花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.7Google earthを使った古代東国駅路網変遷文献調査 その2
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)に記述されている房総を中心とした東国駅路網変遷について、地図をGoogle earthに投影して「空間直感」的にわかるようにして紹介します。
この記事ではその記述をそのまま紹介することをメインとし、若干のメモ(問題意識、検討課題)を付けます。
次の事項は追って別記事で展開します。
・この図書の記述に関する検討
・この図書と「日本古代国家と計画道路」(中村太一、吉川弘文館、平成8年)及び「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)掲載の駅路網変遷との対照
・紹介した2つの駅路網記述に基づいた自分の考え(駅路網変遷と古代「東海道水運支路」(仮説)との関連)の検討
1 「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)掲載の駅路網図
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)には次の3葉の駅路網図が掲載されています。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)掲載駅路網図
この駅路網図をGoogle earthにプロットした画像等を用いて、「千葉県の歴史 通史編 古代2」における古代交通に関する記述を次に紹介します。
2 Ⅰ期(8世紀初め~771年)の駅路
Ⅰ期(8世紀初め~771年)の駅路
平面図投影
Ⅰ期(8世紀初め~771年)の駅路
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)記述要旨】
・駅路(えきろ)や駅家(えきか)の設定と制度の確立は大宝律令や養老律令がつくられた8世紀初めといわれる。Ⅰ期はこの時期から、771年(宝亀2年)武蔵国の東山道から東海道編入までの期間である。
・相模国から房総に向かう駅路は海路と陸路の2つがあり、本路線は海路であった。
・海路は日本武尊の伝説が残る古い路線で、上総国東京湾岸に大型の前方後円墳が集中することは、海路が駅路設定以前から中央と房総を結ぶ主要な路線であったことを物語る。相模国から船出する場所は、日本武尊が船出した場所走水(横須賀市走水付近に推定)が妥当で、富津岬北側の津に向かった。
・海路で下総国・常陸国へ向かう路線は、走水駅-大前駅-藤瀦(ふじぬま)駅-島穴駅-上総国府-大倉駅と北上した。
・大倉駅を過ぎてから、常陸国へ向かう本路線と下総国へ向かう支路線に分岐した。本路線は鳥取(ととり)駅-山方駅を経て再び分岐し、本路線は荒海(あらみ)駅から海路で榎浦(えのうら)駅を経て常陸国府へ向かった、山方駅で分岐した支路線は真敷(ましき)駅を経て香取神宮に向かった。
・大倉駅を過ぎてから分岐した支路線は河曲(かわわ)駅-浮島駅-井上(いかみ)駅を経て下総国府に着いた。
・安房国を経由する路線には2つの考えがある。その1 走水駅-大前駅-天羽駅-川上駅-安房国府-白浜駅という路線。その2 走水駅-(海路で大前駅か天羽駅の津に立ち寄り)-白浜駅-安房国府-川上駅-天羽駅-大前駅という路線。
・板来(いたく)駅は鹿島神宮へ向かう駅家であった。
・武蔵国が東山道に編入されていたため、新田(にった)駅から東山道路線が武蔵国府まで南下していた。武蔵国府の駅家から乗瀦(あまぬま)駅-豊島(としま)駅を経て井上駅に支路線が通じていた。また夷参(いざま)駅を経て東海道路線の箕輪(みのわ)駅に通じる支路線もあったので、武蔵国府は坂東の主要路線が交わる場所であった。
・Ⅰ期以前の7世紀後半の路線は、Ⅰ期の路線に近いことが推定できる。それは、Ⅰ期の路線が古墳群や6・7世紀の遺跡付近を多く通ることから、7世紀前半以前の中央と房総を結ぶ路線がⅠ期路線に大きく影響していると考えるからである。
・下総国の国府の初歩的施設を8世紀の本格的国府が成立する葛飾郡に求めるか、それとも房総でも屈指の終末期古墳群や初期寺院(龍角寺)が所在する埴生郡に求めるかによって推定する路線が異なってくる。葛飾郡の場合は井上駅-浮島駅-河曲駅ルートが成立していたことになる。
・Ⅰ期以前では、下総国香取郡-常陸国鹿島郡の路線が、下総国荒海駅-常陸国榎浦駅路線以前に機能していたことも想定できる。
【検討メモ】
1 走水駅の位置
2014.11.23記事「
相模湾と東京湾の古代水運路をつなぐ船越」で検討したように、走水駅の場所はこの図書で想定している場所ではないと考えます。
古代水運を知るキー概念と考える「船越」についての認識を深めるために、走水駅の位置に関する考察を深めます。同時に対岸房総の津場所についての考察も行います。
2 浮島駅の位置
この図書では浮島駅の位置を花見川河口である幕張付近ではなく、津田沼付近に推定しています。
推定根拠が示されていないので、明確な推定理由は存在しないようですが、間違っています。
浮島駅の位置は古代「東海道水運支路」(仮説)からみると重要な項目であるので、浮島駅位置の推定に関する検討を深めます。
3 駅家と津との関係
房総の駅家の推定場所は(浮島駅の推定間違いを正すと)恐らく全部(!)津の位置にあり、水運の要衝になっています。
その実体を調査したいと思います。
特に鳥取駅(鹿島川)、山方駅(印旛浦)について水運との関係がどうであったのか調べたいと考えます。山方駅に関していえば、公津との関係について知りたいです。
4 用語「津」の原義について
この図書では用語「津」を景観的意味での港、船着き場、停泊地としての意味で使っています。
例えば次のように使っています。「日本武尊の伝説では、浦賀水道を横断した後、海路で房総半島沿岸をめぐり陸奥国に向かったとされる。富津岬より南方の津を目指したことも考えられる。」
ここでの「津」は停泊や上陸に適した場所という意味で、すでに開発され支配している港湾という意味でないことはあきらかです。
現代ではこのような用語法が一般的だと思います。
しかし、このブログでのこれまでの地名検討から、古代~中世にあっては「津」は官が設置した港湾施設、支配拠点・軍事拠点としての港湾施設を意味していたと考えています。「津」とは官が使うテクニカルタームであったと考えます。(2013.07.01記事「
古代水上交通関係地名・施設としての「津」と戸」など多数)
駅家と津との関係考察の中で、津の原義の考察も深めたいと思います。
5 下総国の国府位置に関する検討
房総でも屈指の終末期古墳群や初期寺院(龍角寺)が所在する埴生郡ではなく現在の市川市に国府がつくられたことの意味について、考察したいと考えます。
香取の海ではなく、東京湾に面した場所に拠点を設ける必要性が、中央政府が確実な房総支配と蝦夷戦争遂行のために必要だったと予感します。
下総国府の位置の意味を知ることが、東京湾と香取の海の間の交通を考える際に役立つように感じます。
3 Ⅱ期(771年~805年)の駅路
Ⅱ期(771年~805年)の駅路
平面図投影
Ⅱ期(771年~805年)の駅路
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)記述要旨】
・Ⅱ期は771年(宝亀2年)の武蔵国の東海道編入から805年(延暦24年)の下総国の鳥取・山方・真敷・荒海駅廃止までの期間である。
・771年武蔵国内の東山道駅路が廃止され、相模・武蔵・下総の3国は東海道駅路で結ばれる。それまでの武蔵国乗瀦(あまぬま)駅-下総国河曲(かわわ)駅の支路線が東海道駅路の本路線となり、Ⅰ期の浦賀水道を横断する本路線は廃止される。房総の東海道駅路は下総国から始まることになる。
・井上駅-浮島駅-河曲駅-鳥取駅-山方駅を経由して常陸国へ向かうルート(香取路(かとりじ))が本路線となり、大きな役割をはたした背景に征夷(蝦夷征討)がある。
・征夷は律令国家の大事業であり、房総を含む坂東諸国は兵士や兵糧の供給基地として重視され、その画期は709年~730年代、750年代後半~760年代、770年代中頃~805年といわれ、Ⅱ期はまさにその時期に該当する。
・Ⅱ期の途中に井上(いかみ)駅-下総国府-茜津(あかねつ)駅-於賦(おふ)駅の路線ができて常陸国へ向かい、この路線(相馬路(そうまじ))が優勢になり、征夷が終わった次のⅢ期では河曲駅から北上する路線(香取路(かとりじ))が廃止される。
・Ⅱ期になって大倉駅が廃止される。
・Ⅱ期の駅路は、律令制以前の影響が残るⅠ期の路線を、利用の実態にあわせて改変し、国府間の距離を短縮するために設定されたのであろう。
【検討メモ】
1 駅路網と水運網の関連検討
・この図書では駅路網が征夷と強く関係していたことが延べられています。駅制の基本は情報連絡網であり、運搬路ではありませんから、駅制に対応した運搬路つまり水運路を検討する必要があります。
・兵員を東京湾岸から香取の海に輸送する水運路(船越)は3箇所に限られていて、その中で古代「東海道水運支路」(仮説)と考える花見川-平戸川ルートを位置付けることができると考えます。他のルート(手賀沼ルート、都川-鹿島川ルート)が軍事輸送路として意義があるようなものであったのか、検討します。
4 Ⅲ期(805年~10・11世紀代)の駅路
Ⅲ期(805年~10・11世紀代)の駅路
平面図投影
Ⅲ期(805年~10・11世紀代)の駅路
Google earth(斜め衛星写真)投影
【「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県、平成13年)記述要旨】
・征夷終結と同じ年である805年(延暦24年)に下総国の鳥取・山方・真敷・荒海駅が廃止された。これが画期となり、駅路は「延喜式」の駅家を結ぶ路線のみとなる。
・井上(いかみ)駅-下総国府-茜津(あかねつ)駅-於賦(おふ)駅の相馬路が本路線となる。
・相模・武蔵国内でも駅家の異動があり、路線が短縮し、武蔵国府へな店屋(まちや)駅から支路線が向かうことになった。
・Ⅲ期はⅡ期より各国間の距離が短縮し、支路線が廃止された。これは全国的交通政策の転換期による。
・Ⅲ期は東海道や東山道の駅路ごとに都と地方をより短距離で結ぶ路線のみとなった。中央と地方を結ぶ情報伝達を迅速に行う駅制の本来的目的からすれば、Ⅲ期は制度が完成したとみることができる。
・一方地域における交通の実態とはかけ離れてしまい、形骸化を招く原因となった。
・11世紀の交通の例(菅原孝標の行程)ではかつての駅路の路線と同じ路線を通っているところがある。下総国内では「いかた」「くろとの浜」に泊まっている。「いかた」は池田郷、「くろとの浜」は千葉市中央区・稲毛区・花見川区の東京湾岸に推定すると、それぞれの所在は河曲駅や浮島駅の付近に推定できる。
・駅制という制度と交通路の実態は別で、12世紀になっても、駅路もしくはその路線が地域の幹線道路であった場所もある。(相馬御厨の南限の上大路、坂東大路)
【検討メモ】
1 浮島駅の位置
この図書の交通例の記述(菅原孝標の行程)で出てくる「くろとの浜」が浮島駅の近くであるという記述は、とりもなおさず、浮島駅が幕張付近にあったことを示していると考えます。「くろとの浜」の場所について検討します。