花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.235 メモ 地名と墨書土器の文字 その2
2015.10.30記事「メモ 地名と墨書土器の文字」では大層偉そうな気分で記事を書きました。
墨書文字「草田」(カヤタ)が地名そのものではなく、「草(カヤ…くさ)」が生えるような生産性の低い水田の増収を願う祈願語であるという説を説明しました。
1日経って、この記事を読み返して、「違うかもしれない?」という異説が頭脳中に発生しました。
偉そうな記事を書いた翌日、自ら異説を唱えるのですから、恥ずかしさと向上突破感とが混ざった複雑な感情が渦巻いています。
自らの感情分析はさておいて、「草田」(カヤタ)が地名そのものではなく、生活生産の原材料増産を祈願していたという説を説明します。
辞書による「かや」の説明を次に引用します。
かや【茅・萱】
〖名〗
① 屋根を葺(ふ)くのに用いるイネ科、カヤツリグサ科の大形草本の総称。主としてススキ、チガヤ、スゲなどが用いられる。茅根。茅草。<季・秋>
※古事記(712)上「爾に即ち其の海辺の波限(なぎさ)に鵜の羽を以ちて〓草(かや)と為て産殿を造りき。〈略〉〈波限を訓みて那芸佐と云ふ。葺草を訓みて加夜(カヤ)と云ふ〉」
※延喜式(927)祝詞(九条家本訓)「取り葺ける草(カヤ)の噪き〈略〉なく」
② 「⇨すすき(薄)」の異名。
※八丈実記(1848‐55)土産「芒(カヤ)すすき 地筋(カヤ)(〈注〉ヂヂョ)、異名菅根、土筋、菅茅、黄茅」
語誌
⑴元来は①のように総称だったので、「延喜式・祝詞」に見られるように「草」をあてることもあった。「茅」は「ち」で、「ちがや」を指すが、「ちがや」は屋根をふく草の代表的なものなので、「かや」にあてられた。
⑵「萱」は本来、ユリ科の植物カンゾウ、一名ワスレグサで、「かや」の意に用いるのは誤り。「和名抄」「名義抄」などに「かや」とよむ文字は「萓」。字形が似ているところから、後世誤ったもの。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
「かや」は草の字をつかうこともあり、有用な建築資材としての意味があったことがわかります。
「かや」を刈り取る場として「茅場・萱場」、「茅原・萱原」、「茅山・萱山」などの言葉があります。
辞書レベルでは「かや」という語に特段のマイナス印象(不要物、耕地の邪魔者等)を見つけることはできません。
「草田」(カヤタ)が建築の有用資材であるカヤの採取場所を指し、「草田」という語が有用資材かやの増産を祈願した言葉である可能性を濃厚に感じます。
「かや」のイメージ
白幡前遺跡の墨書土器文字を調べると、「草」1文字だけの祈願語も出土しています。
「草」白幡前遺跡出土
千葉県出土墨書・刻書データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「草田」(カヤタ)の草(カヤ)が生産性が低いことを示す雑草の意味であるとしたら、「草」1文字だけの祈願語の存在は考えにくいように感じます。
「草」1文字の祈願語はそれを有用建築資材・生活資材としての「かや」にその意味を求めるのが極自然の成り行きというものです。
資材としての「かや」の増産祈願であると考えることが自然です。
結論として、「草田」(カヤタ)という墨書土器文字は、地名を表現したものではなく、有用資材である「かや」の増産を祈願した言葉であるということになります。
その「かや」を刈る場所としての「草田」(カヤタ)という言葉が地名となり、現在八千代市の大字萱田として伝わってきているということです。
「草田」(カヤタ)という祈願語墨書は、地名発生の瞬間を土器表面に定着させたものであり、地名の意味を現代に伝える物証であると考えます。
次の記事で、この記事を書くきっかけとなった「かや」そのものを暗示する墨書土器写真(八千代市立郷土博物館で実物閲覧)を掲載して、さらに「草田」検討を深めます。
つづく
2015年10月31日土曜日
2015年10月30日金曜日
メモ 地名と墨書土器の文字
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.234 メモ 地名と墨書土器の文字
前の記事とは関連がない事柄ですが、また鳴神山遺跡の例でもありませんが、前々から気になっていた地名と墨書土器文字の関係についてメモしておきます。
墨書土器の文字がその出土場所付近に伝わる地名と対応するものがあり、「千葉県の歴史 通史編 古代2」でまとめられています。
大変興味深く、参考になります。この記述の中からもっと情報を汲み取っていくつもりです。
私は地名にも強い興味があり、現在「角川千葉県地名大辞典」の付録小字一覧を丸ごと全部電子化する作業を行っていて、それを将来はGISデータベースにしようとしているほどです。
ところが、「千葉県の歴史 通史編 古代2」に魅かれて興味を深めれば深めるほど、違和感とまではいかないにしても、不満足感を感じるようになりました。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」の情報は墨書文字と地名との対応関係に絞られています。
なぜその文字が土器に墨書されてたのかという理由の検討がありません。
墨書土器の中にはその文字が正真正銘の「地名」として登場するものがあります。
例えば「村神郷丈部国依甘魚」(権現後遺跡)の村神郷は地名として書かれた文字ですから、地名としての検討で終始して、それでよいと思います。
一方例えば、「草田」という墨書文字が白幡前遺跡から出土しています。
墨書文字「草田」 白幡前遺跡出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
これについては「カヤタ」と読み現在の八千代市大字の萱田と対応するという検討がなされています。この検討自体は新しい知識を専門家が市民に提供したものとして素晴らしいことだと思います。
墨書文字「草田」が現在の地名「萱田」と対応するということは判りました。
しかし、なぜ「草田」と土器に墨書されたのか説明がありません。
土器に地名を単独で墨書するということが考えられません。
土器に地名を単独で墨書して何かの祈願に用いたとか、そのあたりの説明が欠落しています。
以前の記事で、単独あるいは2-3文字程度の墨書土器の場合のその文字の意味解読のパターン素案を作成しました。
墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案
2015.10.16記事「墨書文字の意味解読パターン素案の作成」参照
私は「草田」もこのパターンの中で位置づけたいと思います。
「カヤ(クサ)ばかり生えて収穫の少ない、私たちが開発に従事している田んぼの収穫が増えますように」という趣旨の祈願を「草田」という文字に表現したのだと思います。
白幡前遺跡では類似の墨書文字として「赤山」「提赤山」が出土しています。
「赤山(セキヤマ)」と呼ばれた収穫物の少ない開発地があり、その開発地の収穫が増えるように祈願し、提(酒や魚を差し出す)したのだと思います。
2015.05.13記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字検討 その3」参照
つまり、「草田」とは地名「萱田」発生の意味を説明している言葉なのだと思います。
「草田」が墨書土器に祈願語として書かれたことから、地名発生の様子をそこに汲み取ることができるのだと思います。
「草田」が祈願の対称となったことから、地名発生の意味が判るのです。
「草田」と墨書した古代人は地名としての「草田」を書いたのではなく、「カヤ(クサ)ばかり生えて、収穫が少ない、自分たちの労が報われない、あの田んぼ」をイメージして書いたのだと思います。
そして、そのイメージを人々が共有していたので、「カヤタ」という地名が生れたのだと思います。
「カヤタ」地名が発生した最初は、その地名が指す場所は、ある特定の規模の小さな水田開発地だったことは確実です。
その後の時代変遷のなかで、「萱田」地名が八千代市の大字に変化(場所拡大)していったのです。
地名「萱田」は白幡前遺跡とともに生まれた地名であり、古墳時代から既にそこにあった地名ではないと考えます。
「草田」が地名「萱田」と対応するという情報でストップして終るように、墨書土器文字が現在地名と対応すると判って、そこで検討をストップしてしまっては、満足しきれない感情が残ります。
前の記事とは関連がない事柄ですが、また鳴神山遺跡の例でもありませんが、前々から気になっていた地名と墨書土器文字の関係についてメモしておきます。
墨書土器の文字がその出土場所付近に伝わる地名と対応するものがあり、「千葉県の歴史 通史編 古代2」でまとめられています。
大変興味深く、参考になります。この記述の中からもっと情報を汲み取っていくつもりです。
私は地名にも強い興味があり、現在「角川千葉県地名大辞典」の付録小字一覧を丸ごと全部電子化する作業を行っていて、それを将来はGISデータベースにしようとしているほどです。
ところが、「千葉県の歴史 通史編 古代2」に魅かれて興味を深めれば深めるほど、違和感とまではいかないにしても、不満足感を感じるようになりました。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」の情報は墨書文字と地名との対応関係に絞られています。
なぜその文字が土器に墨書されてたのかという理由の検討がありません。
墨書土器の中にはその文字が正真正銘の「地名」として登場するものがあります。
例えば「村神郷丈部国依甘魚」(権現後遺跡)の村神郷は地名として書かれた文字ですから、地名としての検討で終始して、それでよいと思います。
一方例えば、「草田」という墨書文字が白幡前遺跡から出土しています。
墨書文字「草田」 白幡前遺跡出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
これについては「カヤタ」と読み現在の八千代市大字の萱田と対応するという検討がなされています。この検討自体は新しい知識を専門家が市民に提供したものとして素晴らしいことだと思います。
墨書文字「草田」が現在の地名「萱田」と対応するということは判りました。
しかし、なぜ「草田」と土器に墨書されたのか説明がありません。
土器に地名を単独で墨書するということが考えられません。
土器に地名を単独で墨書して何かの祈願に用いたとか、そのあたりの説明が欠落しています。
以前の記事で、単独あるいは2-3文字程度の墨書土器の場合のその文字の意味解読のパターン素案を作成しました。
墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案
2015.10.16記事「墨書文字の意味解読パターン素案の作成」参照
私は「草田」もこのパターンの中で位置づけたいと思います。
「カヤ(クサ)ばかり生えて収穫の少ない、私たちが開発に従事している田んぼの収穫が増えますように」という趣旨の祈願を「草田」という文字に表現したのだと思います。
白幡前遺跡では類似の墨書文字として「赤山」「提赤山」が出土しています。
「赤山(セキヤマ)」と呼ばれた収穫物の少ない開発地があり、その開発地の収穫が増えるように祈願し、提(酒や魚を差し出す)したのだと思います。
2015.05.13記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字検討 その3」参照
つまり、「草田」とは地名「萱田」発生の意味を説明している言葉なのだと思います。
「草田」が墨書土器に祈願語として書かれたことから、地名発生の様子をそこに汲み取ることができるのだと思います。
「草田」が祈願の対称となったことから、地名発生の意味が判るのです。
「草田」と墨書した古代人は地名としての「草田」を書いたのではなく、「カヤ(クサ)ばかり生えて、収穫が少ない、自分たちの労が報われない、あの田んぼ」をイメージして書いたのだと思います。
そして、そのイメージを人々が共有していたので、「カヤタ」という地名が生れたのだと思います。
「カヤタ」地名が発生した最初は、その地名が指す場所は、ある特定の規模の小さな水田開発地だったことは確実です。
その後の時代変遷のなかで、「萱田」地名が八千代市の大字に変化(場所拡大)していったのです。
地名「萱田」は白幡前遺跡とともに生まれた地名であり、古墳時代から既にそこにあった地名ではないと考えます。
「草田」が地名「萱田」と対応するという情報でストップして終るように、墨書土器文字が現在地名と対応すると判って、そこで検討をストップしてしまっては、満足しきれない感情が残ります。
2015年10月29日木曜日
参考メモ 房総古代の開拓に関する空間大局観
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.233 参考メモ 房総古代の開拓に関する空間大局観
2015.10.27記事「参考メモ 古代氏族の印旛への到達経路」のつづき記事です。
鳴神山遺跡の検討から時間的空間的に離れてしまいましたが、自分の古代認識(イメージ)を深められますので、印旛古代4氏族の印旛到達経路についてさらに検討(想像)してみました。
1 印旛古代4氏族が印旛に到達する前の房総の状況
次の図は古代氏族が印旛に到達した時代より以前の房総の様子を想像するための思考刺激図です。
古代氏族が印旛に到達した時代より以前の房総の様子を想像するための思考刺激図
この思考刺激図から刺激を受けて、次のような想像が発生しました。
●東国を開拓するために西日本からやってきた古代氏族群が上総の小糸川流域、小櫃川流域、養老川流域、村田川流域の各下流の適地を次々に開拓して拠点として確立していったと考えます。
●その際の開拓の順番は西日本から近い順に、つまり南から北に向かって小糸川流域→小櫃川流域→養老川流域→村田川流域であったと考えます。
●上総の拠点群は東京湾をその影響圏に治めたと考えます。
(以上古墳時代遺跡ヒートマップから想像)
●また、上総から香取の海に通じる交通路は都川-船越-鹿島川水運路とそれに対応する陸路(つまり後の東海道本路)が上総拠点群が成立した頃にはすでに存在していたと考えます。
(以上初期東海道駅路網から想像)
2 印旛古代4氏族と上総国既存拠点群とのかかわり
印旛に到達した古代4氏族は1のような房総における状況が既に存在している中で、西日本の本国を出発して、東京湾を通って印旛に到達したと考えます。
ですから、印旛古代4氏族は必ずや上総既存拠点群と接触交渉を持った上で印旛に向かったと考えざるを得ません。
上総既存拠点群と関わり無しに東京湾を通航することは不可能であったと考えます。
いわんや、印旛に入るにあたって船越の手前で船を捨て、船越を越してから新たに船をつくるなど一筋縄ではいかない、長期間を要する移動ですから、上総既存拠点群の協力なしには、あるいは許可なしには新天地印旛までたどり着け無かったと考えます。
3 印旛古代4氏族の印旛到達ルートと順番
上総拠点群の開拓順番を西日本から近い順に小糸川流域→小櫃川流域→養老川流域→村田川流域と想像しましたが、同じ理由で次のような印旛到達ルートと順番であることを想像します。
印旛古代4氏族の印旛到達ルートと順番
順番1 埴生神社を祀る古代氏族
都川-鹿島川船越ルート
順番2 麻賀多神社を祀る古代氏族
都川-鹿島川船越ルート
順番3 宗像神社を祀る古代氏族
花見川-平戸川船越ルート
順番4 鳥見神社を祀る氏族
太日川-手賀沼船越ルート
4 印旛古代4氏族の到達ルート確保性
印旛古代4氏族は上総拠点群の協力あるいは許可を受けて、順に東京湾を反時計回りで都川→花見川→太日川と向い、その上流に存在する天然の地峡を船越として利用し、それぞれ香取の海に入ったと考えます。
香取の海に入った古代氏族は東京湾の上総拠点群との交流や西日本に存在する「本国」との連絡をとる上でも印旛到達ルートを占有的に確保したと考えます。
詳しく情報を精査すれば、印旛到達ルート上にそこを通過した古代氏族の痕跡が見つかる可能性があると考えます。
なお、埴生神社を祀る古代氏族と麻賀多神社を祀る古代氏族は同じ印旛到達ルートを共有するのですからある程度親和的な関係にあったと考えます。
5 養老川と村田川から太平洋岸に通じる開拓ルート
印旛古代4氏族とどの程度関係するか、まだイメージできませんが、古代における流域を超える水運移動ルートとして、養老川-船越-一宮川ルート、村田川-船越-南白亀川ルートが存在していたと考えます。
古代では現在の九十九里平野が湿地と水面で構成されていて、水運路として利用されていたと考えます。
このルートを経由して香取の海に至るルートも存在していたと考えます。
養老川と村田川から太平洋岸に通じる開拓ルート(想像)
2015.10.27記事「参考メモ 古代氏族の印旛への到達経路」のつづき記事です。
鳴神山遺跡の検討から時間的空間的に離れてしまいましたが、自分の古代認識(イメージ)を深められますので、印旛古代4氏族の印旛到達経路についてさらに検討(想像)してみました。
1 印旛古代4氏族が印旛に到達する前の房総の状況
次の図は古代氏族が印旛に到達した時代より以前の房総の様子を想像するための思考刺激図です。
古代氏族が印旛に到達した時代より以前の房総の様子を想像するための思考刺激図
この思考刺激図から刺激を受けて、次のような想像が発生しました。
●東国を開拓するために西日本からやってきた古代氏族群が上総の小糸川流域、小櫃川流域、養老川流域、村田川流域の各下流の適地を次々に開拓して拠点として確立していったと考えます。
●その際の開拓の順番は西日本から近い順に、つまり南から北に向かって小糸川流域→小櫃川流域→養老川流域→村田川流域であったと考えます。
●上総の拠点群は東京湾をその影響圏に治めたと考えます。
(以上古墳時代遺跡ヒートマップから想像)
●また、上総から香取の海に通じる交通路は都川-船越-鹿島川水運路とそれに対応する陸路(つまり後の東海道本路)が上総拠点群が成立した頃にはすでに存在していたと考えます。
(以上初期東海道駅路網から想像)
2 印旛古代4氏族と上総国既存拠点群とのかかわり
印旛に到達した古代4氏族は1のような房総における状況が既に存在している中で、西日本の本国を出発して、東京湾を通って印旛に到達したと考えます。
ですから、印旛古代4氏族は必ずや上総既存拠点群と接触交渉を持った上で印旛に向かったと考えざるを得ません。
上総既存拠点群と関わり無しに東京湾を通航することは不可能であったと考えます。
いわんや、印旛に入るにあたって船越の手前で船を捨て、船越を越してから新たに船をつくるなど一筋縄ではいかない、長期間を要する移動ですから、上総既存拠点群の協力なしには、あるいは許可なしには新天地印旛までたどり着け無かったと考えます。
3 印旛古代4氏族の印旛到達ルートと順番
上総拠点群の開拓順番を西日本から近い順に小糸川流域→小櫃川流域→養老川流域→村田川流域と想像しましたが、同じ理由で次のような印旛到達ルートと順番であることを想像します。
印旛古代4氏族の印旛到達ルートと順番
順番1 埴生神社を祀る古代氏族
都川-鹿島川船越ルート
順番2 麻賀多神社を祀る古代氏族
都川-鹿島川船越ルート
順番3 宗像神社を祀る古代氏族
花見川-平戸川船越ルート
順番4 鳥見神社を祀る氏族
太日川-手賀沼船越ルート
4 印旛古代4氏族の到達ルート確保性
印旛古代4氏族は上総拠点群の協力あるいは許可を受けて、順に東京湾を反時計回りで都川→花見川→太日川と向い、その上流に存在する天然の地峡を船越として利用し、それぞれ香取の海に入ったと考えます。
香取の海に入った古代氏族は東京湾の上総拠点群との交流や西日本に存在する「本国」との連絡をとる上でも印旛到達ルートを占有的に確保したと考えます。
詳しく情報を精査すれば、印旛到達ルート上にそこを通過した古代氏族の痕跡が見つかる可能性があると考えます。
なお、埴生神社を祀る古代氏族と麻賀多神社を祀る古代氏族は同じ印旛到達ルートを共有するのですからある程度親和的な関係にあったと考えます。
5 養老川と村田川から太平洋岸に通じる開拓ルート
印旛古代4氏族とどの程度関係するか、まだイメージできませんが、古代における流域を超える水運移動ルートとして、養老川-船越-一宮川ルート、村田川-船越-南白亀川ルートが存在していたと考えます。
古代では現在の九十九里平野が湿地と水面で構成されていて、水運路として利用されていたと考えます。
このルートを経由して香取の海に至るルートも存在していたと考えます。
養老川と村田川から太平洋岸に通じる開拓ルート(想像)
2015年10月28日水曜日
2015.10.28 今朝の花見川
連日花見川の素晴らしい早朝風景を堪能しています。
数日前はカメラを持つ手がかじかみましたが、今朝は気温が高く、羽織っていた上着を途中で脱ぎました。
風景写真は無意識的に青空を流れる雲をメインテーマにしています。
今朝程度の雲量が花見川風景を最高に引き立てます。
日の出前の発電パネル
満月
花見川風景
花見川風景
花見川風景
花見川風景
弁天橋から下流
弁天橋から上流
あと3週間くらい後には秋の花見川風景が、葉が全部枯れ、落ちて、冬の風景に変わります。
数日前はカメラを持つ手がかじかみましたが、今朝は気温が高く、羽織っていた上着を途中で脱ぎました。
風景写真は無意識的に青空を流れる雲をメインテーマにしています。
今朝程度の雲量が花見川風景を最高に引き立てます。
日の出前の発電パネル
満月
花見川風景
花見川風景
花見川風景
花見川風景
弁天橋から下流
弁天橋から上流
あと3週間くらい後には秋の花見川風景が、葉が全部枯れ、落ちて、冬の風景に変わります。
2015年10月27日火曜日
参考メモ 古代氏族の印旛への到達経路
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.232 参考メモ 古代氏族の印旛への到達経路
2015.10.26記事「鳴神山遺跡と宗像神社の関係」で印旛の古墳時代の古代氏族に関連した検討をしました。
この時参考にした論文、小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)に次のような記述がありました。
鳥見神社を祀った氏族について、「物部小事の子孫または一族が、太平洋から利根川を遡って印旛郡にも進出し、居住地に祖神を祀ったのが鳥見神社ではないだろうか。」と記述しています。
鳥見神社を祀った古代氏族の印旛到達経路として房総半島を大回りして利根川を遡ってきたという考えが述べられています。
他の3古代氏族の印旛到達経路に関しての記述はありません。
鳥見神社を祀った古代氏族の印旛到達経路として房総半島を大回りして利根川を遡ってきたという考えには賛同できませんので、メモしておきます。
航海技術や造船技術が限られていた古墳時代にあって、また中継点となる拠点がない最初の進出にあって房総半島を大回りして利根川を遡って印旛に到達するということは他の3氏族も含めて無かったと考えます。
古代氏族の印旛への2つの到達経路(想像)
印旛への到達は東京湾から東京湾と香取の海を結ぶ自然の地峡(船越)を経由したものであったと考えます。
古代氏族の印旛への到達経路(想像)
ここで船越という言葉は「船を担いで越す」のではなく、「船を乗りついで越す」という意味で使っています。
古代水運は水路-船越-水路-船越という繰り返しだったと考えます。
参考 これまでの検討紹介
2014.12.06記事「駅家と津と船越」参照
東京湾と香取の海の水運路を結ぶ3つの船越
都川-鹿島川船越は古墳時代以前と奈良時代では場所が変化したと考えています。
【検討】香取の海の水運網イメージ(奈良時代前~中期)
2015.10.26記事「鳴神山遺跡と宗像神社の関係」で印旛の古墳時代の古代氏族に関連した検討をしました。
この時参考にした論文、小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)に次のような記述がありました。
鳥見神社を祀った氏族について、「物部小事の子孫または一族が、太平洋から利根川を遡って印旛郡にも進出し、居住地に祖神を祀ったのが鳥見神社ではないだろうか。」と記述しています。
鳥見神社を祀った古代氏族の印旛到達経路として房総半島を大回りして利根川を遡ってきたという考えが述べられています。
他の3古代氏族の印旛到達経路に関しての記述はありません。
鳥見神社を祀った古代氏族の印旛到達経路として房総半島を大回りして利根川を遡ってきたという考えには賛同できませんので、メモしておきます。
航海技術や造船技術が限られていた古墳時代にあって、また中継点となる拠点がない最初の進出にあって房総半島を大回りして利根川を遡って印旛に到達するということは他の3氏族も含めて無かったと考えます。
古代氏族の印旛への2つの到達経路(想像)
印旛への到達は東京湾から東京湾と香取の海を結ぶ自然の地峡(船越)を経由したものであったと考えます。
古代氏族の印旛への到達経路(想像)
ここで船越という言葉は「船を担いで越す」のではなく、「船を乗りついで越す」という意味で使っています。
古代水運は水路-船越-水路-船越という繰り返しだったと考えます。
参考 これまでの検討紹介
2014.12.06記事「駅家と津と船越」参照
東京湾と香取の海の水運路を結ぶ3つの船越
都川-鹿島川船越は古墳時代以前と奈良時代では場所が変化したと考えています。
【検討】香取の海の水運網イメージ(奈良時代前~中期)
2015年10月26日月曜日
鳴神山遺跡と宗像神社の関係
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.231 鳴神山遺跡と宗像神社の関係
先日鳴神山遺跡付近を通行している時、宗像神社の案内看板を見かけました。
鳴神山遺跡がある印旛浦北岸一帯は宗像神社が13社集中して存在していて、各社それぞれが現在の福岡県宗像市の宗像大社からの勧請と伝えられています。13社もの宗像神社が集中して祀られているのは、本社のある福岡県はもとより、全国にも例を見ないもので、この地の宗像神社圏は特異な存在となっているそうです。(小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)による)
宗像神社の看板を見ながら、この宗像神社を祀った最初の氏族と鳴神山遺跡で墨書土器を書いた人々の関係を検討しなければ鳴神山遺跡についての検討は大いに片手落ちになることに気が付きました。
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)では次の神社分布図を掲げ、埴生(はぶ)神社、麻賀多(まかた)神社、宗像(むなかた)神社、鳥見(とりみ)神社がそれぞれ分布し、4つの神社圏がお互いの圏域に入り組むことなく、きれいに区分されることを示し、4つの神社圏は古代氏族の勢力圏をあらわしているのではないだろうかと考えています。
印旛沼周辺の神社分布図
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)から引用
「宗像十三社」の祭神は、田心姫(たごりひめ)神、湍津姫(たぎつひめ)神、市杵島姫(いちきしまひめ)神のいわゆる宗像三女神です。
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)では、印波初代国造の伊都許利(いつこり)命の支配のもとで開拓事業に従事した人々のなかに宗像海洋族がいて、そのままの地に定住し、東岸の麻賀多神社とは異質の宗像神社圏を築いたという可能性を論じています。
さらに、当時の印旛沼はそれこそ大海であり、沼を行き来するのに航海技術に優れた宗像海洋族の力が必要だったのであり、この地の宗像神社13社は、すべて沼またはそれに注ぐ師戸川・神崎川など小河川に沿って鎮座していることも見逃せないと言及しています。
この論文に基づくと、宗像神社を祀った航海技術にたけた氏族は古墳時代にはこの地に定住していて、その後鳴神山遺跡の時代(8世紀、9世紀)を経て現在まで神社を祀る人は途絶えていないということです。
鳴神山遺跡の時代には既に宗像神社が存在していて、宗像神社を祀る住民が存在していたということになります。
このブログでは、これまで鳴神山遺跡の墨書土器文字の検討から次のような神に関する検討を行いました。
2015.10.15記事「鳴神山遺跡の墨書土器「大」は大国主神と推定する」参照
鳴神山遺跡出土墨書土器で出現する大国主神と大物主神
以上の情報を重ねると、信仰の対称としての祭神は次のように異なることが判明します。
●古墳時代から祀られる宗像13社の祭神…田心姫(たごりひめ)神、湍津姫(たぎつひめ)神、市杵島姫(いちきしまひめ)神
●鳴神山遺跡の墨書土器に出現した祭神…国玉神・大国玉(=大国主神)、久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)
この情報から次のような推論ができます。
・鳴神山遺跡は8世紀、9世紀に新規軍事兵站基地として開発され、全国から人員が集められたと考えます。
・基地支配層の祭神が国玉神・大国玉(=大国主神)であることから、(近隣の埴生神社、麻賀多神社、宗像神社、鳥見神社の祭神と異なることから)、基地支配層も律令国家により配置された転勤族であったと考えます。
・基地要員(住民)の祭神は第1位が国玉神・大国玉(=大国主神)であり、第2位が久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)でした。
・久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)を祭神とする集団は金毘羅信仰集団であり、水運に従事し、その後現代にまで金毘羅信仰が伝わっています。
・鳴神山遺跡周辺にもともと居住していた住民は宗像神社を祀り、鳴神山遺跡(軍事兵站基地)とは別空間で生活が展開していました。
・宗像神社を祀る旧住民と鳴神山遺跡(軍事兵站基地)の新住民は共存していたということになります。
・宗像神社を祀る旧住民も鳴神山遺跡(軍事兵站基地)の活動に組み込まれていたと想像します。
・軍事水運活動は旧宗像海洋族が主導し、新金毘羅信仰集団がその指導の下で働いていたのかもしれません。
(宗像神社と金比羅神社の立地位置からその力関係-上下関係と、立地の時間的前後関係を類推できますので、後日別記事で検討します。)
参考 神社分布と鳴神山遺跡との位置関係
先日鳴神山遺跡付近を通行している時、宗像神社の案内看板を見かけました。
鳴神山遺跡がある印旛浦北岸一帯は宗像神社が13社集中して存在していて、各社それぞれが現在の福岡県宗像市の宗像大社からの勧請と伝えられています。13社もの宗像神社が集中して祀られているのは、本社のある福岡県はもとより、全国にも例を見ないもので、この地の宗像神社圏は特異な存在となっているそうです。(小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)による)
宗像神社の看板を見ながら、この宗像神社を祀った最初の氏族と鳴神山遺跡で墨書土器を書いた人々の関係を検討しなければ鳴神山遺跡についての検討は大いに片手落ちになることに気が付きました。
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)では次の神社分布図を掲げ、埴生(はぶ)神社、麻賀多(まかた)神社、宗像(むなかた)神社、鳥見(とりみ)神社がそれぞれ分布し、4つの神社圏がお互いの圏域に入り組むことなく、きれいに区分されることを示し、4つの神社圏は古代氏族の勢力圏をあらわしているのではないだろうかと考えています。
印旛沼周辺の神社分布図
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)から引用
「宗像十三社」の祭神は、田心姫(たごりひめ)神、湍津姫(たぎつひめ)神、市杵島姫(いちきしまひめ)神のいわゆる宗像三女神です。
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)では、印波初代国造の伊都許利(いつこり)命の支配のもとで開拓事業に従事した人々のなかに宗像海洋族がいて、そのままの地に定住し、東岸の麻賀多神社とは異質の宗像神社圏を築いたという可能性を論じています。
さらに、当時の印旛沼はそれこそ大海であり、沼を行き来するのに航海技術に優れた宗像海洋族の力が必要だったのであり、この地の宗像神社13社は、すべて沼またはそれに注ぐ師戸川・神崎川など小河川に沿って鎮座していることも見逃せないと言及しています。
この論文に基づくと、宗像神社を祀った航海技術にたけた氏族は古墳時代にはこの地に定住していて、その後鳴神山遺跡の時代(8世紀、9世紀)を経て現在まで神社を祀る人は途絶えていないということです。
鳴神山遺跡の時代には既に宗像神社が存在していて、宗像神社を祀る住民が存在していたということになります。
このブログでは、これまで鳴神山遺跡の墨書土器文字の検討から次のような神に関する検討を行いました。
2015.10.15記事「鳴神山遺跡の墨書土器「大」は大国主神と推定する」参照
鳴神山遺跡出土墨書土器で出現する大国主神と大物主神
以上の情報を重ねると、信仰の対称としての祭神は次のように異なることが判明します。
●古墳時代から祀られる宗像13社の祭神…田心姫(たごりひめ)神、湍津姫(たぎつひめ)神、市杵島姫(いちきしまひめ)神
●鳴神山遺跡の墨書土器に出現した祭神…国玉神・大国玉(=大国主神)、久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)
この情報から次のような推論ができます。
・鳴神山遺跡は8世紀、9世紀に新規軍事兵站基地として開発され、全国から人員が集められたと考えます。
・基地支配層の祭神が国玉神・大国玉(=大国主神)であることから、(近隣の埴生神社、麻賀多神社、宗像神社、鳥見神社の祭神と異なることから)、基地支配層も律令国家により配置された転勤族であったと考えます。
・基地要員(住民)の祭神は第1位が国玉神・大国玉(=大国主神)であり、第2位が久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)でした。
・久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)を祭神とする集団は金毘羅信仰集団であり、水運に従事し、その後現代にまで金毘羅信仰が伝わっています。
・鳴神山遺跡周辺にもともと居住していた住民は宗像神社を祀り、鳴神山遺跡(軍事兵站基地)とは別空間で生活が展開していました。
・宗像神社を祀る旧住民と鳴神山遺跡(軍事兵站基地)の新住民は共存していたということになります。
・宗像神社を祀る旧住民も鳴神山遺跡(軍事兵站基地)の活動に組み込まれていたと想像します。
・軍事水運活動は旧宗像海洋族が主導し、新金毘羅信仰集団がその指導の下で働いていたのかもしれません。
(宗像神社と金比羅神社の立地位置からその力関係-上下関係と、立地の時間的前後関係を類推できますので、後日別記事で検討します。)
参考 神社分布と鳴神山遺跡との位置関係
2015年10月25日日曜日
墨書文字「久弥良」と金毘羅信仰
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.230 墨書文字「久弥良」と金毘羅信仰
墨書文字「久弥良」について幾つかの推論を検討します。
1 推論1 墨書文字「久弥良」は金毘羅信仰集団の祈願語である
「久」「久弥」は「久弥良」の略称形であり、「久弥良」はクビラと読み宮毘羅・倶毘羅であり金毘羅(こんぴら)であると考えました。
2015.10.14記事「鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する」参照
「久弥良」(クビラ(金比羅))を祈願語とするということは、その集団が金比羅信仰を持っていた集団であると考えます。
金比羅信仰をwebで調べると金比羅信仰の由来時期は大宝年間(701年~704年)にあるようです。
……………………………………………………………………
参考
金比羅権現
由来
象頭山松尾寺の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした。
クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた。
Wikipediaから引用
……………………………………………………………………
金比羅信仰の始まりが8世紀初頭であるとすることが正しいとすると、墨書土器「久」「久弥」「久弥良」との時間的関係が気になります。
そこで、墨書土器「久」「久弥」「久弥良」が出土した遺構の年代を調べてみました。
「久」「久弥」「久弥良」出土遺構の年代
「久」「久弥」「久弥良」出土遺構の年代はほとんどが9世紀第1四半期あるいは第2四半期から始まり、第3四半期あるいは第4四半期までのものです。
この結果から、金毘羅信仰が始まってから約100年後に下総国印旛郡の鳴神山遺跡に金毘羅信仰が伝わったと仮定することが可能です。
白幡前遺跡では則天文字(一の下に生を書いた文字など)が墨書土器文字として出土しています。則天文字は武則天が皇位に就いていた15年間(690年 - 705年)に使われたものでその起源が明確な文字です。
中国で7世紀末から8世紀初めに初めて使われ出した則天文字が、8世紀中葉頃~9世紀の白幡前遺跡遺構から出土するという情報伝播速度を参考にすると、金比羅信仰が四国で始まってから100年後に下総に伝播するということは何ら不思議なことではないと考えることができます。
則天文字といい金毘羅信仰といい、最新文化情報は数十年あれば国際的、国内的に隅々にまで伝播して流行したに相違ありません。
最新流行の生れたて金毘羅信仰が鳴神山遺跡に伝わり根付いたと考えます。
2 推論2 墨書文字「久弥良」集団の使命は水上輸送活動であった
金比羅信仰は水上交通従事者の信仰です。
このブログでは花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であるという仮説を持っていますが、金毘羅信仰がこの東海道水運支路沿いに存在するということは、双方の仮説の確からしさを高めます。
花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であり、つまり印旛浦が東海道水運支路であり、蝦夷戦争の重要な軍事水運路であったため、そこに多数の水運関係者が配置されていて、その水運関係者の間で生まれたばかりの金毘羅信仰が流行したと考えることができます。
鳴神山遺跡出土文字の出土点数第2位が「久」「久弥」「久弥良」です。
つまり「久」「久弥」「久弥良」を共通祈願語とする集団が鳴神山遺跡では集団の大きさからみて序列第2位です。(ちなみに、序列第1位は「大」「大加」集団です。)
「久」「久弥」「久弥良」の分布は次のようになり鳴神山遺跡に広く分布します。
文字「久」「久弥」「久弥良」出土分布図
この「久」「久弥」「久弥良」集団が水運(蝦夷戦争の軍事水運)を使命としていたと考えます。
当初は「久」「久弥」「久弥良」集団を水鳥猟集団ではないかと考えましたが、その可能性はゼロとなりました。
遺跡の北側にも分布が拡がっています。この理由に強く興味を持ちます。
印旛浦から支谷津を通ってさらに船越を越え利根川(手賀沼)に抜ける輸送に従事した関係者の可能性を感じるからです。
その輸送はどれだけ水運であったかは不明ですが、たとえほとんどが陸運であったとしても、広義の水運関係者(輸送関係者)であり、金毘羅信仰を持っていて当然です。
3 推論3 墨書文字「久弥良」の金比羅信仰が現代にまで続いている
さて、別件興味で「印旛沼 自然と文化 創刊号」(1994.11、財団法人印旛沼環境基金)をペラペラめくっていると、次の論文が目に止まりました。
「印旛沼漁猟と金比羅信仰」(榎本正三)
近世から現代にかけての印旛沼及び周辺地域の金毘羅信仰について詳しく記述しています。
印旛沼に金毘羅信仰があることをはじめて知りました。
この論文に掲載されている金比羅信仰の場所を次に示します。
下利根川流域地方の金比羅信仰のあかし(含印旛沼)
榎本正三著「印旛沼漁猟と金比羅信仰」(1994.11、印旛沼自然と文化創刊号、財団法人印旛沼環境基金)から引用、加筆
近世以降の金比羅信仰は舟運関係者を中心に漁民や水上生活者から絶対的な信仰を集めて、現代に至っているとされています。
現代に続く舟運関係者をメインとする印旛沼金毘羅信仰の始源は鳴神山遺跡の墨書土器「久」「久弥」「久弥良」集団の金毘羅信仰にある可能性が濃厚です。
近世の利根川水系水運の幹線水運路から外れた印旛浦に金毘羅信仰が分布していること自体が、その歴史が近世以前に遡ることを暗示しています。
墨書文字「久弥良」について幾つかの推論を検討します。
1 推論1 墨書文字「久弥良」は金毘羅信仰集団の祈願語である
「久」「久弥」は「久弥良」の略称形であり、「久弥良」はクビラと読み宮毘羅・倶毘羅であり金毘羅(こんぴら)であると考えました。
2015.10.14記事「鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する」参照
「久弥良」(クビラ(金比羅))を祈願語とするということは、その集団が金比羅信仰を持っていた集団であると考えます。
金比羅信仰をwebで調べると金比羅信仰の由来時期は大宝年間(701年~704年)にあるようです。
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参考
金比羅権現
由来
象頭山松尾寺の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした。
クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた。
Wikipediaから引用
……………………………………………………………………
金比羅信仰の始まりが8世紀初頭であるとすることが正しいとすると、墨書土器「久」「久弥」「久弥良」との時間的関係が気になります。
そこで、墨書土器「久」「久弥」「久弥良」が出土した遺構の年代を調べてみました。
「久」「久弥」「久弥良」出土遺構の年代
「久」「久弥」「久弥良」出土遺構の年代はほとんどが9世紀第1四半期あるいは第2四半期から始まり、第3四半期あるいは第4四半期までのものです。
この結果から、金毘羅信仰が始まってから約100年後に下総国印旛郡の鳴神山遺跡に金毘羅信仰が伝わったと仮定することが可能です。
白幡前遺跡では則天文字(一の下に生を書いた文字など)が墨書土器文字として出土しています。則天文字は武則天が皇位に就いていた15年間(690年 - 705年)に使われたものでその起源が明確な文字です。
中国で7世紀末から8世紀初めに初めて使われ出した則天文字が、8世紀中葉頃~9世紀の白幡前遺跡遺構から出土するという情報伝播速度を参考にすると、金比羅信仰が四国で始まってから100年後に下総に伝播するということは何ら不思議なことではないと考えることができます。
則天文字といい金毘羅信仰といい、最新文化情報は数十年あれば国際的、国内的に隅々にまで伝播して流行したに相違ありません。
最新流行の生れたて金毘羅信仰が鳴神山遺跡に伝わり根付いたと考えます。
2 推論2 墨書文字「久弥良」集団の使命は水上輸送活動であった
金比羅信仰は水上交通従事者の信仰です。
このブログでは花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であるという仮説を持っていますが、金毘羅信仰がこの東海道水運支路沿いに存在するということは、双方の仮説の確からしさを高めます。
花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であり、つまり印旛浦が東海道水運支路であり、蝦夷戦争の重要な軍事水運路であったため、そこに多数の水運関係者が配置されていて、その水運関係者の間で生まれたばかりの金毘羅信仰が流行したと考えることができます。
鳴神山遺跡出土文字の出土点数第2位が「久」「久弥」「久弥良」です。
つまり「久」「久弥」「久弥良」を共通祈願語とする集団が鳴神山遺跡では集団の大きさからみて序列第2位です。(ちなみに、序列第1位は「大」「大加」集団です。)
「久」「久弥」「久弥良」の分布は次のようになり鳴神山遺跡に広く分布します。
文字「久」「久弥」「久弥良」出土分布図
この「久」「久弥」「久弥良」集団が水運(蝦夷戦争の軍事水運)を使命としていたと考えます。
当初は「久」「久弥」「久弥良」集団を水鳥猟集団ではないかと考えましたが、その可能性はゼロとなりました。
遺跡の北側にも分布が拡がっています。この理由に強く興味を持ちます。
印旛浦から支谷津を通ってさらに船越を越え利根川(手賀沼)に抜ける輸送に従事した関係者の可能性を感じるからです。
その輸送はどれだけ水運であったかは不明ですが、たとえほとんどが陸運であったとしても、広義の水運関係者(輸送関係者)であり、金毘羅信仰を持っていて当然です。
3 推論3 墨書文字「久弥良」の金比羅信仰が現代にまで続いている
さて、別件興味で「印旛沼 自然と文化 創刊号」(1994.11、財団法人印旛沼環境基金)をペラペラめくっていると、次の論文が目に止まりました。
「印旛沼漁猟と金比羅信仰」(榎本正三)
近世から現代にかけての印旛沼及び周辺地域の金毘羅信仰について詳しく記述しています。
印旛沼に金毘羅信仰があることをはじめて知りました。
この論文に掲載されている金比羅信仰の場所を次に示します。
下利根川流域地方の金比羅信仰のあかし(含印旛沼)
榎本正三著「印旛沼漁猟と金比羅信仰」(1994.11、印旛沼自然と文化創刊号、財団法人印旛沼環境基金)から引用、加筆
近世以降の金比羅信仰は舟運関係者を中心に漁民や水上生活者から絶対的な信仰を集めて、現代に至っているとされています。
現代に続く舟運関係者をメインとする印旛沼金毘羅信仰の始源は鳴神山遺跡の墨書土器「久」「久弥」「久弥良」集団の金毘羅信仰にある可能性が濃厚です。
近世の利根川水系水運の幹線水運路から外れた印旛浦に金毘羅信仰が分布していること自体が、その歴史が近世以前に遡ることを暗示しています。
2015年10月23日金曜日
鳴神山遺跡の墨書文字「寺」「佛」の分布
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.229 鳴神山遺跡の墨書文字「寺」「佛」の分布
鳴神山遺跡出土の墨書文字「寺」「佛」の分布を示します。
文字「寺」「佛」出土分布
寺院名「波田寺」「播寺」が出土しています。「播寺」が出土した遺構からは「寺ヵ」が2点出土しています。
「波田寺」「播寺」とも祈願語であり、「波田寺」「播寺」の発展を祈願したのだと思います。祈願した人は寺関係者ということになります。
祈願した先は佛であったと考えますが、神だった可能性もあると思います。
「波田寺」「播寺」が近接して出土しているので、近くの掘立柱建物群に寺院が存在した可能性を感じます。
場合によってはその場所の掘立柱建物群全体が寺院とその関連建物かもしれません。
なお、「波田寺」と「播寺」は同じ寺院を意味していると考えます。
しかし、「播寺」は「ハタデラ」あるいは「ハタテラ」とは読めません。読むとすれば「ハデラ」、「バンデラ」となります。
恐らく「幡寺」と書くべきところを、筆を持った手が「播寺」と書いたのだと思います。「幡」と「播」は字形も読みも似ているので、そうなったのだと思います。無意識的勘違いです。
全く同じ勘違いが、この墨書土器を発掘調査した現代専門家にもあることは、勘違い説の根拠として大変参考になる情報です。
「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書 XIV -印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)より引用。
なお、「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」という記述に接した時、私自身も違和感をもつことは全くなく、その通りだと思いました。
古代人も現代人も漢字に関して、共通の勘違いをするという実例としても興味が湧きます。
なお、今後次の視点で「ハタデラ」の興味を深めていくつもりです。
●「ハタデラ」と小字「白幡」との関係
古墳時代の渡来人の活動を示すと考える地名「白幡」のハタと「ハタデラ」のハタは同じです。ここからどのような情報を引き出すことができるか、今後の楽しみです。
●「ハタデラ」の空間的位置
印旛浦舟運のミナト(西根遺跡)を表とすると、「ハタデラ」は最も奥に位置しています。
白幡前遺跡でも周溝を巡らした寺院は同じような空間的位置にありました。
このような遺跡全体構造で「ハタデラ」を捉えてよいのかどうか、検討の価値があると考えています。
場合によっては「ハタデラ」は奥にあるのではなく、手賀沼や利根川方面から見て表(前)にあるという関係があるように感じるからです。
もし奥なら、遺跡の西にあるべきであり、遺跡の北にあるということは手賀沼や利根川方面とつながりを持っているからかもしれないと推測します。
鳴神山遺跡出土の墨書文字「寺」「佛」の分布を示します。
文字「寺」「佛」出土分布
寺院名「波田寺」「播寺」が出土しています。「播寺」が出土した遺構からは「寺ヵ」が2点出土しています。
「波田寺」「播寺」とも祈願語であり、「波田寺」「播寺」の発展を祈願したのだと思います。祈願した人は寺関係者ということになります。
祈願した先は佛であったと考えますが、神だった可能性もあると思います。
「波田寺」「播寺」が近接して出土しているので、近くの掘立柱建物群に寺院が存在した可能性を感じます。
場合によってはその場所の掘立柱建物群全体が寺院とその関連建物かもしれません。
なお、「波田寺」と「播寺」は同じ寺院を意味していると考えます。
しかし、「播寺」は「ハタデラ」あるいは「ハタテラ」とは読めません。読むとすれば「ハデラ」、「バンデラ」となります。
恐らく「幡寺」と書くべきところを、筆を持った手が「播寺」と書いたのだと思います。「幡」と「播」は字形も読みも似ているので、そうなったのだと思います。無意識的勘違いです。
全く同じ勘違いが、この墨書土器を発掘調査した現代専門家にもあることは、勘違い説の根拠として大変参考になる情報です。
「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書 XIV -印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)より引用。
なお、「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」という記述に接した時、私自身も違和感をもつことは全くなく、その通りだと思いました。
古代人も現代人も漢字に関して、共通の勘違いをするという実例としても興味が湧きます。
なお、今後次の視点で「ハタデラ」の興味を深めていくつもりです。
●「ハタデラ」と小字「白幡」との関係
古墳時代の渡来人の活動を示すと考える地名「白幡」のハタと「ハタデラ」のハタは同じです。ここからどのような情報を引き出すことができるか、今後の楽しみです。
●「ハタデラ」の空間的位置
印旛浦舟運のミナト(西根遺跡)を表とすると、「ハタデラ」は最も奥に位置しています。
白幡前遺跡でも周溝を巡らした寺院は同じような空間的位置にありました。
このような遺跡全体構造で「ハタデラ」を捉えてよいのかどうか、検討の価値があると考えています。
場合によっては「ハタデラ」は奥にあるのではなく、手賀沼や利根川方面から見て表(前)にあるという関係があるように感じるからです。
もし奥なら、遺跡の西にあるべきであり、遺跡の北にあるということは手賀沼や利根川方面とつながりを持っているからかもしれないと推測します。
2015年10月21日水曜日
鳴神山遺跡の墨書文字「山本」の分布
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.228 鳴神山遺跡の墨書文字「山本」の分布
鳴神山遺跡から出土した墨書文字「山本」の分布を示します。
文字「山本」出土分布
「山本山本」の例
Ⅱ063竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「山本」は台地を「山」と見立て、その利用・開発の主導集団(家系?)の祈願語であると考えます。漁村における「網本(網元)」「船本(船元)」に対応するような意味合いの言葉だったと考えます。
「山本」が従事した業務は焼畑による根菜・雑穀栽培、木の実・山菜採取、狩猟、薪炭生産などの元締め業務であったと考えます。
それらの業務から得られた産物の倉庫がⅡ063竪穴住居付近に密集する掘立柱建物群であったと考えます。
「山本」は社会階層上「犬」を祈願語とした狩猟集団の上位に位置していたのかもしれません。
なお、Ⅱ063竪穴住居からは「子山本」も出土します。
「子山本」
Ⅱ063竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「網本(網元)」に対応する言葉として「網子」という言葉があり、網漁経営者とその元で隷属関係に置かれた労力提供者を意味しますが、墨書文字「山本」と「子山本」はその関係のアナロジーとして捉えることができると考えます。
祈願語としての「山本」の意味は「山本としての指導職務を全うし、山(台地)からの産物を豊富に得たい」というものだったと想像します。
「子山本」の意味は「山本の指導下での職務を全うし、山(台地)からの産物を豊富に得たい」というものだったと想像します。
「山本」と「子山本」の出土から、鳴神山遺跡における身分的支配関係存在の一端を知ることができます。
鳴神山遺跡から出土した墨書文字「山本」の分布を示します。
文字「山本」出土分布
「山本山本」の例
Ⅱ063竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「山本」は台地を「山」と見立て、その利用・開発の主導集団(家系?)の祈願語であると考えます。漁村における「網本(網元)」「船本(船元)」に対応するような意味合いの言葉だったと考えます。
「山本」が従事した業務は焼畑による根菜・雑穀栽培、木の実・山菜採取、狩猟、薪炭生産などの元締め業務であったと考えます。
それらの業務から得られた産物の倉庫がⅡ063竪穴住居付近に密集する掘立柱建物群であったと考えます。
「山本」は社会階層上「犬」を祈願語とした狩猟集団の上位に位置していたのかもしれません。
なお、Ⅱ063竪穴住居からは「子山本」も出土します。
「子山本」
Ⅱ063竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「網本(網元)」に対応する言葉として「網子」という言葉があり、網漁経営者とその元で隷属関係に置かれた労力提供者を意味しますが、墨書文字「山本」と「子山本」はその関係のアナロジーとして捉えることができると考えます。
祈願語としての「山本」の意味は「山本としての指導職務を全うし、山(台地)からの産物を豊富に得たい」というものだったと想像します。
「子山本」の意味は「山本の指導下での職務を全うし、山(台地)からの産物を豊富に得たい」というものだったと想像します。
「山本」と「子山本」の出土から、鳴神山遺跡における身分的支配関係存在の一端を知ることができます。
2015年10月20日火曜日
2015.10.20 活動日誌
白幡前遺跡の検討のころから墨書土器に興味を持ち出し、画像付データベースが利用できるので、墨書土器の情報分析に踏み込んでしまっています。
墨書土器の多くが打ち欠きされているという事実を、墨書土器現物閲覧をさせていただいた八千代市立郷土博物館の研究員の方に教えていただきました。
確かにデータベースの画像を見ると、墨書文字を残すように人為的に打ち欠いたものが多くみられます。
この打ち欠きという行為をもたらした当時の人々の心性に興味を持っていますので、最初のメモを書いておきます。
本来のテーマである花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であるという仮説検証とは離れてしまいますが、人の心を知るということは、一人の人間として本能的に興味のあることがらです。
発掘に関わる詳しい情報を知っているわけではありませんが、墨書土器打ち欠きでは次のような状況があるようです。
1 職種職能集団の活動発展を祈願した酒宴(祭祀)がある。
2 その酒宴(祭祀)で集団メンバーが、集団独自の文字を書いた墨書土器を使う。
3 酒宴(祭祀)で使った墨書土器を打ち欠き(破壊し)、廃棄された竪穴住居、井戸、氷室、溝等に捨てる(納める)。
古代にあって土器は大切な生活道具であり、簡単に壊して捨ててよいようなものでなかったことは言うまでもないことです。
ましてや集団の祈願文字を墨書し、日常生活で祈願に使っているのですから、それを壊すということは尋常ではありません。
神に強く祈願する気持ちを、自分の大切なものを壊して表現する(証明する)ように見受けられます。
自分の大切な物を壊す代わりに、神に祈願内容の実現を迫っているのだと思います。
このような、現代人の日常生活からみると尋常ではない心性をどのようにしたらリアルに理解できるか、時間をかけてでも知りたいと考えています。
この記事では、その尋常ではない心性と関連するかもしれない事例をメモしておきます。
1 犠牲儀礼
人や動物を殺害して神への儀礼とする風習は世界各地にありますが、それと全く同じ意味を持つ可能性があります。
神への供え物として動物を殺し、その動物を集団で食い、その時使った墨書土器も供物として破壊した儀礼であると考えることができます。
2 贈与の原理における増殖
墨書土器が集団内で贈与され、その贈与された大切な墨書土器を人の面前で破壊することによって霊力の増殖が起こるとする古代人の心性があったのかもしれません。
このような例が北米原住民のポトラッチで貴重なコッパー(銅製の象徴的記念品)を破壊する行為としてあるようです。(中沢新一「愛と経済のロゴス」)
もっと関連する事例を集めて、いつか総合的に検討したいと思います。
墨書土器の打ち欠きは「自分の大切な物を壊す代わりに、神に祈願内容の実現を迫っているのだと思います。」程度の記述で終わらすにはあまりに重たい事象です。
花見川風景
墨書土器の多くが打ち欠きされているという事実を、墨書土器現物閲覧をさせていただいた八千代市立郷土博物館の研究員の方に教えていただきました。
確かにデータベースの画像を見ると、墨書文字を残すように人為的に打ち欠いたものが多くみられます。
この打ち欠きという行為をもたらした当時の人々の心性に興味を持っていますので、最初のメモを書いておきます。
本来のテーマである花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であるという仮説検証とは離れてしまいますが、人の心を知るということは、一人の人間として本能的に興味のあることがらです。
発掘に関わる詳しい情報を知っているわけではありませんが、墨書土器打ち欠きでは次のような状況があるようです。
1 職種職能集団の活動発展を祈願した酒宴(祭祀)がある。
2 その酒宴(祭祀)で集団メンバーが、集団独自の文字を書いた墨書土器を使う。
3 酒宴(祭祀)で使った墨書土器を打ち欠き(破壊し)、廃棄された竪穴住居、井戸、氷室、溝等に捨てる(納める)。
古代にあって土器は大切な生活道具であり、簡単に壊して捨ててよいようなものでなかったことは言うまでもないことです。
ましてや集団の祈願文字を墨書し、日常生活で祈願に使っているのですから、それを壊すということは尋常ではありません。
神に強く祈願する気持ちを、自分の大切なものを壊して表現する(証明する)ように見受けられます。
自分の大切な物を壊す代わりに、神に祈願内容の実現を迫っているのだと思います。
このような、現代人の日常生活からみると尋常ではない心性をどのようにしたらリアルに理解できるか、時間をかけてでも知りたいと考えています。
この記事では、その尋常ではない心性と関連するかもしれない事例をメモしておきます。
1 犠牲儀礼
人や動物を殺害して神への儀礼とする風習は世界各地にありますが、それと全く同じ意味を持つ可能性があります。
神への供え物として動物を殺し、その動物を集団で食い、その時使った墨書土器も供物として破壊した儀礼であると考えることができます。
2 贈与の原理における増殖
墨書土器が集団内で贈与され、その贈与された大切な墨書土器を人の面前で破壊することによって霊力の増殖が起こるとする古代人の心性があったのかもしれません。
このような例が北米原住民のポトラッチで貴重なコッパー(銅製の象徴的記念品)を破壊する行為としてあるようです。(中沢新一「愛と経済のロゴス」)
もっと関連する事例を集めて、いつか総合的に検討したいと思います。
墨書土器の打ち欠きは「自分の大切な物を壊す代わりに、神に祈願内容の実現を迫っているのだと思います。」程度の記述で終わらすにはあまりに重たい事象です。
花見川風景
2015年10月19日月曜日
鳴神山遺跡の墨書文字「犬」の分布
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.227 鳴神山遺跡の墨書文字「犬」の分布
鳴神山遺跡では墨書文字「犬」がⅠ053竪穴住居から11史料(大ないし犬を加えると12史料)が集中して出土してます。
他に2溝から1史料出土してます。
文字「犬」出土分布
「犬」の例
Ⅰ053竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「犬」は猟犬をつかった狩猟集団の祈願語であると考えます。
「犬」の文字に猟犬を使った狩活動発展の願いを込めたものと考えます。
Ⅰ053竪穴住居の近くで狩猟集団が酒宴(祭祀)を行い、その時に持ち寄った「犬」を墨書した坏を打ち欠き、Ⅰ053竪穴住居跡に捨てた(納めた)ものと考えます。
この場所が最多文字「大」の集中出土遺構に近いので、この付近に集落の各集団が共同で利用する酒宴(祭祀)会場となる施設が存在していたと考えます。
同時に、「犬」を祈願語とする集団と「大」を祈願語とする集団は親近的関係にあったことを推察します。
この場所で狩猟集団の酒宴(祭祀)が行われたことから、狩猟集団の活動場所(狩猟場所)が鳴神山遺跡に北に広がる台地であったことを推察できます。
参考 文字「大」出土分布
鳴神山遺跡では墨書文字「犬」がⅠ053竪穴住居から11史料(大ないし犬を加えると12史料)が集中して出土してます。
他に2溝から1史料出土してます。
文字「犬」出土分布
「犬」の例
Ⅰ053竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「犬」は猟犬をつかった狩猟集団の祈願語であると考えます。
「犬」の文字に猟犬を使った狩活動発展の願いを込めたものと考えます。
Ⅰ053竪穴住居の近くで狩猟集団が酒宴(祭祀)を行い、その時に持ち寄った「犬」を墨書した坏を打ち欠き、Ⅰ053竪穴住居跡に捨てた(納めた)ものと考えます。
この場所が最多文字「大」の集中出土遺構に近いので、この付近に集落の各集団が共同で利用する酒宴(祭祀)会場となる施設が存在していたと考えます。
同時に、「犬」を祈願語とする集団と「大」を祈願語とする集団は親近的関係にあったことを推察します。
この場所で狩猟集団の酒宴(祭祀)が行われたことから、狩猟集団の活動場所(狩猟場所)が鳴神山遺跡に北に広がる台地であったことを推察できます。
参考 文字「大」出土分布
2015年10月18日日曜日
墨書文字「依」の意味深考
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.226 墨書文字「依」の意味深考
鳴神山遺跡の墨書文字「大」が大国玉(大国主神)を表し、「久弥良」がクビラ(金毘羅)つまり大物主神を表していると知って、ある疑念というか不安というか、思考を深めなければいられない衝動が身を走りました。
鳴神山遺跡の最大出現文字は「大」ですが、二番目に多い文字は「依」です。
「依」は鳴神山遺跡に「衣」が少数出土していることも参考にして、直感的に被服関係集団の祈願語であると結論付けました。
この直観的結論が本当に正しいのだろうかという疑念です。
その疑念は、民俗等で使われる「依代」という用語に「依」という文字が使われていることから生まれました。
出土文字「依」は「依代」に関係して、つまりは神に関係する文字かもしれないという疑念です。
早速調べました。
より‐しろ【依代】
〖名〗 神霊が出現するときの媒体となるもの。神霊の寄りつくもの。正月の年神の依代としての門松などのような特定の枝葉や花・樹木・岩石、あるいは形代(かたしろ)・よりましなど、きわめて種類が多い。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
辞書には依代の用例がありません。
webで調べてみると、なんと「依代」は現代学術用語(造語)であることがわかりました。
折口は、1915年4月、雑誌『郷土研究』へ掲載した論文『髯籠の話』の中で、柳田國男の 柄杓、瓢、杓子に関する膨大な資料等を参照し、「採り物」と呼ばれる柄杓状の呪具が、マナを招き、「えぶる(集める)」物を指すものの、古神道や日本の民俗信仰で用いられる、神降ろしの印を表す言葉がない、という問題から、依り代という言葉を、招代・標山とともに初めて用いた(なお、柳田國男は依り代という語を二度しか用いなかった)。
Wikipedia 「依り代」
ちなみに「憑依」という言葉も戦後から使われ出した翻訳語だそうです。(Wikipedia 「憑依」)
「依代」という言葉は古代には存在していませんでした。従って、「依代」という概念に引きずられて出土文字「依」を考える必要は全くありません。
一方、漢和辞典では「依」を次のように説明しています。
依
字音
イ、エ
字義
1
➊よ‐る。㋐よりすがる。もたれかかる。㋑たのむ。たよる。㋒つく。従う。「帰依(キエ)」㋓なぞらえる。準ずる。
➋助ける。また、いつくしむ。
➌そのまま。以前のまま。
2
➊やすんずる。安らか。
➋ついたて。=扆。
➌たとえる。また、さとす。
解字
形声。人+衣(音)。甲骨文では、人にまつわりつく衣服のさまにかたどる。まつわりしたしむ・よるの意味を表す。
『新漢語林』 大修館書店
「依」という漢字そのものに神やそれに関連する意味合いは全くありません。
同時に、解字説明にあるように「依」は衣服と強く関連しています。
依という漢字は形声という方法で、人と衣(衣服)を組み合わせてつくった新漢字ですから、もともと衣服のイメージが濃厚に込められている漢字です。
漢字の原義は衣服が人にまつわりついていて、つまり衣服が人に「㋐よりすがる。もたれかかる。㋑たのむ。たよる。㋒つく。従う。」ものであり、その状況を表現しています。
この漢字原義(漢字が表現している状況)の主役は衣服です。
以上の思考(検討)から、鳴神山遺跡で墨書土器に「依」と書いた集団は衣服に関わる集団であると考えて間違いないと思います。
墨書文字「依」の意味を深く考えることができました。
文字「依」出土分布図
「依」出土集中遺構は掘立柱建物群のすぐそばです。
衣服関連集団が被服廠としての掘立柱建物で、あるいはその近くで酒宴(祭祀)を何回も行ったのだと思います。
その時に「依」と書いた土器を打ち欠き、特定場所(当時既に捨てられていた竪穴住居跡)に捨てた(納めた)ものだと思います。
「依」集団が麻の栽培から製糸、織り、縫製まで手掛けて衣服(恐らく軍服)までつくっていたのか、麻栽培という現場は別集団が行っていたのか、詳しく調べれば判明すると期待しています。
鳴神山遺跡出土 依の例
Ⅱ84竪穴住居
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
鳴神山遺跡出土 衣の例
N201竪穴住居
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
……………………………………………………………………
参考
けい‐せい【形声】
〖名〗 漢字の六書(りくしょ)の一つ。意味を表わす文字に、音声を表わす文字を組み合わせて、新しい漢字を作る方法。また、そのような構成の文字。水を意味する「氵」に、音を表わす「可」を組み合わせた「河」の類。諧声(かいせい)。象声。〔許慎‐説文解字序〕
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
鳴神山遺跡の墨書文字「大」が大国玉(大国主神)を表し、「久弥良」がクビラ(金毘羅)つまり大物主神を表していると知って、ある疑念というか不安というか、思考を深めなければいられない衝動が身を走りました。
鳴神山遺跡の最大出現文字は「大」ですが、二番目に多い文字は「依」です。
「依」は鳴神山遺跡に「衣」が少数出土していることも参考にして、直感的に被服関係集団の祈願語であると結論付けました。
この直観的結論が本当に正しいのだろうかという疑念です。
その疑念は、民俗等で使われる「依代」という用語に「依」という文字が使われていることから生まれました。
出土文字「依」は「依代」に関係して、つまりは神に関係する文字かもしれないという疑念です。
早速調べました。
より‐しろ【依代】
〖名〗 神霊が出現するときの媒体となるもの。神霊の寄りつくもの。正月の年神の依代としての門松などのような特定の枝葉や花・樹木・岩石、あるいは形代(かたしろ)・よりましなど、きわめて種類が多い。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
辞書には依代の用例がありません。
webで調べてみると、なんと「依代」は現代学術用語(造語)であることがわかりました。
折口は、1915年4月、雑誌『郷土研究』へ掲載した論文『髯籠の話』の中で、柳田國男の 柄杓、瓢、杓子に関する膨大な資料等を参照し、「採り物」と呼ばれる柄杓状の呪具が、マナを招き、「えぶる(集める)」物を指すものの、古神道や日本の民俗信仰で用いられる、神降ろしの印を表す言葉がない、という問題から、依り代という言葉を、招代・標山とともに初めて用いた(なお、柳田國男は依り代という語を二度しか用いなかった)。
Wikipedia 「依り代」
ちなみに「憑依」という言葉も戦後から使われ出した翻訳語だそうです。(Wikipedia 「憑依」)
「依代」という言葉は古代には存在していませんでした。従って、「依代」という概念に引きずられて出土文字「依」を考える必要は全くありません。
一方、漢和辞典では「依」を次のように説明しています。
依
字音
イ、エ
字義
1
➊よ‐る。㋐よりすがる。もたれかかる。㋑たのむ。たよる。㋒つく。従う。「帰依(キエ)」㋓なぞらえる。準ずる。
➋助ける。また、いつくしむ。
➌そのまま。以前のまま。
2
➊やすんずる。安らか。
➋ついたて。=扆。
➌たとえる。また、さとす。
解字
形声。人+衣(音)。甲骨文では、人にまつわりつく衣服のさまにかたどる。まつわりしたしむ・よるの意味を表す。
『新漢語林』 大修館書店
「依」という漢字そのものに神やそれに関連する意味合いは全くありません。
同時に、解字説明にあるように「依」は衣服と強く関連しています。
依という漢字は形声という方法で、人と衣(衣服)を組み合わせてつくった新漢字ですから、もともと衣服のイメージが濃厚に込められている漢字です。
漢字の原義は衣服が人にまつわりついていて、つまり衣服が人に「㋐よりすがる。もたれかかる。㋑たのむ。たよる。㋒つく。従う。」ものであり、その状況を表現しています。
この漢字原義(漢字が表現している状況)の主役は衣服です。
以上の思考(検討)から、鳴神山遺跡で墨書土器に「依」と書いた集団は衣服に関わる集団であると考えて間違いないと思います。
墨書文字「依」の意味を深く考えることができました。
文字「依」出土分布図
「依」出土集中遺構は掘立柱建物群のすぐそばです。
衣服関連集団が被服廠としての掘立柱建物で、あるいはその近くで酒宴(祭祀)を何回も行ったのだと思います。
その時に「依」と書いた土器を打ち欠き、特定場所(当時既に捨てられていた竪穴住居跡)に捨てた(納めた)ものだと思います。
「依」集団が麻の栽培から製糸、織り、縫製まで手掛けて衣服(恐らく軍服)までつくっていたのか、麻栽培という現場は別集団が行っていたのか、詳しく調べれば判明すると期待しています。
鳴神山遺跡出土 依の例
Ⅱ84竪穴住居
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
鳴神山遺跡出土 衣の例
N201竪穴住居
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
……………………………………………………………………
参考
けい‐せい【形声】
〖名〗 漢字の六書(りくしょ)の一つ。意味を表わす文字に、音声を表わす文字を組み合わせて、新しい漢字を作る方法。また、そのような構成の文字。水を意味する「氵」に、音を表わす「可」を組み合わせた「河」の類。諧声(かいせい)。象声。〔許慎‐説文解字序〕
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
2015年10月16日金曜日
墨書文字の意味解読パターン素案の作成
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.225 墨書文字の意味解読パターン素案の作成
鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」は大物主神を、「大」は大国主神と推定できるという結論に至って、自分自身が強い刺激を受けています。
白幡前遺跡をメインとする萱田遺跡群の墨書文字の意味検討結果とはその趣が大いに異なる結果となっているからです。
鳴神山遺跡では大国玉(大国主神)という神名が祈願語となっていて、それが祈願語としては最も卓越する言葉となっています。
一方、白幡前遺跡をはじめとする萱田遺跡群でのメインの言葉は「生」であり、意味は「白兵戦に生き残る」と推定しました。祈願内容そのものを祈願語に使っています。
2015.06.14記事「墨書土器代表文字の意味」参照
萱田遺跡群では祈願語の多くは祈願内容であると考えました。
このように、遺跡間で祈願語の在り方に相違があるようなので、その相違をより正確に意識するために、墨書文字の意味がどのような項目を意味しているか、自分なりに一般化して把握することにします。
そのツールとして次の墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案を作成しました。
墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案
多文字墨書土器の意味解読パターンは「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)で検討されていて、それは2015.05.07記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字の意味」で紹介しました。
上記「墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案」は多文字墨書土器の例を参考にして、1文字あるいは2~3文字程度の墨書文字を対称にして作成したものです。
多文字のものとの最大の違いは、祈願内容を項目として含んでいることです。
多文字墨書土器と一般の単独文字をメインとする圧倒的多数の墨書土器とはその意義が全く異なると考えています。
2015.10.11記事「墨書土器の2大分類と鳴神山遺跡出土文字「丈」の分布」参照
このパターンをツールに自分なりに、当面は鳴神山遺跡の、その後は再び萱田遺跡群の、墨書文字の意味がどの項目に該当するのか検討していくことにします。
……………………………………………………………………
感想
墨書文字の項目が遺跡間で大きく違うことがわかってきたので、その違いに着目して、遺跡の特性の違いをあぶり出すことができると考えます。
蝦夷戦争遂行という律令国家のベクトルを基準にすると、萱田遺跡群の方が大衆のこころざしが高く(使命実現を直接祈願語で表現している)、鳴神山遺跡の大衆は気持ちが内向きになっている(自分の使命を言葉で表現していない)ように感じます。
大衆を指導する者のこころざしの高低が、その者が発する言葉(祈願語)となって大衆の墨書土器文字として普及していったのだと思います。
鳴神山遺跡で大衆の気持ちが内向きになっていることと、この遺跡での銙帯出土が少ないという事実が相関すると考えます。
律令国家における官人の役割・指導力は大きなものがあったと考えます。
鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」は大物主神を、「大」は大国主神と推定できるという結論に至って、自分自身が強い刺激を受けています。
白幡前遺跡をメインとする萱田遺跡群の墨書文字の意味検討結果とはその趣が大いに異なる結果となっているからです。
鳴神山遺跡では大国玉(大国主神)という神名が祈願語となっていて、それが祈願語としては最も卓越する言葉となっています。
一方、白幡前遺跡をはじめとする萱田遺跡群でのメインの言葉は「生」であり、意味は「白兵戦に生き残る」と推定しました。祈願内容そのものを祈願語に使っています。
2015.06.14記事「墨書土器代表文字の意味」参照
萱田遺跡群では祈願語の多くは祈願内容であると考えました。
このように、遺跡間で祈願語の在り方に相違があるようなので、その相違をより正確に意識するために、墨書文字の意味がどのような項目を意味しているか、自分なりに一般化して把握することにします。
そのツールとして次の墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案を作成しました。
墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案
多文字墨書土器の意味解読パターンは「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)で検討されていて、それは2015.05.07記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字の意味」で紹介しました。
上記「墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案」は多文字墨書土器の例を参考にして、1文字あるいは2~3文字程度の墨書文字を対称にして作成したものです。
多文字のものとの最大の違いは、祈願内容を項目として含んでいることです。
多文字墨書土器と一般の単独文字をメインとする圧倒的多数の墨書土器とはその意義が全く異なると考えています。
2015.10.11記事「墨書土器の2大分類と鳴神山遺跡出土文字「丈」の分布」参照
このパターンをツールに自分なりに、当面は鳴神山遺跡の、その後は再び萱田遺跡群の、墨書文字の意味がどの項目に該当するのか検討していくことにします。
……………………………………………………………………
感想
墨書文字の項目が遺跡間で大きく違うことがわかってきたので、その違いに着目して、遺跡の特性の違いをあぶり出すことができると考えます。
蝦夷戦争遂行という律令国家のベクトルを基準にすると、萱田遺跡群の方が大衆のこころざしが高く(使命実現を直接祈願語で表現している)、鳴神山遺跡の大衆は気持ちが内向きになっている(自分の使命を言葉で表現していない)ように感じます。
大衆を指導する者のこころざしの高低が、その者が発する言葉(祈願語)となって大衆の墨書土器文字として普及していったのだと思います。
鳴神山遺跡で大衆の気持ちが内向きになっていることと、この遺跡での銙帯出土が少ないという事実が相関すると考えます。
律令国家における官人の役割・指導力は大きなものがあったと考えます。
2015年10月15日木曜日
鳴神山遺跡の墨書文字「大」は大国主神と推定する
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.224 鳴神山遺跡の墨書文字「大」は大国主神と推定する
2015.10.14記事「鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する」で「久弥良」がクビラと読み、金毘羅を意味し、即ち大物主神の意味であることがわかりました。
この思考から芋づる式に次の思考展開するのは容易でした。
鳴神山遺跡の長文土器で大国主神が登場するものは2点あります。
「国玉神上奉 丈部鳥 万呂」と「大国玉罪」です。
特に、「大国玉罪」は「大」という文字を使っています。
支配層である丈部一族が「大国玉神」つまり「大国主神」を信奉していたことは確実になりました。
この情報から、鳴神山遺跡で最も多出する文字「大」「大加」の「大」は「大国玉」の「大」であり、つまり「大国主神」の意味であることを導くことができます。
「大加」の加は次の辞書説明にあるように、坏に酒を差し加えるということで捉えることができますから。
従って「大加」で「この坏に酒を注ぎ捧げますから、大国主神が私の祈願を実現してください」という意味になると思います。
くわえ くはへ【加】
〖名〗 (動詞「くわえる(加)」の連用形の名詞化)
① 加えること。増しふやすこと。たし。
② 酒を杯や銚子に差し加えること。また、それに用いる酒器。銚子や提子(ひさげ)の類。
●資勝卿記‐寛永一一年(1634)七月一八日「御銚子を将軍とらせられ、御しゃくにて主上へまいらせらるる、御くわへあり」
以下略
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
「大」「大加」の大が大国主神ということになりましたから、鳴神山遺跡に次に示したような関係で大国主神と大物主神が共存して信奉されていたと推定できます。
鳴神山遺跡出土墨書土器で出現する大国主神と大物主神
労働層の一部に大物主神を信奉する集団が存在することから引き出せる意味にはいろいろなものがあると思います。
私が思い浮かぶ最初の意味は、鳴神山遺跡が蝦夷戦争における戦略的軍粮生産基地であったことから、律令国家が全国から技術者や労働者を動員して開発を行い、その動員されたメンバーの中に大物主神を信奉する一団が存在していたに違いないということです。
鳴神山遺跡に大国主神だけでなく大物主神が出現することは、この遺跡が全国規模で動員された人員によって開発されていたことを物語ると考えます。
同時に、鳴神山遺跡は信奉する神の違いなどよりも、現実の軍粮生産開発が優先されている軍事兵站基地であり、一般集落、一般農業集落などでは全くないことを物語っています。
2015.10.14記事「鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する」で「久弥良」がクビラと読み、金毘羅を意味し、即ち大物主神の意味であることがわかりました。
この思考から芋づる式に次の思考展開するのは容易でした。
鳴神山遺跡の長文土器で大国主神が登場するものは2点あります。
「国玉神上奉 丈部鳥 万呂」と「大国玉罪」です。
特に、「大国玉罪」は「大」という文字を使っています。
支配層である丈部一族が「大国玉神」つまり「大国主神」を信奉していたことは確実になりました。
この情報から、鳴神山遺跡で最も多出する文字「大」「大加」の「大」は「大国玉」の「大」であり、つまり「大国主神」の意味であることを導くことができます。
「大加」の加は次の辞書説明にあるように、坏に酒を差し加えるということで捉えることができますから。
従って「大加」で「この坏に酒を注ぎ捧げますから、大国主神が私の祈願を実現してください」という意味になると思います。
くわえ くはへ【加】
〖名〗 (動詞「くわえる(加)」の連用形の名詞化)
① 加えること。増しふやすこと。たし。
② 酒を杯や銚子に差し加えること。また、それに用いる酒器。銚子や提子(ひさげ)の類。
●資勝卿記‐寛永一一年(1634)七月一八日「御銚子を将軍とらせられ、御しゃくにて主上へまいらせらるる、御くわへあり」
以下略
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
「大」「大加」の大が大国主神ということになりましたから、鳴神山遺跡に次に示したような関係で大国主神と大物主神が共存して信奉されていたと推定できます。
鳴神山遺跡出土墨書土器で出現する大国主神と大物主神
労働層の一部に大物主神を信奉する集団が存在することから引き出せる意味にはいろいろなものがあると思います。
私が思い浮かぶ最初の意味は、鳴神山遺跡が蝦夷戦争における戦略的軍粮生産基地であったことから、律令国家が全国から技術者や労働者を動員して開発を行い、その動員されたメンバーの中に大物主神を信奉する一団が存在していたに違いないということです。
鳴神山遺跡に大国主神だけでなく大物主神が出現することは、この遺跡が全国規模で動員された人員によって開発されていたことを物語ると考えます。
同時に、鳴神山遺跡は信奉する神の違いなどよりも、現実の軍粮生産開発が優先されている軍事兵站基地であり、一般集落、一般農業集落などでは全くないことを物語っています。
2015年10月14日水曜日
鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.223 鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する
墨書文字「久」、「久弥」、「久弥良」について検討します。
2015.09.27記事「鳴神山遺跡の墨書土器文字・熟語」で「久、久弥良、久弥は湿地における狩猟集団(水鳥猟集団)であると想像します。」と書きました。
その想像が当たっているかどうかは別にして、「久弥良」の読み方とその意味が判ってきましたので、この記事で記述します。
次に、鳴神山遺跡における「久」、「久弥」、「久弥良」の全情報を示します。
鳴神山遺跡における「久」、「久弥」、「久弥良」の全情報
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から作成
「久」、「久弥」、「久弥良」は同じ遺構から出土することが多いので、「久」、「久弥」は「久弥良」の略語であると考えます。
「久弥良」の画像を参考に示します。
「久弥良」線刻 Ⅰ042竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「久弥良」線刻 Ⅰ049竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「久」、「久弥」、「久弥良」の分布図を次に示します。
文字「久」「久弥」「久弥良」出土分布図
内側の環状道路より北側にそのほとんどが分布します。また分布遺構が散らばっていることも特徴です。
「久、久弥良、久弥は湿地における狩猟集団(水鳥猟集団)であると想像」すると、余りに広域に分布していてすこし不自然です。
他の情報がないのでそれ以上の考察はできませんが、狩猟集団であるとの考えの信頼度は低下しました。
次に、「久弥良」の読みについて検討します。
弥、弥の旧字彌、弥の本字镾を調べましたが字音は「ビ」「ミ」です。
「イヤ」「ヤ」は国字(和字)の読みです。
国語学の知識があるわけではないので、直感レベルの考察ですが、ここでは弥をビと読んでみました。
「久弥良」がクビラと読めます。
「クビラ」を辞書で引くと、金毘羅の意味になります。
くびら【宮毘羅・倶毘羅】
(梵 Kumbhīra の訳語。「金毘羅(こんぴら)」とも訳す) 仏語。薬師如来の十二神将の一つ。また、仏法守護の夜叉神王の上首をいう。武装し、忿怒(ふんぬ)の姿をとる。宮毘羅大将。こんぴら。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
金毘羅は大物主神と考えられています。
こんぴら【金毘羅・金比羅】
(梵 Kumbhīra 「宮毘羅(くびら)」とも訳す。鰐の意) 仏語。薬師十二神将の一つ。また、仏法守護の夜叉神王の上首。武装し、忿怒の姿をとるが、持物は一定しない。大物主神(おおものぬしのかみ)はこの垂迹(すいじゃく)の姿といい、海神として信仰され、香川県の象頭山(ぞうずさん)の金刀比羅(ことひら)宮にまつられている。金毘羅大将。金毘羅童子。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
大物主神は大国主神をサポートして国づくりを担った神です。
おおものぬしのかみ 大物主神
日本神話にみえる神の名。▶大神〘おおみわ〙神社の祭神。モノは魔物をいい,ヌシは頭領の意。記紀の伝える▶三輪山伝説によると,この神は蛇体であり岩窟に住んでいた。また崇神天皇の代にこの神のたたりで疫病がはやり人民が飢え苦しんだので,その子孫の▶大田田根子に祭らせたところ,天下は安定したともいう。魔物の頭目として大和地方でもっとも土着性の強い国津神〘くにつかみ〙の一つだが,このオオモノヌシが記紀神話の伝承の中でとくに目だつのは,▶大国主神〘おおくにぬしのかみ〙の分身として国作りに協力し,国譲りの後はもろもろの国津神を率いて宮廷を守護したとされている点である。《出雲国造神賀詞〘いずものくにのみやつこのかむよごと〙》にも,オオクニヌシが己の和魂〘にぎたま〙としてこの神を三輪山に居させ〈皇孫命〘すめみまのみこと〙の近き守り神〉にしたとある。これらの伝承は,宮廷が各地の豪族を次々と服属させ,国津神たちを逆に己の守護神へと仕立て上げていったいきさつを,オオモノヌシに典型化して語ったものである。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ
そして、面白いことに、大物主神が協力した大国主神の神名が、墨書土器として出土しています。
「国玉神上奉 丈部鳥 万呂」です。
その出土地を上掲分布図に参考としてプロットしました。
国玉神は国魂神で大国主神です。
くにたまのかみ 国魂神
国霊神,国玉神とも書く。日本人固有の神霊に関する信仰の一形態で,国土そのものの神霊をいう。《古事記》《日本書紀》などの,いわゆる〈国生み神話〉によれば,〈大八洲〘おおやしま〙〉すなわち日本の国土は,天津神のみことのりによって伊弉諾〘いざなき〙尊と伊弉冉〘いざなみ〙尊の男女の性の交わりを通して生まれたとされている。また,生まれた島々も〈淡道之穂之狭別〘あわじのほのさわけ〙〉(淡路島),〈愛比売〘えひめ〙〉(伊予国),〈飯依比売〘いいよりひめ〙〉(讃岐国)のように,男女を区別する名で呼ばれている。このように,古代日本人は国や島を人格的なものと考え,一定の区域内にはそれぞれの国魂が内在し,そのはたらきによって国土が成長し発展すると考えた。これが〈国魂神〉の観念である。したがって,〈国生み神話〉は,元始に神が天地を〈創造〉したとする旧約聖書の世界観とは,本質的に異なるものである。やがて,幾つかの国魂を総称した魂が考えられるようになった。これが〈大国魂〘おおくにたま〙神〉の信仰である。大国魂神は〈大年〘おおとし〙神の子〉,または〈大国主神〉とも言われている(《古事記》《日本書紀》《古語拾遺》)が,本来は幾つかの国魂の総称,あるいは,最高の国魂と考えられたものであろう。《延喜式》によれば,国魂神をまつった神社には〈国玉神社〉(和泉国,尾張国),〈国玉命神社〉(伊豆国)などがある。また,東京都府中市の〈大国魂神社〉は著名である。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ
支配集団丈部(ハセツカベ)一族の書いた多文字墨書土器に出てくるのが、大国主神であり、労働集団が祈願語として使ったのが、大物主神であるという対照からくみ取ることができる意味は大きなものがあると考えます。
この記事では、「久弥良」をクビラと読み金毘羅=大物主神を意味し、同時に同じ遺跡から大国主神が出土しているという推定&事実を示し、今後の検討対象として面白いという指摘にとどめます。
墨書文字「久」、「久弥」、「久弥良」について検討します。
2015.09.27記事「鳴神山遺跡の墨書土器文字・熟語」で「久、久弥良、久弥は湿地における狩猟集団(水鳥猟集団)であると想像します。」と書きました。
その想像が当たっているかどうかは別にして、「久弥良」の読み方とその意味が判ってきましたので、この記事で記述します。
次に、鳴神山遺跡における「久」、「久弥」、「久弥良」の全情報を示します。
鳴神山遺跡における「久」、「久弥」、「久弥良」の全情報
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から作成
「久」、「久弥」、「久弥良」は同じ遺構から出土することが多いので、「久」、「久弥」は「久弥良」の略語であると考えます。
「久弥良」の画像を参考に示します。
「久弥良」線刻 Ⅰ042竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「久弥良」線刻 Ⅰ049竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「久」、「久弥」、「久弥良」の分布図を次に示します。
文字「久」「久弥」「久弥良」出土分布図
内側の環状道路より北側にそのほとんどが分布します。また分布遺構が散らばっていることも特徴です。
「久、久弥良、久弥は湿地における狩猟集団(水鳥猟集団)であると想像」すると、余りに広域に分布していてすこし不自然です。
他の情報がないのでそれ以上の考察はできませんが、狩猟集団であるとの考えの信頼度は低下しました。
次に、「久弥良」の読みについて検討します。
弥、弥の旧字彌、弥の本字镾を調べましたが字音は「ビ」「ミ」です。
「イヤ」「ヤ」は国字(和字)の読みです。
国語学の知識があるわけではないので、直感レベルの考察ですが、ここでは弥をビと読んでみました。
「久弥良」がクビラと読めます。
「クビラ」を辞書で引くと、金毘羅の意味になります。
くびら【宮毘羅・倶毘羅】
(梵 Kumbhīra の訳語。「金毘羅(こんぴら)」とも訳す) 仏語。薬師如来の十二神将の一つ。また、仏法守護の夜叉神王の上首をいう。武装し、忿怒(ふんぬ)の姿をとる。宮毘羅大将。こんぴら。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
金毘羅は大物主神と考えられています。
こんぴら【金毘羅・金比羅】
(梵 Kumbhīra 「宮毘羅(くびら)」とも訳す。鰐の意) 仏語。薬師十二神将の一つ。また、仏法守護の夜叉神王の上首。武装し、忿怒の姿をとるが、持物は一定しない。大物主神(おおものぬしのかみ)はこの垂迹(すいじゃく)の姿といい、海神として信仰され、香川県の象頭山(ぞうずさん)の金刀比羅(ことひら)宮にまつられている。金毘羅大将。金毘羅童子。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
大物主神は大国主神をサポートして国づくりを担った神です。
おおものぬしのかみ 大物主神
日本神話にみえる神の名。▶大神〘おおみわ〙神社の祭神。モノは魔物をいい,ヌシは頭領の意。記紀の伝える▶三輪山伝説によると,この神は蛇体であり岩窟に住んでいた。また崇神天皇の代にこの神のたたりで疫病がはやり人民が飢え苦しんだので,その子孫の▶大田田根子に祭らせたところ,天下は安定したともいう。魔物の頭目として大和地方でもっとも土着性の強い国津神〘くにつかみ〙の一つだが,このオオモノヌシが記紀神話の伝承の中でとくに目だつのは,▶大国主神〘おおくにぬしのかみ〙の分身として国作りに協力し,国譲りの後はもろもろの国津神を率いて宮廷を守護したとされている点である。《出雲国造神賀詞〘いずものくにのみやつこのかむよごと〙》にも,オオクニヌシが己の和魂〘にぎたま〙としてこの神を三輪山に居させ〈皇孫命〘すめみまのみこと〙の近き守り神〉にしたとある。これらの伝承は,宮廷が各地の豪族を次々と服属させ,国津神たちを逆に己の守護神へと仕立て上げていったいきさつを,オオモノヌシに典型化して語ったものである。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ
そして、面白いことに、大物主神が協力した大国主神の神名が、墨書土器として出土しています。
「国玉神上奉 丈部鳥 万呂」です。
その出土地を上掲分布図に参考としてプロットしました。
国玉神は国魂神で大国主神です。
くにたまのかみ 国魂神
国霊神,国玉神とも書く。日本人固有の神霊に関する信仰の一形態で,国土そのものの神霊をいう。《古事記》《日本書紀》などの,いわゆる〈国生み神話〉によれば,〈大八洲〘おおやしま〙〉すなわち日本の国土は,天津神のみことのりによって伊弉諾〘いざなき〙尊と伊弉冉〘いざなみ〙尊の男女の性の交わりを通して生まれたとされている。また,生まれた島々も〈淡道之穂之狭別〘あわじのほのさわけ〙〉(淡路島),〈愛比売〘えひめ〙〉(伊予国),〈飯依比売〘いいよりひめ〙〉(讃岐国)のように,男女を区別する名で呼ばれている。このように,古代日本人は国や島を人格的なものと考え,一定の区域内にはそれぞれの国魂が内在し,そのはたらきによって国土が成長し発展すると考えた。これが〈国魂神〉の観念である。したがって,〈国生み神話〉は,元始に神が天地を〈創造〉したとする旧約聖書の世界観とは,本質的に異なるものである。やがて,幾つかの国魂を総称した魂が考えられるようになった。これが〈大国魂〘おおくにたま〙神〉の信仰である。大国魂神は〈大年〘おおとし〙神の子〉,または〈大国主神〉とも言われている(《古事記》《日本書紀》《古語拾遺》)が,本来は幾つかの国魂の総称,あるいは,最高の国魂と考えられたものであろう。《延喜式》によれば,国魂神をまつった神社には〈国玉神社〉(和泉国,尾張国),〈国玉命神社〉(伊豆国)などがある。また,東京都府中市の〈大国魂神社〉は著名である。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ
支配集団丈部(ハセツカベ)一族の書いた多文字墨書土器に出てくるのが、大国主神であり、労働集団が祈願語として使ったのが、大物主神であるという対照からくみ取ることができる意味は大きなものがあると考えます。
この記事では、「久弥良」をクビラと読み金毘羅=大物主神を意味し、同時に同じ遺跡から大国主神が出土しているという推定&事実を示し、今後の検討対象として面白いという指摘にとどめます。
2015年10月13日火曜日
千葉県における墨書文字「丈」の分布から浮かび上がる鳴神山遺跡の特性
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.222 千葉県下墨書文字「丈」の分布から浮かび上がる鳴神山遺跡の特性
この記事では千葉県下の「丈」出土分布を見て、鳴神山遺跡の特性について検討します。
2015.10.11記事「墨書土器の2大分類と鳴神山遺跡出土文字「丈」の分布」で鳴神山遺跡の「丈、丈部」出土について検討しました。
「丈部」(ハセツカベ)は「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)の丈部一族に結び付けて考えることができると考えました。
また、鳴神山遺跡で多出する「丈」は直接「丈部」一族が書いたものではなく、ツエ「杖・筇・丈」と読み補佐するものという意味であり、支配層とは一応分離している職種職能集団が書いたものであったと考えました。
しかし、よくよく考えると、「丈部」(ハセツカベ)が支配者として君臨している集落で、読み方を違えても同じ文字「丈」を使うのですから、「丈部」(ハセツカベ)の権勢をバックに利用した集団であることは間違いありません。虎の威を借りた祈願語です。
ですから、「丈」(つえ)は近目でみれば支配一族には直接含まれない集団ですが、遠目にみれば「丈部」(ハセツカベ)一族に密接したその関連集団であるということになります。
このような検討を踏まえて、千葉県下の「丈、丈部」分布をみてみます。
まず、一覧表で整理すると次のようになります。
墨書土器文字「丈、丈部」出土数
千葉県下では45遺跡から102史料が出土していて、そのうち12史料が「丈部」となっています。
鳴神山遺跡が「丈、丈部」でも「丈部」でもトップであることが大変特徴的です。
これを分布図にしてみます。
次の分布図は「丈部」も含めて「丈」全ての出土分布図です。
墨書土器文字「丈、丈部」出土数
鳴神山遺跡だけが孤立して出土数が多いのではなく、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、西根遺跡及びすぐ近くの印旛沼対岸の上谷遺跡、栗谷遺跡さらに権現後遺跡、北海道遺跡、村上込の内遺跡に「丈、丈部」分布が集中しています。
成田や佐倉など古代社会の中心域ではなく、地勢的に東京湾水系(花見川)に近い印旛浦の奥の分布が特段に濃くなっています。
千葉県における「丈、丈部」分布の中心は東京湾水系隣接の奥印旛浦であると断言できます。
次の分布図は「丈部」だけの出土分布図です。
墨書土器文字「丈部」出土数
「丈部」分布の中心も東京湾水系隣接の奥印旛浦であると断言できます。
この分布図から「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)という記述の人物丈部直牛養(ハセツカベノアタイウシカイ)の軍粮調達のメイン根拠地域が東京湾水系隣接の奥印旛浦地域であると考えることが合理的です。
丈部直牛養のメイン根拠地域のなかでも最大の根拠地が鳴神山遺跡であった可能性が濃厚です。
萱田遺跡群が蝦夷戦争の兵站・軍事基地であると考えましたが、それが首肯されるとともに、鳴神山遺跡が蝦夷戦争兵站のための巨大軍粮(軍隊のための食糧)生産基地であったという特性が浮かびあがりました。
鳴神山遺跡が巨大軍粮生産基地であったので、生産活動はすべて高度な組織活動として実施され、その結果として墨書土器出土数が千葉県最大になったと考えます。
東京湾水系に隣接する印旛浦の奥に蝦夷戦争の兵站・軍事基地群が作られたことと、その場所が東海道水運支路(仮説)のルートにあたるということは、偶然の一致ではなく、双方は律令国家が実施した一つの総合計画的開発の結果だと考えます。この点は、今後さらに検討を深めます。
……………………………………………………………………
参考
参考 千葉県墨書土器出土イメージ
千葉県墨書土器出土イメージ
墨書土器の出土とは、その場所で官人が主導するプロジェクトが実施された跡、組織活動が行われた跡であると考えます。
墨書土器数も、東京湾水系に隣接する印旛浦の奥が千葉県下で最大の密集出土域であり、この地域で古代における組織活動が最も盛んであったことを物語っています。
参考 千葉県の遺跡別銙帯出土数
銙帯は官人が身に着けるものであり、その出土数は大局的には官人の人数に比例すると考えます。
銙帯は成田や佐倉など古代社会の中心であった地域に最も濃く分布し、その場所が行政や政治権力の中枢地域であったことを物語っています。
萱田遺跡群、村上込の内遺跡付近も比較的分布が濃くなっています。
ところが、鳴神山遺跡及び近隣では銙帯の出土はありますが、特段に濃密になっていません。
鳴神山遺跡の特性を考える上で大変特徴的です。
鳴神山遺跡は行政管理機能は弱く、ひたすら生産に励む現場だったのだと思います。
イメージ的比喩的に考えれば鳴神山遺跡は現代の巨大建設工事現場みたいな性格があったと考えます。
建設工事現場では目標に向かって作業部隊が組織的に運用されます。しかしその現場では、一般社会のような土地に根付いたコミュニティはありません。土地に根付いたコミュニティを維持発展管理させるための行政サービスは不必要です。
また、この場所に周辺広域地域の行政中心機能を設ける必要性も全くありません。
建設工事現場で必要なことは作業部隊構成員を実務的に日々動員して労働に従事させることです。
鳴神山遺跡でも同じように、作業部隊構成員の労務管理をする親方がいればよかったのだと思います。
鳴神山遺跡では官人はあまり必要としなかったのだと思います。
関連記事
2015.09.05記事「墨書土器出土数からみた鳴神山遺跡」
2015.09.07記事「銙帯出土情報から考える鳴神山遺跡の意義」
2015.09.08記事「銙帯出土数と墨書土器出土数のアンバランス」
この記事では千葉県下の「丈」出土分布を見て、鳴神山遺跡の特性について検討します。
2015.10.11記事「墨書土器の2大分類と鳴神山遺跡出土文字「丈」の分布」で鳴神山遺跡の「丈、丈部」出土について検討しました。
「丈部」(ハセツカベ)は「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)の丈部一族に結び付けて考えることができると考えました。
また、鳴神山遺跡で多出する「丈」は直接「丈部」一族が書いたものではなく、ツエ「杖・筇・丈」と読み補佐するものという意味であり、支配層とは一応分離している職種職能集団が書いたものであったと考えました。
しかし、よくよく考えると、「丈部」(ハセツカベ)が支配者として君臨している集落で、読み方を違えても同じ文字「丈」を使うのですから、「丈部」(ハセツカベ)の権勢をバックに利用した集団であることは間違いありません。虎の威を借りた祈願語です。
ですから、「丈」(つえ)は近目でみれば支配一族には直接含まれない集団ですが、遠目にみれば「丈部」(ハセツカベ)一族に密接したその関連集団であるということになります。
このような検討を踏まえて、千葉県下の「丈、丈部」分布をみてみます。
まず、一覧表で整理すると次のようになります。
墨書土器文字「丈、丈部」出土数
千葉県下では45遺跡から102史料が出土していて、そのうち12史料が「丈部」となっています。
鳴神山遺跡が「丈、丈部」でも「丈部」でもトップであることが大変特徴的です。
これを分布図にしてみます。
次の分布図は「丈部」も含めて「丈」全ての出土分布図です。
墨書土器文字「丈、丈部」出土数
鳴神山遺跡だけが孤立して出土数が多いのではなく、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、西根遺跡及びすぐ近くの印旛沼対岸の上谷遺跡、栗谷遺跡さらに権現後遺跡、北海道遺跡、村上込の内遺跡に「丈、丈部」分布が集中しています。
成田や佐倉など古代社会の中心域ではなく、地勢的に東京湾水系(花見川)に近い印旛浦の奥の分布が特段に濃くなっています。
千葉県における「丈、丈部」分布の中心は東京湾水系隣接の奥印旛浦であると断言できます。
次の分布図は「丈部」だけの出土分布図です。
墨書土器文字「丈部」出土数
「丈部」分布の中心も東京湾水系隣接の奥印旛浦であると断言できます。
この分布図から「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)という記述の人物丈部直牛養(ハセツカベノアタイウシカイ)の軍粮調達のメイン根拠地域が東京湾水系隣接の奥印旛浦地域であると考えることが合理的です。
丈部直牛養のメイン根拠地域のなかでも最大の根拠地が鳴神山遺跡であった可能性が濃厚です。
萱田遺跡群が蝦夷戦争の兵站・軍事基地であると考えましたが、それが首肯されるとともに、鳴神山遺跡が蝦夷戦争兵站のための巨大軍粮(軍隊のための食糧)生産基地であったという特性が浮かびあがりました。
鳴神山遺跡が巨大軍粮生産基地であったので、生産活動はすべて高度な組織活動として実施され、その結果として墨書土器出土数が千葉県最大になったと考えます。
東京湾水系に隣接する印旛浦の奥に蝦夷戦争の兵站・軍事基地群が作られたことと、その場所が東海道水運支路(仮説)のルートにあたるということは、偶然の一致ではなく、双方は律令国家が実施した一つの総合計画的開発の結果だと考えます。この点は、今後さらに検討を深めます。
……………………………………………………………………
参考
参考 千葉県墨書土器出土イメージ
千葉県墨書土器出土イメージ
墨書土器の出土とは、その場所で官人が主導するプロジェクトが実施された跡、組織活動が行われた跡であると考えます。
墨書土器数も、東京湾水系に隣接する印旛浦の奥が千葉県下で最大の密集出土域であり、この地域で古代における組織活動が最も盛んであったことを物語っています。
参考 千葉県の遺跡別銙帯出土数
銙帯は官人が身に着けるものであり、その出土数は大局的には官人の人数に比例すると考えます。
銙帯は成田や佐倉など古代社会の中心であった地域に最も濃く分布し、その場所が行政や政治権力の中枢地域であったことを物語っています。
萱田遺跡群、村上込の内遺跡付近も比較的分布が濃くなっています。
ところが、鳴神山遺跡及び近隣では銙帯の出土はありますが、特段に濃密になっていません。
鳴神山遺跡の特性を考える上で大変特徴的です。
鳴神山遺跡は行政管理機能は弱く、ひたすら生産に励む現場だったのだと思います。
イメージ的比喩的に考えれば鳴神山遺跡は現代の巨大建設工事現場みたいな性格があったと考えます。
建設工事現場では目標に向かって作業部隊が組織的に運用されます。しかしその現場では、一般社会のような土地に根付いたコミュニティはありません。土地に根付いたコミュニティを維持発展管理させるための行政サービスは不必要です。
また、この場所に周辺広域地域の行政中心機能を設ける必要性も全くありません。
建設工事現場で必要なことは作業部隊構成員を実務的に日々動員して労働に従事させることです。
鳴神山遺跡でも同じように、作業部隊構成員の労務管理をする親方がいればよかったのだと思います。
鳴神山遺跡では官人はあまり必要としなかったのだと思います。
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2015.09.05記事「墨書土器出土数からみた鳴神山遺跡」
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2015年10月12日月曜日
2015.10.12 今朝の花見川
今朝は、私が最も美しいと感じる花見川風景パターンになりましたので、厳選写真を特大で掲載します。
夜明け前の雲の朝日反射
地表に光がまだあたっていない時間で上空3000m位の雲だけ光っていて、印象的な空の光景です。
このように雲が特段に明るく光るためには、太陽と雲と私の位置の組み合わせが一定の条件下で揃わなければなりません。時間的には数分も続きません。
雲の位置が自分の位置から離れるとボンヤリ明るい(赤い)だけになり、輝きません。
花見川の風景
弁天橋から下流
弁天橋から上流
光る雲の列が空間に構造を与えていて、また光る雲が水面に反射していて、華やかな風景になっています。
太陽そのものが雲に隠れたので生まれた光景です。
この光景も太陽、雲、水面と私の位置が特定の条件下でしか生じません。
夜明け前の雲の朝日反射
地表に光がまだあたっていない時間で上空3000m位の雲だけ光っていて、印象的な空の光景です。
このように雲が特段に明るく光るためには、太陽と雲と私の位置の組み合わせが一定の条件下で揃わなければなりません。時間的には数分も続きません。
雲の位置が自分の位置から離れるとボンヤリ明るい(赤い)だけになり、輝きません。
花見川の風景
弁天橋から下流
弁天橋から上流
光る雲の列が空間に構造を与えていて、また光る雲が水面に反射していて、華やかな風景になっています。
太陽そのものが雲に隠れたので生まれた光景です。
この光景も太陽、雲、水面と私の位置が特定の条件下でしか生じません。
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