2015年3月31日火曜日

古墳時代と奈良時代の水田開発の違い

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.101 古墳時代と奈良時代の水田開発の違い

古墳時代の水田開発の検討(2015.02.16記事「上ノ台遺跡 米・雑穀栽培」)と奈良時代の水田開発の検討(2015.03.30記事「奈良の都への供米のための水田開発」)が揃いましたので、比較しておきます。

1 古墳時代の水田開発
次の図に古墳時代の遺跡分布(古墳を除く)・水田開発地(想定)例・開発主導地を示しました。

古墳時代の遺跡分布(古墳を除く)・水田開発地(想定)例・開発主導地
基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)

この図に示すように古墳時代の水田開発地は谷津の最源頭部で行われたようです。

次の図は近世の資料です。

屋敷村絵図 1687(貞享4)年11月作成の写 (国立国会図書館所蔵)
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)から引用 追記

この図に書いたように、古代水田は近世の「古田」の範囲以上の拡がりを持っていたと考えることができませんから、古墳時代水田は大変狭小であったと考えられます。

屋敷村絵図に出てくる付近の古代水田開発を主導したのは古墳時代上ノ台遺跡であると考えられますが、上ノ台遺跡からは米を食ったという証拠の検出がきわめて少ないです。これは、当時の水田面積がきわめて狭小であったことと対応しているものと考えます。

古墳時代水田が谷津源頭部の縁にへばりつくようにしか存在していないとすると、それは源頭部から染み出る地下水のみを安定水源として、日照り、水害から無縁の場所を選んでいるということであり、灌漑施設や治水施設は全く存在しなかったと考えられます。

上ノ台遺跡は東鉄砲塚古墳群に前方後円墳をつくっているので、土木技術力や人員動員力はあったのですが、生産施設インフラ建設にはそれらを投入しなかったことになります。そうした上ノ台遺跡集落リーダーの執った路線の結末が、上ノ台遺跡の古墳時代末の集落終焉につながるのだと思います。

2 奈良時代の水田開発
次の図に奈良・平安時代の遺跡分布・水田開発地・開発主導地を示しました。

奈良・平安時代の遺跡分布・水田開発地・開発主導地
基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)

この図に示す水田開発地(奈良熊・実籾田の水田開発)は奈良熊の地名から判る様に奈良時代に行われたものと考えられます。

奈良熊(=奈良供米)の名称から中央直轄の開発であり、直道遺跡や居寒台遺跡が含まれる花見川河口拠点集落が現場主導して開発したものであると考えられます。

この水田開発地は浜田川の源頭部ではなく、谷津の中下流部です。
谷津の源頭部ではありませんから、何らかの灌漑施設、治水施設が必要になります。
律令国家はこの水田開発のために灌漑施設や治水施設という社会インフラを建設したことになります。
社会インフラを建設しなかった古墳時代上ノ台遺跡集落ときわめて対照的です。

2015年3月30日月曜日

奈良の都への供米のための水田開発

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.100 奈良の都への供米のための水田開発

1 花見川-平戸川筋における古墳時代と奈良・平安時代の遺跡分布
次の図は花見川-平戸川(現八千代市新川)筋における古墳時代遺跡分布(古墳を除く)と奈良・平安時代遺跡分布を並べた物です。

花見川-平戸川筋における古墳時代遺跡分布(古墳を除く)と奈良・平安時代遺跡分布

奈良・平安時代になると地域開発が活発化して遺跡分布が拡大している様子が顕著にわかります。

特に平戸川筋では地域開発が顕著です。

なぜ平戸川筋に地域開発が顕著であるのかという理由など、その詳しい検討は追って順次記事にする予定です。

この記事では花見川の河口付近(実際は現在の浜田川筋)に、奈良・平安時代になると遺跡が集中する様子について検討します。

2 花見川河口付近(浜田川筋)の奈良・平安時代遺跡分布

花見川河口付近(浜田川筋)の奈良・平安時代遺跡分布

遺跡は土師器が出土するので集落があったと考えられるのですが、発掘調査がおこなわれた場所は無く、遺物からどのような開発が行われたのかということはわかりません。

しかし、遺跡分布からは、古墳時代にはなかった集落が奈良時代になると集中して生まれるのですから、特定目的の地域開発が行われた場所であることは推察できます。

3 浜田川沿いの奈良時代地域開発の様子推察
谷津沿いに集落が分布することから谷津を開拓して水田を造成したことがもっとも考えられることです。

さて、この土地の小字が奈良熊、奈良熊外野となっていて、遺跡名称にもなっています。

さらに実籾田という小字もあります。直ぐ北は習志野市域となっていて実籾という地名が拡がっています。

これらの地名が奈良・平安時代の地域開発の様子を現在にまで伝承していると考えます。

奈良熊、実籾田などの小字分布
奈良熊、実籾田、奈良熊外野の位置は「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)による。

奈良熊(ナラクマ)は奈良供米(ナラクマイ)の転だと思います。

奈良は「奈良の都」です。「供米」は辞書では次のような用語です。

く‐まい【供米】
〖名〗 (「く」は「供」の呉音)
① 神仏にそなえる米。寺社に納める米。また、神仏にそなえたのち、下げてきた米。おくま。くま。くましね。
※大鏡(12C前)二「御堂には〈略〉供米三十石を定図におかれて、たゆることなし」
② 天皇の御膳飯。また、天子に供したのち、人々に与えられた御飯。
※随筆・甲子夜話(1821‐41)八一「これは御供米と云て、禁裏様へ正月三ケ日御備の御膳飯を洗干たるにて」
『精選版 日本語国語大辞典』 小学館

奈良熊=奈良供米は「奈良の都に納める米」という意味であり、この場所が中央直轄の開発地であったことを、地名が伝えています。

実籾田は御籾田であり、(奈良の都に納める)大切な籾米を生産する田という意味です。

奈良熊と実籾田(あるいは実籾)は一緒に捉えるべき地名です。その地名が奈良時代の地域開発の様子を現代に伝えています。

奈良熊外野(ナラクマソトノ)は奈良熊という開発地の本来地域の外という意味ですから、奈良熊と奈良熊外野の配置から奈良熊の本来開発地のおおよその位置が判るのかもしれません。

現代人の感覚からいえばあまりに狭小な谷津田を開発して、そこで生産した僅かな米を奈良の都に運んでいたのですから(あるいは奈良の都に運ぶという大スローガンの基に団結して開拓をおこなったのですから)、この付近の風景を知っている1人として感慨深いものがあります。

2015年3月29日日曜日

古墳築造時の構造物法線(現場指示地割線)が出土したという事実を知る

このブログの近時のテーマ(花見川筋=古代東海道水運支路)と関係ありませんが、直道遺跡出土銙帯閲覧の際に対応していただいた千葉市埋蔵文化財調査センターの研究員の方から聞いた興味深い情報を紹介します。

当方から質問して、銙帯や直道遺跡や古代建造物等について、研究員の方からいろいろな話を聞いている中で、「千葉市の人形塚古墳からその設計図に該当する遺構が見つかっている。」という話をポロリと聞きました。

趣味心として、本来テーマを離れて強烈に興味が湧いたのですが、訪問主目的である銙帯・直道遺跡・古代建造物等の情報収集を優先させる関係から詳しい質問は差し控えました。

自宅に帰って、教えていただいた「千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)」を探すと、事例「219 生実・椎名崎遺跡群」に人形塚古墳の築造時構造物法線(現場指示地割線)遺構の写真が掲載されていました。

またWEB検索して「笹生衛(1987):椎名崎古墳群・人形塚古墳発掘調査概要-人形塚古墳旧地表面上の地割線について-、千葉県文化財センター研究連絡誌第19号」という論文も読むことができました。

以下、古墳時代の古墳築造時構造物法線(現場指示地割線)そのものが出土したという興味ある事実を上記資料を引用して紹介します。

1 人形塚古墳の概要
・村田川下流北岸台地上に形成された椎名崎古墳群中の前方後円墳で、明治年間に武人埴輪が出土しています。
・1986年度に発掘が行われ、顎ひげのある人物埴輪など多数の埴輪が出土しています。埋葬施設は2基あり、銀装飾り太刀1振りを含む14振りの太刀・50本以上の鉄鏃・玉類などが出土しています。
・墳丘の形態は二段築成の前方後円墳で、墳丘全長41m、後円部径25m、前方部幅30m、後円部高2.8m、前方部高3.2mで長方形の二重周溝を巡らしています。

人形塚古墳の位置

2 旧地表面上の地割線の出土
・古墳墳丘下の旧地表面から幅約20cm、深さ3~7cmの断面「U」字形の溝状遺構が検出されました。
・溝状遺構の覆土と墳丘盛土最下層の土を分別することはできなかったので、地割線溝は墳丘盛土工事中に盛土によって埋められたことを示しています。

次の空中写真は、古墳全景と検出された溝状遺構に石灰を撒いて撮った溝状遺構写真です。

人形塚古墳全景と墳丘下旧地表面の溝状遺構
人形塚古墳全景は「千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)」(千葉県発行)から引用
溝状遺構は「平成20年度出土遺物巡回展 房総発掘ものがたり-おゆみ野編-」(財団法人千葉県教育振興財団)から引用

3 墳丘平面図と地割線平面形との比較
① 後円部における径14mの正円をなす地割線は後円部上段墳丘径と一致する。
② 両側のくびれ部を結ぶように引かれた弧状の線は、後円部下段墳丘の外周線と一致する。そして、その弧から中心を求め、円を復元すると、内側の径14mの正円と同心で径25mのほぼ正円となる。
③ 前方部両側面にそって走る直線状の地割線は前方部上段墳丘の上端部稜線と一致する。

4 古墳築造工事で果たした地割線の機能
地割線の果たした機能は次のように考えられます。
・内側の径14mの円は後円部上段墳丘の版築盛土範囲を指示する。
・外側の径25mの円は後円部下段墳丘径及び後円部周溝の堀込範囲を指示している。
・前方部における直線もしくは弧状を呈する地割線についても、後円部内側の円形のものと同様に、前方部上段墳丘の盛土作業と密接な関係にあることは間違いないと思われる。
・後円部における地割線のあり方から考えて、前方部側面や前方部幅の設定、長方形二重周溝の堀込についても、墳丘下に見られたような地割線によったと推定でき、それは周溝の堀込作業中に消滅したと推測される。

このような既存文献における検討から、地割線は盛土範囲や周溝堀込範囲の現場における正確な指示線であり、土木構造物法線の地表面投影線であると考えることができます。

……………………………………………………………………
(詳細資料を入手したところ、この考察は間違っていました。正しくはブログ番外編2015.05.15記事「千葉市人形塚古墳から出土した構造物法線」をご覧ください。2015.05.15追記)

【考察】
古墳の形態を示す詳細な平面図と地割線平面図を重ねた情報を見ていないので、正確なことは言えませんが、写真を見る限り、地割線は古墳断面形状における「法尻(のりじり)」ではなく「法肩(のりかた)」を示しているようです。


地割線は断面上の法肩を表現しているように見える

もしそうだとすると、「法肩」線を示すことにより、その線を基準に所定の断面形により盛土・掘削等の工事を進めたことになります。

地割線が「法肩」線を表現するということならば、現在の堤防工事などにおいて主要法線を法肩線とするという考え方と同じです。

そうならば、古墳時代における古墳施行(土木施工)のための構造物認識方法の基本が、現在の堤防建設と同じであることが判明します。

古墳施行技術と治水技術が同根であるということが遺構面から証明される貴重な事例(初めての事例)になる可能性があります。

土木技術史的にみて大変興味深いことであると考えます。

2015.03.29 今朝の花見川

いつもの決ったコースを外れて花島を散歩しました。

柏井橋の旧橋撤去工事が続いています。

柏井橋旧橋撤去工事現場

柏井橋仮設橋から上流方向

柏井橋下流の風景 上流方向

柏井橋下流の風景 下流方向(花島方向)
谷津筋がカーブするとそれらしい川の風景が生れます。

花島橋から 上流方向
左手が花島観音のある「島」
桜が満開になると見事な風景になります。

花島橋から 下流方向
快晴の今日も、下流方向=南方向=東京湾方向には雲が出ます。
晴れの日には南の空に必ず海の影響が現れます。

花島観音の桜花

花島から上流方向(柏井方向)

2015年3月28日土曜日

再掲 銙帯の空想的復元

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.99 再掲 銙帯の空想的復元

直道遺跡出土銙帯2点を基に銙帯の空想的復元図を作成してみました。

直道遺跡出土銙帯(かたい)の空想的復元

絵としてはもっと派手なものにしたいのですが、下級官人用ということで地味な色合いの復元になりました。

実物を閲覧させていただいた千葉市埋蔵文化財調査センターには展示施設があり、銙帯の他部位も展示されていました。

千葉市埋蔵文化財調査センター展示施設の銙帯展示
(貸出中遺物は直道遺跡出土遺物)

銙帯展示には次の説明文がついていました。

「律令官人用のベルト」について
「腰帯(ようたい)」とよばれる黒漆(くろうるし)塗りの皮製ベルトには、四角や楕円形(だえんけい)の飾り金具がついていました。
皇族(こうぞく)や上級官人は金銀で飾った帯金具(おびかなぐ)、六位以下の中・下級官人は銅製黒漆塗りの金具と決められていて、服の色と共に位を示す重要な道具でした。
県内で発見される金具は、黒漆塗りのものがほとんどです。

花見川河口古代拠点集落から出土した銙帯を閲覧しました

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.98 花見川河口古代拠点集落から出土した銙帯を閲覧しました

銙帯というものを知り、大いに知的刺激を受けましたが、花見川河口古代拠点集落に位置する直道遺跡から出土した遺物「銙帯」2点を千葉市埋蔵文化財調査センターで閲覧させていただきました。

これまで幾度か記事にした直道遺跡出土銙帯(鉸具)の寸法(図のスケール)が、遺物を実見して間違っていたことを確認しましたので報告します。

1 経緯
寸法10㎝近くのバックル状遺物出土が「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会)に掲載されています。
10㎝もあるバックルは馬具に違いないと考えて、馬骨出土と一緒に記事にしました。2015.03.10記事「検見川台地の馬関連古代遺跡

その後、「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)にこの直道遺跡出土バックル状遺物が銙帯の一部(鉸具)であることが記載されていました。
10㎝もあるが馬具ではなく、銙帯という官人の服制の装飾具であると考えざるを得ない状況になり、力道山まで登場させて銙帯の学習に取り組みました。2015.03.20記事「銙帯出土遺跡分布と東海道

銙帯という服飾品からうけた知的刺激が大きかったので、その空想的復元まで試みました。2015.03.21記事「銙帯の空想的復元

しかし、一旦ブログ記事に掲載したものの、復元図を見ると、どうも納得がいきません。

寸法10㎝が間違っているのではないかと疑心暗鬼になり、千葉市教育委員会経由で遺物所蔵機関である千葉市埋蔵文化財調査センターにお願いして、遺物を閲覧させていただいた次第です。

2 直道遺跡出土銙帯(鉸具)の寸法
案の定、発掘調査報告書(「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会))の記載(具体的には鉸具のスケール)が間違っていることが判明しました。

直道遺跡出土銙帯 鉸具及び丸鞆

参考 「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会)の記載

鉸具及び丸鞆を間近に見て、自分が想像していた以上に完成度の高い青銅製品であることがわかりました。細部まで細工されていて、現代工業製品と比較しても遜色のないものです。実見してはじめてわかりました。

元資料の間違いが確認できましたので、関連記事は修正することにします。

元資料がたまたま間違っていたので、銙帯という遺物の存在を知った時、受けた刺激が増幅され、結果として自分の思考発展が図れたのかもしれません。

また元資料が間違っていたので、その現物を閲覧する機会が生れて体験を深めることができ、さらに千葉市埋蔵文化財調査センターの研究員の方からいろいろと有益なお話を聞くこともでき、とても良い経験になりました。

3 参考 直道遺跡出土銙帯と現代ベルト製品
参考までに直道遺跡出土銙帯と現代ベルト製品(男性用通常サイズ)を並べてみました。

直道遺跡出土銙帯と現代ベルト製品

古代銙帯(奈良時代)は現代ベルト製品(男性用通常サイズ)と比べると少し小ぶりです。

2015年3月26日木曜日

花見川河口古代拠点集落の特異性

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.97 花見川河口古代拠点集落の特異性

検見川台地上に展開する直道遺跡や居寒台遺跡から想定できる花見川河口古代拠点集落について、発掘調査報告書を詳細に検討すればするほど興味がつきません。しかし、他の遺跡についても検討したいので、とりあえずその特異性についてこれまでの検討を一旦まとめて、区切りをつけることにします。

1 花見川河口古代拠点集落の空間的展開イメージ
検見川台地上拠点集落の奈良・平安時代の空間的展開を示すと次のような図になります。

検見川台地の奈良・平安時代竪穴住居址検出数の分布(直道遺跡は仮定)

これまでに発掘された遺跡の情報から、検見川台地上拠点集落の展開をこのようにイメージできました。

2 遺構からみた特性
上記空間的展開図の根拠表を次に示します。

仮定を設けて直道遺跡の住居址の時代区分をした場合の検見川台地古代住居址時代別内訳

検出された遺構だけを問題にすると、奈良・平安時代では竪穴住居址40に対して掘立柱建物址は43棟になります。
双方とも建替えを含んだものです。

掘立柱建物址が主として奈良時代以降に建設されたものであると考えると、一般竪穴住居址数より掘立柱建物址数の方が多く、遺構面からめてきわめて特徴的な遺跡となっています。

掘立柱建物址が多いことから、この拠点集落が単なる一般人の居住を目的としたものではなく、特定の目的を帯びた特殊な集落であることを物語っていると考えます。

掘立柱建物址の中にはかなり細長いものがあり、馬骨が別の場所から出土していることから厩舎ではないかと想像しました。

3 遺物からみた特性
直道遺跡を例にとると、官人の服飾品である銙帯2点、武器である鉄鏃多数、鍛冶の存在を物語る鉄滓や多数の鉄製品(刀子、釣針、紡錘車、鎌、鍬、釘等)、馬骨歯等が出土しています。

直道遺跡出土鉄鏃の例
「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会)から引用

これらの出土遺物から、この集落には官人が存在し、武器を備え、武器や他の鉄製品の供給メンテナンスも行い、馬も使っていたことがわかります。

出土物から見て、この集落は律令国家の重大目的であった蝦夷戦争の成功的遂行を達成するための兵站最前線にかかわる現場であったと想定しました。

花見川河口古代拠点集落は蝦夷戦争の兵站基地の一つであったと考えます。

4 周辺地物・交通からみた特性
花見川河口古代拠点集落の周辺にはつぎのような地物が存在し、武蔵野国と常陸国を結ぶ東海道(陸路)と東海道水運支路(仮説)が交差する交通の要衝であったことがわかります。

花見川河口古代拠点集落周辺の地物と交通特性
基図は迅速図(明治15年測量)

花見川河口古代拠点集落は交通の要衝の管理運営を担う律令国家の現場事務所機能を有していた、一種の軍事基地であったと考えます。

また浮島牛牧の経営を行い、古代にあっては重要な軍事輸送手段である特牛(こて)を生産出荷していた重要な兵站機能を有していたと考えます。

5 地名からみた特性
検見川台地上の拠点集落の一部に玄蕃所(治部省所管、俘囚収容所と考える、遺構は未発見)があり、そこで俘囚の検見(尋問等)が行われたと考えます。

小字「玄蕃所」、大字「検見川」の地名はこうした古代律令国家の活動を今に伝える文化遺産です。

また、浮島牛牧の場所が牧懇(マキハリ、牧場開墾地、懇[ハリ]…開墾すること)と呼ばれていたことが、現在まで伝わり、音の変化はありますが、幕張(マクハリ)として人々に使われていると考えます。

地名「幕張」もまた、古代律令国家の活動を今に伝える文化遺産です。

律令国家の活動を伝承する地名
基図は迅速図(明治15年測量)

花見川河口古代拠点集落の様子は発掘遺構・遺物からだけでなく、伝承情報(地名)からも浮き彫りにすることができます。

6 花見川河口古代拠点集落の特異性
以上で示したように、花見川河口古代拠点集落は律令国家にとって戦略的重要性を有する兵站基地であり、同時に兵站業務に関わる集団の居住地であったと考えます。

一般住民が居住するような集落ではなかったと考えます。

なお、「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会)ではそのまとめ(第4章 まとめと考察)でつぎのように記述しています。

「直道遺跡では1次・2次にわたる本調査の結果、竪穴住居跡22軒、掘立柱建物跡20棟が検出された。竪穴住居と掘立柱建物によって構成される一般にみられる古代集落跡であることが明らかとなった。」

このブログで検討考察してきたことからすると、違和感をおぼえる記述です。

竪穴住居址と掘立柱建物址が一緒に出土すればそれは「一般にみられる古代集落跡」であるという定義なら、私の違和感は場違いです。

しかし、竪穴住居跡と掘立柱建物跡の数が拮抗していることや、銙帯・鉄鏃、馬骨等が出土したことなど、遺跡の情報を吟味すると、私はどうしても「一般にみられる古代集落跡」であるという結論を首肯できません。

2015年3月25日水曜日

予報 千葉市小字データの電子化

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.96 予報 千葉市小字データの電子化

2015.02.09記事「Illustratorによる千葉県全域小字(10万件)の簡易データベース完成」で報告した通り、千葉県下約9万3000の小字について、市町村別リストを画像としてデータベース化して地名にかかわる検討を行う際に活用しています。

図書(「千葉県地名大辞典」(角川書店))を利用するより、パソコン上でこの簡易データベースを利用する方がはるかに利用しやすいです。パソコンの画面上でチェックを書き加えたり、書き込みできますから利用しがっては(紙の)図書と比べると大きく改善されました。

しかし、何と言ってもテキストが電子化されていないので、全文検索できないことは決定的に不便です。

画像のリストを目で追って読んで、画像にいくらチェックができるといっても、数千以上の対象になるとどうしても見落としがでてしまいます。時間もかかりますし、根気を継続するのにも限度があります。

そこで、思い切って小字リストのテキスト電子化にチャレンジしました。

適切で効率的な作業方法を見つけるための検討を主眼にしてまず千葉市分(小字数約3800)についてテキスト電子化作業を行い、その完成のメドが立ってきましたので、その方法等をこの記事でメモしておきます。

1 小字リスト電子化方法の手順
ア 図書小字リストのスキャン(jpgファイル作成)

スキャンしたjpgファイル例

イ OCR(文字認識)用ファイルの作成
読み込みが1段となるリスト範囲のOCR用画像を作成し、OCRの正答率を上げるために画像解像度を大きくする。

OCR用jpgファイル例

ウ DocuWorksにOCR用ファイルを取り込む

エ DocuWorksでOCR処理する

DocuWorksでOCR処理した画面

オ OCR結果をエディターにコピペする

カ (別画面に元画像ファイルを表示して、それと比較しながら)エディター画面上でOCR処理結果のテキストデータを調整して完成させる

エディター画面上で調整した小字リスト

2 OCR処理するソフトについて
OCR処理するソフトとして最初はAdobe Acrobat Proを使ったのですが、一般文章と違い単語が途切れ途切れでかつルビがあるため、勝手に多段組み形式文章として読み込みこんでしまい、その読み込んだ結果を編集する機能がないため、結局使い物になる結果を得ることができませんでした。

webでOCR処理できるソフトの情報を調べたところ、DocuWorksの情報をみつけ、たまたまDocuWorksを持っていたので、試してみました。

試したところ、段組みやその他OCR処理する条件を詳細に設定できることと、レイアウト解析という機能でOCR認識枠を編集できることを知り、今回の使用に使えるソフトであることがわかりました。

3 テキスト電子化結果の整理について
当初Excelでデータベースを作成することを直接目指して、いろいろと模索しました。

しかし、紙の情報を電子化するステップとその電子化した情報を使ってExcelで何らかのデータベースを作成するステップは全く別ものであるということに途中で気がつきました。

そこで、まず紙の情報を電子化する作業を完成させ、それが出来たならその後そのデータをExcelに流し込む作業を行うことにしました。

現在行っている作業は、紙の上の情報(テキスト)をほぼそのままの形でエディター上の情報にする作業です。

4 小字リスト電子化の効果
作業方法を決めるための検討をメインとした最初の試行作業である千葉市分作業(小字約3800)の完成に近づいて、小字リスト電子化による効果が自分にとっては大きなものであるという実感を深めています。

千葉市の小字は「「絵にみる図でよむ千葉市図誌 上下巻」(千葉市発行)で詳しく紹介され、その元資料として「千葉市小字図(タイプ印刷)」(和田茂右衛門、昭和53年)が存在しています。
これだけ詳しい資料が有る市町村は千葉県下では少ないと思います。

しかし、詳しい資料はありますが、○○区○○町には△△という小字があるということが判るだけです。△△という小字はどこにあるかという検討はほとんど不可能です。

例えば「畑、旗、幡・・・」というハタと読む漢字を含む小字を全部抽出したいと考えて、千葉市を対象にそれを実行した人は過去誰一人いないと思います。
しかし、電子化によりそれがいとも簡単にできます。

ハタと読む小字が全部抽出できれば、その詳細な分布図をつくることは手間のかかることですが、町丁目毎の出現分布図をつくることは比較的簡単にできます。

小字リスト電子化によりこれまで誰も気がつかなかったヒントを沢山見つけることが可能になりそうな予感を作業しながら日々深めています。

詳しくは千葉市分の小字リスト電子化が完成した後に、その効果をレポートします。

2015年3月24日火曜日

小型竪穴住居址の住人は誰か

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.95 小型竪穴住居址の住人は誰か

このブログの一連記事の問題意識(花見川-平戸川筋の古代交通)とずれてしまいますが、古代遺跡発掘調査報告書を多数閲覧して気になっている事柄をメモしておきます。

上ノ台遺跡、直道遺跡、白幡前遺跡などの発掘全体平面図に描かれている竪穴住居址をみると、時々小型のものが目に付きます。

竃があるので住居であることに間違いないと思いますが、柱穴があっても1-2であり、柱穴のないものが多いです。住居としては粗末なものであったと考えます。

上ノ台遺跡の小型竪穴住居址の例
「千葉・上ノ台遺跡」(1981、千葉市教育委員会)より引用、追記

直道遺跡の小型竪穴住居址の例
「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会)より引用、追記

白幡前遺跡の小型竪穴住居址の例
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)[千葉県文化財センター調査報告第188集]より引用、追記

資料 白幡前遺跡1群Aグループの竪穴住居跡
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)[千葉県文化財センター調査報告第188集]より引用

小型竪穴住居址は外形が3m×3m程度で、実際の居住部分の広さは2.5m×2.5mよりも狭いものです。
人は腰をかがめて座るか、寝るしかない天井高だったと思われます。

この一段と粗末で狭小な小型竪穴住居址に誰が住んでいたか、気になりました。

しかし、各遺跡発掘調査報告書にはこの小型竪穴住居の用途についての記述はありません。

発掘関係者はこの特徴ある小型竪穴住居の用途、あるいは利用者がだれであるかわかっているのだけれども直接証拠がないので言及をさけているのだと思います。

古代遺跡の竪穴住居址に関する研究論文や専門図書には恐らく、一般論としての確定正解が既に存在すると思います。

しかし、小型竪穴住居址の利用者の問題にも興味を持って論文や専門図書を調べ出すとブログのテーマが発散しすぎて、何が何だかわからなくなってしまいます。
そこで、能動的に調べることは当面しないで、本来テーマを検討することに専念することとします。

この記事では現時点における、正解を見ていない段階での直感レベルでの考えを記録しておきます。

1 小型竪穴住居址の住人あるいは利用法の予想1
直観的には集落リーダ等の私有財産である奴婢(奴隷)の住居であると考えます。

蝦夷戦争で俘囚が陸奥国から多数送られてくるので、奈良時代には奴婢の数も増え、白幡前遺跡の(部分的な)例では小型竪穴住居址群となっていて、奴婢(奴隷)キャンプの様相を呈しています。奴婢は貴重な現場労働力だったのだと思います。

2 小型竪穴住居址の住人あるいは利用法の予想2
つぎのような住人あるいは利用法も考えられますが、私にはいずれも机上の空論のように思えてしまうものです。

・財力のある家族が一種の子ども部屋とか離れとして使っていた。
・貧しい住民(家族)の住居であった。
・来訪者用の臨時宿泊施設であった。
・単身者用住居。
・茶室の起原となるような静謐空間、祈りや信仰の場として利用された。

いつぞに小型竪穴住居址の用途が判った時がきましたなら、その結果をブログ記事で報告します。

2015年3月23日月曜日

ハマグリを食ったのは誰か

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.94 ハマグリを食ったのは誰か

銙帯という古代服飾品を知り、その出土遺跡分布図を見て、大いに刺激を受けています。

その刺激を受けた感想をメモしておきます。

1 ハマグリを食ったのは誰か
花見川地峡の北側の平戸川(現八千代市の新川)筋の古代遺跡から多量のハマグリが出土します。

ハマグリの貝殻が出土するのですから、活貝を東京湾から直送しています。東京湾の海の幸が平戸川筋古代遺跡に直送されていたと考えて間違いありません。

距離からして、また花見川と平戸川の分水界付近には律令国家が建設した直線道路(仮説)があったのですから、朝採集されたハマグリや他の魚介類は、川と道路を通って村神(村上)の各集落に運ばれ、夕食のおかずになっていたと思います。

これまで、このハマグリ出土から、そのハマグリを採集したのは誰かという問題意識を持ってきました。2015.03.11記事「古代幕張付近のハマグリ採集者は誰か
この問題意識は解決に向けて検討中です。

さて、平戸川(現八千代市新川)筋の銙帯出土遺跡分布とハマグリ出土古代遺跡が重なります。

銙帯出土遺跡とハマグリ出土遺跡
基図の薄ブルー小丸は古墳時代~平安時代の遺跡

この図を見て、蝦夷戦争のための戦略的兵站業務(戦略物資生産・供出、輸送支援等)に日夜邁進している(銙帯を付けた)官人がハマグリを食ったのではないかと考えました。

新鮮な東京湾産魚介類を象徴するハマグリの出土を、これまで単純な集落間交易や交通路の問題としてだけで考えてきました。

しかし、官人がハマグリを食っていたと考えた途端に、単純な交易ではなく、官人達を兵站業務遂行の先兵として配置し働かせている、より上位の地方権力機構が関わっていたのかもしれないと、想像するようになりました。

例えば銙帯出土とハマグリ出土が重なる村上込の内遺跡、白幡前遺跡、北海道遺跡、権現後遺跡などの官人は高津馬牧の経営とか、高津(直轄港湾)の運営とか、高津を通る将兵や俘囚に対する補給・輸送支援など戦略的兵站業務を担当していたと思います。(より具体的には今後検討する予定です。)

さらに、自らの食料を得るために周辺の谷津や台地の開発(開拓)も行っていたと思います。

そうした国家戦略的で困難な業務を遂行させていた上位地方権力機構が、現場官人に対する見返りサービスの一環としてハマグリや新鮮な魚介類を優先的に提供してもおかしくないと想像しました。

ハマグリ出土は単なる交易とか、交通の問題ではなく、水系を越えてまで新鮮魚介類を提供するという高次行政サービスの存在として捉えることができると考えたのです。

太平洋戦争中に物資が配給制になり、軍や関係機関に優先して物資供給を行い、国民には耐乏生活を強いました。それに類するようななんらかの統制が古代にもあり、ハマグリや魚介類の生産とその流通が、計画的・重点的に官優先で行われていたのではないかと想像しました。

全ては蝦夷戦争を成功的に進めるために、人々の活動が高度に組織・統制されていたと考えます。その様子の一端が銙帯出土とハマグリ出土が重なる現象から、垣間見えたと感じました。

官人の下で動員されて働く一般住民や俘囚などが果たしてハマグリを食っていたか、遺跡発掘調査報告書の情報を詳しく分析すればわかるかもしれません。

2 各遺跡の戦略的兵站業務の内容は
花見川-平戸川筋が東海道水運支路(仮説)であり、蝦夷戦争の重要な兵站ゾーンであると考えると、各遺跡(集落)が担う兵站業務の特徴が何であるか、興味が湧きます。

発掘された遺跡(集落)の様子は、そこに人が居住していたのですから、集落一般の姿と似ていると思います。しかし、漫然と人が暮らしていたのではなく、特定の兵站業務遂行に邁進していたのですから、その兵站業務の内容を窺うことが出来るような遺構・遺物等が必ずあると考えます。

遺跡(集落)が担った兵站業務を、これからのブログ活動で検討していきたいと思います。

なお、「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)では銙帯出土遺跡について次のような説明をしていますが、下線を引いた部分に違和感を持っています。

「千葉県においては、117遺跡から260点以上の銙帯が出土している。この数値は、全国的にみてもかなり多いといえる。関東地方は、畿内に次いで銙帯の出土点数が多い地域であるが、そのなかにおいても千葉県での出土点数は多いものである。また、関東地方のほかの都県と異なり、一般の集落跡からの出土がほとんどである点も特徴といえる。特に、8世紀後半からの大規模な開発によって、すがたを現した集落からの出土が目立って多い。地域的には、やはり大規模な発掘調査が実施された印旛沼の南から東にかけての地域、千葉市の南部地域、山武郡南部地域に集中している。」

銙帯が出土した遺跡の多くは「一般の集落」ではなく、蝦夷戦争の兵站業務遂行に特化した集団の集落であり、活動拠点であったように感じます。

例えば、兵部省所管施設(牧・駅家・津)等の建設・管理運営を担っていた集団が居住する場などから銙帯が出土しているように感じます。

こうした考えから、千葉県では銙帯が「一般の集落」から出土するという記述に違和感を感じます。

花見川-平戸川筋をイメージすると、銙帯が出土した、つまり官人がいたということは、その遺跡(集落)が国家的目的の一部を担って活動していた特別な遺跡(集落)であったと考えます。

2015年3月22日日曜日

2015.03.22 今朝の花見川

柏井橋近くの青い水管橋下のコブシの白い花が満開に近づいています。

コブシの花

川沿いに1本だけ満開の小さなサクラがあります。

満開の早咲きサクラ

横戸緑地下付近の花見川

久しぶりに上ガスを見ました。

上ガスは春~初夏の花見川の風物詩です。

花見川の上ガスは3月~10月に見られます。4月~6月頃が最盛期で近くの勝田川谷津における農業用深層地下水揚水と連動しているようです。

花見川の上ガス

弁天橋から下流

弁天橋から上流

横戸緑地のサクラのつぼみ

2015年3月21日土曜日

銙帯の空想的復元

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.93 銙帯の空想的復元

直道遺跡から銙帯出土を知り、そもそも銙帯という言葉の意味をはじめて知りました。

さらに千葉県の銙帯出土遺跡分布を知り、それがこのブログで検討している花見川-平戸川筋の東海道水運支路(仮説)を考える上で貴重な情報であることに気がつきました。

銙帯出土遺跡分布図からは、これまで考えていなかった新発想が幾つか生まれています。

銙帯という物を知ったことにより東海道水運支路仮説の展開が豊かになりそうです。

そのような自分の発想を刺激する銙帯という物の空想的復元図を作成してみました。

直道遺跡出土銙帯(かたい)の空想的復元

……………………………………………………………………
2015.03.22 追記

直道遺跡出土銙帯(かたい)の空想的復元図を作成したのですが、元情報(「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会))にミス(鉸具のスケールが間違っている)がある可能性を感じましたので、図は一時削除します。
元情報のミスが判明しましたら、図を作成し直して掲載します。

2015.03.28 追記
元情報のミスを確認し、復元図を作成し直して、掲載しました。

参考記事
2015.03.28記事「花見川河口古代拠点集落から出土した銙帯を閲覧しました
2015.03.28記事「再掲 銙帯の空想的復元

2015年3月20日金曜日

銙帯出土遺跡分布と東海道

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.92 銙帯出土遺跡分布と東海道

偶然、これまで馬具と思っていたバックルが銙帯(かたい)という製品であることを知りました。(2015.03.09記事「検見川台地から銙帯具出土を知る」参照)

銙帯は奈良時代官人の服制にかかわる製品です。官人がその官位(つまり権力)を象徴・誇示する重要な装飾物です。

小学生の頃、風呂屋の白黒テレビ(一般家庭にテレビは無かった)で力道山がルーテーズに空手チョップを浴びせる様子を見て感情的興奮を覚えました。
そして、勝利した力道山が得意げに立派なチャンピョンベルトを腰に巻いて手を振っていました。

その格闘技で使われるチャンピョンベルトの文化的始源をたどると、古代遺跡から出土する銙帯に行きつくことを理解しました。

閑話休題、「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)に銙帯出土遺跡位置図が掲載されています。

この位置図を見て、思わず知的興奮を覚えましたので、その理由を記録しておきます。

銙帯出土遺跡位置図
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)

「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)では次のような説明をしています。
千葉県においては、117遺跡から260点以上の銙帯が出土している。この数値は、全国的にみてもかなり多いといえる。関東地方は、畿内に次いで銙帯の出土点数が多い地域であるが、そのなかにおいても千葉県での出土点数は多いものである。また、関東地方のほかの都県と異なり、一般の集落跡からの出土がほとんどである点も特徴といえる。特に、8世紀後半からの大規模な開発によって、すがたを現した集落からの出土が目立って多い。地域的には、やはり大規模な発掘調査が実施された印旛沼の南から東にかけての地域、千葉市の南部地域、山武郡南部地域に集中している。

このマップを見て、九十九里平野に面する(つまり太平洋に面する)遺跡は別にして、それ以外の遺跡は全て東海道駅路網及び東海道水運支路(仮説)沿いであることを直感的に理解しました。

その直感的理解を図解すると次のようになります。

銙帯出土遺跡と東海道駅路網・東海道水運支路(仮説)

銙帯が出土するということはそこに官人が居住していたということであり、その官人は単純な地域支配ということではなく、律令国家の戦略に基づいて計画的に配置されて業務遂行に邁進していたと考えられます。

官人たちが邁進した業務とは牛や馬の生産を含む軍需物資生産とそのための地域開発、西日本から陸奥国に向かう兵員に対する物資補給と輸送、陸奥国から帰還する将兵や送られてくる俘囚に対する補給と輸送、俘囚の検見、戦利品の輸送分配などいずれも蝦夷戦争の兵站(Military Logistics)にかかわる業務がメインであったと推測できます。

下総国は蝦夷戦争の最大の兵站基地であり、官人はその最先端で業務遂行していたと考えます。

このように考えると、銙帯出土遺跡は蝦夷戦争下にある奈良時代官人配置拠点を意味していて、その拠点が全て東海道駅路網と東海道水運支路(仮説)沿いであることは当然のことであるといえます。

また、逆に発想すれば、銙帯出土遺跡はそれを結ぶ幹線交通路存在を示唆することになります。

平戸川(現八千代市新川)沿いに出土する多数の銙帯はそれだけ多数の官人が国家的戦略業務に携わっていたことを示しますが、その場所は必ず東京湾沿い東海道駅路と結ばれなければなりません。
そのルートは平戸川-花見川ルート以外に考えられませんから、東海道水運支路(仮説)の確からしさが銙帯出土遺跡位置図によって強まります。


なお、銙帯出土遺跡位置図から別の興味深い発想が生れましたので、次の記事でメモします。

2015年3月19日木曜日

検見川台地から銙帯具出土を知る

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.91 検見川台地から銙帯具出土を知る

別の調べ事で「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)をペラペラ見ていたら、直道遺跡出土の馬具と考えた出土物と同じ製品を「(4)官人と銙帯」(第5節奈良・平安時代2遺物)の項でたまたま目にしました。

よく見ると銙帯具実測図になんと直道遺跡出土物も出ていました。
直道遺跡からは2つの銙帯(かたい)出土がリストアップされ、紹介されています。

これまでこのブログで馬具と考えていた製品が銙帯具という製品であることを知りましたので、訂正して報告します。(2015.03.10記事「検見川台地の馬関連古代遺跡」参照)

次に直道遺跡出土銙帯具と別遺跡から出土した類似製品を並べて表示します。

直道遺跡出土銙帯具と他遺跡出土類似銙帯具
(2015.03.29追記 図中で元資料の誤指摘)

鉸具(かこ)は尾錠止め(ピンバックル)、丸鞆(まるとも)はベルトに付けた飾具。

銙帯の説明
金・銀・玉・石の装飾板(銙)や垂飾を革帯または布帯にとりつけ,尾錠で締める腰帯の総称。本来は中央アジアや北方胡族の間に行われた服飾具であった。六朝の頃に中国に伝わり,動物や植物文様を透し彫した銙板を装着したものが盛行する。隋・唐時代には官人,貴族の服制として整い,品級や位階によって玉・金・銀・銅・鉄の5種の銙が定められた。日本では古墳時代の4世紀末に,竜文・心葉文をあしらった金銅製銙帯があらわれる。奈良時代には唐制にならって方形(巡方〘じゆんぽう〙)と半円形(丸鞆〘まるとも〙)の銙を組み合わせた革帯が官人の服制に採用され,五位以上は金・銀帯,六位以下は銅の銙に黒漆を塗った烏油帯〘くろつくりのおび〙が行われた。なお,六位以下の下級官人用の銅銙帯は銙の大・小で官位をあらわしたらしい。平安初期には石製銙(▶石帯〘せきたい〙)に変わり,高級貴族は玉・瑪瑙〘めのう〙・水晶をはじめ,犀角・玳瑁〘たいまい〙などの銙を用い,次第に華美な装身具へと変わってゆく。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ

銙帯は奈良時代官人の服制ですから、銙帯出土により直道遺跡に奈良時代官人が居住していたことが判明しました。つまり直道遺跡が一般集落というよりも地域支配の拠点であったことが確かめられたことになります。

直道遺跡からの銙帯出土は、直道遺跡が東海道浮島駅家と花見川河口津(東京湾-花見川-平戸川-印旛浦-香取海水運路の拠点)や浮島牛牧を抱える律令国家の戦略要衝であったことに対応していることとして理解することができます。

2015年3月18日水曜日

偶然か因果関係か? 追補メモ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.90 偶然か因果関係か? 追補メモ

2015.03.17記事「偶然か因果関係か? 最大風速風向、竪穴住居址方向、凸地形方向」の追補メモを掲載します。

1 風向表の視覚化
千葉測候所(現千葉特別地域気象観測所)が観測した風向と風速のデータの風向欄に方向を矢印で描きこんで、直感的にわかるようにしました。

千葉の風向と風速

毎月の最大風速の風向は、3月、6~9月の5ヶ月間は南南西であり、この風向に近い南西、西南西、南南東を加えると10ヶ月間になります。

私は約30年千葉市に住んでいますが、これまで一度も強風時の風向がほとんど一定して南南西およびその近くであるという事実を知りませんでした。自然から隔絶した人工環境のなかで暮らしていることに気がつかされました。

風の最多風向(これが我々が感じているいつもの風向)と最大風速時の風向とがなぜ違うのか、とても興味が湧きます。

おそらく、東京湾の形という地形的要因が強く働いて、どのような風向の風も、強風になると結局地形に制約されて全部南南西の風に収斂してしまうのだと想像します。これは専門家に話を聞けば、正解を得ることができると思います。

2 竪穴住居址の上部構造の違いが見えてきた

千葉市では強風時に南南西及びその近くの風が卓越していて、それが古墳時代竪穴住居址の対角線軸の方向と一致することに気がつきました。

その後、新たなことに気がついたので、メモしておきます。

次の図を使って説明します。

竪穴住居址と南南西の風との関係

Aの竪穴住居址対角線軸(仮称)は強風時卓越風向(南南西)と同じです。

Bの竪穴住居址対角線軸(仮称)は強風時卓越風向(南南西)と異なります。しかし、この住居址について、対角線ではなくCのような軸線を引くとこの軸線は南南西になります。Aと同じ方向になります。

このことから、次のような想像をしました。
Aの住居は竪穴から空中に立ち上がった屋根部分が4角錐や円錐のようになっていて、それで南南西の強風に対する抵抗を和らげているのではないか。
南南西の風を意識して、それに対抗できる上部構造の強度を得るために、対角線軸が設定されているのではないか。

一方Cの住居は屋根部分にCの方向に棟木があり、棟木の両側にハの字に2枚の屋根を配して風の抵抗を和らげているのではないか。

AよりCの住居の方が構造的に頑丈なものです。時代的にもAは古墳時代後期、Cは奈良時代以降ですから技術的変化と時代の違いが合います。

発掘平面図ではAとCについて、竪穴の向き以外の違いは一見ではわかりませんが、上部構造(屋根)が異なれば、おそらく柱の太さの違いに起因する柱穴の大きさや深さなど、土台部分の形状に必ず違いが生まれると考えます。

今後発掘調査報告書を詳細に吟味してみたいと思います。



3 南南西の強風が千葉の海岸地形をつくっている

台地海蝕崖と砂丘の発達は南南西強風が強く係っている

考古歴史の興味ではなく地学的興味として、南南西の風が千葉市の海岸地形形成に大きな役割をはたしていることに気がつきました。

南南西の強風が砂丘を形成したことは間違いないと考えますが、それ以前に、砂丘をつくるほどの砂がどのように供給されたかということが問題になります。

砂丘の砂は、台地が東京湾の潮流や波力エネルギーにより侵蝕されて供給されたのだと考えます。その証拠に、台地前面の海の底には広い波食台が拡がっています。

この台地侵蝕を引き起こした主要営力は波力エネルギーであり、それはとりもなおさず南南西の強風によってもたらされたものと考えます。