2012年11月30日金曜日

ゴルフ場に隣接する花見川河川敷内トーチカについて考える 下

●見立て2
【このトーチカはいつ覆土された?】
トーチカとして用をなすためには銃眼口を備えた監視塔だけでなく、小砲口を備え花見川東岸に迫る敵軍を殲滅できる攻撃的構造が必要です。
そのような構造は土に覆われている(ように見える)ので確認できません。

現在、トーチカが草木に覆われて、誰からも気がつかれないような状況になっている理由として次の3ケースが考えられます。
1 トーチカ築造時に空爆を避けるためにカムフラージュとして覆土された。
2 終戦後、軍部によって覆土され、トーチカの存在が秘匿された。
3 終戦後の年月経過の中で、草木の繁茂でトーチカがあたかも覆土されたような見かけになった。

1(あるいは1と3)の理由である可能性が最も有力であるような感じがします。
もし、2であれば、かなり危険なトーチカである可能性も考える必要があります。危険特殊物質を貯めて隠した可能性などが心配されます。
3だけの可能性は低いと思います。最初からコンクリート構造物が露出していれば、必ずや人々に気づかれているはずです。米軍空中写真の画像を見てもこの可能性は低いと考えます。

トーチカと考える構造物の正面写真

あれこれこれ以上妄想を深めていても時間の浪費になりますから、草木の枯れた今冬季に、予備調査を実施したいと考えています。

(おわり)

2012年11月27日火曜日

ゴルフ場に隣接する花見川河川敷内トーチカについて考える 中

 トーチカに関する見立て

このブログは、度々申し上げているように、調べて得た結論(成果)を発表する場ではなく、興味を持って調べている行為や思考プロセスを実況中継している場です。
そういう観点から、問題のトーチカについて私が考えている見立てを、(結果として正しいかどうかは保証できませんが)、書いてみます。
後日、ここで書いたことが正しければ自分の思考に自信を持てますし、間違っていれば貴重な学習体験になります。

 ●見立て1 【このトーチカは本土決戦における米軍侵攻阻止の防御ラインの一環としてつくられた。】
九十九里浜に上陸した米軍が首都圏に侵攻するメインルートの防御は、大本営は、当然のことながらそれなりの作戦を考えていたと思います。
一方、米軍侵攻のメインルートから外れた軽便鉄道架橋地点について、大本営はトーチカを建設して極小兵力で防御することとし、作戦立案のなかで位置付けた(そしてそれ以上の思考を省略した)のだと思います。
大本営は、上陸米軍戦車部隊などの本体とは、成田街道なり東金街道なりのどこかで対峙迎撃殲滅すると考えたのだと思います。
一方、上陸米軍の支隊が軽便鉄道架橋付近に来たらトーチカに配置した極小部隊で対応して、最後は自ら橋を落として玉砕して侵攻米軍の速度を落とす。ということだと思います。
トーチカの意義は極小部隊(10名程度?)で花見川堀割部においては侵攻米軍を通過させない(軽便鉄道橋梁は利用させいない)ということにあったと思います。

トーチカのすぐ近くで確認した軽便鉄道橋台
橋台の上に立ち真下を写した写真
(私の足が写っています)

トーチカと軽便鉄道橋脚の位置関係

トーチカ付近から見た東岸
横戸緑地と花見川サイクリング道路を結ぶ私製階段が見えます

 (つづく)  

2012年11月23日金曜日

ゴルフ場に隣接する花見川河川敷内トーチカについて考える 上

1 トーチカの存在はほぼ確実だと考える
 2012.11.19記事「速報 花見川河川空間内のトーチカ発見(写真掲載)」で報告したようにトーチカの監視塔と考えられる、銃眼口のある古く壊れたコンクリート構造物を見つけました。
対岸からの観察、空中写真の画像等から地下に大きなコンクリートの部屋(トーチカの本体)が埋まっていることが予想されます。
今後調査を深めなければこのコンクリート構造物の真の正体を正確にとらえることはできません。しかし、ここにトーチカを含む戦争遺跡があることはほぼ確実視できると考えるに至りました。

トーチカの上に付いている監視塔と考えているコンクリート構造物

 2 私がトーチカに興味を持つ理由
このブログでは花見川流域を散歩し、そこにある自然的・歴史的・社会的資産(例 地形地質やその発達を示す現象、動植物、歴史的地物、土木遺構、地名等の文化的遺産…)を徹底して掘り起し、花見川流域としてそれらを関連付け、川づくりや地域づくりに役立てることができないだろうかと考えています。
そういう意味で戦争遺跡もまた、負のイメージが強くまとわりついている資産ではありますが、花見川流域のアイデンティティを構成する重要資産であり、決して省略することは許されません。
 このような視点から戦争遺跡もまた川づくり、地域づくりに必須のアイテムとして強い興味を持ちます。
 狭い「趣味の軍事」からではなく、歴史や平和を考える素材の一つとして戦争遺跡に興味を持ちます。

 【参考】
トーチカを防空糧秣倉庫と間違って見立てていた時に参照した「築城施設要図」
「鋼作命甲第三十二号別冊 富士号演習築城実施計画 昭和十九年十二月十五日鋼部隊」に収録
「幻の本土決戦 千葉県における軍事機密文書」(野馬曳き文庫、1987)より引用

 この図の中にゴルフ場(鷹之台カンツリー倶楽部)として糧秣Ⅶ型6個と書いてあります。
その6個の一つがこの構造物ではないだろうかと最初に考えました。
しかし、資料をよく読むとⅦ型として築城した施設は木材で支えた素掘り防空壕でした。
またゴルフ場の西側に造ったという記述があり、糧秣Ⅶ型は、発見したトーチカとは無関係であることが判りました。
花見川流域は習志野演習場、下志津演習場という日本の軍事力向上に大きな役割を果たした陸軍演習場があっただけでなく、この資料に示されるとおり、戦争末期には本土決戦に備えた糧秣・燃料備蓄防空倉庫を要所につくるなど、上陸米軍を迎撃するための重要防御ラインに位置付けられていたと考えます。

3 トーチカ調査の方向
2012.11.19記事「速報 花見川河川空間内のトーチカ発見(写真掲載)」に書いた現場下見では、安全等の視点から積極的な調査は控えました。
一人で下見したのですから、万が一立坑にでも落ちたら声を出しても、だれかに助けに来てもらえる保証はありません。
しかし、最初は誰かが現場を確認して、言いだしっぺになければ埒が明かないので、多少の安全性は犠牲にして下見した次第です。
銃眼口のあるコンクリート構造物を発見してしまった以上、本格調査(学術的調査)が必要であると私は考えます。しかし、その前段として予備調査が必須です。
行政サイドも、学術サイドもこの場所に本格調査を展開すべき価値ある対象物の存在を認識するに足る情報が必要であるからです。
このような思考から、少なくとも予備調査までは私自身としてぜひとも実現したいと考えています。予備調査で構造物としてのトーチカの全体像を想定できる情報を得たいと思います。
その後は行政等に働きかけ、学術的調査を実施していただき、トーチカの内部を含めた詳細な構造、目的、戦後これまで気がつかれなかった理由、現代社会における存在意義(戦争遺跡としての保存価値)等について明らかにしてもらいたいと思います。
 (つづく)

2012年11月20日火曜日

初霜

まだ薄暗い花見川沿いのサイクリングロードを歩いているとカモがビューと風を切って飛んできて、ザーッと着水する音がそれだけ「切り抜き」で聞こえてきます。
早朝散歩で初霜を体験しました。

農地を白く染めた初霜 2012.11.20 6:08

10月の長ごろまで暑さをいかに防ぐかという気分で生活していたので、1か月ちょっとで初霜を体験すると季節の急激な変化を実感します。

農地を白く染めた初霜 2012.11.20 6:12

2012年11月19日月曜日

速報 花見川河川空間にトーチカ発見(写真掲載)

2012.11.09記事「未知の戦争遺跡(防空糧秣倉庫?)発見か」で未知のコンクリート構造物と考えた地物について、再度下見をし、若干の藪漕ぎをしたところ、トーチカの監視塔と思しきコンクリート構造物を発見しました。
銃眼口がありますから、間違いありません。

銃眼口のあるコンクリート構造物

銃眼口

「コンクリート構造物入口?」と考えた場所がトーチカの監視塔だったわけです。

防空糧秣倉庫と考えた根拠となる戦前陸軍の資料を国会図書館で閲覧し、この地物がその資料でいうところの防空糧秣倉庫ではないことが判りました。

詳細は追って説明します。

未知の、本物の、実戦で使うトーチカを花見川の河川空間で発見したことになります。

「印旛沼堀割普請の土木遺構」説明板の設置経緯と設置場所

20121021記事「印旛沼堀割普請の土木遺構説明板の設定」で報告したとおり、江戸時代の土木遺構を説明した説明板が作られましたので、その経緯と設置場所を述べます。

ア 説明板が作られた経緯
千葉市花見川区横戸台の消防用地(※)に隣接する土地(花見川区柏井町)の開発が行われることになり、今年の春に突如工事が始まりました。
この開発地には江戸時代(天保期)の貴重な土木遺構である「印旛沼堀割普請の捨土土手」が存在しています。
この開発により土木遺構の一部が改変されることになりましたが、この土木遺構は文化財指定等はされておらず、開発の影響をなくすことはできないことがわかりました。
そこで次善の策として横戸台自治会より開発業者にお願いして説明板を設置してもらい、土木遺構の存在を人々が知ることができるようにしてもらいました。
なお、説明板の文章は千葉市立郷土博物館に監修・チェックしていただきました。
また掲載イラストは原本(久松宗作著「続保定記」…山形県指定文化財)の所持者(酒田市在住久松龍子氏)の許可を得るとともに、説明板に拡大印刷するに足る精細な写真ファイルを山形県教育委員会から提供していただきました。関係者の皆様に感謝申し上げます。
*この消防用地はこのブログでたびたび記事にしている双子塚古墳のあった場所です。

土木遺構説明板

イ 土木遺構説明板設置場所
土木遺構説明板の設置場所は次の通りです。
土木遺構説明板の設置場所

土木遺構説明板設置場所(広域図)

2012年11月12日月曜日

速報 軽便鉄道の橋台実在(写真掲載)

午前中電話で行政にヒアリングしました。防空糧秣倉庫については県土木事務所も県下水道事務所も情報はないとのことでした。

午後から雨が止んだので現場に下見に出かけました。 驚いたことに1日か2日前に草刈して橋台までの通路ができていました。

既に用意してあった?通路

橋台はすぐにみつかりました。

橋台のコンクリート

橋台のコンクリート(最上部)

次の地図に既に表現されているものでした。

橋台のコンクリートが表現されている地図

以前の記事で私が地図に記した場所は間違っていました。

防空糧秣倉庫が存在しているかもしれないと考えている場所は藪が深く進めませんでした。

「入口」と考えた付近に鉄筋が見えますが、何か現代の鉄筋かもしれません。

防空糧秣倉庫の存在を疑っている場所に突き出ている鉄筋

防空糧秣倉庫の入口をふさいだ工事の跡が荒れた状態になっているのかもしれません。

防空糧秣倉庫が地下にある可能性を否定する要因を見つけ出すことはできませんでした。
逆に存在の可能性を肌で実感できたように思います。

藪を切り開けば存否が判断できる可能性大です。

予備調査を実施する価値があることが判明しました。

2012年11月9日金曜日

未知の戦争遺跡(防空糧秣倉庫?)発見か

軽便鉄道が花見川を架橋するところで、写真入りで軽便鉄道の橋脚を説明する資料を見つけました。
地元郷土を調べた資料です。
これで一件落着と感じました。

ところが同じ資料に、この付近で、九十九里浜に米軍が上陸する本土決戦に備えていた終戦に近い時期に、戦車第4師団が築城演習をして防空糧秣倉庫をつくったという記述があります。(正確な地図はでていない。)

この情報に接し、思考の顛末は省略しますが、次のような未知の戦争遺跡がこの場所にあるのではないかと考えるようになりました。

グーグルアースの空中写真に投影した私の見立て

正面写真に投影した私の見立て

上記地元郷土を調べた資料では「コンクリート構造物入口?」と書いた地物の写真を軽便鉄道橋脚としています。
しかし、この地物は軽便鉄道のルートから外れてしまいます。

「軽便鉄道橋脚があるとすれば、この付近」と書いた楕円付近が、正確な軌道の延長部です。
この付近は樹木に覆われていて橋脚を確認できませんが、現在は、枯れかけた樹木背後には地層の露出が見えるだけす。

海老川乱歩さんに紹介していただいたURL(http://johokan.net/history/RailHistory/Haisen/military-ct.html)に掲載されているコンクリート製の橋脚写真はおそらくこの部分です。

樹木を取り払って、あるいは現場に近づいて観察しなければ橋脚があるのかないのか何とも言えません。 しかし、紹介URLの写真は地層の姿が木の枝で区切られ、橋脚のような形になり、見間違えた可能性が濃厚と考えます。

「未知のコンクリート構造物?戦争遺跡(防空糧秣倉庫)?」と書いた部分が、今回発見(?)したことになるかもしれない地物です。

航空写真でも、対岸から撮った写真からもこの部分に灌木が生えていなく、また、その形状からコンクリート構造物のように見られます。入口もあるようです。

おそらく戦争末期につくられた防空壕(防空糧秣倉庫)であり、軽便鉄道を使ってこの場所に本土決戦用の糧秣を蓄えたのだと、想像します。

近くの印旛沼流域下水道施設関連のものではないようです(電話ヒアリング)。
戦後印旛沼開発工事のヤードとしてつくられた構造物であることも考えられますが、その可能性は低いと思います。

海老川乱歩さんのコメントが、紆余曲折を経て、未知の戦争遺跡発見につながる可能性大です。

この見立ての確からしさを高めてから改めて資料等の紹介をしたいと思います。

2012年11月7日水曜日

軽便鉄道架橋跡に橋脚(橋台)は残っているか?

20121031記事「未明の花見川散歩」に海老川乱歩さんからコメントをいただき、軽便鉄道架橋跡に橋脚が残っているというURLを教えていただきました。
もし本当なら興味深いことですが、これまでその場所に特段の地物を見かけていなかったので、謎が深まっています。
次の写真は11月4日に撮影した西岸です。

軽便鉄道架橋跡付近の西岸風景

この付近に昭和10年代に鉄道連隊が設置した軽便鉄道の橋脚があることになるのですが、草が一面に繁茂していて、その下にコンクリート製の橋脚があることは確認できません。

なお、この架橋地点背後には下水道施設があり、グーグルアースなどで確認できます。また、その施設の管理のために西岸の台地上(丁度捨土土手の付近)に弁天橋から管理用道路があります。
この道路を通って現場まで行けるのですが、崖に入ることは困難です。

西岸架橋地点付近の下水道施設

過去の写真を調べたら今年の1月24日の積雪の風景写真がみつかりました。

軽便鉄道架橋跡付近の冬季の西岸風景

雪は仮になくてもほとんど枯草におおわれていて、その下に何があるのか判然としません。
この場所は冬季だけでも何十回となく歩いているので、もし枯草の下にコンクリート製の構造物があればわかりそうなものですが、これまで気が付きませんでした。
謎は深まります。

次の地図は昭和40年に農林省が印旛沼開発のために測量した地図で、その後水資源開発公団に移管された資料です。最近水資源機構から提供していただいたものです。

昭和40年測量地図

この地図には軽便鉄道跡が両岸とも出ていて、西岸には橋台らしきものが出ています。
軽便鉄道の軌道幅は60㎝で、この地図の橋台幅は1.5m程度です。
もし橋脚が残っているとすると、幅が1.5m程度のものです。

海老川乱歩さんに紹介していただいたURLに出ている写真をよく見ると、現在の道路等の橋脚と同じような大きさのコンクリート構造物のように見えます。

この場所に軽便鉄道の橋脚(橋台)があるのか、別の施設があるのか、土の崖をコンクリートと見間違っているのか、謎が深まります。

2012年11月6日火曜日

捨土土手の縦断形 その2

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その19

22 捨土土手縦断形の解釈・検討
捨土土手が乗る地形面の概略を次の図に書き込みました。

捨土土手が乗る地形面(東岸)

BからCに向かって下総上位面→下総下位面→武蔵野面(古柏井川谷底)と階段状に下るように変化します。
地形面が一番高い下総上位面では捨土土手の比高は小さく、下総下位面と武蔵野面では比高が5m以上のところもあり、大きくなっています。

なお、戦前に作られ、戦後撤去された陸軍軽便鉄道の花見川架橋地点では捨土土手が掘削されています。

捨土土手が乗る地形面(西岸)

下総上位面が分布する場所の前後に下総下位面(下総上位面を削る浅い谷)が分布していますがこの付近の捨土土手の比高は1~2m程度で低いものとなっています。
C、D付近の下総下位面には2~3m程度の捨土土手があります。
武蔵野面(古柏井川谷底)のところで捨土土手の比高が大きくなっています。この部分は標高が低いので捨土しやすかったためです。
西岸には陸軍軽便鉄道架橋地点ともう一か所(おそらく戦後期に)捨土土手を掘削した場所があります。

東岸と西岸を比べると、東岸の方が捨土土手の比高が大きくなっています。これは、東岸のほうが西岸より地形面が低いところが多いためです。
この関係、つまり両岸の地形面のうち低い方の地形面により多く捨土するという関係、を詳しくみると次の図のようになります。

地形面の高低と捨土土手比高の大きさの関係

この図はB-C区間の55断面を対象にして、東岸と西岸の地形面の高度の高低と捨土土手の比高の大きさを比べたものです。
なお、後代の掘削の影響を受けている5断面は影響前の姿を復元してカウントしました。

東岸と西岸の地形面の高さを比べて、低い方を選んでそこに掘り出した土を集中して捨土して土手を築いたことがこの図から証明されます。次のイラストで示されるように、全て人力で行う工事ですから、当然の成り行きです。

掘削した捨土を土手まで運搬している姿を描いたイラスト
続保定記掲載イラスト
「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕より引用

A-D区間を対象にすると、捨土土手の比高は最大6.3m(東岸)、平均3.0m(東岸平均4.0m、西岸平均2.3m)となります。

つづく

*      *      *

捨土土手の平面分布、横断形状、縦断形状等が明らかになってきました。
次回の記事で、これらをいったんまとめて、このシリーズ(天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討)に区切りをつけたいと思います。

2012年11月3日土曜日

捨土土手の縦断形 その1

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その18

21 捨土土手縦断グラフの作成

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構である捨土土手の縦断形をグラフにしてみました。

地形横断図上で把握できる、捨土土手の最高点と基部の各標高(10㎝単位)を求めました。

地形横断図上の捨土土手の最高点と基部の位置

捨土土手の最高点と基部を結んだ縦断線を平面図にプロットすると、次の図になります。
なお、弁天橋付近より北の飛び地状に残っている捨土土手はこの検討には含めていません。

捨土土手最高点と基部を結んだ縦断線

捨土土手最高点と基部の標高、及び捨土土手の比高(最高点標高-基部標高)をグラフで表すと次のようになります。

東岸の捨土土手縦断図

西岸の捨土土手縦断図

この縦断図の解釈及び検討を次の記事で行います。

つづく