2017年1月31日火曜日

大膳野南貝塚 縄文時代学習計画

大膳野南貝塚についてこれまでにいろいろなウォーミングアップを行い、旧石器時代学習をしてきました。

いよいよ本論の縄文時代学習に入ります。

発掘調査報告書(全4冊)の中の次の目次部分を時代順に学習していくことにします。

●千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の縄文時代関連記述
1 草創期~前期中葉の遺構と遺物
・炉穴
・陥し穴
・包含層・遺構外出土土器  
2 前期後葉の遺構と遺物
・竪穴住居祉
・土坑
・包含層出土土器
・遺構外出土土器
・包含層・遺構外出土特殊土器・土製品
3 前期末葉~中期後葉の遺物
・包含層・遺構外出土土器
4 中期末葉~後期中葉の遺構と遺物
・竪穴住居祉
・土坑墓
・土坑
・屋外漆喰炉
・小児土器棺
・単独埋甕
・単独人骨
・特殊な出土状態の獣骨
・貝層
5 中期末葉~晩期末・弥生初頭の包含層・遺構外出土遺物
・包含層出土の中期末葉~後期堀之内1式土器
・遺構外出土の中期末葉~後期堀之内1式土器
・包含層・遺構外出土の後期堀之内2式~晩期末・弥生初頭の土器
・包含層・遺構外出土の石器
・遺構外出土の骨角器
・遺構外出土の貝製品
6 科学分析
・人骨
・動物遺体
・貝類・魚類遺体
・大膳野南貝塚の自然科学分析
7 まとめ
・縄文時代前期後葉
・縄文時代中期末葉~後期


なお、縄文時代最新専門知識は大変虚弱の身ですから、発掘調査報告書を読むだけではそこにある情報の意義について十分に理解できない可能性が濃厚です。

そこで、発掘調査報告書の学習は次の専門図書学習と絡めて行うことにします。

●「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の縄文時代記述
1 縄文時代の始まり
・縄文時代の時期区分と年代
・縄文人と自然環境
・道具の変化
・縄文的生活の始まり
2 自然への適応
・森のめぐみへの適応
・海のめぐみへの適応
・貝塚の形成
・食生活とエネルギー摂取
3 生活の安定
・食の安定と生産活動
・定住化と集落の建設
・交換と生産活動
4 生活の余裕と社会
・埋葬の変遷
・装身具の発達
・祭祀儀礼
・抜歯・合葬からみた集団
・社会の実像
5 縄文社会崩壊プロセス
・衰退と環境変化
・縄文社会の崩壊

●「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の縄文時代記述
1 時代と編年-房総の編年基準-
・土器の変遷-縄文時代-
2 遺跡・遺構と遺物
・貝塚
・先史時代の海食洞穴遺跡
・集落
・竪穴住居
・早・前期の大型住居
・中期以降の特殊な建物
・盛土遺構
・土器塚
・落とし穴
・埋葬
・運ばれてきた土器
・製塩
・骨角貝製品
・丸木舟
・狩猟具
・生活用の石器
・石器の石材と産地
・石製・土製装身具
・土偶・土版とその他の土製品
・祭祀用の土器
・祭祀用の石器
・抜歯

発掘調査報告書を読んでイメージが湧かない専門用語がある場合、あるいはその用語の意味は理解できるにしろ、その情報の意義の深さが判らない場合、上記2冊の参考専門図書の関連部分を学習することにします。

大膳野南貝塚の縄文時代学習が終わるころには参考専門図書の関連部分も全て理解できているように、あるいは自分なりの独自の問題意識を持てるようにしたいと思います。

発掘調査報告書4冊と参考専門図書2冊

ちなみにこの6冊の重量は合せて10.3㎏です。

扱うのに一苦労ですが、耐えるしかありません。

次の記事では時代順学習をする上で必要な縄文時代区分について、早速参考専門図書を利用して学習します。

2017年1月23日月曜日

忘備メモ 白幡前遺跡瓦塔出土分布の意義

1 夢の内容

今朝(2017.01.23 早朝)夢の中で以前検討した白幡前遺跡(*)について、瓦塔出土分布が発掘調査報告書で「ばら撒かれているようだ」と記述されていることについて「何故か?」と検討していました。

白幡前遺跡出土瓦塔
千葉県の歴史 資料編考古3 から引用

蝦夷戦争に関連した時代につくられたと想像する国策仏教寺院に納められていた瓦塔がバラバラに壊され「廃棄」され、「ばら撒かれているようだ」と記述されていることを思い出し、尋常なことではないと感じました。

発掘調査報告書では竪穴住居覆土層出土物は全て「廃棄物」として扱われています。

夢の中で、もしかしたら房総に移配された蝦夷戦争の俘囚の反乱の一つの結果ではないだろうかと空想しました。

支配者サイドが信仰世界で大切にしている瓦塔を、反乱俘囚がわざと壊してぶちまけ、反乱の気概を示している…。

2 目覚めてからの思考

瓦塔が「ばら撒かれているようだ」と記述された根拠は次の図に示すようにいくつかの隣接遺構から同一瓦塔の部材が出土していることによるものです。

白幡前遺跡の瓦塔出土状況

俘囚蝦夷が反乱を起こし、白幡前遺跡にも乱入し、寺院を破壊し、瓦塔をばらまいたという空想は一つのロマン(?)ではありますが、分布図をみるとあり得ないことです。

暴動で大切な瓦塔が壊されて「ばら撒かれた」としても、それが3つの廃絶竪穴住居の覆土層と道路遺構から出土することはあり得ません。

瓦塔を壊した俘囚がその破片をあちこちの廃絶竪穴住居の穴に放り込んで廻るという行為はあり得ません。

「ばら撒かれているようだ」という印象記述は覆土層出土物は廃棄物であるという思考とともに根拠のないものであることが、夢から覚めた自分には直観できました。

3 白幡前遺跡瓦塔出土分布の意義(見立て)

白幡前遺跡瓦塔出土分布の意義を次のように見立てました。

蝦夷戦争時代につくられた国策仏教寺院に瓦塔が納められていて、人々の信仰を深める物として大切にされていた。

蝦夷戦争後国策仏教寺院が廃絶した。

同時に寺院関連施設(竪穴住居)も廃絶した。

寺院関連施設(竪穴住居)つまり僧侶等の住居が廃絶したとき、竪穴住居跡で祭祀(法事、法要、回忌)が行われ、瓦塔片が穴に納められた。

竪穴住居覆土層から瓦塔片が出土するのは、壊された瓦塔が廃棄物としてばら撒かれたのではなく、反対に、信仰の対象として大切な物であったが故に、祭祀における重要なお供え物になったと見立てました。

前後の記事と関係ないメモですが、上谷遺跡学習で芽生えた問題意識(竪穴住居覆土層出土物はほとんど全て祭祀のお供え物)に関連するので忘備のために記事にしました。

……………………………………………………………………
* 2015.04.20記事「八千代市白幡前遺跡 「村落内寺院」は存在しない」など

2017年1月22日日曜日

1960年代千葉市都市図の入手とGIS背景画像化

考古歴史学習を進めていく上で、開発前地形把握が重要な学習基盤となると常々感じています。

2017.01.20記事「大膳野南貝塚 旧石器時代ブロックと狩場の対応」では既に次図のように1960年代千葉市都市図(1/3000)を利用しています。

参考 大膳野南貝塚旧石器ブロックの1960年代千葉市都市図プロット

1960年代千葉市都市図を使うことにより、発掘調査報告書の情報だけからではできない思考をすることができました。

しかしこの図はたまたま「絵にみる図でよむ千葉市図誌 上巻」(千葉市発行)に掲載されている図があったので転用利用できたのであり、近隣について自由にこの地図情報を得ることはできません。

そこで1960年代千葉市都市図(1/3000)のうち旧千葉市域分を全て電子画像として入手し、GIS背景画像として利用できるようにしました。

学習基盤整備の一端が大いに進展したことになります。

1960年代千葉市都市図(1/3000)は千葉市都市部局から千葉市立郷土博物館に移管されています。

そのため千葉市立郷土博物館から資料の館外貸出許可を取り、スキャン電子化して画像ファイルを作成しました。

1960年代千葉市都市図(1/3000)画像ファイル化範囲

参考 画像ファイル化範囲のGISプロット

既に北西部について平成24年に手続きして画像ファイル化しているのですが、今回の手続きにより旧市域分全部のカバーが完了しました。

1960年代千葉市都市図(1/3000)画像ファイルの例

なお、八千代市域開発前地図の画像ファイルは既に八千代市都市計画課から提供していただいて、GIS背景図として学習に活用しています。


2017年1月20日金曜日

大膳野南貝塚 旧石器時代ブロックと狩場の対応

大膳野南貝塚が位置する袋小路台地面の後期旧石器時代ブロック分布図を作成してみました。

全ての文化層のブロックを同列に一括して扱ったものですから、大ざっぱな思考ですが、思考しないよりははるかにましです。

ブロック分布図
典拠資料オーバーレイ

ブロック分布図
典拠資料を取り去り、背景図を1960年代千葉市都市図にしたもの。

このブロック分布図に2017.01.09記事「大膳野南貝塚 旧石器時代狩の様子」の思考結果を投影すると、次のようなブロックと狩場の対応関係図をつくることができます。

後期旧石器時代ブロックと対応する狩場(推定)

A谷、B谷、C谷が狩場として利用されていたことがわかります。

また、獣の追い落としが谷頭から行われたことが推察できます。

さらにD谷は谷頭が緩傾斜であるため、狩場としては利用されていなかったことも推察できます。

旧版2万5千分の1地形図では思考を深めることをはばかってしまいましたが、1960年代千葉市都市図(縮尺3000分の1)を使うと、地形の様子がリアルになる分だけ思考の自己規制が解けます。

2017年1月19日木曜日

大膳野南貝塚 旧石器時代狩の様子

大膳野南貝塚の後期旧石器時代の出土物から当時の狩の様子を想定します。

1 後期旧石器時代出土物

テストピット調査におけるブロックの出土状況、出土物は次の通りです。

大膳野南貝塚 後期旧石器時代ブロック分布

出土石器情報
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書第Ⅰ分冊 から引用

第Ⅰ文化層ブロックからの石器出土数25、第Ⅱ文化層ブロックからの石器出土数5、第Ⅲ文化層ブロックからの石器出土数15を確認しておきます。

大膳野南貝塚 後期旧石器時代 出土石器

槍の穂先や側面に埋め込んだと考えられる、動物を仕留めるための道具用石器と、動物を解体加工する諸工程で使う異なる諸作業用道具石器の双方が含まれています。

バクチ穴遺跡の情報と組み合わせて石器形式について詳しく学習すれば有用な情報を得ることができると考えますが、学習の目的(縄文時代学習)から離れすぎてしまうと考えますので、止めます。

この記事では、ブロックから出土した石器数に着目して、近隣遺跡で学習した成果と比べて、思考を深めてみたいと思います。

2 参考 近隣遺跡におけるブロック出土石器数と狩活動・狩施設との関係

1500mほど離れた近隣の市原市草刈遺跡の旧石器時代遺跡の学習を以前行いました。

その学習の中で、ブロック石器数規模と狩活動・狩施設の間に関係を見つけました。

参考 草刈遺跡におけるブロック石器数規模と狩活動・狩施設の関係
2014.11.13記事「参考 規模別遺物集中地点のヒートマップ

草刈遺跡ではブロックの出土石器数規模の大小を分布図にしてみると、出土石器数規模が大きいものは臨時キャンプ施設に、中程度のものは狩施設や獲物加工処理施設に、単独出土は狩そのものの活動に対応していると想定できました。

石器数出土規模中程度ブロック分布から想定した草刈遺跡における狩の様子は次の通りです。

参考 草刈遺跡の狩の様子
2014.11.06記事「規模別に見た遺跡分布

3 大膳野南貝塚後期旧石器時代ブロックの意味

大膳野南貝塚の後期旧石器時代調査はテストピット調査とはいえ貴重な情報ですから、この情報を草刈遺跡学習結果と対応させることにより、最大限思考に活かしてみることが大切であると考えます。

草刈遺跡学習における想定を踏まえると、大膳野南貝塚のブロックは石器数が中程度ですから、狩施設や獲物加工処理施設に対応すると考えることができる可能性が生まれます。

この可能性から大膳野南貝塚付近が狩の現場そのものであり、狩終了後獲物を加工処理した跡がブロックとして出土したと考えることができます。

4 参考 旧石器時代の狩方法

「千葉県の歴史」(千葉県発行)では旧石器時代の狩方法として次のようなイメージ図を掲載しています。

旧石器時代の狩方法
「千葉県の歴史 資料編 考古4」(千葉県発行)から引用

台地面を徘徊する動物(シカ)を台地末端部に追い込み、さらに崖から追い落とし、谷底で仕留める様子が描かれています。

海外の例になりますが、カナダアルバータ州ではHead-Smashed-In Buffalo Jampという遺跡があり、原始時代からバッファローを追い立て、崖から落として狩猟しています。

Head-Smashed-In Buffalo Jampの例

いずれも動物の習性と地形を巧みに利用して動物を自滅させて狩っていたと考えられます。

アフリカでメスライオンの群れが協力して草食獣を仕留めるような力ずくの狩は、動物の敏捷性に人がついていけないため、槍などの武器があっても人には無理であると考えられます。

旧石器時代人の狩のほとんどは広義の意味での罠戦術であったと考えます。

その代表的な狩方法が台地縁から動物を落とす狩であったと考えます。

武器は瀕死の動物の息の根を止める時に使う程度であったと想像します。

5 大膳野南貝塚付近の後期旧石器時代の狩の様子

大膳野南貝塚のブロックの規模、旧石器時代狩方法の想定、周辺の地形から、大膳野南貝塚付近の狩の様子を次のように想定します。

大膳野南貝塚付近の後期旧石器時代の狩の様子

大膳野南貝塚とバクチ穴遺跡付近は両側が谷、終端が狭窄部尾根になっている袋小路の台地面となっています。

この袋小路に動物を追い込み、特定の崖に動物を追い落としたと考えます。

谷底で仕留めた動物はすぐ上の台地面で小分け解体、皮なめしや干し肉づくりなどを行ったと考えます。

その加工処理作業場の跡が出土したブロックであると考えます。

袋小路台地面は誘いこまれた動物が特定の崖に落ちざるをえないような、高度に整備された狩施設、罠施設であったと考えます。

ここで大切な点は大膳野南貝塚の縄文時代中期末葉~後期中葉(貝塚が作られた頃)は、同じ空間が狩施設、罠施設であったことはあり得ないということです。

つまり、後期旧石器時代と縄文時代の貝塚形成期では狩の場所が全く異なっていたことが、後期旧石器時代ブロックの存在から明確になります。

2017年1月18日水曜日

大膳野南貝塚付近の旧版地形図の入手

大膳野南貝塚の学習を進めるに当たって、開発前の地形を知ることが必須であると考えています。

過去の別視点学習の中で大膳野南貝塚が含まれる旧版2万5千分の1地形図初版(「曽我野」1921年測図)を所持していて、それを使っていたのですが、図幅半分が未測図となっています。

2万5千分の1地形図「曽我野」1921年のGISプロット
モノクロ画像に任意の色をつけ、オーバーレイしたときに見やすいようにしています。
赤点は大膳野南貝塚の位置

大膳野南貝塚の南側の地形イメージをつくれませんから、大膳野南貝塚の検討をする上で、強い不全感を持ってしまいます。

そこで図幅全部が地図化した最初の版(「蘇我」1957年資料修正図)を国土地理院より入手しました。

2万5千分の1地形図「蘇我」1957年のGISプロット
モノクロ画像に任意の色をつけ、オーバーレイしたときに見やすいようにしています。
赤点は大膳野南貝塚の位置

これで喉にささったトゲがようやく抜けました。

以前、草刈遺跡を事例として旧石器時代遺跡の学習をしましたが、大膳野南貝塚と草刈遺跡がすぐ近くであることもわかります。

旧版地形図を拡大してみると、1921年版より1957年版の方が位置精度が向上しているように感じられました。

大膳野南貝塚の位置と2万5千分の1地形図「蘇我」1957年のオーバーレイ

なお、千葉市立郷土博物館より1960年代都市図(1/3000)の情報を提供していただけることになっていますので、その情報が使えるようになると、次元の異なるような精度の高い検討が可能となります。

2017年1月17日火曜日

興味を挑発する沖積地旧石器時代遺跡

2017.01.16記事「大膳野南貝塚 旧石器時代ブロック出土の意義」で千葉県全体の旧石器時代遺跡分布図を掲示しました。

ふさの国文化財ナビゲーション(千葉県教育委員会WEBサイト)からダウンロードした旧石器時代遺跡データをGISに展開したものです。

この千葉県旧石器時代遺跡分布図をGIS画面で表示したとき、沖積地に立地する旧石器時代遺跡が5か所あり気になりました。

一般論として沖積地に旧石器時代遺跡は存在しないと考えられますから、GISデータ作成の際の過誤を示していると考えました。

精査すると誤2カ所、正3カ所という結果になりました。

GISデータベース作成の際の過誤を2カ所発見できたことはよかったと思います。

同時に、過誤発見安堵の何倍もの感情増幅を伴って、3カ所沖積地旧石器時代遺跡に興味を挑発されました。

興味を挑発された理由は、沖積地から旧石器時代遺物(鏃等)が出土するとすれば、その理由として実際に動物を仕留めて解体した現場の遺跡、つまり沖積層に埋もれていた開析谷基底面の遺跡である可能性があるからです。

過去の草刈遺跡における旧石器時代学習で沖積層下に埋没した旧石器時代遺跡を想定しています。

参考 獲物加工処理施設と動物を仕留め解体大分けした場所の地形断面図投影

参考 含動物骨旧石器時代遺跡が存在している可能性のある場所

2014.11.19記事「含動物骨旧石器時代遺跡存在の可能性」参照

草刈遺跡で想定したような沖積層埋没旧石器時代遺跡が次の3か所で見つかっている可能性があるので、興味が大いに挑発されます。

この記事では、後日の検討のために3か所の沖積地旧石器時代遺跡基本情報を整理しておきます。

1 市原市 五所四反田遺跡

市原市 五所四反田遺跡の位置

市原市 五所四反田遺跡の基本情報
ふさの国文化財ナビゲーション画面引用

メモ 場所が砂洲であるのでオリジナルな旧石器時代遺跡の可能性はないと考えます。

流水の影響で旧石器時代遺物が流れついたのかもしれません。あるいは時代判定の過誤かもしれません。


2 袖ヶ浦市 三箇遺跡

袖ヶ浦市 三箇遺跡の位置

袖ヶ浦市 三箇遺跡の基本情報
ふさの国文化財ナビゲーション画面引用

メモ オリジナルな旧石器時代遺跡の可能性と、流水の影響で旧石器時代遺物が流れ込んだ可能が考えられます。

3 君津市 常代遺跡

君津市 常代遺跡の位置

君津市 常代遺跡の基本情報
ふさの国文化財ナビゲーション画面引用

メモ 「旧石器集中地点」が字義どおりならオリジナルな旧石器時代遺跡の存在を示しています。

この付近は千葉市付近より地盤の上昇がより激しいですから、開析谷底の旧石器時代遺跡を埋没させる沖積層が薄く、オリジナル旧石器時代遺跡が観察されている可能性が濃厚です。

動物を仕留め、小糸川の水を利用して解体した現場であった可能性があります。








2017年1月16日月曜日

大膳野南貝塚 旧石器時代ブロック出土の意義

2017.01.14記事「大膳野南貝塚 旧石器時代ブロックの出土層」で旧石器時代ブロックの出土層について学習しました。

この記事ではブロック(石器集中地点)観察の意義について思考します。

次の図は大膳野南貝塚付近の旧石器時代遺跡分布図です。

大膳野南貝塚付近の旧石器時代遺跡分布

地形との対応関係で旧石器時代遺跡は特異な分布をしていることが判ります。

下総台地面(下総上位面)が開析谷で浸食される末端部に密集していることがわかります。

台地面が広がる台地中央部に旧石器時代遺跡はほとんどありません。

旧石器時代遺跡は台地面を背景にしてその末端部に分布しているという特徴があります。

ちなみに、房総全体の旧石器時代遺跡分布図を示すと次のようになります。

千葉県旧石器時代遺跡分布図

この分布図を見ると、大膳野南貝塚付近のみならず房総全体で旧石器時代遺跡とは台地面末端付近に立地しているという大局観を持つことができます。

広い台地平坦面がない山地や険しい丘陵には旧石器時代遺跡は分布していません。

この2枚の分布図から、旧石器時代人は台地末端部で狩をしていて、山地や急斜面の土地では狩をしていなかったことが判ります。

現在の沖積地に埋没している土地、あるいは海面下になっている旧石器時代陸地は激しい開析谷地域ですから、その土地にも旧石器時代遺跡は少なかったと推論できます。

このような旧石器時代遺跡分布特性から、また過去に行った近隣の草刈遺跡学習から、旧石器時代狩場の地形イメージを次のように仮説します。

旧石器時代狩場の地形イメージ(仮説)

このように思考してくると、大膳野南貝塚から旧石器時代ブロック(石器集中地点)が出土したことには必然性があることがよく理解できます。

大膳野南貝塚付近はその地形特性(台地面末端部)から旧石器時代の優良な狩場であったのです。

旧石器ギャザリングゾーンの分析から、村田川が台地面を北と南に分割する付近は東日本でも有数の狩場であり、同時に東日本旧石器時代人の主要なコミュニケーション地帯であったとされています。

……………………………………………………………………
参考 Google earth でみる千葉県旧石器時代遺跡分布

Google earth でみる千葉県旧石器時代遺跡分布

Google earth でみる千葉県旧石器時代遺跡分布

Google earth でみる千葉県旧石器時代遺跡分布

Google earth でみる千葉県旧石器時代遺跡分布


2017年1月15日日曜日

ブログ開設6周年通過

本日(2017.01.15)がこのブログ開設6周年通過日となります。

6周年の通過が出来たのは、ひとえに多くの方々にこのブログを閲覧していただき、コメントをいただき、いろいろなご協力をいただいたおかげです。

皆様方に心から感謝申し上げます。

過去6年間の活動、及び2016年の活動については次の記事群で既にふりかえっています。

2016.11.19記事「ブログ花見川流域を歩く 6年間のふりかえり

2016.11.24記事「考古歴史学習 6年間のふりかえり

2016.11.30記事「地名学習 6年間のふりかえり

2016.12.02記事「地形学習 6年間のふりかえり

2016.12.04記事「自然風景観察、社会学習 6年間のふりかえり

2016.12.07記事「過去6年間学習テーマのKJ法図解

2016.12.31記事「2016年の趣味活動をふりかえる

この記事では趣味活動の2017年と将来のささやかな夢を描きたいと思います。

1 大膳野南貝塚学習

縄文時代学習の入門モデル学習として大膳野南貝塚に取り組みます。

すでに2016年12月からスタートしています。

発刊されている4冊の発掘調査報告書を隅から隅まで徹底して分析学習して、その過程で縄文時代考古学に関する基礎知識を獲得し、また自分なりの問題意識を深めたいと考えています。

学習の中でGIS技術、統計分析技術、画像表現技術などの技術適用を楽しみたいと考えています。

また旧石器時代学習、古代遺跡学習と関連付けて学習を行います。

関連付ける一つの視点として旧石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代→奈良・平安時代という時代変遷の中で下総台地付近の人集団がどのように連続し、混合し、断絶したかという点に興味を持っています。

房総では縄文時代人の一部が奈良・平安時代頃まである程度独自性を保持して、つまり中央政府サイドと強く混合することなく、残存していたかもれないと仮説しています。

さらに、縄文時代人がつけた地名(小字レベル)が現代地名(小字レベル)にまで伝わっているに違いないと仮説しています。

大膳野南貝塚学習で知識が増え、問題意識が深まれば、花見川流域や下総台地を対象とした縄文時代学習を展開したいと夢想しています。

2 上谷遺跡学習

上谷遺跡の奈良平安時代遺跡について2016年7月から学習をしてきています。

学習するほど興味が深まりましたので、学習レベルを格上げして、継続学習することにしました。

2016.12.22記事「上谷遺跡学習の格上げ」参照

上谷遺跡発掘調査報告書全6冊の中の奈良平安時代編部分について徹底した分析学習を行い、奈良平安時代考古学に関する基礎知識を獲得し、自分なりの問題意識をさらに深めたいと考えています。

学習の中では特に竪穴住居覆土層に含まれる遺物の意義を学習したいと考えています。

竪穴住居覆土層に含まれる遺物が廃棄物であるのか、祭祀の結果であるのかという点に興味を持っています。

また、竪穴住居の大きさや形状、出土物の種類や量、出土墨書土器の文字などの多様な指標を総合分析(多変量解析等)することで年代、生業、祭祀等に関する新たな情報を得ることができるのではないだろうかと考え、興味を温めています。

上谷遺跡学習が一段落できれば、その学習で得た知識や分析方法を萱田遺跡群や鳴神山遺跡に適用して、それら遺跡の再学習を行いたいと予定しています。

なお、上谷遺跡学習の一環のような位置づけで、検見川台地古代遺跡学習を2017年1月から寄り道学習しています。

3 地名学習と私家版千葉県歴史・地名GISデータベース構築

私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構築が進んでいますので、この取り組みを継続強化するとともに、地名学習を折に触れて行いたいと考えています。

2016.12.27記事「私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構築と活用学習のスタート」参照

私家版千葉県歴史・地名GISデータベースは既に、上記1大膳野南貝塚学習、2上谷遺跡学習の重要な学習インフラになっています。

4 学習経過のとりまとめ

これまでの学習経過(ブログ過去記事、構想した諸仮説等)を論説等にとりまとめ、特設サイトで公表したいと考えています。

5 ファミリーブログによる情報発信

ブログ 花見川流域を歩くには次のファミリーブログがあります。

花見川流域を歩く 番外編

花見川流域を歩く 自然・風景編

世界の風景を楽しむ

学習 幸福否定

これらのファミリーブログにおける情報発信も折に触れて行います。

趣味活動のなかで頭に浮かぶマニアックな技術思考、日々の自然観察、世界の地形に対する興味、趣味活動に関する自己心理分析など、ブログ「花見川流域を歩く」で記事にするとブログカラーとかブログイメージに影響してしまうものを順次ファミリーブログとして独立させてきました。


ブログ花見川流域を歩くを今後もよろしくお願い申し上げます。


花見川風景

2017年1月14日土曜日

大膳野南貝塚 旧石器時代ブロックの出土層

大膳野南貝塚の旧石器時代学習に入ります。

旧石器時代の発掘調査は86個所のテストピット(2m×2m)で行われ、発掘区域面積2%の土地に該当します。

3カ所のテストピットでブロック(石器集中地点)が観察され、別の文化層になっています。

ブロック分布図
隣接バクチ穴遺跡と一緒に表示
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅲ分冊-本文編3- から引用

第Ⅰ文化層の石器群は頁岩を主な素材とした細身の縦長剥片のナイフ形石器です。

第Ⅱ文化層の石器群は多種類の素材で小形、不定の剥片が多くなっています。

第Ⅲ文化層の石器群では角錐状石器の存在が大きなものとなっています。


文化層の出土層位と立川ローム層との関係は次の通りです。

文化層と立川ローム層との関係
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅰ分冊-本文編1- から引用

第Ⅰ文化層は立川ローム層TL-Ⅸに第Ⅱ文化層は立川ローム層TL-Ⅶに対応し、AT(姶良丹沢火山灰)より下層です。

第Ⅲ文化層は立川ローム層TL-Ⅳに対応していて、AT(姶良丹沢火山灰)より上層になります。

次の資料から、第Ⅰ文化層、第Ⅱ文化層は最終氷期クライマックス期の直前頃、第Ⅲ文化層は最終氷期クライマックス期頃とイメージできます。

参考 「南関東の第四紀編年図」から作成した資料
「花見川河川争奪に関わる地形面の年代」2014.04.28記事「花見川河川争奪の発生年代 地形面モデル追考」掲載

第Ⅰ文化層、第Ⅱ文化層、第Ⅲ文化層の各時代ともに激しく地形が侵食されていた寒冷期であり、現在より海面が100数十mほど低い時代であり、もちろん沖積層(沖積面)は存在しない時代になります。

激しく侵食された山地の頂部に存在する平坦面(台地)の端が大膳野南貝塚の場所であったということになります。

ブロック分布図をGISにプロットすると次のようになります。

ブロック分布図のGISプロット図

第Ⅰ~Ⅲ文化層の時代は、背景旧版地形図の谷津谷底(水田記号)が存在していない時代です。

沖積谷底の代わりに、現在は埋没している侵食谷底が存在していました。

その侵食谷底の険しい地形は東京湾を過ぎ、そこから数十km先の太平洋のところまで続いていたと考えられます。

ですから、大膳野南貝塚の場所は地形的には極めて特異な場所、険しい侵食地形と台地平坦面の境界であったと考えられます。

その特異な地形変換点であったればこそ旧石器時代ブロックが観察されたことになります。

旧石器時代ブロックが観察された理由を次の記事で考えます。




2017年1月13日金曜日

検見川台地古代遺跡の墨書土器出土数の極端な少なさ

2017年1月2日の初夢に端を発し、検見川台地小字群が蝦夷戦争時代頃の俘囚中継施設を表現しているらしいことをいくつか記事にしてきました。

2017.01.05記事「花見川河口津付近の地名「直道」(ナオミチ)の解釈」など参照

初夢という偶然で予期しない事象で、新たな興味が発生したことになります。

想像レベルとはいえ、検見川台地における小字群セットに俘囚移配中継施設の空間ストーリーを投影したことは愉快です。

折角ですから、趣味活動だから許される、突然の寄り道学習を大膳野南貝塚学習の合間にすることにします。

地名の検討だけでは俘囚移配中継施設があった「らしい」ことはわかりますが、決定力に欠けます。

幸い検見川台地上の古代遺跡は過去にこのブログで検討しています。

発掘調査報告書も悉皆的に閲覧してコピーも所持しています。

そこで、地名からイメージできる古代土地空間特性を出土遺構・遺物で検証できるかどうか、チャレンジしてみようと思います。

過去の発掘調査報告書では、台地上の遺跡は一般集落であるとする無特徴を前面に出したような記述になっています。

だれでも直ぐわかるような特筆すべき遺構や遺物はないということです。

しかし、俘囚移配中継施設の存在を暗示する小字群セットが現代にまで伝わるほどですから、詳細にデータを分析すれば、必ずや出土遺構・遺物から古代土地空間特性の一端は検証できると考えます。

この記事では検見川台地古代遺跡の特性を浮き彫りにする方法を検討します。

1 墨書土器出土数(率)による他遺跡との比較による検見川台地古代遺跡特性のあぶり出し

墨書土器出土数をみると、検見川台地古代遺跡(直道遺跡、居寒台遺跡等)の墨書土器出土数は極端に少なくなっています。

墨書土器出土分布図

同じ交通路(東海道水運支路(仮説))にありながら、検見川台地古代遺跡は鳴神山遺跡、上谷遺跡、白幡前遺跡などと比べると、極めて少なくなっています。

遺跡発掘区域の大小も影響はすると思いますが、それにしても検見川台地古代遺跡における墨書土器出土数は少ないものです。

この墨書土器出土数の少なさから検見川台地古代遺跡の特性の1面をあぶり出すことができると考えます。

次のような可能性が予察されます。

ア 墨書土器活動が最盛期を迎える9世紀には検見川台地上の集落が衰退していた可能性。

イ そもそも墨書土器活動を行う生業集団(牧、養蚕、漆、水田…)が少なかった可能性。

参考 鳴神山遺跡竪穴住居 墨書土器出土数

2つの可能性はともにこの土地に俘囚移配中継施設があったことを支持する材料になるかもしれません。

墨書土器の出土統計や出土状況等を他遺跡と比較することによって、検見川台地古代遺跡の特性をあぶり出したいと考えます。

2 出土遺物種類等の他遺跡との比較による検見川台地古代遺跡特性のあぶり出し

ア 鏃など対人殺傷兵器の出土率(対建物、対生業道具等)を他遺跡と比較して、検見川台地古代遺跡の特性をあぶり出す。

イ 建物の統計(竪穴住居/掘立柱建物、掘立柱建物の大きさや形状)を他遺跡と比較して、検見川台地古代遺跡の特性をあぶり出す。

細長い掘立柱建物が多く他遺跡とは建物形状に違いがある可能性を感じています。もし建物形状が異なれば、その利用内容も違う可能性が生まれます。

ウ 釣り針などが出土していることから、検見川台地古代遺跡と漁業との関係

漁業を生業とする集団と墨書土器を残した集団は全く別系統の集団であったと想定しています。

鳴神山遺跡、上谷遺跡、白幡前遺跡などから東京湾産ハマグリが出土しています。

それを供給した集団が東京湾岸に存在するはずですが、交通路(東海道水運支路(仮説))で直接結ばれた花見川河口検見川台地付近にその集団が存在したと考えることが穏当な予想となります。

……………………………………………………………………

参考 検見川台地住居祉のデータ

参考 花見川河口付近の地物

2017年1月12日木曜日

検見川台地の小字確認

2017.01.06記事「地名「直道」(ナオミチ)の解釈 追補」で小字大扱、大扱台、中扱が、検見川台地に存在した古代俘囚中継施設と関連する地名であることを検討しました。

古代俘囚中継施設の存在は地名だけではなく遺構・遺物データからも推論できそうなので、検討が進めば別記事にしたいと思います。

さて、これらの地名は「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)によりました。

しかし、千葉県全体をデータベース化した小字データとは異なる地名です。

そこで千葉市立郷土博物館から情報を提供していただき、小字大扱、大扱台、中扱が原本と相違ないことを念のために確認しましたので、メモしておきます。

1 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載小字分布図

「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載小字分布図(部分)

2 検見川地番割図 1934年

検見川地番割図 1934年

「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載小字分布図が正確であること確認することができました。

3 角川千葉県地名大辞典附録小字一覧

角川千葉県地名大辞典附録小字一覧

このデータは分布図ではありませんが、リストで前後する近隣小字との対応関係から1、2における小字大扱、大扱台、中扱がこの資料では大坂(オオサカ)、大坂台(オオサカダイ)、中坂(ナカサカ)であることは明瞭です。

扱という漢字は坂という漢字に似ていますから角川千葉県地名大辞典附録小字一覧のデータは読み間違いというケアレスミスで生まれて、なおかつ、勝手に「オオサカ」などの間違った読みを創作してしまったということになります。

角川千葉県地名大辞典附録小字一覧は行政に提出してもらった資料をそのまま掲載したものです。

間違っているらしいと気が付いたところもあるが、それを直すことなく機械的に掲載したという趣旨の注書きの意味がよく判ったことになります。

角川千葉県地名大辞典附録小字一覧のデータの正確性のレベルを体感できる例に直面できましたので、今後このデータベースを利用する際にはそれを踏まえたいと考えます。

また小字検討の重要局面では千葉市域に関しては「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)を必ず参照したいと思います。


2017年1月11日水曜日

大膳野南貝塚学習準備 キーワードの抽出

大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習を始めるに当たって、全4冊の分厚い報告書内容をできるだけ身近に引き寄せておき、親しみと興味を育てたいと思っています。

考古歴史に関する基礎知識が極めて虚弱ですから、学習継続のための工夫が必要です。

そこで、4冊の発掘調査報告書を端から読む前の準備活動の一環として、大膳野南貝塚の主要キーワードを抽出してみました。

この記事では抽出主要キーワードを列挙して、キーワード毎にどのように学習を進めるかイメージします。

1 千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 報告書抄録における要約

発掘調査報告書抄録の要約を次に引用します。
……………………………………………………………………
大膳野南貝塚の発掘調査により、旧石器時代、縄文時代、古墳時代、平安時代、中・近世、現代の戦争関連遺構など、多岐にわたる時代の遺跡が発見された。

旧石器時代についてはⅣ・Ⅶ・Ⅸ層で文化層が確認され、それぞれの文化層でブロックが検出された。縄文時代早期では炉穴、陥し穴が検出された。

縄文時代前期については諸磯b(浮島Ⅰ~Ⅱ)式期の拠点的集落が検出された。千葉市域および隣接する市原市域をあわせても、当該期集落としては最大級の規模である。また、多量の獣骨を伴う大型住居の発見は特筆されよう。

縄文時代中期末~後期については、堀之内1式期を主体時期とする貝塚を伴う環状集落の全貌をほぼ明らかにすることが出来た。とくに新知見となる縄文時代における「漆喰」を使用した遺構(漆喰貼床住居、漆喰炉など)の発見は特筆されよう。また、廃屋墓(複葬・単葬)、小児土器棺、土坑墓などから、合計30体の人骨が出土した。縄文時代の遺物については、総量で824箱を数える多種多様な遺物が出土したが、中でもJ105号住(堀之内1式期)から出土した鯨骨製骨刀は注目に値する。

古墳時代では終末期の方墳、古代では平安時代前期集落、中・近世ではシシ穴関連遺構の可能性がある溝状遺構と陥し穴状の土坑、現代の戦争関連遺構としては陸軍照空部隊の探照灯車用通路と推定される切り通し状の遺構が発見された。
……………………………………………………………………

2 学習のためのキーワード抽出

報告書抄録要約から学習のための主要キーワードを抽出しました。

今後これら主要キーワードの意味を知り、実態を知り、その意義について考え、学習を深めることにします。

キーワード学習の主な視点
a…編年の学習、地層・土器形式との関連学習
b…用語の学習、その後その実態把握と意義学習
c…実態把握と意義学習

主要キーワード

●旧石器時代
Ⅳ・Ⅶ・Ⅸ層…a
文化層…b
ブロック…b

●縄文時代早期
炉穴…b
陥し穴…c

●縄文時代前期
諸磯b(浮島Ⅰ~Ⅱ)式期…a
拠点的集落…c
多量の獣骨を伴う大型住居…c

●縄文時代中期末~後期
堀之内1式期…a
貝塚を伴う環状集落…c
漆喰貼床住居…c
漆喰炉…c
廃屋墓(複葬・単葬)…c
小児土器棺…c
土坑墓…c
合計30体の人骨…c
鯨骨製骨刀…c

●古墳時代
終末期の方墳…c

●古代
平安時代前期集落…c

●中・近世
シシ穴関連遺構…b
溝状遺構…c
陥し穴状の土坑…c

●現代
戦争関連遺構…c

これらのキーワードについては意識的に学習を深め、できるだけ早期に専門的知識を身に着けるべく努力したいと思います。

3 参考 キーワード関連画像

多量の獣骨を伴う大型住居…c
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅳ分冊-写真図版編- から引用


貝塚を伴う環状集落…c
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅳ分冊-写真図版編- から引用

漆喰貼床住居…c
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅳ分冊-写真図版編- から引用

漆喰炉…c
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅳ分冊-写真図版編- から引用

合計30体の人骨…c
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅳ分冊-写真図版編- から引用

鯨骨製骨刀…c
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅳ分冊-写真図版編- から引用