、古代の開発先進地域の一つです。
恐らく太平洋航路との関わりでそのような拠点になったのだと想像します。
従って、この場所の轆轤(ロクロ)地名も木地屋の活動というより、荷揚げ用轆轤に由来する地名だと考えます。
2016年6月26日日曜日
車持部と轆轤(ロクロ)地名
2016.06.25記事「千葉県の轆轤(ロクロ)地名が重量物運搬装置に由来する状況」で千葉県の轆轤(ロクロ)地名が、鏡味完二や一般に言われるような木地屋の活動、つまり木工用の装置としての轆轤に由来するのではないと想定する状況として、旭市横根の小字「六郎木工」を検討しました。
この記事では同じ趣旨で、長南町蔵持の小字「六郎谷」と隣接する長南(宿)の小字「六郎谷」について検討します。
大字蔵持と長南(宿)の領域を示すと次のようになります。
轆轤(ロクロ)地名が存在する大字「蔵持」=車持と「長南(宿)」
「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)のGISプロット
2つの小字六郎谷の具体的な位置は現段階では資料がないため未調査です。
特筆すべきこととして、大字蔵持(クラモチ)は古代部民の車持部(クルマモチベ)の車持から転じた名称です。(角川千葉県地名大辞典による)
以前の記事で、この空間で車持部が船越における輸送に携わっていたことを学習しました。
2016.06.01記事「学習メモ 古代房総部民「車持部(クルマモチベ)」と交通」参照
その船越で車輪技術を使っていた車持部の名称が伝わる蔵持に轆轤(ロクロ)地名である六郎谷が存在するのです。
轆轤(ロクロ)は車輪技術そのものですから、六郎谷は戦略輸送部隊である車持部に関わるものであると考えます。
漂泊の民である木地屋がこの場所で活動して、その活動が地名に残ったとは到底考えられません。
この場所は古代国家が太平洋岸を地域開発するための輸送戦略地点であり、木地屋が商売をするような場所ではありません。
この場所の水系の状況を見ると、つぎのようになります。
長南町蔵持付近の地形
東京湾水系と太平洋水系が稜線を挟まないで接する珍しい地形の場所となっています。
このいわば二つの谷が直接接続する場所が水運の接続地点(船越)として利用されたのです。
大字蔵持つまり車持部の領域に東京湾水系の一部が含まれていることは、その場所が船越としてのいわば施設空間(活動空間)であったことを如実に物語っています。
この付近は東京湾水系は古代市原郡、太平洋水系は古代長柄郡ですが、船越の施設空間(活動空間)だけが流域界を超えて長柄郡が市原郡に食い込んだということになります。
もう少し詳しい地形をみて、轆轤(ロクロ)がどのように使われたか想定してみます。
古代船越付近の地形
C地点では東京湾水系の谷底を太平洋水系の谷が直接削っている様子がわかります。
谷と谷の間に稜線が無く、今まさに河川争奪が発生する時、というような珍しい地形になっています。
この地形断面を次に見てみます。
古代船越付近の地形断面と運搬手段の想定
地形断面図は10mメッシュを使って、GISソフト地図太郎PLUSの機能を使って作成
A-Bは低平、B-Cは緩傾斜、C-Dは急傾斜、D-Eは低平という地形になっています。
この地形から船越における運搬手段はA-Bは曳舟、B-Cは車、C-Dは轆轤(ロクロ)、D-Eは曳舟であると想定しました。
旭市横根では砂鉄を海岸から台地に引きずり揚げる際に轆轤(ロクロ)を使いましたが、長南町蔵持でも同じく重量物を太平洋側から東京湾側に引きずり揚げるために使ったのだと思います。
なお、急斜面からすこし離れて長南(宿)にも小字六郎谷がありますから、その地名は轆轤(ロクロ)作業に従事する人夫の宿泊場所を表していると考えます。
蔵持の小字六郎谷が轆轤(ロクロ)装置の場所を示しているのか、人夫の宿舎を示しているのか、詳細位置が判れば、その意味が判ります。
この記事では同じ趣旨で、長南町蔵持の小字「六郎谷」と隣接する長南(宿)の小字「六郎谷」について検討します。
大字蔵持と長南(宿)の領域を示すと次のようになります。
轆轤(ロクロ)地名が存在する大字「蔵持」=車持と「長南(宿)」
「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)のGISプロット
2つの小字六郎谷の具体的な位置は現段階では資料がないため未調査です。
特筆すべきこととして、大字蔵持(クラモチ)は古代部民の車持部(クルマモチベ)の車持から転じた名称です。(角川千葉県地名大辞典による)
以前の記事で、この空間で車持部が船越における輸送に携わっていたことを学習しました。
2016.06.01記事「学習メモ 古代房総部民「車持部(クルマモチベ)」と交通」参照
その船越で車輪技術を使っていた車持部の名称が伝わる蔵持に轆轤(ロクロ)地名である六郎谷が存在するのです。
轆轤(ロクロ)は車輪技術そのものですから、六郎谷は戦略輸送部隊である車持部に関わるものであると考えます。
漂泊の民である木地屋がこの場所で活動して、その活動が地名に残ったとは到底考えられません。
この場所は古代国家が太平洋岸を地域開発するための輸送戦略地点であり、木地屋が商売をするような場所ではありません。
この場所の水系の状況を見ると、つぎのようになります。
長南町蔵持付近の地形
東京湾水系と太平洋水系が稜線を挟まないで接する珍しい地形の場所となっています。
このいわば二つの谷が直接接続する場所が水運の接続地点(船越)として利用されたのです。
大字蔵持つまり車持部の領域に東京湾水系の一部が含まれていることは、その場所が船越としてのいわば施設空間(活動空間)であったことを如実に物語っています。
この付近は東京湾水系は古代市原郡、太平洋水系は古代長柄郡ですが、船越の施設空間(活動空間)だけが流域界を超えて長柄郡が市原郡に食い込んだということになります。
もう少し詳しい地形をみて、轆轤(ロクロ)がどのように使われたか想定してみます。
古代船越付近の地形
C地点では東京湾水系の谷底を太平洋水系の谷が直接削っている様子がわかります。
谷と谷の間に稜線が無く、今まさに河川争奪が発生する時、というような珍しい地形になっています。
この地形断面を次に見てみます。
古代船越付近の地形断面と運搬手段の想定
地形断面図は10mメッシュを使って、GISソフト地図太郎PLUSの機能を使って作成
A-Bは低平、B-Cは緩傾斜、C-Dは急傾斜、D-Eは低平という地形になっています。
この地形から船越における運搬手段はA-Bは曳舟、B-Cは車、C-Dは轆轤(ロクロ)、D-Eは曳舟であると想定しました。
旭市横根では砂鉄を海岸から台地に引きずり揚げる際に轆轤(ロクロ)を使いましたが、長南町蔵持でも同じく重量物を太平洋側から東京湾側に引きずり揚げるために使ったのだと思います。
なお、急斜面からすこし離れて長南(宿)にも小字六郎谷がありますから、その地名は轆轤(ロクロ)作業に従事する人夫の宿泊場所を表していると考えます。
蔵持の小字六郎谷が轆轤(ロクロ)装置の場所を示しているのか、人夫の宿舎を示しているのか、詳細位置が判れば、その意味が判ります。
2016年6月25日土曜日
千葉県の轆轤(ロクロ)地名が重量物運搬装置に由来する状況
千葉県の轆轤(ロクロ)地名が、鏡味完二や一般に言われるような木地屋の活動、つまり木工用の装置としての轆轤に由来するのではないと想定する状況を説明します。
千葉県の轆轤地名はあるいは全部が重量物運搬装置としての轆轤に由来するのではないかと考えるようになりました。
千葉県の轆轤(ロクロ)地名分布を次に示します。
千葉県の「轆轤(ロクロ)」小字分布
この8つの小字のうち、この記事では旭市横根の六郎木工を検討します。
小字六郎木工の正確な位置は資料を所持していないので、現在私は判っていません。
しかし、小字六郎木工が含まれる大字横根の位置は千葉県郷名分布図をGIS背景地図に取り込みましたので、その概略位置をかなり正確にイメージできます。
2016.06.24記事「千葉県郷名分布図のGIS背景地図取り込み」参照
次に千葉県郷名分布図をGISに取り込んだ状況をしめします。
千葉県郷名分布図をGISに取り込んだ様子(大字横根付近)
大字横根は浜と台地の縁だけでなく、細長く台地中央部まで入り込んでいます。
古代の郡界線を検討したときの不思議な形状に対応する大字です。
2016.06.21記事「GISを使った房総古代分郡図の不合理理由検討」参照
不思議で特異な形状の大字は横根だけでなく、隣の三川も同じです。
この不思議な大字形状と、それに含まれる小字「六郎木工」を結び合わせて思考をしながら、いくつかの情報を集めました。
まず、この台地には製鉄遺跡があります。古い資料には発掘前から多くの鞴や鉄滓が見つかっているということです。
具体的な遺跡例の一つとして倉橋池田池田遺跡を挙げることができます。
また、横根の浜は砂鉄の産地として有名な場所です。
参考 千葉県の砂鉄産地
植野英夫「明治以降の千葉県における砂鉄採取について」(千葉県立現代産業科学館研究報告第18号、2012.03)から引用
このような情報から、旭市横根の小字六郎木工に関して次の想定を行いました。
旭市横根の小字六郎木工に関する想定
●小字「六郎木工」は台地上製鉄遺跡に海岸で採取した砂鉄を運び揚げる運搬用装置としての轆轤(ロクロ)に由来する可能性が高いと考えます。
現代の機械でいえばクレーンということになりますが、古代では低地と台地面の間の急斜面において、轆轤を使って人力で砂鉄を引っ張り上げたと想定します。
●木工(モツコ)は砂鉄を入れる運搬用具としてのもっこ(むしろなどで作る)を意味すると考えます。
●大字横根と三川の得意な形状は、砂鉄採取地とタタラ製鉄施設を含む古代の特定開発地域を示すと考えます。
●大字横根が海上郡、大字三川が匝瑳郡という邨岡良弼の説は再検討が必要であると考えます。
邨岡良弼の明治時代の誤謬が誰からも検討されることなく、現代でも生き続けていることは、素人からみて不思議です。
●結論として、この場所に漂泊の民である木地屋が生活し、木工用轆轤(ロクロ)を操って生活したことが地名として残ったと考えることはできません。
製鉄遺跡があったのですから、古代の早くからこの台地の木は全て木炭に化けてしまって、丸裸の土地であったに違いありません。木地屋がやってきて商売できるような環境はそもそもなかったと考えます。
記事を改めて、別個所の轆轤地名も運搬用轆轤に由来するという想定を説明します。
千葉県の轆轤地名はあるいは全部が重量物運搬装置としての轆轤に由来するのではないかと考えるようになりました。
千葉県の轆轤(ロクロ)地名分布を次に示します。
千葉県の「轆轤(ロクロ)」小字分布
この8つの小字のうち、この記事では旭市横根の六郎木工を検討します。
小字六郎木工の正確な位置は資料を所持していないので、現在私は判っていません。
しかし、小字六郎木工が含まれる大字横根の位置は千葉県郷名分布図をGIS背景地図に取り込みましたので、その概略位置をかなり正確にイメージできます。
2016.06.24記事「千葉県郷名分布図のGIS背景地図取り込み」参照
次に千葉県郷名分布図をGISに取り込んだ状況をしめします。
千葉県郷名分布図をGISに取り込んだ様子(大字横根付近)
大字横根は浜と台地の縁だけでなく、細長く台地中央部まで入り込んでいます。
古代の郡界線を検討したときの不思議な形状に対応する大字です。
2016.06.21記事「GISを使った房総古代分郡図の不合理理由検討」参照
不思議で特異な形状の大字は横根だけでなく、隣の三川も同じです。
この不思議な大字形状と、それに含まれる小字「六郎木工」を結び合わせて思考をしながら、いくつかの情報を集めました。
まず、この台地には製鉄遺跡があります。古い資料には発掘前から多くの鞴や鉄滓が見つかっているということです。
具体的な遺跡例の一つとして倉橋池田池田遺跡を挙げることができます。
また、横根の浜は砂鉄の産地として有名な場所です。
参考 千葉県の砂鉄産地
植野英夫「明治以降の千葉県における砂鉄採取について」(千葉県立現代産業科学館研究報告第18号、2012.03)から引用
このような情報から、旭市横根の小字六郎木工に関して次の想定を行いました。
旭市横根の小字六郎木工に関する想定
●小字「六郎木工」は台地上製鉄遺跡に海岸で採取した砂鉄を運び揚げる運搬用装置としての轆轤(ロクロ)に由来する可能性が高いと考えます。
現代の機械でいえばクレーンということになりますが、古代では低地と台地面の間の急斜面において、轆轤を使って人力で砂鉄を引っ張り上げたと想定します。
●木工(モツコ)は砂鉄を入れる運搬用具としてのもっこ(むしろなどで作る)を意味すると考えます。
●大字横根と三川の得意な形状は、砂鉄採取地とタタラ製鉄施設を含む古代の特定開発地域を示すと考えます。
●大字横根が海上郡、大字三川が匝瑳郡という邨岡良弼の説は再検討が必要であると考えます。
邨岡良弼の明治時代の誤謬が誰からも検討されることなく、現代でも生き続けていることは、素人からみて不思議です。
●結論として、この場所に漂泊の民である木地屋が生活し、木工用轆轤(ロクロ)を操って生活したことが地名として残ったと考えることはできません。
製鉄遺跡があったのですから、古代の早くからこの台地の木は全て木炭に化けてしまって、丸裸の土地であったに違いありません。木地屋がやってきて商売できるような環境はそもそもなかったと考えます。
記事を改めて、別個所の轆轤地名も運搬用轆轤に由来するという想定を説明します。
2016年6月24日金曜日
千葉県郷名分布図のGIS背景地図取り込み
「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)」を古代郡名や郷名の検討に関連して、最近、何回も利用しています。
古代郡名や郷名の分布等については明治時代の検討成果ですから大いに限界があるものと感じています。
その視点とは別に、この地図には千葉県の明治時代の大字がもれなく掲載されていることに気が付きました。
この地図は、千葉県の地名や考古歴史を考える際に大変貴重で価値のある史料であることを改めて認識しました。
現在手に入る大字分布図は昭和30年代以降の地域開発で町丁の新設細分化が大規模に行われ、かつ新規名称が増大してしまった地域が広がっているデータです。
このブログで作成した千葉県小字データベース(角川千葉県地名大辞典付録小字一覧の電子化)の大字についても、その位置が復元できないものや復元に手間取るものが多数ふくまれています。
千葉県小字データベースの正確なプロットをするうえでアドレスマッチングでは不十分であり、戦後経済高度成長期以前の大字分布図が見つからないで困っていた最中であったのです。
従って、千葉県郷名分布図をGISの背景地図として取り込めれば、千葉県小字データベースの大字データの位置情報を正確に得ることができます。
既成のアドレスマッチングに頼らないで、自力で正確な歴史的地名の位置プロットができるようになります。
このような目論見の下に、この地図を電子化してGISに張り付けて実用できるようにしましたので、その経緯をメモしておきます。
1 「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)」の姿
この地図を広げて写真に撮った姿を示します。
千葉県郷名分布図
2色刷り 大判地図
2 スキャン貼り合せした1枚画像のGIS取り込み
A3判6枚に分けて地図をスキャンして、そのファイルを画像回転等の単純な方法で貼り合せました。
スキャン画像6枚の貼り合せ
この貼り合せ画像1枚をGIS背景地図として取り込み、位置合わせを行いました。
位置合わせの機能としては移動・拡大縮小・回転の他に変形(四隅を引っ張って自由に変形できる)があります。
貼り合せ画像1枚のGIS位置合わせ結果
最大限位置合わせを行いましたが、自分の満足できる(実用になる)位置合わせをすることができませんでした。
あちらが合えば、こちらが合わないという状況が多数生じます。
この作業の中で、A3判6枚に分けてスキャンしないで、大判のスキャナーで最初から1枚の画像を作成しても、その結果はあまり変わらないであろうことが理解できました。
GISの自由変形機能は四隅をひっぱって実現しているので、限界があるからです。
多数点で自由にあちらこちらに引っ張ることができれば話はちがってくるのですが。
(GISではないのですが、Illustratorに多数点で自由に引っ張って歪ませる機能があるようなので、今後その機能が幾何補正に役立つものであるか検討する予定です。)
3 スキャン画像6枚の個別のGIS取り込み
スキャン画像6枚を個別にGISに取り込みました。
スキャン画像6枚のそれぞれのGIS位置合わせ結果
2で行った方法よりはるかに不具合が少なくなります。一応実用に使えるレベルまで位置合わせを繰り返しました。
さらに、この作業の中で、明治時代の測量図を完全に近い形で幾何補正することをあきらめ、利用の際に微調整を行うシステムとすることにしました。
広域で大字を見る場合、どうしても大字界線が地形や現在の市町村界等とすこしズレていまします。
そのズレは最小化して実用にある程度耐えられるようにしたのですが、その画像の位置合わせを不変のものとしないで、目的に応じて、利用の度毎に位置合わせ微調整をして利用することにしました。
背景地図としての位置合わせ決定版を作らないという、発想逆転になりました。
柔軟に対応するという苦肉の策です。
4 大字界線の利用イメージ
長南町蔵持という大字を対象に、その大字の範囲を抽出してみました。
GISにおける千葉県郷名分布図の表示(大字蔵持付近)
GISにおける千葉県郷名分布図と標準地図のオーバーレイ表示
GISにおける千葉県郷名分布図と色別標高図のオーバーレイ表示
GISにおける大字蔵持と標準地図のオーバーレイ表示
GISにおける大字蔵持と色別標高図のオーバーレイ表示
大字蔵持の範囲はあくまでもイメージですが、想像以上にその範囲が正確なイメージとなりました。
大字の範囲を大きな円で示したり、反対に点で示したりするのではなく、イメージとは言ってもその概形を示せるのです。
満足のいく結果となりました。
古代郡名や郷名の分布等については明治時代の検討成果ですから大いに限界があるものと感じています。
その視点とは別に、この地図には千葉県の明治時代の大字がもれなく掲載されていることに気が付きました。
この地図は、千葉県の地名や考古歴史を考える際に大変貴重で価値のある史料であることを改めて認識しました。
現在手に入る大字分布図は昭和30年代以降の地域開発で町丁の新設細分化が大規模に行われ、かつ新規名称が増大してしまった地域が広がっているデータです。
このブログで作成した千葉県小字データベース(角川千葉県地名大辞典付録小字一覧の電子化)の大字についても、その位置が復元できないものや復元に手間取るものが多数ふくまれています。
千葉県小字データベースの正確なプロットをするうえでアドレスマッチングでは不十分であり、戦後経済高度成長期以前の大字分布図が見つからないで困っていた最中であったのです。
従って、千葉県郷名分布図をGISの背景地図として取り込めれば、千葉県小字データベースの大字データの位置情報を正確に得ることができます。
既成のアドレスマッチングに頼らないで、自力で正確な歴史的地名の位置プロットができるようになります。
このような目論見の下に、この地図を電子化してGISに張り付けて実用できるようにしましたので、その経緯をメモしておきます。
1 「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)」の姿
この地図を広げて写真に撮った姿を示します。
千葉県郷名分布図
2色刷り 大判地図
2 スキャン貼り合せした1枚画像のGIS取り込み
A3判6枚に分けて地図をスキャンして、そのファイルを画像回転等の単純な方法で貼り合せました。
スキャン画像6枚の貼り合せ
この貼り合せ画像1枚をGIS背景地図として取り込み、位置合わせを行いました。
位置合わせの機能としては移動・拡大縮小・回転の他に変形(四隅を引っ張って自由に変形できる)があります。
貼り合せ画像1枚のGIS位置合わせ結果
最大限位置合わせを行いましたが、自分の満足できる(実用になる)位置合わせをすることができませんでした。
あちらが合えば、こちらが合わないという状況が多数生じます。
この作業の中で、A3判6枚に分けてスキャンしないで、大判のスキャナーで最初から1枚の画像を作成しても、その結果はあまり変わらないであろうことが理解できました。
GISの自由変形機能は四隅をひっぱって実現しているので、限界があるからです。
多数点で自由にあちらこちらに引っ張ることができれば話はちがってくるのですが。
(GISではないのですが、Illustratorに多数点で自由に引っ張って歪ませる機能があるようなので、今後その機能が幾何補正に役立つものであるか検討する予定です。)
3 スキャン画像6枚の個別のGIS取り込み
スキャン画像6枚を個別にGISに取り込みました。
スキャン画像6枚のそれぞれのGIS位置合わせ結果
2で行った方法よりはるかに不具合が少なくなります。一応実用に使えるレベルまで位置合わせを繰り返しました。
さらに、この作業の中で、明治時代の測量図を完全に近い形で幾何補正することをあきらめ、利用の際に微調整を行うシステムとすることにしました。
広域で大字を見る場合、どうしても大字界線が地形や現在の市町村界等とすこしズレていまします。
そのズレは最小化して実用にある程度耐えられるようにしたのですが、その画像の位置合わせを不変のものとしないで、目的に応じて、利用の度毎に位置合わせ微調整をして利用することにしました。
背景地図としての位置合わせ決定版を作らないという、発想逆転になりました。
柔軟に対応するという苦肉の策です。
4 大字界線の利用イメージ
長南町蔵持という大字を対象に、その大字の範囲を抽出してみました。
GISにおける千葉県郷名分布図の表示(大字蔵持付近)
GISにおける千葉県郷名分布図と標準地図のオーバーレイ表示
GISにおける千葉県郷名分布図と色別標高図のオーバーレイ表示
GISにおける大字蔵持と標準地図のオーバーレイ表示
GISにおける大字蔵持と色別標高図のオーバーレイ表示
大字蔵持の範囲はあくまでもイメージですが、想像以上にその範囲が正確なイメージとなりました。
大字の範囲を大きな円で示したり、反対に点で示したりするのではなく、イメージとは言ってもその概形を示せるのです。
満足のいく結果となりました。
2016年6月23日木曜日
地名型「木地屋、轆轤(ロクロ)」の千葉県検索結果
1 鏡味完二の検討 地名型「木地屋、轆轤」
鏡味完二の60年前の検討結果を引用します。
……………………………………………………………………
Kiziya,Rokuroの地名
木地屋,轆轤が地名となって,今日に伝えられるものは随分多くの数に上る。
これらの地名発生の時代については,平安時代に「飛騨工」が知られており,菊地山哉氏も次のように記しているところからみると,平安時代ということがいえるであろう。
同氏によると『平安となっても国々に残存した雑類は,土師や陶器を入手することは経済が許さず,相変らず縄紋土器を使用すると共に,一気に木器へと移った。
本朝の木地屋,土師屋なるものが賎民であった事が,雄弁に那間の消息を物語る』ということである。
いまこの地名分布をみれば,分布の多いのは中国,四国から越後にかけての地域であるが,それは"別所"の地名による開拓地域よりも広くなっている。
またその地域の中央である近畿,とくにその北部に低密度であるから,そこを前充実地域として認めることができる。
これによってわが国の上代における開拓が,中央の地域で一応の完成に近づいてきた萌芽をあらわしはじめたものと考えることができるであろう。
この意味において著者は,荘園や別所の地名よりも,一段新らしいものと判定したわけで,次の領家の地名などとの時代的位置を考慮して,この地名発生の時期を凡そ1,100年と決定した。
ただKiziya,Rokuroの地名は山地と結合した産業に基いているから,それらを平地の開墾地名と同等に考えることは,当を得ているかどうかという懸念を生ずるであろう。
しかしこれについては,国々に残存していた雑類も,中央に近い所ほど開拓が完成に近づけば失業者となる場合が多く,従って開拓の余地の一層多い縁辺地方に,自ら漸次移動した結果,近畿においては山地木工業者となるものが,割合少かったという事情があったのではないかと思われる。
〔地図篇Fig.160〕
(Fig.22No.11)
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
……………………………………………………………………
2 木地屋及び轆轤の学習
現代の木地屋及び轆轤の学習を行いました。学習で読んだ資料を掲載します。
……………………………………………………………………
きじや 【木地屋】
木地は,①木の地質(木目),②細工物の粗形,③とくに指物・漆器などに漆その他の塗料を加飾しないものをいうが,このうち③を製作することを生業とした職人が,近世以来ひろく〈木地屋〉と呼ばれていた。
それも大別すると,ⓐ指物などの板物細工に従った角物木地,ⓑ円形木器の挽物〘ひきもの〙細工に従った丸物木地,ⓒ杓子・檜物(曲物)など雑多な木地細工に従うものがあった。
その中でⓑの丸物木地は,工具に原始的な手びきろくろとろくろがんなを操作して,いわゆる挽物の日用食具(椀,盆,丸膳など)を主に生産して庶民生活にとりわけなじみ深いものであったからか,木地屋といえばもっぱらこの種職人の代名詞のようになっている。
挽物を作るので木地挽ともいい,そのほか轆轤師〘ろくろし〙,木地師,狛屋〘こまや〙などの呼名がある。
[木地屋の生活習俗]
木地屋は都市に集住する者もいたが,もともと土地に依存しない非農民で,中世諸職人と同様の漂泊生業者であった。
その生活習俗のあらましは《斐太〘ひだ〙後風土記》に,〈彼らはトチ・ブナ・ケヤキなどの木を伐って椀形にくり,深い奥山の山小屋でろくろを使い椀木地をひく。
付近に用材のある間はそこにいて近くの市町〘いちまち〙の卸店・仕入商人に製品を送り,その代価で生活に必要な米・塩と交易した。
そして用材を伐り尽くすとまた他の山に移り一生を同じ山で果てることがなかったので,俗に“木地屋の宿替え”といわれたりした。
山小屋の座仕事のため日光に当たることも少なくて,自然男女とも色白で尻腰が大きい者が多かった。
昔は親の代替りに,必ず近江の支配所で烏帽子着〘えぼしぎ〙の儀式をして免許を受けたものという〉などと記している。
その彼らの漂泊を会津付近では〈飛〘とび〙〉といい,近江の支配所の記録には〈渡〘わたり〙〉という言葉が使われている。
[木地業の移ろい]
奈良県唐古〘からこ〙の弥生時代の遺跡出土の遺物からみて,すでにそのころ日本にもろくろによる挽物技術が存在したことは確かである。
著名な法隆寺の百万塔も7世紀の挽物である。
文献では正倉院文書の関連記事が古いのであるが,それは8世紀のことになる。
また宮城県多賀城遺跡や滋賀県鴨遺跡から9~10世紀のろくろ軸の鉄爪条痕の認められる木盤や木器の断片も出土して注目されている。
これらの挽物工人は古代の律令国家では轆轤工として宮廷,大社大寺の公的機関に隷属した。
しかし律令体制の崩壊で解放され,しだいに地方に分散して庶民の需要に応じ,古代末期~中世は轆轤師に,近世は木地屋と名を変えつつ木地業に従った。
日本の漆器工業の陰の力となった功績は,大きいにもかかわらず知られていない。
しかし明治の変革で過去の木地屋社会は消滅した。
現在観光産業化した東北のこけし人形は,いわばその数少ないなごりといってよい。
諸地方に残るろくろや木地に関連する地名のほとんどは,轆轤師・木地屋の漂泊の軌跡である。
他の諸職人にも先例があるが,彼らの社会でも中世末期から近世にかけ仲間の木地業権益の自衛を画策する者が現れた。
近江(滋賀県)▶小椋〘おぐら〙谷の轆轤師集団を率いた大岩氏で,はやく都の四府駕輿丁座〘しふのかよちようざ〙に上番し白川神祇伯家から大工職口銭を徴収される関係にあったらしい。
彼らは大陸渡来の秦氏の末裔として祭祀していた八幡神信仰に,中世時宗の聖が唱導した小野神信仰を習合し,職祖惟喬〘これたか〙親王流寓伝説の縁起書をつくり,ついで2種の偽作綸旨を案出し,時の武家政権の免許状を調整した。
それを背景に身分保証の印鑑,宗旨,通行手形を発給して全国的な座的統制を行った。
これらを〈木地屋文書〉と呼び,統制のための点検活動を〈氏子狩〘うじこがり〙〉,小椋谷を〈近江の木地屋根元地〉という。
今も各地の山中には,惟喬親王ゆかりの16弁の菊の紋と,〈江州渡木地師何某〉という文字を彫った木地屋墓が残っている。
橋本 鉄男
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用
太字は引用者
……………………………………………………………………
ろくろ 【轆轤】
日本では回転運動を利用するさまざまな装置を〈ろくろ〉と呼んでおり,①製陶用,②木工・金工用,③重量物移動用,④井戸の水汲み用の装置をさす。
以下略
佐原 眞
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用
……………………………………………………………………
木地屋は漂白の民で、山中で用材をもとめ、轆轤をあやつり、その軌跡がろくろや木地に関連する地名として諸地方に残ったことが判りました。
60年前の鏡味完二の地名説も、現代木地屋解説でも、地名「木地屋」「轆轤」は回転運動を利用する装置のうち木工用のものである点では同じです。
3 千葉県における地名「木地屋」「轆轤」検索結果
千葉県小字データベースから「木地屋」「轆轤」に関連すると考えられる小字を検索しました。
その結果を次に表と分布図でしめします。
木地屋、轆轤小字検索結果
「木地屋」小字、「轆轤」小字分布
大木地は「屋」がありませんが、「木地」の文字が同じなので、「木地屋」関連地名と判断しました。
大木地は上記で学習した木地屋の活動に関連した地名である可能性があると考えますが、それを裏打ちするような情報はありません。
轆轤関連地名は文字表記がすべて「六郎」になっています。漢字表記轆轤は字体が複雑であるので、どの地点でも、誰でも書ける六郎に当て字したと考えます。
さて、木地屋や轆轤の学習をして、その地名を実際に検出し分布図を作成して、一件落着とはなりませんでした。
轆轤(六郎)地名分布をみると、これらの地名の多くが木地屋と無関係かもしれないという疑問が湧いてきます。
轆轤(六郎)地名のほとんどが木工用轆轤とは無関係であることが推察されます。
ほとんどの地名が重量物移動用轆轤に由来する地名であると想定するようになりました。
その検討を次の記事で行います。
鏡味完二の60年前の検討結果を引用します。
……………………………………………………………………
Kiziya,Rokuroの地名
木地屋,轆轤が地名となって,今日に伝えられるものは随分多くの数に上る。
これらの地名発生の時代については,平安時代に「飛騨工」が知られており,菊地山哉氏も次のように記しているところからみると,平安時代ということがいえるであろう。
同氏によると『平安となっても国々に残存した雑類は,土師や陶器を入手することは経済が許さず,相変らず縄紋土器を使用すると共に,一気に木器へと移った。
本朝の木地屋,土師屋なるものが賎民であった事が,雄弁に那間の消息を物語る』ということである。
いまこの地名分布をみれば,分布の多いのは中国,四国から越後にかけての地域であるが,それは"別所"の地名による開拓地域よりも広くなっている。
またその地域の中央である近畿,とくにその北部に低密度であるから,そこを前充実地域として認めることができる。
これによってわが国の上代における開拓が,中央の地域で一応の完成に近づいてきた萌芽をあらわしはじめたものと考えることができるであろう。
この意味において著者は,荘園や別所の地名よりも,一段新らしいものと判定したわけで,次の領家の地名などとの時代的位置を考慮して,この地名発生の時期を凡そ1,100年と決定した。
ただKiziya,Rokuroの地名は山地と結合した産業に基いているから,それらを平地の開墾地名と同等に考えることは,当を得ているかどうかという懸念を生ずるであろう。
しかしこれについては,国々に残存していた雑類も,中央に近い所ほど開拓が完成に近づけば失業者となる場合が多く,従って開拓の余地の一層多い縁辺地方に,自ら漸次移動した結果,近畿においては山地木工業者となるものが,割合少かったという事情があったのではないかと思われる。
〔地図篇Fig.160〕
(Fig.22No.11)
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
……………………………………………………………………
2 木地屋及び轆轤の学習
現代の木地屋及び轆轤の学習を行いました。学習で読んだ資料を掲載します。
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きじや 【木地屋】
木地は,①木の地質(木目),②細工物の粗形,③とくに指物・漆器などに漆その他の塗料を加飾しないものをいうが,このうち③を製作することを生業とした職人が,近世以来ひろく〈木地屋〉と呼ばれていた。
それも大別すると,ⓐ指物などの板物細工に従った角物木地,ⓑ円形木器の挽物〘ひきもの〙細工に従った丸物木地,ⓒ杓子・檜物(曲物)など雑多な木地細工に従うものがあった。
その中でⓑの丸物木地は,工具に原始的な手びきろくろとろくろがんなを操作して,いわゆる挽物の日用食具(椀,盆,丸膳など)を主に生産して庶民生活にとりわけなじみ深いものであったからか,木地屋といえばもっぱらこの種職人の代名詞のようになっている。
挽物を作るので木地挽ともいい,そのほか轆轤師〘ろくろし〙,木地師,狛屋〘こまや〙などの呼名がある。
[木地屋の生活習俗]
木地屋は都市に集住する者もいたが,もともと土地に依存しない非農民で,中世諸職人と同様の漂泊生業者であった。
その生活習俗のあらましは《斐太〘ひだ〙後風土記》に,〈彼らはトチ・ブナ・ケヤキなどの木を伐って椀形にくり,深い奥山の山小屋でろくろを使い椀木地をひく。
付近に用材のある間はそこにいて近くの市町〘いちまち〙の卸店・仕入商人に製品を送り,その代価で生活に必要な米・塩と交易した。
そして用材を伐り尽くすとまた他の山に移り一生を同じ山で果てることがなかったので,俗に“木地屋の宿替え”といわれたりした。
山小屋の座仕事のため日光に当たることも少なくて,自然男女とも色白で尻腰が大きい者が多かった。
昔は親の代替りに,必ず近江の支配所で烏帽子着〘えぼしぎ〙の儀式をして免許を受けたものという〉などと記している。
その彼らの漂泊を会津付近では〈飛〘とび〙〉といい,近江の支配所の記録には〈渡〘わたり〙〉という言葉が使われている。
[木地業の移ろい]
奈良県唐古〘からこ〙の弥生時代の遺跡出土の遺物からみて,すでにそのころ日本にもろくろによる挽物技術が存在したことは確かである。
著名な法隆寺の百万塔も7世紀の挽物である。
文献では正倉院文書の関連記事が古いのであるが,それは8世紀のことになる。
また宮城県多賀城遺跡や滋賀県鴨遺跡から9~10世紀のろくろ軸の鉄爪条痕の認められる木盤や木器の断片も出土して注目されている。
これらの挽物工人は古代の律令国家では轆轤工として宮廷,大社大寺の公的機関に隷属した。
しかし律令体制の崩壊で解放され,しだいに地方に分散して庶民の需要に応じ,古代末期~中世は轆轤師に,近世は木地屋と名を変えつつ木地業に従った。
日本の漆器工業の陰の力となった功績は,大きいにもかかわらず知られていない。
しかし明治の変革で過去の木地屋社会は消滅した。
現在観光産業化した東北のこけし人形は,いわばその数少ないなごりといってよい。
諸地方に残るろくろや木地に関連する地名のほとんどは,轆轤師・木地屋の漂泊の軌跡である。
他の諸職人にも先例があるが,彼らの社会でも中世末期から近世にかけ仲間の木地業権益の自衛を画策する者が現れた。
近江(滋賀県)▶小椋〘おぐら〙谷の轆轤師集団を率いた大岩氏で,はやく都の四府駕輿丁座〘しふのかよちようざ〙に上番し白川神祇伯家から大工職口銭を徴収される関係にあったらしい。
彼らは大陸渡来の秦氏の末裔として祭祀していた八幡神信仰に,中世時宗の聖が唱導した小野神信仰を習合し,職祖惟喬〘これたか〙親王流寓伝説の縁起書をつくり,ついで2種の偽作綸旨を案出し,時の武家政権の免許状を調整した。
それを背景に身分保証の印鑑,宗旨,通行手形を発給して全国的な座的統制を行った。
これらを〈木地屋文書〉と呼び,統制のための点検活動を〈氏子狩〘うじこがり〙〉,小椋谷を〈近江の木地屋根元地〉という。
今も各地の山中には,惟喬親王ゆかりの16弁の菊の紋と,〈江州渡木地師何某〉という文字を彫った木地屋墓が残っている。
橋本 鉄男
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用
太字は引用者
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ろくろ 【轆轤】
日本では回転運動を利用するさまざまな装置を〈ろくろ〉と呼んでおり,①製陶用,②木工・金工用,③重量物移動用,④井戸の水汲み用の装置をさす。
以下略
佐原 眞
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用
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木地屋は漂白の民で、山中で用材をもとめ、轆轤をあやつり、その軌跡がろくろや木地に関連する地名として諸地方に残ったことが判りました。
60年前の鏡味完二の地名説も、現代木地屋解説でも、地名「木地屋」「轆轤」は回転運動を利用する装置のうち木工用のものである点では同じです。
3 千葉県における地名「木地屋」「轆轤」検索結果
千葉県小字データベースから「木地屋」「轆轤」に関連すると考えられる小字を検索しました。
その結果を次に表と分布図でしめします。
木地屋、轆轤小字検索結果
「木地屋」小字、「轆轤」小字分布
大木地は「屋」がありませんが、「木地」の文字が同じなので、「木地屋」関連地名と判断しました。
大木地は上記で学習した木地屋の活動に関連した地名である可能性があると考えますが、それを裏打ちするような情報はありません。
轆轤関連地名は文字表記がすべて「六郎」になっています。漢字表記轆轤は字体が複雑であるので、どの地点でも、誰でも書ける六郎に当て字したと考えます。
さて、木地屋や轆轤の学習をして、その地名を実際に検出し分布図を作成して、一件落着とはなりませんでした。
轆轤(六郎)地名分布をみると、これらの地名の多くが木地屋と無関係かもしれないという疑問が湧いてきます。
轆轤(六郎)地名のほとんどが木工用轆轤とは無関係であることが推察されます。
ほとんどの地名が重量物移動用轆轤に由来する地名であると想定するようになりました。
その検討を次の記事で行います。
2016年6月21日火曜日
GISを使った房総古代分郡図の不合理理由検討
1 下総国郷名分布基礎データ作成
安房国分、上総国分にひき続き下総国郷名分布基礎データを作成しました。
元となるデータは「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」です。
GIS画面に郷名をプロットした結果は次の通りです。
下総国郷名分布
郷名をプロットしている時に分郡図の郡界線と郷プロットが合わないところがかなり見つかりました。
どうも現在使っている房総三国分郡図は「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」と同じ本に掲載されているにも関わらず、その検討成果が使われていないことが推察されますので、その理由を次に検討してみました。
2 房総三国分郡図(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載)の不合理例とその理由
房総三国分郡図(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載)は次の通りです。
房総三国分郡図(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載)
この分郡図をGISにプロットして使っています。
地図を作る際の、あるいは転写する際に生じるズレ等の誤差はGISを使い込むとある程度わかります。それは問題にしません。
問題は転写等で生じるズレ等の誤差ではない、意味のある界線の不合理性です。
次に下総国海上郡を例に分郡図の不合理について検討します。
下総国海上郡の分郡界線と郷名プロット
この作業結果から次のような分郡図不合理がみつかりました。
その不合理を訂正して判明する下総国海上郡の領域を次に示します。
郷名プロットと合わない郡領域界線及び郷名プロットから推定できる郡領域
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」は詳しく郷の場所を検討している最新データですから、それを基本に考えることにしています。
その場合の海上郡領域は古代の地勢(海陸分布)と一致していて、とても理解しやすいものです。
私が理解する海上郡の地形要素を次に列挙してみます。
下総国海上郡領域の交通面からみた地形要素
房総三国分郡図の郡界線の異常は地図転写作業の時に生じたズレなどの誤差ではなく、必ずその理由があるはずです。
その理由を探してみました。
いろいろな資料を探しているうちに、その理由が判明しました。
「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)」の図面の郡界線をそのまま転写して縮図したものが房総三国分郡図(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載)であることが判りました。
邨岡良弼著日本地理志料は信用がおけない史料です。創郷(邨岡良弼がかってにあらたな郷を新設!)までしているのです。
郡と郷の詳しい分布図はとても魅力的ですから、これを縮図すれば房総の分郷図ができるのですが、あまり信用のおけない、限界がある資料です。
次に「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)」の下総国海上郡の領域界線をなぞってみました。
「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)」の下総国海上郡の領域界線
この地図をGISの地図とオーバーレイすると、不合理のある海上郡界線とほぼピタリと一致します。
GISの地図と千葉県郷名分布図のオーバーレイ
この検討で次のことが判りました。
●「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」は最新情報が表形式でまとめられている。
●「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載房総三国分郡図は明治時代の誤りに満ちた情報をそのまま転写して作成している。最近の検討成果は全く生かされていない。
従って、次のようなアクションを予定したいと思います。
●現代最新情報をまとめた「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」のGISプロット結果に基づいて、地勢(地形、主に流域界)との関係を見ながら、私家版分郡図を新たに作成する。
なお、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載房総三国分郡図の界線の細かい分布(凸凹、ぐにゃぐにゃ)は結局は明治時代の村界線(現在の大字界線)を利用したものです。
しかし、古代の郷界線(というものがあればの話ですが)を明治時代の村界線が踏襲しているという保証はどこにもありません。
従って、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載房総三国分郡図の界線の細かい分布(凸凹、ぐにゃぐにゃ)は情報にもっともらしさを与えて権威を付けるという効果はありますが、それ以上の意味はあまりないと思います。
海上郡でいえば、上記図で描いた「郷名プロットから推定できる海上郡の領域」界線の方が、得られている情報のレベルを誠実に表現することになると考えます。
安房国分、上総国分にひき続き下総国郷名分布基礎データを作成しました。
元となるデータは「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」です。
GIS画面に郷名をプロットした結果は次の通りです。
下総国郷名分布
郷名をプロットしている時に分郡図の郡界線と郷プロットが合わないところがかなり見つかりました。
どうも現在使っている房総三国分郡図は「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」と同じ本に掲載されているにも関わらず、その検討成果が使われていないことが推察されますので、その理由を次に検討してみました。
2 房総三国分郡図(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載)の不合理例とその理由
房総三国分郡図(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載)は次の通りです。
房総三国分郡図(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載)
この分郡図をGISにプロットして使っています。
地図を作る際の、あるいは転写する際に生じるズレ等の誤差はGISを使い込むとある程度わかります。それは問題にしません。
問題は転写等で生じるズレ等の誤差ではない、意味のある界線の不合理性です。
次に下総国海上郡を例に分郡図の不合理について検討します。
下総国海上郡の分郡界線と郷名プロット
この作業結果から次のような分郡図不合理がみつかりました。
その不合理を訂正して判明する下総国海上郡の領域を次に示します。
郷名プロットと合わない郡領域界線及び郷名プロットから推定できる郡領域
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」は詳しく郷の場所を検討している最新データですから、それを基本に考えることにしています。
その場合の海上郡領域は古代の地勢(海陸分布)と一致していて、とても理解しやすいものです。
私が理解する海上郡の地形要素を次に列挙してみます。
下総国海上郡領域の交通面からみた地形要素
房総三国分郡図の郡界線の異常は地図転写作業の時に生じたズレなどの誤差ではなく、必ずその理由があるはずです。
その理由を探してみました。
いろいろな資料を探しているうちに、その理由が判明しました。
「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)」の図面の郡界線をそのまま転写して縮図したものが房総三国分郡図(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載)であることが判りました。
邨岡良弼著日本地理志料は信用がおけない史料です。創郷(邨岡良弼がかってにあらたな郷を新設!)までしているのです。
郡と郷の詳しい分布図はとても魅力的ですから、これを縮図すれば房総の分郷図ができるのですが、あまり信用のおけない、限界がある資料です。
次に「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)」の下総国海上郡の領域界線をなぞってみました。
「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)」の下総国海上郡の領域界線
この地図をGISの地図とオーバーレイすると、不合理のある海上郡界線とほぼピタリと一致します。
GISの地図と千葉県郷名分布図のオーバーレイ
この検討で次のことが判りました。
●「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」は最新情報が表形式でまとめられている。
●「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載房総三国分郡図は明治時代の誤りに満ちた情報をそのまま転写して作成している。最近の検討成果は全く生かされていない。
従って、次のようなアクションを予定したいと思います。
●現代最新情報をまとめた「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」のGISプロット結果に基づいて、地勢(地形、主に流域界)との関係を見ながら、私家版分郡図を新たに作成する。
なお、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載房総三国分郡図の界線の細かい分布(凸凹、ぐにゃぐにゃ)は結局は明治時代の村界線(現在の大字界線)を利用したものです。
しかし、古代の郷界線(というものがあればの話ですが)を明治時代の村界線が踏襲しているという保証はどこにもありません。
従って、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載房総三国分郡図の界線の細かい分布(凸凹、ぐにゃぐにゃ)は情報にもっともらしさを与えて権威を付けるという効果はありますが、それ以上の意味はあまりないと思います。
海上郡でいえば、上記図で描いた「郷名プロットから推定できる海上郡の領域」界線の方が、得られている情報のレベルを誠実に表現することになると考えます。
2016.06.21 大賀ハス
今朝千葉公園の大賀ハスを見てきました。
今朝は今季で最も開花数の多い数日のうちの1日のようでした。
見頃の期間は千葉競輪場の駐車場が6:00~9:00に無料開放されているのでそれを利用しました。
小雨でしたが、ハス花を見る上で、小雨も良い雰囲気でした。
ハス花
ハス花
千葉公園の大賀ハス
ハス花
ハス花
ハス花
以前のブログ記事で「縄文丸木舟と大賀ハス」を連載したことがあります。
大賀ハスは泥炭遺跡発掘に参加した中学生によって発見された種子から発芽したものです。
約2000年前のものです。
大賀ハスまつりの看板
帰りがけに千葉公園内の鉄道連隊遺跡を見ました。
鉄道連隊演習所遺跡
今朝は今季で最も開花数の多い数日のうちの1日のようでした。
見頃の期間は千葉競輪場の駐車場が6:00~9:00に無料開放されているのでそれを利用しました。
小雨でしたが、ハス花を見る上で、小雨も良い雰囲気でした。
ハス花
ハス花
千葉公園の大賀ハス
ハス花
ハス花
ハス花
以前のブログ記事で「縄文丸木舟と大賀ハス」を連載したことがあります。
大賀ハスは泥炭遺跡発掘に参加した中学生によって発見された種子から発芽したものです。
約2000年前のものです。
大賀ハスまつりの看板
帰りがけに千葉公園内の鉄道連隊遺跡を見ました。
鉄道連隊演習所遺跡
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