2016年1月31日日曜日

鳴神山遺跡 「依」集団の再検討

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.277 鳴神山遺跡 「依」集団の再検討

2016.01.25記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係」で文字「依」を祈願語として共有する集団を被服関係集団と見立て、紡錘車出土と重ならないことを指標にして論じました。

大きな趣旨は間違っていないと感じるのですが、強引に論理展開したところ、2日後には大幅訂正せざるを得ないミニ危機に陥りました。

反省して、これまで先延ばしにしてきた墨書土器データベースを含む全出土物のGIS用データベース(レコードは竪穴住居別、ただしサンプル183データ)を作成して、本格的な分析を開始しました。

この記事は上記記事で十分に把握しきれなかった「依」集団の特性を検討します。

文字「依」の年代別分布図に文字「依」と共伴文字を全部書き込み検討しました。

墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第1四半期

蝦夷戦争戦争時代

「依、依ヵ」が出土する場所は掘立柱建物群の近くであり、この竪穴住居を建て替えるようなイメージですぐ近くから文字「依」が8世紀第3四半期を除き10世紀第2四半期まで継続します。

途中25年間のブランクはありますが、250年間ほぼ同じ場所から文字「依」が出土するということは特筆すべき情報です。

掘立柱建物群のすぐ近くですから「依」集団は掘立柱建物の管理、具体的には倉としての掘立柱建物のなかの資産(布や被服など)の管理に関わっていた可能性があります。

麻栽培→紡錘という上流側の原材料生産というよりも、機織り→縫製→販売取引という下流側の製品としての付加価値増大、商業のイメージをもつことができると考えます。

墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第2四半期

蝦夷戦争準備時代

情報は8世紀第1四半期と同じです。


墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第3四半期の文字「衣」出土はありません。


墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第4四半期

蝦夷戦争時代

掘立柱建物群近くの竪穴住居から「依」が1文字と「工」が多数出土します。

「依」集団が継続したことは証明できますが、同じ場所で「工」が幅を利かせています。

「工」は土工つまり土木・建築集団の祈願語であると考えます。

蝦夷戦争時代であり直線道路の補修をはじめ工兵が行うべき活動はいくらでもあったのだと思います。

「依」と「工」が共伴出土するということは、「依」集団と「工」集団の間の人間関係が緊密であったことを物語っていると考えます。

「依」集団が集落の中枢地で250年間継続したということを考慮すると、「依」集団がコーディネイトして「工」集団の活動をサポートした可能性を想像します。

「依」集団は単純な衣服関係を生業とする集団ではなく、経済活動に付加価値を付ける役割、つまり総合商社とかゼネコンとか役割を果たしていた可能性を感じ取ります。

墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第1四半期

動員解除・戦後時代

本拠地以外に「依」の分布がひろがります。そして広がった「依」から共伴出土する文字は「大」(鳴神山遺跡の最大集団)、「大加」(戦闘員集団)、「山本」(耕地管理、紡錘活動集団)など幅広い集団と関連します。

「依」集団が集落生業の川上側(麻生産と紡錘、牧活動(馬生産))集団と密接に結びついている様子を見ることができます。

「依」集団は機織り、縫製の他、被服や馬などの商取引に関わっていた可能性を感じます。


墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第2四半期

9世紀第1四半期に見えた「依」集団が集落生業の川下側(付加価値増大、商取引)に位置するらしい構造がますます明瞭になります。

まず、本拠地では「依」文字が多出(28文字)します。

この情報から、「依」集団には大人数の労働者が酒宴を開き、土器の打ち欠きをしたことがわかります。

つまり、機織りや縫製などの実務労働集団を備えていたことがわかります。

同時に「廾」が出土します。これは「廿」(つづら)で倉庫の中のツヅラの中の被服資産の管理を意味します。管理人という消極的な意味ではなく、「依」集団が被服を商取引していた証拠であると考えます。

この期に「依」集団は「久弥良」(クビラ)集団とも関係を持ち、つまり絹生産集団とも関係を持ち、麻製品だけでなく、絹製品も扱い出したと考えます。

「依」集団は総合商社のようなイメージで捉えることができると思います。

墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第3四半期

9世紀第2四半期と大きく変わっていません。


墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第4四半期

集落の凋落にしたがって、「依」出土地点も急減します。

墨書文字「依」「衣」出土イメージ 10世紀第1四半期

10世紀第1四半期、第2四半期にも「依」が掘立柱建物群近くで出土するので、集落が壊滅状態になっても、最後まで残ったのは「依」集団だったということになります。

川上側(農業・牧畜の現場)はほとんど全滅したけれども、残存した部分を束ねて最後の集落の命脈を保ったのが川下側(商取引)の機能だったというわけです。

墨書文字「依」「衣」出土イメージ 10世紀第2四半期

10世紀第1四半期記述と同じ。

次に、掘立柱建物群近くの「依」集団竪穴住居変遷を示します。

掘立柱建物群付近における文字「依」出土竪穴住居の変遷

恐らく「依」集団の本拠竪穴住居は250年間の間に3回場所変更建て替えが行われたのだとおもいます。

2回目の建て替えでは本拠竪穴住居が2軒となっています。

最後の竪穴住居(9世紀第4四半期~10世紀第2四半期)は規模が大変小さくなっています。


2016年1月30日土曜日

鳴神山遺跡 紡錘車・墨書文字・銙帯出土の関係

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.276 鳴神山遺跡 紡錘車・墨書文字・銙帯出土の関係

鳴神山遺跡の紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字の関係を2016.01.29記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字」で検討しました。

この記事で紡錘車を使った活動と「山本」集団、「久弥良」(クビラ)集団の関係を明らかにしました。

この検討を行う中で、鳴神山遺跡出土銙帯4点のうち、出土場所が判明している3点は全て紡錘車出土竪穴住居であることを知りました。

早速銙帯出土竪穴住居の特性を詳しく知るという視点とその竪穴住居の意義を知るという2つの視点から紡錘車・墨書文字・銙帯情報をオーバーレイして分析して見ます。

鳴神山遺跡出土銙帯4点の情報は次の通りです。

銙帯出土遺構

この情報を2016.01.29記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字」で作成した「紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字」図面にオーバーレイしてみます。

紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第1四半期

蝦夷戦争準備時代

銙帯は出土しません。

紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第2四半期

蝦夷戦争準備時代

掘立柱建物群の近くで銙帯が出土します。共伴する墨書土器文字の意味を理解することができません。

紡錘車と銙帯出土が共伴したということは、銙帯を身に着けてこの集落の活動を指導する立場にある官人の生活と、紡錘車による製糸活動が重なっているということです。

紡錘車を使った活動を官人(の家族)が先頭に立って行っていた状況を思い浮かべることができます。

紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第3四半期

蝦夷戦争準備時代

もう一か所の掘立柱建物群の近くからも銙帯が出土します。

この遺構からは「山本、山本山本、子山本、丈」の文字が出土しています。

「山本」という耕地管理的集団が紡錘車を使った活動を行い、その集団に官人が存在していて、その集団が「丈」つまり「丈部」氏族であったことを全てつながりとして思考することが可能です。

この時代の鳴神山遺跡の支配者「丈部」(ハセツカベ)一族が官人という律令国家官僚体制の末端に位置していて、その集団が耕地を管理し(山本)、かつ紡錘活動の先頭に立っていたという戦時下の状況が浮かび上がります。


紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第4四半期

蝦夷戦争時代

「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)という記述の人物丈部直牛養(ハセツカベノアタイウシカイ)が軍粮調達したメイン根拠地域が奥印旛浦地域であると考えています。

まさにその時代、その地域において、一つの重要開発地(軍事兵站基地鳴神山遺跡)において丈部氏族が「山本」として耕地開発の元締めとなり、銙帯を着帯した官人が先頭に活動し、竪穴住居内ではその家族が紡錘車を回していた様子が上記図から読み取れます。


紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第1四半期

動員解除・戦後時代

銙帯出土はありません。

紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第2四半期

動員解除・戦後時代

絹糸生産の可能性がある鉄製紡錘車3つを含め紡錘車合計3つと「久弥良」(クビラ)文字が出土する竪穴住居のすぐ近くから紡錘車・銙帯・「益ヵ、太ヵ、大、長、冨廾」が共伴出土します。

この竪穴住居の近くには掘立柱建物が3棟出土しています。

集落が国家による戦争動員とは無縁となって、経済発展がピークの時期に銙帯が出土することから、銙帯を着帯した官人は国家官僚機構の末端というニュアンスよりも、官位を金で手に入れて権威を増した地元リーダーというニュアンスを感じます。

共伴する文字「大」は「大」集団を意味すると考えます。「長」はオサと読み、つまりリーダーのことだと思います。「冨廾」は豊かなつづら(財産となる被服をつづらに沢山蓄えたい)という意味であると考えます。

これらの情報を並べると、「大」集団のリーダー(長)が銙帯を着帯した官人で権威があり、被服倉庫の財産も管理していて、その家族は紡錘車を使った活動を行っていたということになります。

「大」集団の下位に「久弥良」(クビラ)集団が存在していたと考えます。


紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第3四半期

動員解除・戦後時代

「大」集団のリーダー(長)が官人であると考えました。

その官人と丈部氏族との関係は現時点で不明です。

丈部氏族が動員解除・戦後時代(9世紀)も相変わらず鳴神山遺跡のトップ支配層であり、「大」集団をはじめとする各集団を全て配下においていたのかどうか、もう少しデータを分析すれば自分なりにイメージを持つことができると思います。

紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第4四半期

動員解除・戦後時代

銙帯出土はありません。

2016年1月29日金曜日

鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.275 鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字

2016.01.25記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係」で強引に自分の見立てを勢いだけで記事にしたところ、文字にした途端にその不都合が判明してしまいました。

早速記事を訂正して、紡錘車と墨書土器文字との関係について詳しい検討の必要性を痛感して、これまで先延ばしにしてきたしっかりとした基礎データを作成しました。

鳴神山遺跡の竪穴住居(発掘調査報告書における年代検討サンプル調査183軒対象)別に出土遺物及び墨書土器データを整理し、分析結果をGIS上にプロットできるようにしました。

この記事では紡錘車出土竪穴住居遺構から共伴出土した墨書・刻書文字について検討します。

年代別紡錘車出土イメージ図に共伴出土した墨書・刻書文字(釈文結果)を全部書き込んでみました。(釈文不明墨書・刻書土器は無視しました。)

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第1四半期

発掘調査報告書(あるいは墨書土器データベース)では「廾」(キョウ)が共伴します。

これは正確に対応する活字がないために生まれた苦肉の策としての情報です。

活字が無いので、このテキストで表現できませんが、文字は十を二つ横に並べた漢字です。(廾は十を二つ横に並べた漢字とは全く別物の漢字です。)

この漢字は現在の活字にすると「廿」です。(十の会意文字)

「廿」は「つづら」と読んで、衣服を入れるつるで編んだかごを意味すると考えます。

紡錘車で製糸した人が衣服を入れるかご(つづら)の意味の文字「廿」を書いたということは道理に合っています。

紡錘活動をする家族が近くの掘立柱建物の被服の入ったつづらを管理していたのかもしれません。

参考
2015.05.22記事「墨書土器文字「廿」(ツヅラ)の読解
2015.08.13記事「白幡前遺跡出土墨書土器の閲覧 その5(釈文「廿」


紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第2四半期

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第3四半期

紡錘車出土の分布広がりに対応して多様な文字が共伴出土しましが、「山本」に注目しました。

「山本」は「山」(耕地など農業利用の土地)を管理している集団の祈願語であると考えます。

焦点を絞れば、「山」とは麻畑かもしれません。

美しい言葉だからいろいろな集団の人が使ったという言葉ではなく、この言葉は特定の利権に対応する特定集団に対応していると考えます。

2遺構から「山本」が4土器分出土します。

この時代に「山本」集団が紡錘活動に深く関与していたのだと思います。

文字「卅」はミソと読んで味噌づくりの祈願語である可能性を感じています。紡錘活動と味噌づくりが同じ竪穴住居(家族)で行われていたのかもしれません。

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第4四半期

「山本」の状況は同じです。

一方、「久弥」が出土します。

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第1四半期

「山本」が1土器分出土します。

「久」、「久弥」、「久弥良」(クビラ)が2遺構3土器分出土します。

「久弥良」(クビラ)は金毘羅であり、金毘羅信仰の祈願語であると考えてきています。

参考
2015.10.14記事「鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する
2015.10.25記事「墨書文字「久弥良」と金毘羅信仰

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第2四半期

文字「山本」は一つ残りますが、「久」、「久弥」、「久弥良」が4遺構から10土器分出土します。

「久」、「久弥」、「久弥良」は全てクビラ(金毘羅)の意味であり、金毘羅信仰を持った特定集団の祈願語であると考えます。

鳴神山遺跡の最盛期にクビラ(金毘羅)集団が紡錘活動に深くかかわった可能性を感じます。

文字「酒有」が出土します。紡錘活動と酒造りが同じ竪穴住居(家族)で行われていたのかもしれません。

文字「田」は谷津近くの場所からの出土であり、稲作を意味している可能性を感じます。

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第3四半期

「山本」は消え、9世紀第2四半期に引き続き文字「久」、「久弥」、「久弥良」の出土が目立ちます。


紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第4四半期

紡錘車の出土は減少しますが、文字「久」、「久弥」、「久弥良」の出土が目立ちます。


出土紡錘車のうち鉄製のものがあります。

鉄製紡錘車と共伴する墨書・刻書文字

鉄製紡錘車は絹糸を石・土製紡錘車は麻糸を紡いでいた可能性があります。

もしそうだとすると、鉄製紡錘車には文字「久」、「久弥」、「久弥良」が深く関与していて、絹生産にクビラ(金毘羅)集団が関与したという想定も有りうると思います。

クビラ(金毘羅)集団が関西から鳴神山遺跡に移住してきたとき、絹生産の技術を持参してきたのかもしれません。

紡錘活動には蝦夷戦争準備時代、蝦夷戦争時代の8世紀頃は「山本」集団が、動員解除・戦後時代の9世紀頃は「久弥良」(クビラ)集団が深くかかわったといえそうです。

「山本」集団は直線道路を北に超えて分布することはなく、「久弥良」(クビラ)集団は直線道路を超えてその分布が北上します。

「久弥良」(クビラ)集団はこの集落の権力者(「大」集団)の配下にあり、勢力を拡大したと考えます。

「久弥良」(クビラ)集団は金毘羅信仰を携えて関西から移住してきた水運技術集団と考えてきていますが(その信仰は現代まで伝わっている)、その集団が絹生産技術ももたらしたと、現段階で仮説していおきます。

……………………………………………………………………
追記 2016.01.30

同じ竪穴住居から紡錘車も墨書土器も出土していること(共伴出土)に着目して上記検討を行いました。

竪穴住居から遺物が出土する意味として次のような事例を念頭に置いています。

1 その竪穴住居で人が居住していたときに使われたものの出土。

2 竪穴住居が遺棄されごみ溜めとなり近隣竪穴住居から捨てられた廃棄物(流れ込んだ廃棄物)が出土する。

3 竪穴住居が遺棄され、その場が土器打ち欠きの場となって(祭祀の場となって)土器や遺物が出土する。

従って、同じ竪穴住居から共伴して出土した遺物と言っても、遺物間の関係には様々なものがあると考えます。

しかし、同じ竪穴住居から共伴出土した遺物・土器は、その竪穴住居とごく近くの近隣竪穴住居に関わるものが圧倒的に多いと考えます。遺物の背景にある人間関係にも近いものがあると想定します。

従って、共伴することに大きな意味があると考えています。

そのような考えから共伴することに着目して検討し、情報を引き出しています。

2016年1月28日木曜日

2016.01.28 今朝の花見川

この数日は霜で薄い白ベールをかぶせたような早朝花見川風景になっています。

これまで水面が見にくくなるので、水際付近の樹木が邪魔に感じていたのですが、今年の冬は落葉した樹木をテーマに写真を撮っています。

花見川風景(水管橋)

花見川

花見川

花見川

花見川

花見川

弁天橋

弁天橋から下流

西の空に少し欠けた月が残っています。

川鵜が数羽で集団漁をしていました。花見川で川鵜の集団漁を見たのは初めてです。

弁天橋から上流


2016年1月27日水曜日

2016.01.27 活動日誌

1月に入ってから鳴神山遺跡の出土物の年代別分布図及び墨書土器の年代別分布図を対照させて、そこから有用な情報を引き出しています。

発掘調査報告書や既発表の論文等には出土物と墨書土器文字との対応を分析した記述は見当たりませんので、素人の趣味活動とはいえ、意味が少しはあるかもしれないと考えています。

2016.01.25記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係」では、記事作成後、その内容を別の視点で検証するとどうやら仮説したことに妥当性が低いと感じるようになりました。

早速記事の訂正を行いました。

この記事を訂正する中で感じたことがあります。

出土物と墨書土器文字の年代別分布図を対照して、イメージ的に重なるとか重ならないとか、定性的に検討しているのですが、それでは見落としがあるかもしれないと感じるようになったのです。

過去の自分の経験から、このような情報の重ね合わせをする場合、誰の目でみても確かに重なっている(対応している)という判断が付くような情報が結局は有用な情報となります。

一方、高度な統計的分析的手法でわずかの対応関係(重なり)を証明してみても、それが誰から見ても一目でわかるものでなければ、結局はあまり有用に使われないことが多いと感じています。

しかし、現状の検討では、あまりにも大ざっぱすぎて、誰でも判るような明瞭な重なりや関係を十分に把握していないと感じます。貴重なデータを雑な分析で浪費していて、もったいないと感じるようになったのです。

苦労して閲覧して収集した発掘調査報告書の情報をデータベース化して、それをGISにプロットしたのですから、もう少し深めた統計的分析的な処理をすればもっといろいろなことが判るにちがいないという気がしてきました。検討意欲が出てきたということです。

遺構(竪穴住居、ただし年代データがあるのはサンプル183遺構)別出土物、墨書土器データがGISデータベース化されているのですから、それをもう少し有効活用することにします。

現在は次の2つのGISデータベースを作っていて、それを別々に利用しています。

出土物データベース

墨書土器データベース

これまでは、GISにプロットするに際しては、それぞれ特定項目ごとにデータを絞って、墨書土器の場合にはさらにレコードを竪穴住居別に直して、csvファイル出力していたのです。

今後は、墨書土器データベースのレコードを竪穴住居別に変換して出土物データベースと結合して1つのファイルにします。

出土物と墨書土器情報が1つの竪穴住居別レコードとなったファイルを利用して、これまでできなかった次のような分析を行うことにします。


●紡錘車出土遺構から出土する墨書文字
●鉄鏃出土遺構から出土する墨書文字
●文字「依」出土遺構から出土する他の墨書文字


統計的及びGIS空間的に検討できる項目が広がります。

なお、現在進めている分析は年代データのある183竪穴住居を対象としています。

このサンプル以外の竪穴住居及び他の遺構(溝、土坑、掘立柱建物等)のデータは出土物及び墨書土器とも含まれていません。

サンプルだけの検討で鳴神山遺跡の特性が浮き彫りになると考えています。

2016年1月25日月曜日

鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.274 鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係

墨書土器「依」は鳴神山遺跡出土墨書土器文字の中で(漢字認識できるものの中では)2番目に多い文字です。

「依」(少数「衣」も出ますので含めます)は衣服に関わる産業活動に関連する祈願文字であると考えています。
2015.10.18記事「墨書文字「依」の意味深考」参照

そこで、文字「依」と紡錘車出土との関係を探ってみました。

難渋した検討となりました。

文字「依」の年代別出土イメージを示します。

鳴神山遺跡竪穴住居 文字「依」「衣」墨書土器出土イメージ

「衣」は8世紀第1四半期から出土していて、途切れる年代もありますが、9世紀第1四半期まで少数出土が継続します。

ところが、9世紀第2四半期に急増し(6→44)、第3四半期も同程度の水準を保ち、9世紀第4四半期には激減します。

土器に「依」と書いて生産活動を祈願した集団が細々と100年以上活動していたのですが、9世紀第2四半期と第3四半期の50年間は墨書土器という自己啓発ツールを積極活用して労働層の意識向上を積極的に図った様子を見てとることができます。

(もともと、墨書土器という自己啓発ツールを官人が蝦夷戦争兵站基地に持ち込み、労働層のやる気を刺激したと考えてきているのですが、鳴神山遺跡では蝦夷戦争後に墨書土器の大流行があるようです。したがって、これまでの自分の見立てを大幅に変更しなければならないようです。)

次に紡錘車出土数イメージを示します。

鳴神山遺跡 紡錘車出土イメージ

紡錘車出土数イメージは8世紀第3四半期に急増し、さらに9世紀第2四半期に急増し、その後減少するパターンとなります。

このグラフパターンが紡錘量の変化パターンを表し、ひいては織物生産量の変化量に対応している指標として考えることができると思います。

このグラフと前出の「依」「衣」墨書土器出土イメージがあまりにも違いますが、紡錘車出土数は客観的な生産活動に関連した指標であり、「依」「衣」墨書土器出土数は労働生産性向上のために、墨書土器という自己啓発ツールをどれだけ有効活用したかという社会指標ですから、違ってきます。

次に紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージを年代順に対照させてみました。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第1四半期

蝦夷戦争準備時代
直線道路南側に紡錘車、文字「依」ともに出土します。この頃の開発域がこの付近だったようです。出土遺構は近いですが、一致しません。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第2四半期

蝦夷戦争準備時代
直線道路南側に紡錘車、文字「依」ともに出土します。この頃の開発域がこの付近だったようです。出土遺構は近いですが、一致しません。


紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第3四半期

蝦夷戦争準備時代
文字「依」が出土しません。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第4四半期

蝦夷戦争時代
紡錘車出土域は直線道路北側にも広がりますが、文字「依」は直線道路南側1遺構だけです。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第1四半期

動員解除・戦後時代
文字「依」の分布も広がりますが、紡錘車出土遺構とまったく重なりません。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第2四半期

動員解除・戦後時代
文字「依」の分布がさらに広がるとともに、1か所で集中出土します。
紡錘車の分布と文字「依」の分布がお互いを避けるように見えることは不思議です。
紡錘車分布と文字「依」分布が重複する部分が存在するという見立てでこの図を作成したので、検討をお互いに重複しない相関として検討し直す必要が生まれました。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第3四半期

動員解除・戦後時代
9世紀第2四半期と同じ感想を持ちます。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第4四半期

動員解除・戦後時代
紡錘車も文字「依」も急減しているよう状況です。

考察(2016.01.27訂正追記)
当初、紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージの関係を次のように考えましたが、この関係を取り下げます。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージの関係(取り下げた考え)

「依」集団は麻栽培(桑栽培もおこなっていた可能性があります)を担っていた集団で、畑地の近くの竪穴住居で生活し、集団の拠点も畑地の近く(掘立柱建物群の近くでもある)に存在していたと考えられます。
その状況は竪穴住居の密度が低い場所の近くから文字「依」が出土することからわかります。

織物を作るうえで、畑で麻(及び桑)を栽培してその生産量を増大させることが最も基本的な活動であり、その活動を効率化するために、9世紀第2四半期、第3四半期に墨書土器風習が広まった(広めた)のだと考えます。

「依」集団が衣服に関係する生業集団であるとの考えは変わりませんが、麻栽培集団であるかどうか再検討します。

一方、麻を原料にそれを加工して紡錘する仕事は女性の手仕事であり、集落の中の非農家の竪穴住居生活者(女性)が紡錘車を使った活動を行ったのだと思います。

女性の手仕事は麻栽培のような基本的労働とは異なり、高度に組織されたものではなく、したがって墨書土器という自己啓発ツールの活用が無かったのだと思います。

紡錘車を使った活動に特有の祈願語(墨書文字)は存在しなかったのだと思います。

紡錘車を使った女性の活動が一つの社会集団にはならなかったのだと思います。

このような関係を想定すると、紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージが重ならない理由が説明できます。

紡錘車を使った活動に対応する墨書文字集団が見つかりそうなので、上記検討を取り下げます。

紡錘車出土イメージと文字「依」出土イメージを対照させて、そこから引き出せる情報は今のところ次のようになります。

その文字の意味から衣服生産に関連する集団であると考える文字「依」集団の分布と製糸活動を示す紡錘車出土分布が、お互いをすみ分けるように重ならないという印象を受ける。

……………………………………………………………………
無理を承知で強引に情報を引き出し、記事にしてみて、それを読み返すと、これまで見えていなかった情報が見えるようになるという体験をしているようです。(頭の中で仮説を夢想しているだけでは、いつまでもその段階にとどまってしまいます。)

このブログは検討結果(成果)を公表する場ではなく、私の思考プロセスを公表している場ですので、このような検討における試行錯誤をお許しください。