2017年4月30日日曜日

学習 宇田川洋「イオマンテの考古学」

図書館から借りて宇田川洋(1989)「イオマンテの考古学」(東京大学出版会)を読書学習しました。

宇田川洋(1989)「イオマンテの考古学」(東京大学出版会)

著者が取り組んでいるアイヌ考古学という分野で「送り場」というものがどのように捉えられているのか知りたくて読書したものです。

次のような著者の考えを学ぶことが出来、貴重な情報を仕入れることができたという感想を持ちました。

●アイヌの「送り」の対象
・動物送り…クマ、キツネ、タヌキ、オオカミ、シカ、クジラ、シャチ、フクロウ、ワシ、カケス、サケ、シシャモ、カスベ、アホウドリ、エゾイタチ、コエゾイタチ、テン、リス、ハヤブサ、クマタカ、貝…
・植物送り…すべての食用野生植物(不用部分、糠、灰…)
・道具送り…日常器具や祭具全般

●道具を故意に壊して送る例
道具を故意に壊して送る次の事例記述は、房総縄文時代竪穴住居のみならず奈良時代竪穴住居でも一般的にみられる現象なので、私にとってはとても参考になるものです。
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シュワン送り場の例
本例は、標茶町虹別に所在する遺跡であるが、詳細についてはのちほど改めて述べることにする。
各種の"もの"が送られていたが、注意すべきもののひとつに鉄製の仕止め矢がある。
図12上はまとまって出土した状態であるが、先端の鏃の部分が直角あるいはそれ以上に曲げられていたり、あるいは折れて離れてしまっている状態がうかがえる。
このような貴重な道具を送るということは、破損して使用できなくなった場合あるいはその持ち主が何らかの理由で使用を中止した場合が考えられるが、曲げられて送られたものは後者に該当するであろう。そして送る際には、故意に折り曲げているのである。
このようなことは、器物に関してはほとんど例外なくおこなわれたらしい。
そしてその歴史は古く、たとえば北海道では続縄文時代の墓から出土する副葬品のなかの完形土器の破損埋葬と通じるものである。
底部に孔をあけたり、底部や口縁部の一部を故意に打ち欠いたりして埋葬するのである。
墓の副葬品は"送る"という意識とは少しニュアンスが異なるであろうが、器物の使用廃止後の処理という意識では共通するものである。
ところで、図12下の仕止め矢は、上の出土状態のものと同一である。
仕止め矢は全部で12点が出土しているが、そのうちの7点がまとまって送られていたわけである。当遺跡では行器などの道具類もまとまった形で送られていた。
シュワン送り場の仕止め矢
宇田川洋(1989)「イオマンテの考古学」(東京大学出版会)から引用
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●送り場形式の分類と変遷
著者は次のように送り場を分類しています。
・土を意識した送り場
より古い段階の竪穴住居祉などの凹地を神聖な地として利用する送り場
・石を意識した送り場
石積み・集石・配石を伴う例や岩陰を利用する送り場
・貝塚を意識した送り場
貝塚を利用した送り場
・木を意識した送り場
大木を御神木としてその根元を利用する送り場
・無施設の送り場
海浜、洋上など

●送り場形式の変遷
著者は次のように記述しています。
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形式の変遷
前に送り場の形式分類をみてきたが、"土を意識する形式"、"石を意識する形式"、"貝塚を意識する形式"、"木を意識する形式"、"無施設の形式"の5つに大別できた。
これらを、既述の出土遺物や火山灰年代ともあわせて考えてみることにする。
つまり形式の変遷をたどってみようとするわけである。

現在のところ、15世紀段階のころは竪穴住居趾などの凹地を聖地として利用する送り場つまり"土を意識する形式"が多いようである。
ついで16世紀段階に入ると、この形式に加えて貝塚が登場するようである。
今のところ半々くらいの比率のようである。
それは17~18世紀の「原アイヌ文化」の後期に入っても同じくらいの比率で出現しているといえる。
「新アイヌ文化」段階に入って19世紀になると、すべての形式がアトランダムに出現するようである。
そしてさらに20世紀にいたって多くなるのは御神木のもとに送る"木を意識する形式"である。
ほかにやや多いのは岩陰を利用する"石を意識する形式"のようである。

このように、例数が多いものの基本的な流れをみると、"土を意識する形式(竪穴上層)"→"貝塚を意識する形式"→"木を意識する形式(御神木)"という順序が認められる。
ほかは比較的例数が少ないもので、現段階でははっきりいえない状況である。
しかし19世紀以降の「新アイヌ文化」の段階とそれより前の「原アイヌ文化」の段階では、送り場の形式に違いがあったことは指摘できそうである。
宇田川洋(1989)「イオマンテの考古学」(東京大学出版会)から引用
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●考察
この図書を学習した目的は、自分の仮説…縄文時代において、施設の廃絶に伴い、その施設そのものの送りがあり、その送りは故人の送り、動物送り、道具送りと一体不可分であった…に参考となる情報を得ようとした点にあります。
直接的には「施設そのものの送り」という概念がアイヌ考古学にあるかどうかということを知りたいと思いました。
結果的にはアイヌ考古学には「施設そのものの送り」という概念はないことが判りました。
送り場の変遷が示すように、この図書が対象とする15世紀以降は廃絶時竪穴住居そのものを送り場とする例がないのですから(古い竪穴住居跡の上部を利用していたのですから)、竪穴住居そのものを送ったという概念が発生しなかったのだと思います。

15世紀アイヌの「古い竪穴住居の凹みを利用した送り場」は縄文時代における竪穴住居廃絶に伴う送り場形成にそのルーツがあると考えます。
そのルーツでは「故人や動物や道具を送ったのみならず、竪穴住居空間そのものを送った」という概念が存在していたと考えます。

この図書は私にとってとても有益な図書であり、図書館のお世話になる本ではないと考え、早速WEB古書店から購入しました。
また著者の最新学術書2冊も入手して学習することにしました。

2017年4月29日土曜日

土坑集中の意味

大膳野南貝塚 前期後葉集落 土坑集中の意味

2017.04.28記事「土坑の出土物」で土坑から土器細片だけでなく石器や獣骨が出土するものがあり、その主な分布が土坑集中域から離れていることを述べました。
この事実をきっかけに分析すると、土坑集中の意味が判ってきましたので、この記事でメモしておきます。

1 土坑分布域の集中
次の図は土坑分布域をヒートマップで表現したものです。

大膳野南貝塚 前期後葉 土坑ヒートマップ
半径パラメータ10mのヒートマップです。

土坑分布域は見事に特定場所に集中しています。
そしてその場所は竪穴住居から離れた場所に位置しています。

2 竪穴住居10m圏内の土坑
次の図は土坑と竪穴住居10m圏をオーバーレイして示したものです。

大膳野南貝塚 前期後葉 土坑と竪穴住居10m圏

竪穴住居10m圏内外の土坑数をカウントすると次のようになります。

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居10m圏内外別土坑数

竪穴住居10m圏内にある土坑の倍以上が圏外にあります。

竪穴住居は廃絶するとその場が送り場となり、恐らく故人の送り場として長期の殯(もがり)が行われ、その場で故人のミイラが作られたり、あるいは腐乱死体が存在していたと考えられます。
同時に動物の送り場となり食用等に使う有用部位以外の臓器や骨と頭骨が置かれたと考えます。
つまり竪穴住居は廃絶すると送り場となり、極めて不衛生な環境になります。

一方、土坑集中域のサンプル土坑全てからオニグルミ核が出土し、堅果類貯蔵庫であったことが判っています。

前期後葉集落縄文人は竪穴住居の近くに食料を貯蔵すると、不都合がいろいろと生じることを知っていて、計画的に住居ゾーンと食料貯蔵ゾーンを区分していたのだと考えます。

このゾーニング思考存在を次のデータが補強します。

3 送りをした土坑の場所
土器・獣骨・石器等が出土した土坑はその廃絶時に送り場として利用した土坑であると考えます。
そのうち、獣骨が出土する土坑をみると、次の図に示すように土坑集中ゾーン(食糧貯蔵ゾーン)からすべて離れていることが判ります。

大膳野南貝塚 前期後葉 土器・石器・獣骨等出土土坑

土坑集中域の中にも3つの送り場となった土坑があるのですが、いずれも土器と石器だけの出土です。
道具の送りは行われても動物の送りは行われていません。
集落社会が土坑集中ゾーン(食料貯蔵ゾーン)における衛生状況を管理していたと考えざるをえません。
集落社会が環境衛生面の観点から土地利用ゾーニングを極めて意識的に行っていたことが判りました。


2017年4月28日金曜日

土坑の出土物

大膳野南貝塚 前期後葉集落 土坑の出土物

大膳野南貝塚前期後葉集落土坑について、その分布は既に把握しました。

大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉 竪穴住居と土坑の分布
2017.03.31記事「大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉竪穴住居と土坑」参照

この記事では土坑からの出土物について検討します。

1 発掘調査報告書における土坑記述
発掘調査報告書では土坑について次のように記述しています。
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縄文時代前期に属する土坑は合計113基検出され、これらのうちの約90%が調査区南西部に分布していた。
土坑の平面形は円形を呈するものが多く、底面の近くに段を有するものが特徴的に見られた。規模は約1.0~1.5m、深さは約0.5~1.2mを測る。出土遺物は少なく、前期後葉諸磯b式や浮島Ⅰ~Ⅱ式の土器片および石器類が極少量検出されたのみであった。
検出された土坑のうち、無作為に抽出した14基を対象に土壌サンプリングを行い炭化植物の分析・同定を行った結果、すべての土坑でオニグルミの核が確認された。

前期の土坑は113基検出されたが、このうち76基(全体の約67%)が調査区中央の南西側にあたるT-18区からY-12区にかけての40×30mの範囲に集中し、土坑群を形成していた。
土坑は単独で検出された例が多く見られたが、2 ~ 4 基が数珠玉状に連なって重複するものも存在した。
土坑群の時期は、出土土器から推定すると諸磯b(浮島Ⅰ~Ⅱ)式期に属すると考えられる。
 平面形は円形、楕円形、隅丸方形、不整形が見られたが、円形を呈するものが多く、底面に段を有するものが多数検出された。規模は径1 m前後に集中する。
今回検出された土坑のうち、合計62基が段を有する形態に分類され、全体の約50%を占める割合となる。
段の部分の平面形態は、半月形47基、楕円形8 基、三日月形6 基、不整形2 基で、半月形を呈するものが圧倒的に多い。
そして底面の上段と下段との高低差は、4~40㎝とややばらつきがあるが、10~20㎝の範囲に収まるものが大半を占める。

ここで本遺跡で検出された土坑群を見てみると、底面有段という形態的特徴や、住居に取り囲まれた集落内の特定位置に土坑群が形成されること、そして複数基が連なるように重複して検出されている状況など、前述の南羽鳥中岫第1 遺跡E地点や木戸先遺跡と非常に近似したあり方を示すと言える。
しかし、土坑からの出土遺物は非常に乏しく、191号土坑から浅鉢の大破片が、137号土坑から完形の石匙が出土しているものの、191号土坑については土坑群から外れた台地西側緩斜面に位置している。
また、土壌分析の結果、14基の土坑覆土からオニグルミの核が検出されており、積極的に墓であることを裏付ける情報は得られず、むしろ貯蔵穴としての可能性を示唆する状況であった。
 なお、本遺跡の西側に隣接するバクチ穴遺跡の15号址とされる土坑から、滑石製の玦状耳飾が対で出土し、報文中では墓と考えられている(大野・栗田ほか 1983)。
今回調査された土坑群とは距離にして約90m西へ離れているが、本遺跡の墓域となる可能性が推定される。
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発掘の過程では土坑形状が他遺跡と類似性していることから墓ではないかと疑ったが、14基サンプル調査で全てオニグルミ核が検出され、貯蔵穴であることが判ったという結論です。


参考 土坑例

参考 土坑例

参考 土坑例

土壌採取土坑

2 出土物による土坑分析
出土物により土坑を分類して、その数を示すと次のようになります。

大膳野南貝塚 前期後葉 出土物別土坑数

土器が出土する割合は80%にのぼります。
しかし出土する土器はほとんどが微量あるいは細片です。
オニグルミなどの堅果類の出し入れに土器を使っていて、その土器片が土坑内に落ちたという状況が想像できます。
土器出土が微量で細片であることから、土器だけ出土土坑では、土器を送ったという状況がイメージできる場所は皆無です。

着目すべきは石器や獣骨や貝が土器と一緒に出土する土坑が存在するという事実があることです。
そのような場所では大きな土器が出土する場合もあります。
石器、獣骨、貝の出土は明らかに意識的に土坑の入れたものであり、それらを送ったことが想定できます。

廃絶土坑を送った、その場所で道具(石器)を送った、動物や貝を送ったということが考えられます。

その土坑数は合計で12に上ります。

その分布図を次に作成してみました。

大膳野南貝塚 前期後葉 土坑

土器とともに石器、獣骨、貝が出土する土坑の分布は土坑集中域から外れた場所に多くなっています。

土坑集中域には土器と石器が同時に出土する土坑3基があるだけです。

土坑送りをした場所が土坑集中場所に少ないという事実から、この集落でなぜ土坑が集中するのか、その意味が浮かび上がりましたのでその説明を次の記事で行います。




2017年4月27日木曜日

竪穴住居非構造柱穴の配列タイプ

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居非構造柱穴の配列タイプ

1 近在竪穴住居の関連性検討結果
大膳野南貝塚前期後葉集落の竪穴住居に関して発掘調査報告書では4つのグループについてその位置近接性からその関連性を指摘し、「これらの住居には時期的な前後関係があるものと推定される。」と記述しています。
2017.04.18記事「複数竪穴住居の関連性検討」参照
その見立てについて順次検討してきましたが、その結果をまとめると次のようになります。

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居 近在住居の関連性分析結果
発掘調査報告書のBについては完全に2グループにわけるべきであるという結果になりました。
またDグループも2つに分割することが今後の検討に役立つように感じました。

2 竪穴住居非構造柱穴の配列タイプ
上記関連性検討のなかで竪穴住居の非構造柱穴(発掘調査報告書の中で主柱穴、壁柱穴以外の説明をしていない柱穴)に分析して有用な情報を得ましたのでまとめておきます。

2-1 関連性の検討からはずれた竪穴住居の柱穴分類
発掘調査報告書で関連性が指摘されていない4つの竪穴住居について柱穴分類図を作成してみました。

J10号住居祉
説明の無い柱穴の中に建て替え主柱穴である可能性が感じられるものが含まれていて、非構造柱穴の配列パターンをイメージできませんでした。

J22号住居祉
主柱の建て替え毎の位置イメージが判らないことと、壁柱が明確に判らないので非構造中柱穴の配列パターンをイメージできません。

J42号住居祉
主柱の建て替え毎の位置イメージが判らないことと、壁柱が明確に判らないので非構造中柱穴の配列パターンをイメージできません。

J93号住居祉
主柱穴が囲む範囲内に非構造柱穴が存在しているのですが、その配列のパーターンをイメージできません。

2-2 全竪穴住居の非構造柱穴の配列タイプの整理
非構造柱穴の配列タイプを次の4つに分類して整理把握しました。

非構造柱穴配列タイプ1…線形の組み合わせで北方向を拝むことができる祭壇をイメージで
きるもの。
非構造柱穴配列タイプ2…テラス段差付近と主柱穴範囲内の双方2カ所以上に線形の祭壇をイメージできるもの。
非構造柱穴配列タイプ3…建物構造とは全く異なる意図的パターンで柱穴が密集するもの。
非構造柱穴配列タイプ4…パターンが読み取れないもの。

非構造柱穴配列タイプ1

非構造柱穴配列タイプ2

非構造柱穴配列タイプ3

非構造柱穴配列タイプ4

非構造柱穴配列タイプ4

非構造柱穴配列タイプの分布を地図に書き込むと次のようになります。

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居 非構造柱穴配列タイプ

非構造柱穴配列タイプとは竪穴住居廃絶時の故人送りに際して設置された祭壇であると想定しています。
その祭壇の姿が一定したものではなくいろいろなタイプがあるということは意外な発見になりました。
出自が同じならば祭壇の作り方は一定になるはずですから、集落住民の出自がかなりバラバラであったことが想定できます。
住民出自がバラバラであったということは出土土器の優勢形式が浮島式土器と諸磯式土器の2つに真半分に割れることからも想定できます。
大膳野南貝塚前期後葉集落の最初は関東地方の異なる各所から集まった縄文人で構成されたと想像します。


2017年4月26日水曜日

西根遺跡は翡翠原石入荷ミナトか? 学習用作業仮説追補

西根遺跡(縄文時代)の学習を始めるに当たって、2017.04.20記事「西根遺跡学習用作業仮説」を書きました。

学習用仮説の趣旨は次の通りです。

戸神川ミナト施設が壊れた時、その場所を土器送り場、動物送り場(イオマンテ)にして、再建新設ミナト施設に付属する祭祀空間(ミナト送り場)とした。
そのようなミナト送り場は300年間の間に上流から下流に7回にわたって移動した。

この記事では発掘調査報告書の詳細検討に入る前に「出土しないもの」の情報から学習用作業仮説をさらに追補します。

1 西根遺跡から出土しないもの
1-1 祭祀用土器が全く出土しない
西根遺跡から加曽利B式土器が102100片、想定土器個体数1150個体~1200個体出土しています。しかし祭祀用土器は全く出土していません。
土器送りの場に祭祀用土器の持ち込みを完全にシャットアウトするだけの強力な社会規制があったと考えられます。

1-2 土製品がほとんど出土しない
土器片を利用した錘が数点出土していますが、土器以外の土製品がほとんど出土していません。
土器送り場に土製品の持ち込みを完全にシャットアウトするだけの強力な社会規制があったと考えられます。

1-3 石器がほとんど出土しない
実測可能な石器が22点出土しています。確実に加曽利B式土器に伴う遺物は石鏃1点、磨石7個体、石皿片7点、置砥石2個体、台石1個体です。
土器出土量(102100片、想定土器個体数1150個体~1200個体)と比較して石器出土はほとんど無いに等しい量です。
土器送り場に石器の持ち込みを完全にシャットアウトするだけの強力な社会規制があったと考えられます。

例えば、竪穴住居廃絶に伴う送り祭祀では生活用土器のほか祭祀用土器、土製品、石器が出土することは一般的な事象ですから、西根遺跡でこれらの出土がほぼゼロであるという情報は貴重で重要なものであると考えることができます。
社会が西根遺跡に祭祀用土器、土製品、石器の持ち込みを禁止していたという状況が読み取れます。

2 出土しない遺物から導き出される遺跡意味
2-1 石器、実用土製品持ち込み禁止の意味
石器とは狩猟や植物採集や堅果類の加工調理など生業活動(生産活動)に使う道具です。
石器、実用土製品という生業活動(生産活動)に使う道具の持ち込みを禁止するのですから、西根遺跡は生業(生産)とは関わらない遺跡であることを導くことができます。

2-2 祭祀用土器、祭祀用土製品持ち込み禁止の意味
祭祀用土器、祭祀用土製品は家庭の中で営まれる祭祀で使われる道具であると考えます。
その家庭内祭祀用品の持ち込みを禁止するのですから、西根遺跡は家庭内祭祀とは関わらない遺跡であることを導くことができます。

3 日常生活用土器だけが送られるという特性から導き出される遺跡意味
日常生活用の加曽利B式土器だけが多量に送られた意味を石器がほとんどゼロである状況と対比させて、次のように考えます。

・日常生活用加曽利B式土器…人々の日常における精神生活を象徴(食事・飢え、病気・健康、出産・死亡、育児・成長、…)→シャーマンが関わる領域
・石器…生産生活を象徴 (狩猟、漁撈、採集、栽培、加工・調理…)→集落リーダーが関わる領域

日常生活用加曽利B式土器が多量に送られた意味から、西根遺跡はシャーマンが関わる精神生活に関わる遺跡であると考えます。

4 西根遺跡の意味
西根遺跡は、石器が送られないことから生業とは関係しないと考えます。
また西根遺跡は祭祀用土器が意識的に送られないことから家庭内レベルの祭祀にも関係しないと考えます。
しかし、日常生活用加曽利B式土器が送られることからシャーマンの権能に関係した遺跡であると考えます。
西根遺跡の意味は、一般住民レベルではなくシャーマンレベルの(シャーマンが主催する)土器送り場であると解釈します。

5 西根遺跡は翡翠など玉原石入荷ミナトである(学習用作業仮説追補)
西根遺跡がシャーマンによる土器送り場であるとの想定に基づき、次の仮説を追補します。

5-1 縄文時代後期の玉製作遺跡
千葉県の主な縄文時代玉製作遺跡の分布とリストを示します。

千葉県の主な縄文時代玉製作遺跡

千葉県の主な縄文時代玉製作遺跡

西根遺跡周辺の4つの玉製作遺跡は翡翠など原石を遠隔地にもとめ、かつ西根遺跡と同じ縄文時代後期です。

玉とは縄文人の精神生活と切り離すことができない呪具であり、シャーマンが所管するものです。

西根遺跡が翡翠など玉原石が遠方から入荷するミナトであると考えると西根遺跡の意味とよく合います。

西根遺跡は翡翠など玉原石の入荷ミナトであったか?

新潟県糸魚川からはるばる運んできた翡翠が時々西根遺跡(戸神川ミナト)に入荷したのだと思います。

その入荷を誠心誠意迎えるために、近隣遺跡シャーマンが近隣住民を指導して多数のほぼ完姿土器を丁寧にならべた土器送り場をつくり、やってきた翡翠商人をイオマンテでもてなしたのだと想像します。

西根遺跡は翡翠商人もてなしの場であったので、生活臭のある石器や土製品などのむやみな送りは禁止して、演出された送り場風景をつくっていたと考えます。


西根遺跡に翡翠をからめることができたので、その仮説が生きるか死ぬかまだ分かりませんが、学習意欲が高まります。

*西根遺跡では黒曜石石核、剥片が20点出土していて、発掘調査報告書では縄文時代後期より以前であるとしています。
この事実から戸神川ミナトが縄文時代後期以前にあっては石材入荷場所であったことが判ります。
縄文時代後期になると、狩猟用石材ではなく祭祀用石材(翡翠など)に入荷物が変化したと考えます。

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2017.04.20記事「西根遺跡学習用作業仮説」掲載作業仮説
西根遺跡(縄文時代)学習用作業仮説 ミナト施設送りとしての土器送り・イオマンテ
2017.04.20

1 仮説
・出水や水面低下によるミナト施設廃絶と下流代替ミナト新設というイベントに際して、廃絶ミナト施設空間がミナト施設送り場となる。
・ミナト施設送り祭祀の一環として、その場所が土器送りの場、イオマンテの場(動物送りの場)となる。
・ミナト施設送りでは祭壇が設けられ、送り用土器がディスプレイとして並べられ、同時にシカやイノシシ幼獣のイオマンテが行われ、その
肉は焼いて人々にふるまわれた。
・ミナト送りの場(破壊ミナト施設、祭壇、ディスプレイ土器群)とその下流の新設ミナト施設のセットが広義のミナト空間を形成した。
・つまり、広義ミナト空間は運輸実務施設である桟橋・広場などと祭祀空間(桟橋跡、祭壇、土器群)から構成されるまとまりである。
・新たな出水や水面低下により再びミナト施設が破壊されると、その場所に祭祀空間が移動し下流近隣に桟橋や広場が再建された。
・ミナト送り場の移動が西根遺跡では7回観察される。

2 仮説の問題点
1) ミナトという機能施設そのものを「送る」という概念が成立するのか?
2) このミナト(以下、戸神川ミナトと仮称)が送られるだけの大きな意義を有することを、広域考古情報等から合理的に説明できるか?
3) 戸神川ミナトを送ったと考えられる印旛沼広域圏から土器が持ち込まれたことを検証できるか?
4) ミナト施設あるいは機能の存在を検証できるか?

3 仮説検討イメージ
1) 機能施設(空間)そのものを「送る」例として炉穴が存在する。竪穴住居もそのような視点から捉えられる。
アイヌ考古学では動物の送り、植物の送り、道具の送りが語られているが、機能施設送りは遺物と直接対応しないので看過されたと直観する。
2) 戸神川ミナトが信州や北関東から黒曜石等石材を搬入する交易拠点であったという意義の説明をしたい。
3) 発掘調査報告書の精緻な土器分析の中から、土器が広域から戸神川ミナトに持ち込まれたことの証拠を探したい。
4) 発掘した川筋と遺物について精緻な分布分析を行い、その中からミナト機能実在を検証したい。
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2017年4月25日火曜日

テラス付き竪穴住居における非構造柱穴配列の相似性

大膳野南貝塚 前期後葉集落 テラス付き竪穴住居における非構造柱穴配列の相似性

大膳野南貝塚前期後葉集落の竪穴住居に関して発掘調査報告書では4つのグループについてその位置近接性からその関連性を指摘し、「これらの住居には時期的な前後関係があるものと推定される。」と記述しています。
2017.04.18記事「複数竪穴住居の関連性検討」参照

この記事ではそのうちのDグループ(J83、J89、J97、J98)について検討します。

J83、J89、J97、J98の位置関係

1 出土物等による検討
次の2つの表に示す通り、優勢土器が諸磯式であるものが3つあること、建物の面積が狭いことなどから4つの住居に共通性があります。

同時にJ97では獣骨出土量が特段に多く(中テン箱6箱)、またこの住居にはテラスが付いていて他の近接住居と異なる様相が観察できます。

大膳野南貝塚 前期後葉集落 獣骨出土量

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居

2 竪穴住居柱穴分析による検討
J83、J89、J97、J98について発掘調査報告書の記述に基づいて柱穴分類を図化しました。

J83柱穴分類

J89柱穴分類

J97柱穴分類

J98柱穴分類

J83、J89、J98は構造を読み解くことが困難であるような柱穴分布が似ているので、同じ血族の住居と考えても合理性を欠かないという印象を受けます。

一方J97はテラスを有していて明瞭な壁柱を有しているのでJ83、J89、J98と並列な建て替えの一環であるとは考えづらいと考えます。

4つの住居が諸磯式土器一族のものであると考えられますが、J97だけは通常の建て替え行為の中でうまれたのではなく、特別な意義のある建物として建てられたと想像します。

諸磯式土器一族のシャーマンとかリーダーの居住を意識して建てられたと想像します。

4軒の竪穴住居の関連性はJ83・J89・J98グループとJ97の2つに分解できそうです。

3 J56とJ97と非構造柱穴配列の相似性
J97の説明の無い柱穴、つまり構造に関係しない柱穴は祭祀用柱(祭壇用柱)であると想定されます。それを図化すると次のようになります。

J97の説明の無い柱穴の分布

この分布はJ56の同じ分布図とパターンが酷似しています。

J56 説明のない柱穴、意味が不明の柱穴の分布

ここでJ97もJ56もAは建物入口付近の建物内テラス下に建物の一部として常備されていた祭壇であると想定します。

Bは建物廃絶時の故人送りに際して建てられた送り用臨時祭壇であり、そのそばで土器送り、動物送り(獣骨堆積)などが営まれたと考えます。

J97は諸磯式土器優勢、J56は浮島式土器優勢で血族が異なりますが、その血族のシャーマン(リーダー)送りの祭壇の設置の仕方がテラスや獣骨堆積場所との関係から同じであることが判明しました。

祭壇の配置の仕方が同じであるとういことは、祭祀の営み方も同じであったことを表現していると考えます。

浮島式土器一族と諸磯式土器一族は集落内で明瞭な社会的優劣が観察でき、生業の分担も異なるようですが、送り祭祀に関する心性は同じであったことが判りました。

2017年4月23日日曜日

竪穴住居における主柱穴・壁柱穴以外の柱穴検討

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居における主柱穴・壁柱穴以外の柱穴検討

大膳野南貝塚前期後葉集落の竪穴住居に関して発掘調査報告書では4つのグループについてその位置近接性からその関連性を指摘し、「これらの住居には時期的な前後関係があるものと推定される。」と記述しています。
2017.04.18記事「複数竪穴住居の関連性検討」参照

この記事ではそのうちのCグループ(J72、J113)について検討します。

J72、J113の位置関係

1 出土物等による検討

次の2つの表に示す通り、出土物などからJ72とJ113の関連性を見つけ出すことは困難です。

大膳野南貝塚 前期後葉集落 獣骨出土量

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居

2 竪穴住居柱穴分析による検討
J72とJ113の柱穴分類を発掘調査報告書の記述に従い図化しました。

J72柱穴分類

J113柱穴分類

J113の柱穴分類は出土遺構が断片的であるため壁柱穴のみとなっています。従って柱穴の検討を深めることができません。

柱穴の検討からJ72とJ113の関連性を検討することは無理のようです。
出土物等からの検討もできませんから、J72とJ113は位置が近接しているという情報以外に関連性を検討できる有力情報は、残念ながら集まらなかったという結論になります。
しかし、関連性を否定する情報もないのですから、発掘調査報告書の通り関連性ありと想定します。

3 J72の柱穴分析
J72の柱穴情報を分析してみました。

J72 説明のない柱穴の分布

発掘調査報告書で説明のない柱穴としているものの分布を、近いものを線でつないでなぞってみたのが上図です。
説明のない柱穴とは主柱、壁柱以外の柱の穴ということで、建物構造に関係しない柱穴であり、それらのほとんどが祭祀用柱の穴であると想定しています。

次のような特徴が浮かびあがります。
・主柱で囲まれる範囲を超えて説明の無い柱穴が連続するように分布しています。これから、建物主柱が取り払われた後(つまり上物撤去後)、設置された祭祀用柱があるとうことがわかります。
・B地点を中心に3重程度の同心円のような模様で祭祀用柱(つまり祭壇)が設置されたような印象を受けます。幾度かの送り祭祀があり、その途中で建物上物が除去され、それらの重合結果の姿かもしれません。
・Aは竪穴住居最後に使われた炉ですが、この炉付近は祭祀用柱は立てなかったようです。その場所に特定の物(土器や獣骨など)が置かれていたのかもしれません。
縄文人にとって故人の送りと故人が使った炉の送りとは同一事象であり、炉の場所で土器や石器や獣骨の送りが行われたのかもしれません。
私は故人の送り、炉と竪穴住居空間の送り、土器の送り、石器の送り、動物の送り…が故人の送りを軸に展開する全て同一の「送り」として営まれたと考えています。
故人の送りを盛大に行うためにはその一環として炉送りが営まれ、さらにその炉送りの一環として土器送り・石器送り・動物送りが存在したと考えます。
・C地点に大きな柱とそれを囲む柱が存在していたようです。上物が除去された後、この場が送り場であることを遠方からでもわかるような背の高い幟などが建てられたのかもしれません。

2017年4月22日土曜日

建物構造と関係しない竪穴住居柱穴の配列様式

大膳野南貝塚 前期後葉集落 建物構造と関係しない竪穴住居柱穴の配列様式

大膳野南貝塚前期後葉集落の竪穴住居に関して発掘調査報告書では4つのグループについてその位置近接性からその関連性を指摘し、「これらの住居には時期的な前後関係があるものと推定される。」と記述しています。
2017.04.18記事「複数竪穴住居の関連性検討」参照

この記事ではそのうちのBグループ(J56、J58、J60、J121)について検討します。

J56、J58、J60、J121の位置関係

1 出土物による検討
次の2つの表に示すとおり、J56は浮島式土器優勢、J58・J60は諸磯土器優勢であり、いくら距離が近くてもJ56とJ58・J60を同じグループとして見ることは困難であると感じます。
なおJ121は出土物がありませんから出土物からの判断はできません。

大膳野南貝塚 前期後葉集落 獣骨出土量

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居

2 竪穴住居柱穴分析による検討
次に竪穴住居の柱穴を分析するとJ56とJ121が同じグループに、J58とJ60が同じグループに分けることができましたので記述します。

2-1 J56とJ121
J56とJ121の発掘調査報告書による柱穴分類を示します

J56柱穴分類

J121柱穴分類

この分類結果のうち説明の無い柱穴および着目されているがその意味が不明の柱穴の分布を書き込んでみました。

J56 説明のない柱穴、意味が不明の柱穴の分布

現在の私の知識感覚ではAは竪穴住居にもともと常備されていた祭壇、BとCは竪穴住居廃絶時の送り祭祀の祭壇であると空想します。
ABCと住居平面との関係を模式的に表現すると次のようになります

J56号住居祉 建物構造と関係しない柱穴の配列模様

J121についても説明の無い柱穴分布を書き込んでみました。

J121 説明のない柱穴の分布

J56と同じようにABCが現れ、その意味をJ56と同じように空想することができます。
ABCと住居平面との関係を模式的に表現すると次のようになります

J121号住居祉 建物構造と関係しない柱穴の配列模様

J56とJ121は建物構造と関係しない柱穴つまり祭壇柱穴の配列が全く同じであるということが判明しました。

J56とJ121は単に近接しているだけなく、同じ祭壇を設けて祭祀を挙行する同じ血族集団の竪穴住居であると結論付けることができます。

2-2 J58とJ60
J58とJ60の発掘調査報告書による柱穴分類を示します

J58柱穴分類

J60柱穴分類

J58について、この分類結果のうち説明の無い柱穴および着目されているがその意味が不明の柱穴の分布を書き込んでみました。

J58 説明のない柱穴の分布

柱穴1が1つ、柱穴2つのセットが3つ、柱穴3つのセットが8つ存在していて、各所にシンメトリーが観察できます。
この観察結果を模式的に表現すると次のようになります。

J58号住居祉の「建物構造と関係しない柱穴」のシンメトリー
Iは住居外郭線が歪んでいるので仕方なくシンメトリーの確保が出来なかったのだと推察します。またKも住居中央の使い方の都合で位置が少しずれています。それ以外はシンメトリーが強く意識されています。

これらの柱穴セットのシンメトリーを意識した配列の全体が竪穴住居廃絶時の祭壇を構成していたと考えます。

J56、J121の祭壇のつくりとまったく異なります。

J60の説明の無い柱穴(=建物構造と関係しない柱穴=祭壇用柱穴)を次に示します。

J60の説明の無い柱穴分布

主柱に囲まれる範囲内に集中しています。特段のパターンは観察できません。

J58とJ60の祭壇用柱穴の配置パターンは異なりますが、柱を線状に並べるというアイヌの祭壇に見られるようなパターンではないという点では一致します。

以上柱穴分布パターンからJ56・J121とJ58・J60は竪穴住居として関連性が無いと判断できます。

3 結論
柱穴分布パターンと優勢土器の情報と合わせるとJ56・J121とJ58・J60は全く別のグループであると結論づけることができます。

近接している意味は、その場所が台地中央の1等地であるので、時間的に重ならないでJ56・J121とJ58・J60が前後して存在したということかもしれません。
その場合は優勢土器形式の間に明確な社会的優劣が観察できるので、J58・J60(諸磯式、劣位)が前、J56・J121(浮島式、優位)が後と想像します。
その場所に最初いた諸磯式を後から浮島式が奪ったのだと思います。