2021年1月31日日曜日

有吉北貝塚 阿玉台式期と中峠式期の竪穴住居分布特性の大きな差異

 縄文社会消長分析学習 83

2021.01.31記事「有吉北貝塚 阿玉台式土器及び中峠式土器出土竪穴住居分布 3Dモデル」で阿玉台式土器のみ出土竪穴住居と中峠式土器出土竪穴住居ではその分布特性が違うことを確認しましたが、この記事ではその認識を屋内炉の有無という点を踏まえて深めてみました。

1 有吉北貝塚竪穴住居の時期別分布特性の差異


阿玉台式土器のみ出土竪穴住居と中峠式土器出土竪穴住居の分布特性差異

この分布特性差異の大きな要因として竪穴住居屋内炉存在有無が関わっている可能性があるので、それを想像を交えて以下検討します。

2 阿玉台式期竪穴住居の屋内炉確認


有吉北貝塚竪穴住居に炉がある割合イメージ

阿玉台式土器のみ出土する竪穴住居の炉検出は4軒中0軒で0%です。また阿玉台式土器と中峠式土器が出土する竪穴住居では6軒中3軒で50%です。それ以外の中峠式土器出土竪穴住居、加曽利E式土器出土竪穴住居ではほとんど炉があります。この情報から中峠式土器が持ち込まれる前には竪穴住居に炉が無く、中峠式土器が持ち込まれると同時に竪穴住居に炉が作られるようになったことが判明します。

3 阿玉台式期竪穴住居に炉が無い理由

2019.09.04記事「炉のない住居跡」で鎌ヶ谷市根郷貝塚の学習を行いました。その記事で阿玉台式期竪穴住居に炉が無いのは調理等を屋外炉で行っていて、その場所は通常の発掘調査では見つからない谷津斜面や谷底の水場に存在している可能性を別事例から推測しました。

この考えをこの記事でも踏襲して検討します。

4 阿玉台式土器のみ出土竪穴住居の分布特性(想像)


阿玉台式土器のみ出土竪穴住居の分布特性(想像)

炉の無い阿玉台式土器のみ出土竪穴住居の住人は斜面下の水場に屋外炉を設置して調理や食事をしていたと想定します。食と住が空間的に不一致です。そのように想定すると、4軒の竪穴住居はその位置から、それぞれ地先の谷底や斜面下部を水場として利用していたことが推測できます。4軒の竪穴住居は同時に存在していなかったと考えられることと、4軒が別の水場を利用していたという想定は整合します。

なお、屋外炉のある谷津谷底や斜面下部の水場付近に竪穴住居を作らないで、斜面最上部に作った理由は日光利用、衛生環境、眺望等の環境利用だけでなく、より天空界に近い場所に住みたいという呪術的要素も存在していたと推測します。

5 中峠式土器出土竪穴住居の分布特性(想像)


中峠式土器出土竪穴住居の分布特性(想像)

竪穴住居には炉があり、調理食事は屋外が多かったに違いありませんが、台地上で行っていたことは貝塚が斜面上部に存在していることから確実です。食住が近づきました。生活パターンが阿玉台式期と大いに異なります。

竪穴住居は阿玉台式期のように水場との関連で立地するのではなく、空間ゾーニングとして設定された集落中央広場を意識して、それを取り巻くように立地します。これにすぐ隣の竪穴住居だけでなく、離れた場所にある竪穴住居も同じ集落の一員として強く認識され、集落の組織性が空間的に担保されていたと考えられます。

集落中央広場の役割は、その強い中心性が天空界との交信経路を表現していると想像します。つまり、集落中央広場には依代のような地物が存在し、祖先霊や神々と交流する祭祀が営まれていたと想像します。

6 まとめ

・阿玉台式期竪穴住居軒数は少なく、中峠式期に竪穴住居軒数が急増します。

・阿玉台式期には調理・食事は水場で行われ、中峠式期には台地上で行われました。生活スタイルが全く異なります。

・阿玉台式期竪穴住居分布から集落構造は読み取れませんが、中峠式期竪穴住居分布は明瞭な構造を呈しています。

・この検討結果は、有吉北貝塚に中峠式期に外部から中峠式土器を使う集団の移住があったと想定する思考と整合します。


有吉北貝塚 阿玉台式土器及び中峠式土器出土竪穴住居分布 3Dモデル

 縄文社会消長分析学習 82

有吉北貝塚中期竪穴住居168軒を中峠式土器出土有無を軸に区分して考察してみました。

1 中峠式土器出土有無を軸に区分した竪穴住居軒数


中峠式土器出土有無を軸に区分した竪穴住居軒数

中期竪穴住居168軒を1阿玉台式土器のみ出土する竪穴住居、2中峠式土器が出土する竪穴住居(阿玉台式土器、加曽利E式土器が共伴出土する竪穴住居を含む)、3加曽利EⅠ式以降土器が出土する竪穴住居、4時期不明の竪穴住居の4区分で集計したグラフです。

このグラフから阿玉台式期にのみ利用されたと考えることができる竪穴住居はわずかに4軒であり、有吉北貝塚が集落の体を成したのは中峠式期からであることが判りました。

2 有吉北貝塚 阿玉台式土器及び中峠式土器出土竪穴住居分布 3Dモデル

有吉北貝塚 阿玉台式土器及び中峠式土器出土竪穴住居分布 3Dモデル

凡例:阿玉台式土器のみ出土竪穴住居、中峠式土器出土竪穴住居(阿玉台式土器、加曽利E式土器が共伴出土する竪穴住居を含む)

垂直倍率:×3.0

DEMは1960年代千葉市都市図等高線からGRASS(v.surf.rst)で生成、遺跡図は有吉北貝塚発掘調査報告書から引用、3DモデルはQGIS(Qgis2threejs)で作成


阿玉台式土器及び中峠式土器出土竪穴住居分布


3Dモデルの動画

3 観察メモ

阿玉台式土器出土竪穴住居4軒のうち3軒は遺跡北西部斜面に位置しています。残り1軒は遺跡中央部の平地面に位置します。遺跡北西部斜面に位置する3軒と遺跡中央部1軒の間に特段の構造があるとは即座に判断できません。このような阿玉台式期竪穴住居の分布特性は、竪穴住居が孤立しておそらく1軒だけ存在し、それも継続して使われていたことは疑わしいような状況が推察されます。斜面に竪穴住居がつくられた理由の理由として、動物の行動範囲である台地平坦面を避けて(狩猟対象動物の行動に対する影響を最小化することを目的に)竪穴住居立地を選定していた可能性を感じます。つまり竪穴住居は定住というよりも季節的に利用する仮住居だったのかもしれません。集落の体を成していなかったことはほぼ確実です。

一方、中峠式土器出土竪穴住居42軒の分布は竪穴住居・土坑空白部を挟んで南北に分かれて集中分布している構造を観察することができます。42軒のうちどの程度の軒数が同時に存在していたかという検討はしていませんが、10数軒程度以上の竪穴住居が同時に存在した中央広場をもつ集落が存在したと想像します。

以上の阿玉台式土器出土竪穴住居分布と中峠式土器出土竪穴住居分布の違いから、阿玉台式期の住民とは別の中峠式土器集団が中峠式期に新たにこの場所に入植して新集落を形成したと考えることができます。

中峠式期に中峠式土器集団が入植したという見立ては、2021.01.29記事「中峠式期前後の貝塚文化開拓最前線の空間移動(作業仮説)」で設定した作業仮説「東京湾岸(千葉県北西部)から東京湾岸(千葉県中央部)への開拓最前線移動は開拓集団の移動定着を伴った」を補強します。

4 参考


加曽利EⅠ式土器以降出土竪穴住居分布


時期不明竪穴住居分布


2021年1月29日金曜日

中峠式期前後の貝塚文化開拓最前線の空間移動(作業仮説)

縄文社会消長分析学習 81

1 はじめに

2021.01.29記事「有吉北貝塚出土中峠式土器の観察」で中峠遺跡出土中峠式土器と有吉北貝塚出土中峠式土器がその細分タイプでも対応していることに気が付きました。


中峠式遺跡出土中峠式土器各種タイプが30㎞離れた有吉北貝塚でも出土する

同時に、有吉北貝塚は中峠遺跡(と近隣遺跡群)から飛び地的に30㎞離れていることから、2つの遺跡の関係は単に交流があった程度のものではなく、集団の移動があったと想定しました。より具体的には中峠遺跡付近の中峠式土器をつくる集団が有吉北貝塚に開拓者として入植定住したのではないだろうかと想像しました。

この記事ではこの情報とこれまで学習してきた時期別遺跡分布図から中峠式期前後の貝塚文化開拓前線の移動について作業仮説を立てました。この作業仮説が最終的に生きるか死ぬかはまだ判りませんが、これを踏み台にすれば学習を加速させることができると期待します。

2 五領ヶ台式期・阿玉台式期の貝塚分布


五領ヶ台式期・阿玉台式期の貝塚分布


参考 縄文時代の時期区分

阿玉台Ⅰ・Ⅱ式期に古鬼怒湾(千葉県北東部)に大規模貝塚が成立します。阿玉台Ⅲ式期から始まる東京湾岸大規模貝塚形成の先駆けと見ることができると考えます。

3 中峠式土器出土遺跡の分布


中峠式土器出土遺跡分布

千葉県北西部に分布の最大集中域が見られます。千葉県北東部にも集中域が見られます。

4 中期中葉の貝塚分布


中期中葉貝塚分布

加曽利EⅡ式をピークとする中期中葉の大型貝塚群は古鬼怒湾岸の千葉県北東部(古鬼怒湾中央・湾口部貝塚群)、東京湾岸の千葉県北西部(東京湾口部貝塚群)と中央部(都川・村田川貝塚群)の3ヶ所に分布します。

5 阿玉台式期頃から加曽利E式期にかけての貝塚文化開拓最前線の移動(作業仮説)

2~4の地図を並べてみると、貝塚及び中峠式土器出土遺跡の密集域の変化から次の想像が確からしく感じることができますので、作業仮説として設定します。


想像 阿玉台式期頃かあ加曽利E式期頃にかけての貝塚文化開拓最前線の移動

【作業仮説】

ア 中期中葉貝塚文化は阿玉台Ⅰ・Ⅱ式期に古鬼怒湾岸(千葉県北東部)に発生し、その開拓最前線が阿玉台Ⅲ式期・中峠式期に東京湾岸(千葉県北西部)に移動し、さらに東京湾岸(千葉県中央部)に移動したと想定します。

イ 東京湾岸(千葉県北西部)から東京湾岸(千葉県中央部)への開拓最前線移動は開拓集団の移動定着を伴ったと想定します。

【関連メモ】

ア 縄文海進ピークが海退に転じる中で、古鬼怒湾岸(千葉県北東部)→東京湾岸(千葉県北西部)→東京湾岸(千葉県中央部)の順に漁労に好適な海岸地形(海岸環境)が生まれ、順次その場所が漁労に使われ、定住が進み、大規模貝塚が形成されたと想定します。

イ 漁労活動の盛行により貝塚社会が格段に豊かになったと想定します。豊かな貝塚社会が生まれ、未開発海岸が存在する時期(例えば阿玉台Ⅲ式期→中峠式期→加曽利EⅠ式期頃)には、貝塚社会は近隣地方から多量の人口を吸い寄せたと想定します。

ウ 貝塚開拓最前線が移動する間に、流入する多様な人々が構成する社会のるつぼの中で、阿玉台式土器文化と勝坂式土器文化・大木式土器文化が融合したと想定します。その結果、新たな貝塚社会土器文化である加曽利E式土器文化が生まれたと想定します。その文化融合途中経過を指標し短期間存在した土器文化が中峠式土器文化であると考えます。中峠式土器文化は阿玉台式土器文化と勝坂式土器文化・大木式土器文化の融合様相を具体的に伝えている点で重要であると考えます。

エ 土器文様に対応して物語(神話)があるとすれば、貝塚社会で新たな物語(神話)が生まれ、それが加曽利E式土器文様として表現されていると考えます。阿玉台式土器文様・勝坂式土器文様・大木式土器文様に対応して存在していた物語(神話)が中峠式土器文様に対応する物語(神話)に変化し、さらに加曽利E式土器文様に対応する物語(神話)に変化したと考えます。

 

有吉北貝塚出土中峠式土器の観察

 縄文社会消長分析学習 80

有吉北貝塚出土中峠式土器の実測図を1976年設定中峠式標準資料と対比して観察してみました。

1 有吉北貝塚南斜面貝層出土第6群(中峠式)実測図


有吉北貝塚南斜面貝層出土第6群(中峠式)実測図

有吉北貝塚発掘調査報告書から引用

2 1976年設定中峠式標準資料


1976年設定中峠式標準資料

「下総考古学6」から作成

3 有吉北貝塚南斜面貝層資料(第6群中峠式)と1976年に設定された「中峠式」の標準資料


有吉北貝塚南斜面貝層資料(第6群中峠式)と1976年に設定された「中峠式」の標準資料

(対応線は代表例のみ表示)

1976年設定中峠式標準資料では5点のタイプの異なる土器が表示されています。有吉北貝塚出土中峠式土器はその全てのタイプに対応して出土していることを確かめることができました。重要な情報を得たと直観できます。なお、有吉北貝塚では中峠0地点型深鉢タイプの土器が最も多く出土するようです。また分類B(口縁部にも縄文を使用する阿玉台式・大木式土器をルーツにするもの)の方が分類Aよりも多いようです。しかし、本家本元の中峠遺跡や近隣遺跡でどのタイプの出土が多いのかという情報がありませんから、数量的対比はできません。

4 有吉北貝塚と中峠遺跡で中峠式土器細分タイプが対応する意味の想定

有吉北貝塚と中峠遺跡は直線距離で約30km離れ、有吉北貝塚は飛び地的に分布しています。このような分布にもかかわらず有吉北貝塚で中峠式標準資料とされる細分タイプ全てが出土することから、集団の移動(移住)があったのではないかと推測します。2つの集落の間で単に交流が密であったというレベルではなく、中峠遺跡周辺に居住していた集団の一部が有吉北貝塚に移住した(開拓入植した)と想定します。


中峠式遺跡出土中峠式土器各種タイプが30㎞離れた有吉北貝塚でも出土する

5 感想
中峠式土器が集中して出土する松戸市中峠遺跡とその近隣地域と有吉北貝塚との間に単なる交流以上の濃密な関係が存在するという想定(作業仮説)を持つことができました。この想定に基づいて、次の記事で中峠式期前後の社会の様子を夢想することにします。

2021年1月28日木曜日

中峠式土器出土遺跡分布ヒートマップ3Dモデルの作成

縄文社会消長分析学習 79

参考までに中峠式土器出土遺跡分布ヒートマップを作成し、その3Dモデルを作成しました。

1 中峠式土器出土遺跡分布図


中峠式土器出土遺跡分布図

2 中峠式土器出土遺跡分布ヒートマップ


中峠式土器出土遺跡分布ヒートマップ

3 千葉県中峠式土器出土遺跡分布ヒートマップ 3Dモデル

千葉県中峠式土器出土遺跡分布ヒートマップ 3Dモデル

QGISによるヒートマップ生成、Qgis2threejsによる3Dモデル生成

遺跡分布資料出典:私家版千葉県遺跡データベース


3Dモデルの動画

4 メモ

ヒートマップ画像(tiffファイル)は即ちDEMファイルであることに気が付きました。ただし、垂直倍率は標高と較べると極端な値になります。


垂直倍率:×1.0の3Dモデル


垂直倍率:×0.02の3Dモデル

ポイントで表現した遺跡分布図のヒートマップを作成すれば、遺跡分布特性を理解しやすくなり、それをさらに3Dモデルにすればそれから豊かなインスピレーションが湧くことが期待できます。

4 参考 中峠式土器出土遺跡分布図3Dモデル


中峠式土器出土遺跡分布図3Dモデル画面

Qgis2threejsではポイントやラインの地物を立体表現することもできます。

 

中峠式土器出土遺跡の分布

 縄文社会消長分析学習 78

有吉北貝塚学習の一環として中峠式土器の学習を行っています。この記事では中峠式土器出土遺跡の分布を眺めてみました。

1 千葉県中峠式土器出土遺跡


千葉県中峠式土器出土遺跡

出典:私家版千葉県遺跡データベース(遺跡総数:20130)

千葉県内でデータベースに中峠式土器出土記載のあるものは19遺跡です。

この19遺跡分布図からヒートマップを作成し、それを立体表示してみました。

千葉県中峠式土器出土遺跡ヒートマップ ヒートマップ3Dモデル

小点は中峠式土器出土遺跡以外の縄文遺跡 

遺跡データ:私家版千葉県遺跡データベース 

QGIS3.8.0-Zanzibar(プラグインQgis2threejs)により作成

これらの分布図から中峠式土器出土遺跡は松戸方面の県北西部、香取方面の県北東部、千葉方面の県中央部の3ヶ所に主な分布が存在しているように観察することができます。


参考 中峠式0地点型深鉢分布 □

2021.01.16加曽利貝塚博物館縄文時代研究講座「下総考古学研究会と中峠式土器」大内千年先生スライドから引用

2 中峠式土器出土遺跡と貝塚分布との関連


Ⅳ期(中期中葉)貝塚分布

中期中葉の千葉県貝塚分布図をみると、千葉県貝塚分布は東京湾湾口部貝塚群、古鬼怒湾中央・湾口部貝塚群、都川・村田川貝塚群の3ヶ所に集中しています。この貝塚3ヶ所集中と中峠式土器出土遺跡の3ヶ所分布が関連しているように感じることができます。

即ち、阿玉台Ⅲ式期から中峠式期頃にかけて貝塚形成を伴うような通年定住型・集中居住型集落が長期継続するようになり、その社会変動最初期の一つの文化現象が勝坂式・阿玉台式→加曽利E式という土器文様の型式変化であると考えます。その土器文様型式変化の途中介在ステップが中峠式土器の発生であるという見立てです。


縄文時代の時期区分

中峠式土器の分布は数が大変限られていますが、これはその土器が使われた時間が短かったためであると考えられています。しかし、時間が短いにも関わらず、その分布域はその後の3ヶ所の貝塚群に対応して広域に分布しています。このことから、中峠式土器が生起せざるを得ない背景要因は広域に強く確実に生まれていたことを物語っています。

中峠式土器分布が最も濃密な場所は松戸方面の県北西部ですが、この付近はもともと阿玉台式土器が濃密に分布するとともに、勝坂式土器分布が濃密分布する武蔵野台地に近く、また大木式土器が分布する茨城県台地にも近いという特性があります。中峠式土器が最初に発生したのはこの県北西部であると考えることが可能です。この場所で阿玉台式土器を使う集団、勝坂式土器を使う集団、大木式土器を使う集団の濃密な交流が存在し、それが社会変動を加速し、その中で中峠式土器が生まれ、各地に伝播したのかもしれません。


2021年1月27日水曜日

中峠遺跡の位置と地形3Dモデル

 縄文社会消長分析学習 77

有吉北貝塚学習の一環として中峠式土器の学習を行っています。この記事では参考までに中峠遺跡の地形3Dモデルを作成して眺めてみました。

1 中峠遺跡の位置


中峠遺跡の位置 中峠遺跡…赤〇 縄文中期遺跡…黄色〇

(中峠遺跡のデータベース上の名称は「中峠(中峠A)遺跡」となっています。)

中峠遺跡は谷津奥深くの舌状台地に位置します。周辺は縄文中期遺跡が密集します。

2 中峠遺跡 地形3Dモデル

中峠遺跡 地形3Dモデル

5mメッシュDEM(2021.01.27ダウンロード)+1979年~1983年写真

垂直倍率:×5.0

QGIS(プラグインQgis2threejs)で3Dモデル生成


中峠遺跡全体測量図

「下総考古学6」(1976、下総考古学研究会)から引用


中峠遺跡全景(西方より)

「下総考古学6」(1976、下総考古学研究会)から引用


中峠遺跡全景(北方より)

「下総考古学6」(1976、下総考古学研究会)から引用


中峠遺跡地形3Dモデルの動画

3 メモ

新旧写真を較べることで、中峠遺跡地形は大規模改変されることなくそのまま存置していることに気が付きました。そこで地形3Dモデルを作成してみました。


中峠遺跡付近の新旧写真

地形起伏データ(DEMデータ)は現状のもの、写真は1979年~1983年のものを使い、垂直倍率は5倍としました。

千葉県の発掘調査例の多くは大規模宅地開発や高速道路建設に関わるものが多く、発掘調査後に遺跡が完全消滅する例が多いですが、中峠遺跡は違います。10次にわたり熱心な発掘調査が実施されたのにもかかわらず遺跡地形が基本として存置している例は珍しいと考えます。


2021年1月26日火曜日

中峠式土器とは

縄文社会消長分析学習 76

有吉北貝塚学習の一環として中峠式土器の学習を3Dモデル観察で行っています。この記事では観察を一度立ち止まって、「中峠式土器とは」という加曽利貝塚博物館企画展パンフレット記述を軸に中峠式土器の素性について学習します。

1 中峠式土器とは

加曽利貝塚博物館企画展パンフレット「あれもEこれもE -加曽利E式土器 北西部地域編-」では中峠式土器について次のように説明されています。

中峠式土器は1976年に下総考古学研究会(※)によって、松戸市中峠遺跡から出土した土器群を標準に、縄文時代中期の中頃の勝坂式土器・阿玉台式土器と後半の加曽利E式土器をつなぐ中間的な土器型式として設定された。(※在野考古学者によって設立された団体。)

中峠遺跡は下総考古学研究会によって1963年から1987年にかけて10次にわたり調査され、環状配置の中期竪穴住居20数軒、貝層、埋葬人骨等が検出された。

中峠式設定後その型式としての独立性に疑問が示された。1998年に下総考古学研究会は中峠式の再検討を行い、中峠式は系譜、分布が異なる土器群を一括して型式として認識していたことが判明した。また、勝坂式・阿玉台式と加曽利E式との間に、独立した時間幅をもって中峠式が介在する必然性はないと判断した。以上から従来の中峠式概念を解体し、中峠式とされた土器群を新たな類型として捉え直し、この時期の複雑な土器様相の研究を進めていく方向性を示した。


中峠式概念の変化

2 感想 1

中峠式土器を勝坂式土器・阿玉台式土器・加曽利E式土器と同列の独立型式とする在野考古学者による野心的試みが失敗したということだと思います。独立型式ではないというアカデミア内論争とその結末は別にして、勝坂式土器・阿玉台式土器から加曽利E式土器に変遷する途中過程の指標土器群としての意義は大きなものがあると考えます。並列して存在した勝坂式土器社会・阿玉台式土器社会からそれら社会にまたがる加曽利E式土器社会(縄文全時代でみた人口ピーク社会)に発展する経過の重要説明資料として、中峠式土器に着目して学習を進めることにします。

中峠式といわれる土器についてさらにその観察を続け、そのイメージを自分なりに獲得することにします。

3 中峠式土器の2つのルーツ

2021.01.16開催の加曽利貝塚博物館縄文時代研究講座「下総考古学研究会と中峠式土器」(大内千年先生講演)で、中峠式土器設定当初から2つのルーツが標準土器に記載されていることの説明がありました。とても興味深い情報ですから、その考え方を「下総考古学6」(1976,下総考古学研究会)を参考にメモしておきます。

3-1 勝坂式土器→加曽利E式土器の土器変遷仮説

勝坂式土器から加曽利E式土器への変遷を次のように仮説しています。


中峠式土器を型式設定した際の仮説

土器上半部の装飾の程度、土器上半部の縄文の存否、隆線上の刻文有無などについて勝坂式土器と加曽利E式土器の中間状況を示す土器が存在するに違いないという仮説を設定し、その仮説に該当する土器(中峠式土器)が出土したことにより、中峠式土器を型式設定しました。

3-2 中峠式標準資料に見られる2つのルーツ


1976年に設定した「中峠式」の標準資料

1976年に設定した「中峠式」の標準資料5点は最初からAとBに区分されて記載されています。

Aは口縁部装飾文様帯に縄文を使用しない土器で、勝坂式土器をルーツとするもの、Bは口縁部装飾文様帯にも縄文を使用する土器で、阿玉台式土器・大木式土器をルーツとするものです。

4 感想 2

勝坂式土器社会と阿玉台式土器社会が並列して存在していた時代からなぜ加曽利E式土器社会が生まれたのか、その社会変化の重要な瞬間を記録し指標している土器が中峠式土器であると考えます。単なる時間物差しとしての土器型式興味ではなく、土器文様に物語(神話)が伴っているという立場から、社会文化変動の瞬間を土器文様として記録している文化メディアとしての中峠式土器に興味を持ちます。

なぜ松戸付近に中峠式土器が発生したのかという地理的興味も深まります。

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加曽利貝塚博物館令和2年度企画展パンフレット「あれもEこれもE -加曽利E式土器 北西部地域編-」


「下総考古学6」(1976,下総考古学研究会)

2021年1月25日月曜日

勝坂Ⅴ式深鉢(柏市小山台遺跡) 観察記録3Dモデル

 縄文土器学習 533

有吉北貝塚学習に関連して中峠式土器を学習してます。この記事では勝坂Ⅴ式深鉢(柏市小山台遺跡)を3Dモデルで観察します。

1 勝坂Ⅴ式深鉢(柏市小山台遺跡) 観察記録3Dモデル

勝坂Ⅴ式深鉢(柏市小山台遺跡) 観察記録3Dモデル

撮影場所:加曽利貝塚博物館令和2年度企画展「あれもEこれもE -加曽利E式土器 北西部地域編-」 

撮影月日:2021.01.06 

ガラス面越し撮影 

3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.016 processing 61 images


展示の様子


展示の様子


3Dモデルの動画

2 GigaMesh Software Frameworkによる展開


GigaMesh Software Frameworkによる展開 テクスチャ


GigaMesh Software Frameworkによる展開 ソリッド


GigaMesh Software Frameworkによる展開 分析用加工

3 観察メモ

この土器は中峠式土器の1類型であり、中峠式土器見直しの中で勝坂Ⅴ式深鉢として分類されたものです。2021.01.16縄文時代研究講座では「勝坂の影響を受けた中峠式土器であり、大木化した勝坂土器であるともいえる」旨説明がありました。

2021.01.22記事「勝坂Ⅴ式深鉢[中峠4次2住下フラスコ状ピット出土土器](松戸市中峠遺跡出土) 観察記録3Dモデル」で観察した土器と文様構成が似ていますが、この土器は文様を描く心意気が違うように感じますので興味が生まれます。

この土器は垂直方向密生沈線をまず描き、その後沈線で唐草文風の模様を描いています。一方中峠4次2住下フラスコ状ピット出土土器は沈線・隆線で唐草文風模様を描いて、その後余白を唐草文風模様を引き立つような角度で密生沈線をその場その場で描き込んでいます。中峠4次2住下フラスコ状ピット出土土器の方が文様描出に賭ける心意気が明らかに熱心です。文様に物語が伴っていたとすれば、その物語を伝えようとする気持ちが明らかに強いです。この土器(小山台遺跡)は効率的に文様描出を作業しています。文様で表現しようとする物語をぜひとも伝えたいという気持ちが衰えています。

またこの土器の把手は簡素になり口唇部から直立していて、胴部文様とは断絶しています。一方ピット出土土器の方は把手造形は複雑であり同時に胴部と連結しています。胴部文様の物語と把手の物語が一体化しているように感得できます。

おそらく時期的には「勝坂Ⅴ式深鉢[中峠4次2住下フラスコ状ピット出土土器](松戸市中峠遺跡出土)」が古く、勝坂Ⅴ式深鉢(柏市小山台遺跡)が新しいものと空想します。古い時代から新しい時代に向かって社会生産能力が向上し、技術が進歩したのだと思います。土器の文様で物語(神話)を伝えて、それにより苦難に満ちた生活を耐える世の中から、土器を実務容器として利用して、より豊かな生活向上が実感できる世の中に変化したのだと空想します。物語(神話)が社会で果たす役割が減少したのだと思います。


勝坂Ⅴ式深鉢(柏市小山台遺跡)の文様


参考 勝坂Ⅴ式深鉢[中峠4次2住下フラスコ状ピット出土土器](松戸市中峠遺跡出土)の文様


中峠6次1住型深鉢(松戸市紙敷遺跡) 観察記録3Dモデル

 縄文土器学習 532

有吉北貝塚学習に関連して中峠式土器を学習してます。この記事では中峠6次1住型深鉢(松戸市紙敷遺跡)を3Dモデルで観察します。

1 中峠6次1住型深鉢(松戸市紙敷遺跡) 観察記録3Dモデル

中峠6次1住型深鉢(松戸市紙敷遺跡) 観察記録3Dモデル

撮影場所:加曽利貝塚博物館令和2年度企画展「あれもEこれもE -加曽利E式土器 北西部地域編-」 

撮影月日:2021.01.06 

ガラス面越し撮影 

3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.016 processing 57 images


展示の様子


展示の様子


3Dモデルの動画

2 GigaMesh Software Frameworkによる展開


GigaMesh Software Frameworkによる展開 テクスチャ


GigaMesh Software Frameworkによる展開 ソリッド


GigaMesh Software Frameworkによる展開 分析用加工

3 観察メモ

頸部に隆線による唐草文が土器を周回するように配置されています。隆線は沈線で縦断的に2分されています。隆線唐草文の施文後に残り器面に垂直方向に太い沈線が丁寧に密生させて1本1本刻まれています。

これまで唐草文はつる植物を密生垂直方向沈線は雲(雨)を表現していると空想してきています。口縁部を周回する連続コの字状文は水の流れ(河川)表現が記号化したものと空想してきています。


文様の様子