花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.2旧石器時代の移動路>3.2.8旧石器時代遺跡と地形 事例検討その2
2014.10.30記事「旧石器時代遺跡と地形 事例検討その1」をブログにアップして、その日の夕方千葉市中央図書館に出かけ、草刈遺跡と萱田遺跡群の資料を探しました。
千葉市中央図書館は夜9時まで利用できますから便利です。
草刈遺跡に関する発掘調査報告書は20冊以上に及び、表題からはどれを見たら北向崖下の遺跡が出ているのかわからず、10冊以上取り寄せ、結局「千原台ニュータウンⅩ-市原市草刈遺跡(東部地区旧石器時代)-」(平成15年、財団法人千葉県文化財センター)に知りたい情報が出ていることがわかりました。館外帯出できました。
萱田遺跡群も多数の報告書があるのですが、とりあえず北海道遺跡に関する報告書2冊も館外帯出しました。
「千原台ニュータウンⅩ-市原市草刈遺跡(東部地区旧石器時代)-」(平成15年、財団法人千葉県文化財センター)
早速「千原台ニュータウンⅩ-市原市草刈遺跡(東部地区旧石器時代)-」(平成15年、財団法人千葉県文化財センター)について、ざっと目を通してみると、石器の特色等(※)から、私が見立てた事柄(北向崖下遺跡は狩遺跡)と整合する情報ばかり掲載されているような印象を受けます。
とても驚きです。
掲載情報から自分の見立てが証明されるかもしれないという印象とともに、旧石器時代の狩に関するイメージをある程度具体的に持つことができるかもしれないという予想すらします。
そのような印象・感想を次に示します。
草刈遺跡に関する狩場イメージ
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)から引用 図中に書き込み
これからこの資料を使ってこの狩場イメージを説明しますが、この見立てがデータから証明されるのか、あるいはデータを並べて勝手な空想をしただけで終わるのか、結果はこれからのお楽しみです。
なお、「千原台ニュータウンⅩ-市原市草刈遺跡(東部地区旧石器時代)-」(平成15年、財団法人千葉県文化財センター)では地形や位置の違いについて全く検討していません。
また、遺物集中地点の意義についても全く検討していません。遺物集中地点は「集落」という言葉を使って説明しており、すべて集落という概念で考えているようです。
※
獣皮を干す区域とイメージした遺物集中地点では、獣の解体に使われたと考えられるタイプの剥片があまり集中しないで出土しています。
台地上遺物集中地点では炉跡や焼礫が出土し、調理した跡と考えられます。しかし、ここでは剥片以外の石槍等を作った跡はないようです。本格的ベースキャンプではないことが考えられます。
石槍は個別単独に台地上でわずかに出土します。獣を追いかけている途中に地面に落ちたものと考えられます。
2014年10月31日金曜日
2014年10月30日木曜日
旧石器時代遺跡と地形 事例検討その1
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.2旧石器時代の移動路>3.2.7旧石器時代遺跡と地形 事例検討その1
「千葉県の歴史」等の図書内容の理解学習である「旧石器時代石器学習」を2014.10.29記事「旧石器時代石器学習その5」でひとまず切り上げ、次の学習ステップである、遺跡事例の調査報告書等を閲覧して、遺跡サイトと地形との関係についての分析的学習に入りたいと思います。
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)には旧石器時代57遺跡が事例として紹介されています。
どの事例も興味を引く内容ばかりですが、この中の次の2事例について、記述内容および掲載地図から、私は遺跡と地形との関係について興味ある事実が発見できるかもしれないと感じました。
1 草刈遺跡
場所:市原市草刈字天神台ほか
概要:「ちはら台ニュータウン」の建設工事に伴い1978年から20年にわたり発掘調査が行われた。武蔵野ローム層最上部から県内最古の石器が出土した。
武蔵野ローム層上部から立川ローム層最上部にかけて10枚におよぶ文化層から遺物集中地点130箇所以上、石器総数18000点もの旧石器時代資料が出土している。
2 萱田遺跡群
場所:八千代市萱田・大和田新田
概要:萱田地区土地区画整理事業(100h)に伴い、1987年年度から1991年度まで発掘調査が行われた。
多数の遺物集中地点と豊富な内容をもつ石器群が検出され、文化層は立川ローム層のほぼ全体に及ぶことが判明した。
私が興味を持った点(調べたい点)についてこの記事で説明します。
なお、現時点では発掘調査報告書等は一切見ていません。
これから発掘調査報告書等を図書館で閲覧して、興味を持った点について調べ、順次記事にします。自分の興味が満足されるようなことがこれからの資料調査でえられるかどうか全く不明です。
1 草刈遺跡に関する興味
草刈遺跡に関する興味
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)から引用 図中に書き込み
旧石器時代人は日当たりのよい台地南縁を好んでキャンプしたことは確実だと思います。
一方、北向崖下に遺物集中地点があることが気になります。崖を利用した狩場跡(動物を解体した跡)かもしれません。通常のキャンプではなく、恐らく特別の理由があるはずです。
その理由が出土物や出土状況から推察できるか、資料調査をします。
2 萱田遺跡群に関する興味
萱田遺跡群に関する興味
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)から引用 書き込み
「千葉県の歴史」では次のように説明しています。
「本遺跡では、標高13mを境として、より低い標高に第2文化層が、より高い標高に第3文化層が形成されており、この2つの文化層中に遺物分布がほぼ限られる状況が認められる。この現象は、段丘の形成時期の検討とかかわって興味深い事例といえる。」
この説明は、寒冷侵蝕期に河川下刻作用で河岸段丘が形成され、湧水の位置が下がったので、旧石器時代人のキャンプ地が下がったという解釈のようです。
しかし、あまり信じられません。谷の底の方に降りて行くのは狩活動によるものであると考えます。
出土物や出土状況からわかることがあるか、資料調査してみます。
「千葉県の歴史」等の図書内容の理解学習である「旧石器時代石器学習」を2014.10.29記事「旧石器時代石器学習その5」でひとまず切り上げ、次の学習ステップである、遺跡事例の調査報告書等を閲覧して、遺跡サイトと地形との関係についての分析的学習に入りたいと思います。
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)には旧石器時代57遺跡が事例として紹介されています。
どの事例も興味を引く内容ばかりですが、この中の次の2事例について、記述内容および掲載地図から、私は遺跡と地形との関係について興味ある事実が発見できるかもしれないと感じました。
1 草刈遺跡
場所:市原市草刈字天神台ほか
概要:「ちはら台ニュータウン」の建設工事に伴い1978年から20年にわたり発掘調査が行われた。武蔵野ローム層最上部から県内最古の石器が出土した。
武蔵野ローム層上部から立川ローム層最上部にかけて10枚におよぶ文化層から遺物集中地点130箇所以上、石器総数18000点もの旧石器時代資料が出土している。
2 萱田遺跡群
場所:八千代市萱田・大和田新田
概要:萱田地区土地区画整理事業(100h)に伴い、1987年年度から1991年度まで発掘調査が行われた。
多数の遺物集中地点と豊富な内容をもつ石器群が検出され、文化層は立川ローム層のほぼ全体に及ぶことが判明した。
私が興味を持った点(調べたい点)についてこの記事で説明します。
なお、現時点では発掘調査報告書等は一切見ていません。
これから発掘調査報告書等を図書館で閲覧して、興味を持った点について調べ、順次記事にします。自分の興味が満足されるようなことがこれからの資料調査でえられるかどうか全く不明です。
1 草刈遺跡に関する興味
草刈遺跡に関する興味
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)から引用 図中に書き込み
旧石器時代人は日当たりのよい台地南縁を好んでキャンプしたことは確実だと思います。
一方、北向崖下に遺物集中地点があることが気になります。崖を利用した狩場跡(動物を解体した跡)かもしれません。通常のキャンプではなく、恐らく特別の理由があるはずです。
その理由が出土物や出土状況から推察できるか、資料調査をします。
2 萱田遺跡群に関する興味
萱田遺跡群に関する興味
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)から引用 書き込み
「千葉県の歴史」では次のように説明しています。
「本遺跡では、標高13mを境として、より低い標高に第2文化層が、より高い標高に第3文化層が形成されており、この2つの文化層中に遺物分布がほぼ限られる状況が認められる。この現象は、段丘の形成時期の検討とかかわって興味深い事例といえる。」
この説明は、寒冷侵蝕期に河川下刻作用で河岸段丘が形成され、湧水の位置が下がったので、旧石器時代人のキャンプ地が下がったという解釈のようです。
しかし、あまり信じられません。谷の底の方に降りて行くのは狩活動によるものであると考えます。
出土物や出土状況からわかることがあるか、資料調査してみます。
2014年10月29日水曜日
旧石器時代石器学習 その5
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.2旧石器時代の移動路>3.2.6旧石器時代石器学習その5
2014.10.28記事「旧石器時代石器学習 その4」で石器群別ギャザリング・ゾーンをアニメ表示で図示してみました。
このアニメを期別に編集して表示してみました。
期別(移行期~終末期)の分け方は「千葉県の歴史 通史編 原始・考古1」(千葉県発行)によるものです。
移行期とは中期旧石器時代と後期旧石器時代との間に位置する移行期という意味です。
なお、アニメにはギャザリング・ゾーンのおおよその範囲をイメージ的に理解するための点線を記入しました。
房総の後期旧石器時代 期別ギャザリング・ゾーン アニメ表示(試作)
移行期→初頭期→前半期とギャザリング・ゾーンが大幅に拡大していく様子がきわめて特徴的です。
優秀な石材を求めて後期旧石器時代人の遊動範囲が大拡張していった様子が読み取れるのですが、なぜこのように遊動範囲が大拡張していったのか、その理由はこれからじっくりと考えたいと思います。
現時点で脳裏に浮かぶ相反する2つの理由をメモしておきます。
●後期旧石器時代人がギャザリング・ゾーンを大拡張した理由 その1
気候の寒冷化に伴う環境変化(動物相、動物の行動、植生変化や地形侵蝕進行による狩場環境等の変化)に対応するためには、優秀な石材を間歇的に入手することが生きてゆくために必須だったのだと思います。
気候の寒冷化によって狩対象動物が減り、樹木の減少により狩も困難となり、槍が最後のとどめを刺すために利用されたとはいえ、その優秀さ(作りやす、鋭利さ、頑丈さ、損耗しない程度…)によって獲得動物の量が変化し、グループの栄養状態が左右されたのです。
200㎞、300㎞と離れた深山に分け入り、優秀な石材を探して入手できたグループだけが子孫を残すことができたという厳しい世界だったと想像します。
優秀な石材を得ることができたグループだけが狩効率、生活効率を維持することができたのです。
優秀な石材を獲得できるサイトにたどりつけるコースの知識がグループに代々伝承していたのだと思います。
グループ毎に異なった石材獲得サイトの知識を有していたものと考えます。(同じ石器群でも産地が異なる遺跡がある理由はこのためだと思います。)
●後期旧石器時代人がギャザリング・ゾーンを大拡張した理由 その2
優秀な石材を得たグループの狩効率が良くなるとか生活効率が良くなることは概念的にわかったような気分になります。しかし、房総で狩をして子孫を残すために、福島県や新潟県、長野県まで遊動する必要が本当にあるのかという素朴な疑問が残ります。それほど石材の優秀さの程度が死活問題であるのか実感できません。
石器をつくったり、それで狩をしたり、日常生活で使ったりしたことがないので、実感が湧きません。
優秀な石材を得るために広範囲を遊動するという理由は、その1で検討したこと(それをしないと生きて行けないという死活問題である)ではなく、別の理由があるような疑念が浮かびます。
現代人は科学技術を発展させて、生活を次々に安全に、快適に、便利にしていますが、後期旧石器時代人もただ漫然と食物を得るだけでなく、狩生活をより安全に、快適に、便利にするために、より優秀な石材を求めていたと考えることができるような気がします。
優秀な石材を入手できれば、作りやす、鋭利さ、頑丈さ、損耗しない程度等々で狩生活が安全、快適、便利になります。
優秀な石材がなくても狩はできるのですが、近くのグループが優秀な石材を入手して狩生活を安全、快適、便利にしているのを知れば、自分のグループもそれが欲しくなります。
寒冷期とはいえ(寒冷期だから)、狩対象の動物は当時の人口に比したらきわめて豊富だったに違いありません。石材の良否で狩効率が決定的に異なるようなことは無かったと思います。
後期旧石器時代人は現代人と同じような思考・感情で生活していて、その結果、少しでも優秀な石材を入手して、少しでも生活の安全・快適・利便の向上を追究したのだと思います。
その向上心により優秀石材産地の探索活動が活発化し、それが実を結び、大遊動して優秀石材を入手するようになったと考えることができます。
理由その1とその2をメモしてみると、これまでは漫然とその1のように考えていたのですが、その2の方が自分にとっては説得力があるように感じ出しました。
2014.10.28記事「旧石器時代石器学習 その4」で石器群別ギャザリング・ゾーンをアニメ表示で図示してみました。
このアニメを期別に編集して表示してみました。
期別(移行期~終末期)の分け方は「千葉県の歴史 通史編 原始・考古1」(千葉県発行)によるものです。
移行期とは中期旧石器時代と後期旧石器時代との間に位置する移行期という意味です。
なお、アニメにはギャザリング・ゾーンのおおよその範囲をイメージ的に理解するための点線を記入しました。
房総の後期旧石器時代 期別ギャザリング・ゾーン アニメ表示(試作)
移行期→初頭期→前半期とギャザリング・ゾーンが大幅に拡大していく様子がきわめて特徴的です。
優秀な石材を求めて後期旧石器時代人の遊動範囲が大拡張していった様子が読み取れるのですが、なぜこのように遊動範囲が大拡張していったのか、その理由はこれからじっくりと考えたいと思います。
現時点で脳裏に浮かぶ相反する2つの理由をメモしておきます。
●後期旧石器時代人がギャザリング・ゾーンを大拡張した理由 その1
気候の寒冷化に伴う環境変化(動物相、動物の行動、植生変化や地形侵蝕進行による狩場環境等の変化)に対応するためには、優秀な石材を間歇的に入手することが生きてゆくために必須だったのだと思います。
気候の寒冷化によって狩対象動物が減り、樹木の減少により狩も困難となり、槍が最後のとどめを刺すために利用されたとはいえ、その優秀さ(作りやす、鋭利さ、頑丈さ、損耗しない程度…)によって獲得動物の量が変化し、グループの栄養状態が左右されたのです。
200㎞、300㎞と離れた深山に分け入り、優秀な石材を探して入手できたグループだけが子孫を残すことができたという厳しい世界だったと想像します。
優秀な石材を得ることができたグループだけが狩効率、生活効率を維持することができたのです。
優秀な石材を獲得できるサイトにたどりつけるコースの知識がグループに代々伝承していたのだと思います。
グループ毎に異なった石材獲得サイトの知識を有していたものと考えます。(同じ石器群でも産地が異なる遺跡がある理由はこのためだと思います。)
●後期旧石器時代人がギャザリング・ゾーンを大拡張した理由 その2
優秀な石材を得たグループの狩効率が良くなるとか生活効率が良くなることは概念的にわかったような気分になります。しかし、房総で狩をして子孫を残すために、福島県や新潟県、長野県まで遊動する必要が本当にあるのかという素朴な疑問が残ります。それほど石材の優秀さの程度が死活問題であるのか実感できません。
石器をつくったり、それで狩をしたり、日常生活で使ったりしたことがないので、実感が湧きません。
優秀な石材を得るために広範囲を遊動するという理由は、その1で検討したこと(それをしないと生きて行けないという死活問題である)ではなく、別の理由があるような疑念が浮かびます。
現代人は科学技術を発展させて、生活を次々に安全に、快適に、便利にしていますが、後期旧石器時代人もただ漫然と食物を得るだけでなく、狩生活をより安全に、快適に、便利にするために、より優秀な石材を求めていたと考えることができるような気がします。
優秀な石材を入手できれば、作りやす、鋭利さ、頑丈さ、損耗しない程度等々で狩生活が安全、快適、便利になります。
優秀な石材がなくても狩はできるのですが、近くのグループが優秀な石材を入手して狩生活を安全、快適、便利にしているのを知れば、自分のグループもそれが欲しくなります。
寒冷期とはいえ(寒冷期だから)、狩対象の動物は当時の人口に比したらきわめて豊富だったに違いありません。石材の良否で狩効率が決定的に異なるようなことは無かったと思います。
後期旧石器時代人は現代人と同じような思考・感情で生活していて、その結果、少しでも優秀な石材を入手して、少しでも生活の安全・快適・利便の向上を追究したのだと思います。
その向上心により優秀石材産地の探索活動が活発化し、それが実を結び、大遊動して優秀石材を入手するようになったと考えることができます。
理由その1とその2をメモしてみると、これまでは漫然とその1のように考えていたのですが、その2の方が自分にとっては説得力があるように感じ出しました。
2014年10月28日火曜日
旧石器時代石器学習 その4
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.2旧石器時代の移動路>3.2.5旧石器時代石器学習その4
後期旧石器時代石器理解図をつくってみると、各石器群のギャザリング・ゾーンを図示して確認したくなり、図示しました。ギャザリング・ゾーン図が26枚と多くなりましたのでアニメ形式でブログに掲載します。
アニメ化することによって、旧石器時代移動路(※)検討のための発想刺激剤として活用できるような気がしています。
アニメの参考資料 石器群理解図
房総の後期旧石器時代石器群ギャザリング・ゾーン アニメ表示(試作)v2
表紙4秒、ギャザリング・ゾーン表示26枚×各2秒、合計56秒のアニメです。
石器群の主要なギャザリング・ゾーンの位置は「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)に文字情報として掲載されています。その情報を「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)掲載図「東部関東後期旧石器時代石器群と関係のある岩体の分布」を参考に、その中心地を図に表示しました。
参考図 東部関東後期旧石器時代石器群と関係のある岩体の分布
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用
参考図 (旧石器時代の)石材原産地
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」から引用
下総台地で狩をした旧石器時代人が千葉県はもとより茨城県、栃木県、福島県、新潟県、長野県及び関東西部山地一体を周回して石材を入手していたという事実は、現代人から見ると、思考を絶する能動的活動です。
旧石器時代人のこのような活動に気がつくと、旧石器時代のことを思考するとき、現代人的感覚を相当程度捨てないと、真実にはとても近づけないと直感します。
※ このブログでは現在までのところ、下総台地内の旧石器時代移動路に興味の焦点を絞ってきています。しかし、上記のようなアニメをつくってみると、いつぞやの日には東日本全体をカバーした旧石器時代移動路検討をしてみたいと思います。
……………………………………………………………………
追記 2014.10.29
アニメの各画像で時期を明確にして、バージョン2としました。
アニメと一緒にみられるように参考資料の石器群理解図を掲載しました。(大型画面用)
後期旧石器時代石器理解図をつくってみると、各石器群のギャザリング・ゾーンを図示して確認したくなり、図示しました。ギャザリング・ゾーン図が26枚と多くなりましたのでアニメ形式でブログに掲載します。
アニメ化することによって、旧石器時代移動路(※)検討のための発想刺激剤として活用できるような気がしています。
アニメの参考資料 石器群理解図
表紙4秒、ギャザリング・ゾーン表示26枚×各2秒、合計56秒のアニメです。
石器群の主要なギャザリング・ゾーンの位置は「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)に文字情報として掲載されています。その情報を「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)掲載図「東部関東後期旧石器時代石器群と関係のある岩体の分布」を参考に、その中心地を図に表示しました。
参考図 東部関東後期旧石器時代石器群と関係のある岩体の分布
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用
参考図 (旧石器時代の)石材原産地
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」から引用
下総台地で狩をした旧石器時代人が千葉県はもとより茨城県、栃木県、福島県、新潟県、長野県及び関東西部山地一体を周回して石材を入手していたという事実は、現代人から見ると、思考を絶する能動的活動です。
旧石器時代人のこのような活動に気がつくと、旧石器時代のことを思考するとき、現代人的感覚を相当程度捨てないと、真実にはとても近づけないと直感します。
※ このブログでは現在までのところ、下総台地内の旧石器時代移動路に興味の焦点を絞ってきています。しかし、上記のようなアニメをつくってみると、いつぞやの日には東日本全体をカバーした旧石器時代移動路検討をしてみたいと思います。
……………………………………………………………………
追記 2014.10.29
アニメの各画像で時期を明確にして、バージョン2としました。
アニメと一緒にみられるように参考資料の石器群理解図を掲載しました。(大型画面用)
2014年10月27日月曜日
旧石器時代石器学習 その3
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.2旧石器時代の移動路>3.2.4旧石器時代石器学習その3
6 石器群の分類 要約的把握
2014.10.26記事「旧石器時代石器学習 その2」で石器群の詳細な識別について学習しましたが、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の記述に基づいて、石器群について要約的把握をしておきます。
6-1 房総半島後期旧石器時代の代表的石器群
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の要約です。
(1) 斜軸尖頭器石器群
剥片の加撃軸と尖頭部からの中軸線とが斜めに交わるので斜軸尖頭器と呼ばれる。
武蔵野ローム層から出土し、南関東で最も古い石器群である。
(石器群1斜軸尖頭器石器群)→このブログで推定した「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)掲載石器群詳細分類との対応。以下同じ。
(2) 端部整形石器群・台形石器石器群
台形石器とは水平、あるいは斜めに未加工の縁辺を残し、基部加工のある剥片である。
端部整形石器とは剥片の一端に簡単な剥離を加えた石器で、刃部を残したものと、尖頭部を意識的に作り出したものがある。
(石器群2端部整形石器群、石器群3台形石器群)
(3) 有背尖頭刃器石器群
有背加工とは尖頭部に収斂する二側縁の片側を残し、他の側縁を切り取る加工である。加工された側縁が背となる。
槍や刃物として柄に嵌挿されて用いられたと考えられる。
(石器群4珪化岩・黒曜石製石刃石器群A・剥片製小型ナイフ形石器石器群〔4a、4b〕、石器群5楔型石器群、石器群6珪化岩・黒曜石製石刃石器群B〔6a、6b、6c〕、石器群7横打剥片製石器群、石器群8黒曜石製厚型鋸歯縁尖頭器石器群、石器群9各種珪化岩製中型石刃石器群、石器群10剥片製小型(幾何形)有背刃器石器群)
(4) 小型石槍石器群
小型石槍とは魚鱗状剥離による小型尖頭器の総称である。
本来の素材の厚みを大幅に縮減するような加工が加えられ、石材消費は大変浪費家的である。
槍や刃物として柄に嵌挿されて用いられた。
(石器群11小型石槍石器群〔11a、11b、11c-1、11c-2、11d-1、11d-2、11d-3〕)
(5) 細石器石器群
細石刃という小型の石刃を量産する石器群である。
細石刃は槍や刃物の部品として軸に嵌め込まれたといわれており、機能的には有背尖頭刃器や小型石槍と完全に互換的である。
小型石槍が信頼性重視(将来的な使用を見越して入念に準備された技術体系)の石器であるのに対して、細石器が保守性重視(日常的な使用に際してその場その場で補修や交換を行うこと)の石器群である。
細石器石器群はきわめて吝嗇家的な石材消費戦略であり、石材採取を目的とする広域的なあるいは頻繁な居住地移動を必要としない。
(石器群12細石器石器群〔12a-1、12a-2、12b〕)
(6) 大型石槍石器群
長さ7cmを越えるような石槍は大型の部類に入る。このような大型の石槍を含む石器群。
石器の大型化に伴って破損の可能性が急激に高まり、従来多用されていた珪質な石材は廃用され、粗粒だが割れにくい石材が選択されるようになった。
石器石材の大幅な変更は石材採取・消費戦略の変動と密接に関連している。
この石材において初めて関東地方内部のみで石材調達が可能になり、遊動領域が非常に狭い地域に限定されるようになった。
器種多様度の低下と大型石槍の形態変異・機能多用度が相関しており、これまで機能ごとにつくり分けられてきた石器が、大型石槍という多機能な石器に変容している。
(11e-1、11e-2、11f)
後期旧石器時代の代表的な石器
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用
6-2 各石器群の変遷過程
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の要約です。
・「(1)斜軸尖頭器石器群」が最古の石器群である。
・「(2)端部整形石器群・台形石器石器群」がこれに後続し、やがて「(3)有背尖頭刃器石器群」が付加される。
・「(2)端部整形石器群・台形石器石器群」における基部加工のある尖頭器類が有背尖頭刃器に変化し、さまざまな形態変異を生じることになる。
・「(3)有背尖頭刃器石器群」が構造的に自立する(石器群を構成するさまざまな要素が安定した機能を相当機関維持すること)のは第2黒色帯期であり、以後終末期に及ぶ。なお、この構造的な自立は素材供給部門における石刃生産の一般化と表裏一体であった。
・「(4)小型石槍石器群」は「(3)有背尖頭刃器石器群」における剥片素材の尖頭器から分岐したものである。したがって、これ以降の石器群は「(3)有背尖頭刃器石器群」+「(4)小型石槍石器群」という構成になり、社会生態学的な条件によって有背尖頭刃器と小型石槍がつくり分けられることになる。背景には石材原産地を定期的な周回領域の取り込んだ居住地移動があったらしい。
・「(5)細石器石器群」の編年的な位置については統一的な見解が得られていない。「(3)有背尖頭刃器石器群」後半期および「(4)小型石槍石器群」に併行することは確実である。
・「(6)大型石槍石器群」については、一部の遺跡での土器出現を重視してこれを縄文時代と評価する見解と、従来通り後期旧石器時代終末期をする見解がある。
6-3 後期旧石器時代石器群理解図の作成
以上の要約的な石器群理解と詳細な石器群分類の関係を1枚の絵にまとめて石器群理解・確認をより容易にできるようにしました。
後期旧石器時代石器群理解図
この理解図作成にたどりついたことにより、さらに石器群理解が進みました。
幼児の頃、西洋人はみな同じ顔に見えていましたが、いつの間にか西洋人といっても顔が全部違うことに気がついた時期がありました。
私の石器認識もそのような認識発達の最初期プロセスを通過することができたようです。
次のような図をみても、これまではただただ眩暈がするような感じで、この絵から情報を汲み取りだそうという感情はあまり湧きませんでした。しかし、今はこの図から自分なりに意味のある情報が多少は汲み取れるかもしれないという意欲・感情が湧いてきます。このような図から有用な情報を汲み出せるようになりたいという強い興味を持つことはできました。
石器変遷図の例
「印旛の原始・古代-旧石器時代編-」(財団法人印旛郡市文化財センター発行)から引用
この図はいつか詳しく検討したいと思っています。
つづく
6 石器群の分類 要約的把握
2014.10.26記事「旧石器時代石器学習 その2」で石器群の詳細な識別について学習しましたが、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の記述に基づいて、石器群について要約的把握をしておきます。
6-1 房総半島後期旧石器時代の代表的石器群
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の要約です。
(1) 斜軸尖頭器石器群
剥片の加撃軸と尖頭部からの中軸線とが斜めに交わるので斜軸尖頭器と呼ばれる。
武蔵野ローム層から出土し、南関東で最も古い石器群である。
(石器群1斜軸尖頭器石器群)→このブログで推定した「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)掲載石器群詳細分類との対応。以下同じ。
(2) 端部整形石器群・台形石器石器群
台形石器とは水平、あるいは斜めに未加工の縁辺を残し、基部加工のある剥片である。
端部整形石器とは剥片の一端に簡単な剥離を加えた石器で、刃部を残したものと、尖頭部を意識的に作り出したものがある。
(石器群2端部整形石器群、石器群3台形石器群)
(3) 有背尖頭刃器石器群
有背加工とは尖頭部に収斂する二側縁の片側を残し、他の側縁を切り取る加工である。加工された側縁が背となる。
槍や刃物として柄に嵌挿されて用いられたと考えられる。
(石器群4珪化岩・黒曜石製石刃石器群A・剥片製小型ナイフ形石器石器群〔4a、4b〕、石器群5楔型石器群、石器群6珪化岩・黒曜石製石刃石器群B〔6a、6b、6c〕、石器群7横打剥片製石器群、石器群8黒曜石製厚型鋸歯縁尖頭器石器群、石器群9各種珪化岩製中型石刃石器群、石器群10剥片製小型(幾何形)有背刃器石器群)
(4) 小型石槍石器群
小型石槍とは魚鱗状剥離による小型尖頭器の総称である。
本来の素材の厚みを大幅に縮減するような加工が加えられ、石材消費は大変浪費家的である。
槍や刃物として柄に嵌挿されて用いられた。
(石器群11小型石槍石器群〔11a、11b、11c-1、11c-2、11d-1、11d-2、11d-3〕)
(5) 細石器石器群
細石刃という小型の石刃を量産する石器群である。
細石刃は槍や刃物の部品として軸に嵌め込まれたといわれており、機能的には有背尖頭刃器や小型石槍と完全に互換的である。
小型石槍が信頼性重視(将来的な使用を見越して入念に準備された技術体系)の石器であるのに対して、細石器が保守性重視(日常的な使用に際してその場その場で補修や交換を行うこと)の石器群である。
細石器石器群はきわめて吝嗇家的な石材消費戦略であり、石材採取を目的とする広域的なあるいは頻繁な居住地移動を必要としない。
(石器群12細石器石器群〔12a-1、12a-2、12b〕)
(6) 大型石槍石器群
長さ7cmを越えるような石槍は大型の部類に入る。このような大型の石槍を含む石器群。
石器の大型化に伴って破損の可能性が急激に高まり、従来多用されていた珪質な石材は廃用され、粗粒だが割れにくい石材が選択されるようになった。
石器石材の大幅な変更は石材採取・消費戦略の変動と密接に関連している。
この石材において初めて関東地方内部のみで石材調達が可能になり、遊動領域が非常に狭い地域に限定されるようになった。
器種多様度の低下と大型石槍の形態変異・機能多用度が相関しており、これまで機能ごとにつくり分けられてきた石器が、大型石槍という多機能な石器に変容している。
(11e-1、11e-2、11f)
後期旧石器時代の代表的な石器
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用
6-2 各石器群の変遷過程
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の要約です。
・「(1)斜軸尖頭器石器群」が最古の石器群である。
・「(2)端部整形石器群・台形石器石器群」がこれに後続し、やがて「(3)有背尖頭刃器石器群」が付加される。
・「(2)端部整形石器群・台形石器石器群」における基部加工のある尖頭器類が有背尖頭刃器に変化し、さまざまな形態変異を生じることになる。
・「(3)有背尖頭刃器石器群」が構造的に自立する(石器群を構成するさまざまな要素が安定した機能を相当機関維持すること)のは第2黒色帯期であり、以後終末期に及ぶ。なお、この構造的な自立は素材供給部門における石刃生産の一般化と表裏一体であった。
・「(4)小型石槍石器群」は「(3)有背尖頭刃器石器群」における剥片素材の尖頭器から分岐したものである。したがって、これ以降の石器群は「(3)有背尖頭刃器石器群」+「(4)小型石槍石器群」という構成になり、社会生態学的な条件によって有背尖頭刃器と小型石槍がつくり分けられることになる。背景には石材原産地を定期的な周回領域の取り込んだ居住地移動があったらしい。
・「(5)細石器石器群」の編年的な位置については統一的な見解が得られていない。「(3)有背尖頭刃器石器群」後半期および「(4)小型石槍石器群」に併行することは確実である。
・「(6)大型石槍石器群」については、一部の遺跡での土器出現を重視してこれを縄文時代と評価する見解と、従来通り後期旧石器時代終末期をする見解がある。
6-3 後期旧石器時代石器群理解図の作成
以上の要約的な石器群理解と詳細な石器群分類の関係を1枚の絵にまとめて石器群理解・確認をより容易にできるようにしました。
後期旧石器時代石器群理解図
この理解図作成にたどりついたことにより、さらに石器群理解が進みました。
幼児の頃、西洋人はみな同じ顔に見えていましたが、いつの間にか西洋人といっても顔が全部違うことに気がついた時期がありました。
私の石器認識もそのような認識発達の最初期プロセスを通過することができたようです。
次のような図をみても、これまではただただ眩暈がするような感じで、この絵から情報を汲み取りだそうという感情はあまり湧きませんでした。しかし、今はこの図から自分なりに意味のある情報が多少は汲み取れるかもしれないという意欲・感情が湧いてきます。このような図から有用な情報を汲み出せるようになりたいという強い興味を持つことはできました。
石器変遷図の例
「印旛の原始・古代-旧石器時代編-」(財団法人印旛郡市文化財センター発行)から引用
この図はいつか詳しく検討したいと思っています。
つづく
2014年10月26日日曜日
旧石器時代石器学習 その2
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.2旧石器時代の移動路>3.2.3旧石器時代石器学習その2
4 立川ローム層の区分
旧石器時代遺物が出土する立川ローム層は次のように区分されていて、発掘時には出土遺物と出土層の対応が観察されています。
立川ローム層柱状図 情報追記
「千葉県の歴史 通史編 古代1」(千葉県発行)から引用
5 石器の分類
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の記述をまとめてみました。私にとってほとんど全て初めての知識です。
5-1 石材消費の諸類型
A 円礫選択…円礫をそのまま使用。敲打具、台石、磨石として利用。
B 割出し…素材(礫等)から剥片取り去った残りの部分の使用。
B-1 粗粒大型素材。打割器、石斧など。
B-2 細粒小型素材。両面加工石器。
C 割取り…石核から剥された剥片を素材として使用。
C1 一般的な剥片生産。幅の広い剥片の組織的生産。
C2 石刃生産。縦長剥片の組織的生産。
D 挟み割り 小円礫を両極加撃によって消費するもの。
5-2 割取石器の基本的分類
割取りされた剥片・石刃の大半は未加工のまま使われたが、少数のものは細部加工され、3種の石器に変形される。
Ⅰ 尖頭器…機能部が1点に収斂する2側縁によって構成される尖頭部にあるもの。
ⅠA 周縁加工
ⅠB バッキング(※)による整形剥離(ナイフ形石器、有背尖頭刃器)
ⅠC 魚鱗状剥離(石槍)
Ⅱ 刃器…未加工の鋭い刃部を機能部とする。
Ⅲ 刃部形成石器…剥片縁辺の二次加工で機能部を作り出すもの。
※ 刃部背後側からの加撃か?
5-3 石器群の諸変異
上記分類基準に基づく房総半島の後期旧石器時代石器群の識別。(ギャザリング・ゾーンは2014.10.25記事「旧石器時代石器学習その1」参照)
石器群1 斜軸尖頭器石器群
市原市草刈遺跡のみ。武蔵野ローム層最上層の石器群。千葉県最古の石器群。
斜軸尖頭器(割取ⅠA)、刃部形成石器(割取Ⅲ)。
ギャザリング・ゾーンはⅠa~Ⅰb。(房総半島南部地域)。
石器群1
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群2 端部整形石器群
立川ローム層最下層Ⅹ層から第2黒色帯下部Ⅳ層にかけて確認。Ⅹ層を産出基準とするものが多い。
端部整形石器には、斜軸尖頭器系統の端部整形尖頭器(割取ⅠA)と刃部形成石器系統の端部整形刃器(割取Ⅲ)がある。
ギャザリング・ゾーンはⅠb(嶺岡層群分布域)珪質頁岩、Ⅲb(栃木県高原山付近)
石器群2
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群3 台形石器群
産出層準はⅩ層上部からⅨ層。
端部整形石器群を母胎とする台形石器群。局部磨製石斧が多出する。
ギャザリング・ゾーンはⅢa(栃木県西荒川流域)珪質泥岩、Ⅲb(栃木県高原山付近)黒曜石。
石器群3
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群4 珪化岩・黒曜石製石刃石器群A・剥片製小型ナイフ形石器石器群
産出層準はⅨ層中部から上部。
バッキングによる尖頭器(割取ⅠB)卓越、台形石器共存、特徴ある片刃石斧出現。
いわゆる環状ブロックの終末期に相当する。
4a 剥片製小型ナイフ形石器石器群
ギャザリング・ゾーンはⅡ(栃木県宇都宮丘陵周辺)~Ⅲa(栃木県西荒川流域)、下野-北総回廊周辺の珪化岩。
房総半島南部のギャザリング・ゾーンはⅠa(万田野層等)、Ⅰb(嶺岡層群)
4a
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
4b 黒曜石製石刃石器群A
信州産黒曜石による中型石刃、石刃製尖頭器。
4b
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群5 楔形石器群
Ⅸ層中部からⅦ層にかけて多い。
房総半島の礫層からチャートなどの小円礫を採集し、挟み割りによる小型縦長剥片の量産。そのまま尖頭器や刃器として使用。
砂礫層から小型円礫しか産出しない九十九里沿岸部に濃密で「遠山技法」と呼ばれる。
ギャザリング・ゾーンはⅠc(藪層や地蔵堂層など)。
石器群6 珪化岩・黒曜石製石刃石器群B
第2黒色帯最上部から姶良Tn火山灰降下期前後にかけての層準から検出。
大形の石刃を含む多様な石器群。
6a 各種珪化岩製大型石刃石器群
第2黒色帯最上部(Ⅶ層)中心に含まれる。
大形の石刃を含む石器群。石刃以外に割取りと挟み割りによる刃器類。石刃は刃器類とバッキングによる尖頭器ⅠBの素材として用いられる。
ギャザリング・ゾーンはⅢa(栃木県西荒川流域)・Ⅲd(西部関東各地域)珪質泥岩。
6a
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
6b チョコレート泥岩製大型石刃石器類
Ⅶ層上部~Ⅵ層が主たる産出層準。
石刃の一部は折り取られ、折れ面を打面として側縁部から小石刃が企図的に生産される(有樋石刃)。この手法を「新田効果」と呼ぶ。
ギャザリング・ゾーンはⅤa(新潟県阿賀野川流域)・Ⅴb(新潟県信濃川流域)・Ⅳa(福島県只見川流域)・Ⅳb(福島県会津盆地周辺)珪質泥岩(チョコレート色をしているのでチョコレート泥岩と呼ぶ)
6c 黒曜石製石刃石器群B
産出層準は6bと区別できない。
大形原石入手が困難であるので、チョコレート泥岩にくらべ小型の黒曜石製石刃石器群。石刃は刃器類とバッキングによる尖頭器ⅠBの素材となる。石核は徹底的に消費される。
ギャザリング・ゾーンはⅤc(長野県の黒曜石原産地周辺)黒曜石。
6c
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群7 横打剥片製石器群
産出層準は姶良Tn火山灰よりも上部にある硬質ロームを中心としている。
割取り手法はC1で、生産された剥片から各種尖頭器(ナイフ形石器)・刃器・刃部形成石器(特に多種多様な削器)がつくられる。
黒色緻密質安山岩、各種珪化岩を多用する石器群。
石器群7
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群8 黒曜石製厚型鋸歯縁尖頭器石器群
産出層準は硬質ローム層~軟質ローム層下部付近。
横打剥片製石器群。小型で厚みのある尖頭器(ⅠB、ⅠC)を特徴とする。
石核から非常に小型の剥片が量産されていて刃器(類細石刃)として使用されていた可能性が高い。
ギャザリング・ゾーンはⅢb(栃木県高原山周辺)黒曜石。
石器群8
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群9 各種珪化岩製中型石刃石器群
産出層準は軟質ローム下部~中部。
石刃からは尖頭器(斜め整形のナイフ形石器)・刃器(截頂石刃が特徴的)・刃部形成石器(側削器、彫器)などがつくられる。
ギャザリング・ゾーンはⅠb(嶺岡層群)とⅢa(栃木県西荒川流域)・Ⅲb(栃木県高原山周辺)珪質頁岩。
石器群9
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群10 剥片製小型(幾何形)有背刃器石器群
主要産出層準は軟質ローム中部。
石器群7に後続する石器群と考えれる。黒色緻密質安山岩が多用される。
ギャザリング・ゾーンはⅠ(房総半島南部地域)、Ⅱ(栃木県宇都宮丘陵周辺)。
石器群10
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群11 小型石槍石器群
産出層準は硬質ローム層上部から軟質ローム層全層におよぶ。一部は縄文時代に下る。
魚隣状剥離によって整形された小型尖頭器類を小型石槍という。
11a
横打剥片生産を基盤とし、鋸歯縁加工による尖頭器(ナイフ形石器)、厚みのある複刃削器(角錘状石器)など。
11a
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11b
面取りのある石槍を含む石器群。石槍は割出し系で男女倉型のものが多い。黒曜石が多用される。
ギャザリング・ゾーンはⅢb(栃木県高原山周辺)が主でⅤc(長野県の黒曜石原産地周辺)がこれに次ぐ。
石器群9とは指向的な関係。
11b
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11c-1
面取りのある石槍を含む石器群。
ギャザリング・ゾーンⅠb(嶺岡層群)を主体とする珪質泥岩製の東内野型尖頭器を含む一群。
彫器、端削器、少量の石刃などを共伴。
石器群10とは指向的な関係態。
11c-1
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11c-2
東内野型尖頭器を含む石器群であるが、ギャザリング・ゾーンはⅤa(新潟県阿賀野川流域)、Ⅴb(新潟県信濃川流域)、Ⅳa(福島県只見川流域)、Ⅳb(福島県会津盆地周辺)となる。
多量の彫器と端削器を伴う。
石器群11c-1とは指向的な関係。
11d
非面取り系石槍石器群。
11d-1
両面打製の木葉形尖頭器石器群。尖頭器には割取り、割出しの方法がある。再加工による変形が顕著。
ギャザリング・ゾーンは11c-2と重複して、Ⅴa(新潟県阿賀野川流域)、Ⅴb(新潟県信濃川流域)、Ⅳa(福島県只見川流域)、Ⅳb(福島県会津盆地周辺)。
11d-1
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11d-2
黒曜石製小型割取り系石槍石器群。小型端削器(拇指状)と不定形小型有背刃器が共伴する。
ギャザリング・ゾーンはⅢb(栃木県高原山周辺)とⅤc(長野県の黒曜石原産地周辺)に両極化。
11d-2
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11d-3
珪化岩製各種石槍石器群。割取り系が多い。不整形の小型刃器や錐・削器などの加工具を伴う。
ギャザリング・ゾーンはⅠb(嶺岡層群)を中心とする。別種の石材が混在する場合も少なくなく、石器群dに包括した各亜石器群との指向的な関係を物語る。
11d-3
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11e
大形の尖頭器を含む石器群
11e-1
木葉形尖頭器・石刃製尖頭削器・石刃製端削器・石斧・礫器などから構成される石器群。
ギャザリング・ゾーンはⅤa(新潟県阿賀野川流域)・Ⅴb(新潟県信濃川流域)~Ⅳa(福島県只見川流域)・Ⅳb(福島県会津盆地周辺)のグループと、Ⅰ(房総半島南部地域)・Ⅱ(栃木県宇都宮丘陵周辺)・Ⅲ(関東地方の外縁部)各エリアとなるグループがある。両者は指向的な関係におかれる。
房総半島では無土器である。
11e-1
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11e-2
黒色頁岩・黒色緻密安山岩・粘板岩(ホルンフェルス)・チャート・砂岩など関東平野山麓部から産出する均質な大型礫を素材とする大型石槍が主体となる。特に両側縁が平行になる長手のものが特徴。凹削器や有溝砥石を少量伴う。無土器。
ギャザリング・ゾーンはⅢd(西部関東各地域)。
11e-2
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11f
有舌尖頭器・石鏃石器群。有舌尖頭器とは、嵌挿用の茎(なかご)が作り出された小型尖頭器。石鏃がつくられているので、槍と弓矢が使い分けられている。
粗雑な木葉形尖頭器や小型端削器、大型石斧がある。
槍の石材は黒色緻密質安山岩が多い。小型原石を使った割出し系石器群。
隆起線文土器が共伴し、縄文時代草創期初頭に位置付けられる。
ギャザリング・ゾーンはⅡ(栃木県宇都宮丘陵周辺)、Ⅰa(万田野層等)。
11f
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群12 細石器石器群
非常に小型の石刃を組織的に生産する石器群。小型の石刃は柄に嵌め込まれ、槍や刃器として使われたと考えられている。
12a-1
野辺山型細石器石器群のうちギャザリング・ゾーンをⅤc(長野県の黒曜石原産地周辺)とするグループ。
野辺山型細石核とは旧来の石刃生産手法を踏襲するがそのサイズを著しく縮約するもの。
12a-2
野辺山型細石器石器群のうちギャザリング・ゾーンをⅠ(房総半島南部地域)、Ⅱ(栃木県宇都宮丘陵周辺)とするグループ。
黒色緻密質安山岩製の各種削器類や砂岩・ホルンフェルスなどのチョッパー・コアを共伴する。
12a-1と12a-2の産出層準は軟質ローム層の全層準にわたることから、石器群11a~dに併行しながら間歇的に生産されたものと考えられる。
12a-2
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
12b
札滑型細石器核を含む細石器石器群。
両面体石器を横に割った石核から細石刃を生産する。荒屋型と呼ばれる横断刻面彫器やバチ形の端削器を伴う。
ギャザリング・ゾーンはⅤa(新潟県阿賀野川流域)、Ⅴb(新潟県信濃川流域)、Ⅳa(福島県只見川流域)、Ⅳb(福島県会津盆地周辺)である。
12b
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
5-4 石器群の産出層準概念
房総半島後期旧石器石器群(12群26亜種)の産出層準概念図
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
旧石器時代石器の分類とギャザリング・ゾーン、産出層準との関係について、自分なりの理解の一歩を踏み出すことができました。
図書「千葉県の歴史 資料編 考古4」(千葉県発行)の一部を要約引用したような記事になりましたが、このような記事を作成することにより、旧石器時代石器に対する慣れをつくり、情報を自分の近くに引張込むことが出来たような感覚になりました。
次の記事で考察を書きます。
つづく
4 立川ローム層の区分
旧石器時代遺物が出土する立川ローム層は次のように区分されていて、発掘時には出土遺物と出土層の対応が観察されています。
立川ローム層柱状図 情報追記
「千葉県の歴史 通史編 古代1」(千葉県発行)から引用
5 石器の分類
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の記述をまとめてみました。私にとってほとんど全て初めての知識です。
5-1 石材消費の諸類型
A 円礫選択…円礫をそのまま使用。敲打具、台石、磨石として利用。
B 割出し…素材(礫等)から剥片取り去った残りの部分の使用。
B-1 粗粒大型素材。打割器、石斧など。
B-2 細粒小型素材。両面加工石器。
C 割取り…石核から剥された剥片を素材として使用。
C1 一般的な剥片生産。幅の広い剥片の組織的生産。
C2 石刃生産。縦長剥片の組織的生産。
D 挟み割り 小円礫を両極加撃によって消費するもの。
5-2 割取石器の基本的分類
割取りされた剥片・石刃の大半は未加工のまま使われたが、少数のものは細部加工され、3種の石器に変形される。
Ⅰ 尖頭器…機能部が1点に収斂する2側縁によって構成される尖頭部にあるもの。
ⅠA 周縁加工
ⅠB バッキング(※)による整形剥離(ナイフ形石器、有背尖頭刃器)
ⅠC 魚鱗状剥離(石槍)
Ⅱ 刃器…未加工の鋭い刃部を機能部とする。
Ⅲ 刃部形成石器…剥片縁辺の二次加工で機能部を作り出すもの。
※ 刃部背後側からの加撃か?
5-3 石器群の諸変異
上記分類基準に基づく房総半島の後期旧石器時代石器群の識別。(ギャザリング・ゾーンは2014.10.25記事「旧石器時代石器学習その1」参照)
石器群1 斜軸尖頭器石器群
市原市草刈遺跡のみ。武蔵野ローム層最上層の石器群。千葉県最古の石器群。
斜軸尖頭器(割取ⅠA)、刃部形成石器(割取Ⅲ)。
ギャザリング・ゾーンはⅠa~Ⅰb。(房総半島南部地域)。
石器群1
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群2 端部整形石器群
立川ローム層最下層Ⅹ層から第2黒色帯下部Ⅳ層にかけて確認。Ⅹ層を産出基準とするものが多い。
端部整形石器には、斜軸尖頭器系統の端部整形尖頭器(割取ⅠA)と刃部形成石器系統の端部整形刃器(割取Ⅲ)がある。
ギャザリング・ゾーンはⅠb(嶺岡層群分布域)珪質頁岩、Ⅲb(栃木県高原山付近)
石器群2
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群3 台形石器群
産出層準はⅩ層上部からⅨ層。
端部整形石器群を母胎とする台形石器群。局部磨製石斧が多出する。
ギャザリング・ゾーンはⅢa(栃木県西荒川流域)珪質泥岩、Ⅲb(栃木県高原山付近)黒曜石。
石器群3
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群4 珪化岩・黒曜石製石刃石器群A・剥片製小型ナイフ形石器石器群
産出層準はⅨ層中部から上部。
バッキングによる尖頭器(割取ⅠB)卓越、台形石器共存、特徴ある片刃石斧出現。
いわゆる環状ブロックの終末期に相当する。
4a 剥片製小型ナイフ形石器石器群
ギャザリング・ゾーンはⅡ(栃木県宇都宮丘陵周辺)~Ⅲa(栃木県西荒川流域)、下野-北総回廊周辺の珪化岩。
房総半島南部のギャザリング・ゾーンはⅠa(万田野層等)、Ⅰb(嶺岡層群)
4a
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
4b 黒曜石製石刃石器群A
信州産黒曜石による中型石刃、石刃製尖頭器。
4b
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群5 楔形石器群
Ⅸ層中部からⅦ層にかけて多い。
房総半島の礫層からチャートなどの小円礫を採集し、挟み割りによる小型縦長剥片の量産。そのまま尖頭器や刃器として使用。
砂礫層から小型円礫しか産出しない九十九里沿岸部に濃密で「遠山技法」と呼ばれる。
ギャザリング・ゾーンはⅠc(藪層や地蔵堂層など)。
石器群6 珪化岩・黒曜石製石刃石器群B
第2黒色帯最上部から姶良Tn火山灰降下期前後にかけての層準から検出。
大形の石刃を含む多様な石器群。
6a 各種珪化岩製大型石刃石器群
第2黒色帯最上部(Ⅶ層)中心に含まれる。
大形の石刃を含む石器群。石刃以外に割取りと挟み割りによる刃器類。石刃は刃器類とバッキングによる尖頭器ⅠBの素材として用いられる。
ギャザリング・ゾーンはⅢa(栃木県西荒川流域)・Ⅲd(西部関東各地域)珪質泥岩。
6a
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
6b チョコレート泥岩製大型石刃石器類
Ⅶ層上部~Ⅵ層が主たる産出層準。
石刃の一部は折り取られ、折れ面を打面として側縁部から小石刃が企図的に生産される(有樋石刃)。この手法を「新田効果」と呼ぶ。
ギャザリング・ゾーンはⅤa(新潟県阿賀野川流域)・Ⅴb(新潟県信濃川流域)・Ⅳa(福島県只見川流域)・Ⅳb(福島県会津盆地周辺)珪質泥岩(チョコレート色をしているのでチョコレート泥岩と呼ぶ)
6c 黒曜石製石刃石器群B
産出層準は6bと区別できない。
大形原石入手が困難であるので、チョコレート泥岩にくらべ小型の黒曜石製石刃石器群。石刃は刃器類とバッキングによる尖頭器ⅠBの素材となる。石核は徹底的に消費される。
ギャザリング・ゾーンはⅤc(長野県の黒曜石原産地周辺)黒曜石。
6c
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群7 横打剥片製石器群
産出層準は姶良Tn火山灰よりも上部にある硬質ロームを中心としている。
割取り手法はC1で、生産された剥片から各種尖頭器(ナイフ形石器)・刃器・刃部形成石器(特に多種多様な削器)がつくられる。
黒色緻密質安山岩、各種珪化岩を多用する石器群。
石器群7
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群8 黒曜石製厚型鋸歯縁尖頭器石器群
産出層準は硬質ローム層~軟質ローム層下部付近。
横打剥片製石器群。小型で厚みのある尖頭器(ⅠB、ⅠC)を特徴とする。
石核から非常に小型の剥片が量産されていて刃器(類細石刃)として使用されていた可能性が高い。
ギャザリング・ゾーンはⅢb(栃木県高原山周辺)黒曜石。
石器群8
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群9 各種珪化岩製中型石刃石器群
産出層準は軟質ローム下部~中部。
石刃からは尖頭器(斜め整形のナイフ形石器)・刃器(截頂石刃が特徴的)・刃部形成石器(側削器、彫器)などがつくられる。
ギャザリング・ゾーンはⅠb(嶺岡層群)とⅢa(栃木県西荒川流域)・Ⅲb(栃木県高原山周辺)珪質頁岩。
石器群9
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群10 剥片製小型(幾何形)有背刃器石器群
主要産出層準は軟質ローム中部。
石器群7に後続する石器群と考えれる。黒色緻密質安山岩が多用される。
ギャザリング・ゾーンはⅠ(房総半島南部地域)、Ⅱ(栃木県宇都宮丘陵周辺)。
石器群10
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群11 小型石槍石器群
産出層準は硬質ローム層上部から軟質ローム層全層におよぶ。一部は縄文時代に下る。
魚隣状剥離によって整形された小型尖頭器類を小型石槍という。
11a
横打剥片生産を基盤とし、鋸歯縁加工による尖頭器(ナイフ形石器)、厚みのある複刃削器(角錘状石器)など。
11a
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11b
面取りのある石槍を含む石器群。石槍は割出し系で男女倉型のものが多い。黒曜石が多用される。
ギャザリング・ゾーンはⅢb(栃木県高原山周辺)が主でⅤc(長野県の黒曜石原産地周辺)がこれに次ぐ。
石器群9とは指向的な関係。
11b
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11c-1
面取りのある石槍を含む石器群。
ギャザリング・ゾーンⅠb(嶺岡層群)を主体とする珪質泥岩製の東内野型尖頭器を含む一群。
彫器、端削器、少量の石刃などを共伴。
石器群10とは指向的な関係態。
11c-1
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11c-2
東内野型尖頭器を含む石器群であるが、ギャザリング・ゾーンはⅤa(新潟県阿賀野川流域)、Ⅴb(新潟県信濃川流域)、Ⅳa(福島県只見川流域)、Ⅳb(福島県会津盆地周辺)となる。
多量の彫器と端削器を伴う。
石器群11c-1とは指向的な関係。
11d
非面取り系石槍石器群。
11d-1
両面打製の木葉形尖頭器石器群。尖頭器には割取り、割出しの方法がある。再加工による変形が顕著。
ギャザリング・ゾーンは11c-2と重複して、Ⅴa(新潟県阿賀野川流域)、Ⅴb(新潟県信濃川流域)、Ⅳa(福島県只見川流域)、Ⅳb(福島県会津盆地周辺)。
11d-1
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11d-2
黒曜石製小型割取り系石槍石器群。小型端削器(拇指状)と不定形小型有背刃器が共伴する。
ギャザリング・ゾーンはⅢb(栃木県高原山周辺)とⅤc(長野県の黒曜石原産地周辺)に両極化。
11d-2
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11d-3
珪化岩製各種石槍石器群。割取り系が多い。不整形の小型刃器や錐・削器などの加工具を伴う。
ギャザリング・ゾーンはⅠb(嶺岡層群)を中心とする。別種の石材が混在する場合も少なくなく、石器群dに包括した各亜石器群との指向的な関係を物語る。
11d-3
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11e
大形の尖頭器を含む石器群
11e-1
木葉形尖頭器・石刃製尖頭削器・石刃製端削器・石斧・礫器などから構成される石器群。
ギャザリング・ゾーンはⅤa(新潟県阿賀野川流域)・Ⅴb(新潟県信濃川流域)~Ⅳa(福島県只見川流域)・Ⅳb(福島県会津盆地周辺)のグループと、Ⅰ(房総半島南部地域)・Ⅱ(栃木県宇都宮丘陵周辺)・Ⅲ(関東地方の外縁部)各エリアとなるグループがある。両者は指向的な関係におかれる。
房総半島では無土器である。
11e-1
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11e-2
黒色頁岩・黒色緻密安山岩・粘板岩(ホルンフェルス)・チャート・砂岩など関東平野山麓部から産出する均質な大型礫を素材とする大型石槍が主体となる。特に両側縁が平行になる長手のものが特徴。凹削器や有溝砥石を少量伴う。無土器。
ギャザリング・ゾーンはⅢd(西部関東各地域)。
11e-2
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
11f
有舌尖頭器・石鏃石器群。有舌尖頭器とは、嵌挿用の茎(なかご)が作り出された小型尖頭器。石鏃がつくられているので、槍と弓矢が使い分けられている。
粗雑な木葉形尖頭器や小型端削器、大型石斧がある。
槍の石材は黒色緻密質安山岩が多い。小型原石を使った割出し系石器群。
隆起線文土器が共伴し、縄文時代草創期初頭に位置付けられる。
ギャザリング・ゾーンはⅡ(栃木県宇都宮丘陵周辺)、Ⅰa(万田野層等)。
11f
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
石器群12 細石器石器群
非常に小型の石刃を組織的に生産する石器群。小型の石刃は柄に嵌め込まれ、槍や刃器として使われたと考えられている。
12a-1
野辺山型細石器石器群のうちギャザリング・ゾーンをⅤc(長野県の黒曜石原産地周辺)とするグループ。
野辺山型細石核とは旧来の石刃生産手法を踏襲するがそのサイズを著しく縮約するもの。
野辺山型細石器石器群のうちギャザリング・ゾーンをⅠ(房総半島南部地域)、Ⅱ(栃木県宇都宮丘陵周辺)とするグループ。
黒色緻密質安山岩製の各種削器類や砂岩・ホルンフェルスなどのチョッパー・コアを共伴する。
12a-1と12a-2の産出層準は軟質ローム層の全層準にわたることから、石器群11a~dに併行しながら間歇的に生産されたものと考えられる。
12a-2
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
12b
札滑型細石器核を含む細石器石器群。
両面体石器を横に割った石核から細石刃を生産する。荒屋型と呼ばれる横断刻面彫器やバチ形の端削器を伴う。
ギャザリング・ゾーンはⅤa(新潟県阿賀野川流域)、Ⅴb(新潟県信濃川流域)、Ⅳa(福島県只見川流域)、Ⅳb(福島県会津盆地周辺)である。
12b
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
5-4 石器群の産出層準概念
房総半島後期旧石器石器群(12群26亜種)の産出層準概念図
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
旧石器時代石器の分類とギャザリング・ゾーン、産出層準との関係について、自分なりの理解の一歩を踏み出すことができました。
図書「千葉県の歴史 資料編 考古4」(千葉県発行)の一部を要約引用したような記事になりましたが、このような記事を作成することにより、旧石器時代石器に対する慣れをつくり、情報を自分の近くに引張込むことが出来たような感覚になりました。
次の記事で考察を書きます。
つづく
2014年10月25日土曜日
旧石器時代石器学習 その1
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.2旧石器時代の移動路>3.2.2旧石器時代石器学習
1 旧石器時代移動路についての検討ステップ
旧石器時代の移動路について理解を深めたいと考えています。
理解を深める方法は次のようなステップを踏みたいと考えています。
ア 「千葉県の歴史」等の図書に記述されている旧石器時代の石器分析と考察に関する記述の大要を理解学習する。
イ 「千葉県の歴史」等の図書に掲載されている遺跡事例から興味を引く事例を2-3ピックアップし、調査報告書等を閲覧して、遺跡サイトと地形との関係について分析的に学習する。
ウ 対象区域を限定して、遺跡サイトと地形との関係に着目して、旧石器時代人の移動路について考察する
2 「千葉県の歴史」をテキストにした旧石器時代石器学習
「千葉県の歴史」をテキストに旧石器時代記述を、事例を除き一通り全部を結局は2回ほど読みました。
私にとって初めての見聞といっていい情報ばかりであり、興味を掻き立てるテーマが多く、時間を忘れて引き込まれる目次も多かったです。
なお学習を現象面から見ると、次の大冊重量級3巻をあちらこちら参照しながら読むので、本を扱うこと自体が筋肉感覚的となるようなアナログ読書です。
●旧石器時代に関連する「千葉県の歴史」
・「千葉県の歴史 通史編 古代1」
・「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」
・「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」
「千葉県の歴史 通史編 古代1」では、現在までに判明している旧石器時代の人の活動を通史として、わかりやすくまとめてあります。
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」では、旧石器時代概説とともに57事例が掲載されています。
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」では、専門的見地からの旧石器時代検討テーマについて解説されています。
学習したといっても肝心要の石器分類や石器リダクションプロセスについては「判ったような気がする」程度の理解です。
石器現物を手に取ってみてもいないので、文章と写真だけからの理解には限界があります。
その程度の理解ですが、旧石器時代に関する記述は一通り読んで、房総で取り組まれている旧石器研究活動の大要を知ることができたことはよかったと思います。
なお、通史を理解した上で読んだ「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」の専門的見地からの旧石器時代検討テーマ解説は、読み応えのあるテーマばかりであり特別に面白いものでした。これだけで1冊の新書本ができると思いました。
3 石器石材のギャザリング・ゾーン
「房総半島後期旧石器時代の石器生産につかわれた石材は多岐にわたり、またその産地も広い範囲に散在しているため、石材採集のためには多大なエネルギーの支出が必要であった。このため、一般に、石材の採集は狩猟・採集行動に巧みに組み込まれており、移動の過程で各所で少しずつ採集されたと考えられる。この採集の過程や場所を総称してギャザリングという。そして、特定のギャザリングの場所的な広がりをギャザリング・ゾーンという。北総台地をフォーカスするゾーンは以下のように区分される。」(「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」より引用)
ギャザリング・ゾーン
(「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用)
東部関東後期旧石器時代石器群と関係ある岩体の分布
「千葉県の歴史 通史編 古代1」(千葉県発行)から引用
後期旧石器時代後半期の狩場と石材補給エリア
2014.08.18記事「旧石器時代遺跡密度についての追考」掲載図
旧石器時代人の移動経路自体は下総台地あるいは房総という枠をはるかに出ていて、北は東北磐越高地から南は房総南部嶺岡山地にまで南北300㎞以上に及ぶものでした。現代人には想像もつかない生活行動範囲です。
旧石器時代人にとって優良な石器石材の入手と回遊先狩場各地における石材の効果的・節約的利用消費が大切な生活戦略であったことが判りました。
つづく
1 旧石器時代移動路についての検討ステップ
旧石器時代の移動路について理解を深めたいと考えています。
理解を深める方法は次のようなステップを踏みたいと考えています。
ア 「千葉県の歴史」等の図書に記述されている旧石器時代の石器分析と考察に関する記述の大要を理解学習する。
イ 「千葉県の歴史」等の図書に掲載されている遺跡事例から興味を引く事例を2-3ピックアップし、調査報告書等を閲覧して、遺跡サイトと地形との関係について分析的に学習する。
ウ 対象区域を限定して、遺跡サイトと地形との関係に着目して、旧石器時代人の移動路について考察する
2 「千葉県の歴史」をテキストにした旧石器時代石器学習
「千葉県の歴史」をテキストに旧石器時代記述を、事例を除き一通り全部を結局は2回ほど読みました。
私にとって初めての見聞といっていい情報ばかりであり、興味を掻き立てるテーマが多く、時間を忘れて引き込まれる目次も多かったです。
なお学習を現象面から見ると、次の大冊重量級3巻をあちらこちら参照しながら読むので、本を扱うこと自体が筋肉感覚的となるようなアナログ読書です。
●旧石器時代に関連する「千葉県の歴史」
・「千葉県の歴史 通史編 古代1」
・「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」
・「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」
「千葉県の歴史 通史編 古代1」では、現在までに判明している旧石器時代の人の活動を通史として、わかりやすくまとめてあります。
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」では、旧石器時代概説とともに57事例が掲載されています。
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」では、専門的見地からの旧石器時代検討テーマについて解説されています。
学習したといっても肝心要の石器分類や石器リダクションプロセスについては「判ったような気がする」程度の理解です。
石器現物を手に取ってみてもいないので、文章と写真だけからの理解には限界があります。
その程度の理解ですが、旧石器時代に関する記述は一通り読んで、房総で取り組まれている旧石器研究活動の大要を知ることができたことはよかったと思います。
なお、通史を理解した上で読んだ「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」の専門的見地からの旧石器時代検討テーマ解説は、読み応えのあるテーマばかりであり特別に面白いものでした。これだけで1冊の新書本ができると思いました。
3 石器石材のギャザリング・ゾーン
「房総半島後期旧石器時代の石器生産につかわれた石材は多岐にわたり、またその産地も広い範囲に散在しているため、石材採集のためには多大なエネルギーの支出が必要であった。このため、一般に、石材の採集は狩猟・採集行動に巧みに組み込まれており、移動の過程で各所で少しずつ採集されたと考えられる。この採集の過程や場所を総称してギャザリングという。そして、特定のギャザリングの場所的な広がりをギャザリング・ゾーンという。北総台地をフォーカスするゾーンは以下のように区分される。」(「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」より引用)
ギャザリング・ゾーン
(「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用)
東部関東後期旧石器時代石器群と関係ある岩体の分布
「千葉県の歴史 通史編 古代1」(千葉県発行)から引用
後期旧石器時代後半期の狩場と石材補給エリア
2014.08.18記事「旧石器時代遺跡密度についての追考」掲載図
旧石器時代人の移動経路自体は下総台地あるいは房総という枠をはるかに出ていて、北は東北磐越高地から南は房総南部嶺岡山地にまで南北300㎞以上に及ぶものでした。現代人には想像もつかない生活行動範囲です。
旧石器時代人にとって優良な石器石材の入手と回遊先狩場各地における石材の効果的・節約的利用消費が大切な生活戦略であったことが判りました。
つづく
2014年10月24日金曜日
旧石器時代の狩方法
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.2旧石器時代の移動路>3.2.1旧石器時代の狩方法
1 これまでの検討
旧石器時代の狩方法について、遺跡分布から、旧石器時代に発達していた(現在はその面影が薄い)台地侵蝕崖(急崖)を利用していたと想像(推測)しました。(2014.09.04記事「旧石器遺跡分布から推定する狩方法」参照)
そうした問題意識を持っていた矢先、旅行先のカナダ国アルバータ州で先住民が崖を利用してバッファローを狩っている事例を知りました。(2014.10.03記事「参考 Head-Smashed-In Buffalo Jamp」参照)
Head-Smashed-In Buffalo Jampのイメージ
Head-Smashed-In Buffalo Jampの狩方法
Head-Smashed-In Buffalo Jampは原始・古代人の崖を利用した狩方法として参考になる事例であると考えました。
特に次の点に気がついたことは自分でもよかったと思います。
ア 地形を最大限利用している
平坦で広大な台地と偏在する急崖を知り尽くして狩をしています。
イ 動物の習性を最大限利用している。
例えば、バッファロー幼牛の皮を被って、幼牛の鳴き声をして助けを求め、親牛が幼牛を助けようとして集まってくることを利用するそうです。
ウ 集団で役割分担して狩をしている。
草原に散らばったバッファローを集める係、集まったバッファローを驚かせて暴走させる係、崖から墜落したバッファローを仕留める係などに集団が役割分担しています。
エ 簡便な狩施設を設けている
台地上にレール状に障害物を事前に置いておき、暴走したバッファローが確実に崖に突進するようにしています。
オ 狩猟具(ヤリ)利用は弱った獲物の最後のとどめを刺すために利用している
狩猟具(ヤリ)は崖から墜落して瀕死の状態の獲物のとどめを刺すために利用しています。獲物と格闘するような場面があり、その場面で狩猟具を使うのではないのです。
考えて見れば、獲物と格闘するような方法で狩をすることは旧石器時代ではほとんどなかったのではないかと想像します。狩の都度、獲物と格闘するようなことをしていてはいくら命があっても足りません。原始・古代人は動物を自滅させるような方法を熟知していたものと考えます。
2 「千葉県の歴史」掲載情報
さて、このような旧石器時代の狩の方法という点に関して「千葉県の歴史」で少しだけ触れてありますので、検討します。
2-1 狩現場情報は見つかっていない
まず、房総においては人類遺物と大型哺乳類化石の共伴例は知られていないそうです。(「千葉県の歴史 資料編 考古1」)
つまり、狩現場の遺跡・遺物はまだ見つかっていないということです。ですから、狩方法についての考察は全て想像するしかないということのようです。
下総台地で狩遺跡が見つからない理由は、旧石器時代狩遺跡のほとんど全てが縄文海進による沖積層堆積により埋没してしまったからと考えます。
しかし、地殻隆起の激しい土気付近では、万が一かもしれませんが、将来狩遺跡が発見される可能性があると感じています。
多数の石器が出土する遺跡(キャンプ地)とは別に、石器が単体や少数出土する遺跡も多数あるようです。そのような遺跡は専門家にはあまり注目されないようですが、そのような遺跡の中に狩現場を示すようなものがあるかどうか検討したいと考えています。
「千葉県の歴史」掲載の旧石器時代遺跡はすべて台地上の遺跡ですが、台地上ではない地形から出土した旧石器時代石器があるかどうか調べたいと思います。
代表的旧石器時代遺跡(キャンプ地)について、そのキャンプ地と対応する狩フィールドがどこであるのか、検討できるかどうか検討したいと思います。
2-2 他県の落し穴事例
他県の事例として静岡県三島市の落し穴例が紹介されています。
静岡県三島市の旧石器時代遺跡の落し穴
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用
この事例の説明の中で、「(落し穴の)一部が複列化し、さらに全体が環状になるように工夫されている。こうした落し穴の用途しては、一般的な落し穴という意見のほかに、追い込み猟に際して用いられた施設であるという考え方もある。」としています。
Head-Smashed-In Buffalo Jampのレール状障害物と同じような機能も持っていたと理解できる説明文です。
この事例説明から、旧石器時代の狩方法として崖を利用していたという仮説を検討する価値が大きいと感じました。
2-3 旧石器時代の狩の風景復元イラスト
「千葉県の歴史 資料編 考古1」に次のイラストが掲載されています。
旧石器時代の狩の風景復元イラスト
「千葉県の歴史 資料編 考古1」(千葉県発行)から引用
このイラストをよく見ると、崖の上から旧石器人が鹿を追いかけてきて、崖に追い落としている様子が描かれています。3頭の鹿のうち、左の鹿は転んでいます。また崖の下では仕留め役の旧石器人ハンターが待ち構えています。
このイラストで表現しようとした狩方法の趣旨はカナダ国アルバータ州のHead-Smashed-In Buffalo Jampと近似しています。
旧石器時代の寒冷期(侵蝕期)をイメージするならば、崖がもっと急で、露岩で、鹿が全部転んでいてしかるべきです。もし本当に鹿が多数突進してきたら、その都度人命が失われる可能性がきわめて高くなります。あるいは狩の成功確率が著しく低下します。
また密生して豊かな樹木は無かったとイメージします。
このような崖利用狩のイラストが「千葉県の歴史」に収録されていることから、そのような狩を想定する専門家の方もいらっしゃることがわかり、旧石器時代の主要な狩方法として崖を利用していたという仮説を発展させる価値があると感じました。
1 これまでの検討
旧石器時代の狩方法について、遺跡分布から、旧石器時代に発達していた(現在はその面影が薄い)台地侵蝕崖(急崖)を利用していたと想像(推測)しました。(2014.09.04記事「旧石器遺跡分布から推定する狩方法」参照)
そうした問題意識を持っていた矢先、旅行先のカナダ国アルバータ州で先住民が崖を利用してバッファローを狩っている事例を知りました。(2014.10.03記事「参考 Head-Smashed-In Buffalo Jamp」参照)
Head-Smashed-In Buffalo Jampのイメージ
Head-Smashed-In Buffalo Jampの狩方法
Head-Smashed-In Buffalo Jampは原始・古代人の崖を利用した狩方法として参考になる事例であると考えました。
特に次の点に気がついたことは自分でもよかったと思います。
ア 地形を最大限利用している
平坦で広大な台地と偏在する急崖を知り尽くして狩をしています。
イ 動物の習性を最大限利用している。
例えば、バッファロー幼牛の皮を被って、幼牛の鳴き声をして助けを求め、親牛が幼牛を助けようとして集まってくることを利用するそうです。
ウ 集団で役割分担して狩をしている。
草原に散らばったバッファローを集める係、集まったバッファローを驚かせて暴走させる係、崖から墜落したバッファローを仕留める係などに集団が役割分担しています。
エ 簡便な狩施設を設けている
台地上にレール状に障害物を事前に置いておき、暴走したバッファローが確実に崖に突進するようにしています。
オ 狩猟具(ヤリ)利用は弱った獲物の最後のとどめを刺すために利用している
狩猟具(ヤリ)は崖から墜落して瀕死の状態の獲物のとどめを刺すために利用しています。獲物と格闘するような場面があり、その場面で狩猟具を使うのではないのです。
考えて見れば、獲物と格闘するような方法で狩をすることは旧石器時代ではほとんどなかったのではないかと想像します。狩の都度、獲物と格闘するようなことをしていてはいくら命があっても足りません。原始・古代人は動物を自滅させるような方法を熟知していたものと考えます。
2 「千葉県の歴史」掲載情報
さて、このような旧石器時代の狩の方法という点に関して「千葉県の歴史」で少しだけ触れてありますので、検討します。
2-1 狩現場情報は見つかっていない
まず、房総においては人類遺物と大型哺乳類化石の共伴例は知られていないそうです。(「千葉県の歴史 資料編 考古1」)
つまり、狩現場の遺跡・遺物はまだ見つかっていないということです。ですから、狩方法についての考察は全て想像するしかないということのようです。
下総台地で狩遺跡が見つからない理由は、旧石器時代狩遺跡のほとんど全てが縄文海進による沖積層堆積により埋没してしまったからと考えます。
しかし、地殻隆起の激しい土気付近では、万が一かもしれませんが、将来狩遺跡が発見される可能性があると感じています。
多数の石器が出土する遺跡(キャンプ地)とは別に、石器が単体や少数出土する遺跡も多数あるようです。そのような遺跡は専門家にはあまり注目されないようですが、そのような遺跡の中に狩現場を示すようなものがあるかどうか検討したいと考えています。
「千葉県の歴史」掲載の旧石器時代遺跡はすべて台地上の遺跡ですが、台地上ではない地形から出土した旧石器時代石器があるかどうか調べたいと思います。
代表的旧石器時代遺跡(キャンプ地)について、そのキャンプ地と対応する狩フィールドがどこであるのか、検討できるかどうか検討したいと思います。
2-2 他県の落し穴事例
他県の事例として静岡県三島市の落し穴例が紹介されています。
静岡県三島市の旧石器時代遺跡の落し穴
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用
この事例の説明の中で、「(落し穴の)一部が複列化し、さらに全体が環状になるように工夫されている。こうした落し穴の用途しては、一般的な落し穴という意見のほかに、追い込み猟に際して用いられた施設であるという考え方もある。」としています。
Head-Smashed-In Buffalo Jampのレール状障害物と同じような機能も持っていたと理解できる説明文です。
この事例説明から、旧石器時代の狩方法として崖を利用していたという仮説を検討する価値が大きいと感じました。
2-3 旧石器時代の狩の風景復元イラスト
「千葉県の歴史 資料編 考古1」に次のイラストが掲載されています。
旧石器時代の狩の風景復元イラスト
「千葉県の歴史 資料編 考古1」(千葉県発行)から引用
このイラストをよく見ると、崖の上から旧石器人が鹿を追いかけてきて、崖に追い落としている様子が描かれています。3頭の鹿のうち、左の鹿は転んでいます。また崖の下では仕留め役の旧石器人ハンターが待ち構えています。
このイラストで表現しようとした狩方法の趣旨はカナダ国アルバータ州のHead-Smashed-In Buffalo Jampと近似しています。
旧石器時代の寒冷期(侵蝕期)をイメージするならば、崖がもっと急で、露岩で、鹿が全部転んでいてしかるべきです。もし本当に鹿が多数突進してきたら、その都度人命が失われる可能性がきわめて高くなります。あるいは狩の成功確率が著しく低下します。
また密生して豊かな樹木は無かったとイメージします。
このような崖利用狩のイラストが「千葉県の歴史」に収録されていることから、そのような狩を想定する専門家の方もいらっしゃることがわかり、旧石器時代の主要な狩方法として崖を利用していたという仮説を発展させる価値があると感じました。
2014年10月23日木曜日
趣味活動の健全性と創造性
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.3縄文弥生時代の交通>3.3.8趣味活動の健全性と創造性
前の記事(2014.10.22記事「知識習得の加速と石器似石表採の記憶復元」参照)で、趣味活動の健全性という言葉が自分の口から出ました。
この言葉からもう少し思考を展開しておきます。
前記事の趣味活動の健全性とは、図書とかWEBとかから得た情報をパソコン上のGIS等で操作することによって新たな情報を生み出すという趣味活動が、実体験-現場に根差さない観念的行為であり、空理空論に堕ちる可能性があるという心配から発想した、マイナス方向を向いた安全サイドからの思考(感情)です。
一方、プラス方向を向いた創造サイドからの思考(感情)も考えないと、自分の思考(感情)が跛行的になってしまいます。
考古歴史について、土器や石器など遺物現物を手に取って観察したりすることは大切です。主要な遺物はこれまで何回か実行したように収蔵施設を訪ねてできるだけ実物を見たいと思っています。
しかし、実際問題として自分が遺物現物について詳しい情報を手中に収め専門的な検討ができるようになる条件は限りなくゼロです。
趣味活動を空理空論に陥ることのないようにするだけでなく、意味のある充実発展を促進させるためには、自分の思考と考古歴史の現実・現場との間に何らかのインターフェイスが必要です。
思考と現実を結ぶインターフェイスが何であるか、それを考えると、それが地形であることが即座に思い出されます。
地形については、考古歴史とは別次元の興味対象としてこのブログでいろいろなテーマをすでに扱ってきています。千葉県北部の地形については多少の専門的知識を入手しています。地形的土地勘も養生されています。
一方、遺跡発掘場所の地形については、考古歴史関係者の間では専門的検討対象になっていないという感想を持っています。元来検討すべき対象のなかで地形が空き家(隙間)みたいになっています。
こうした状況、つまり、自分の強み-地形と考古歴史分野に生じている隙間がそろっているのですから、この地形をインタフェイスにして考古歴史分野の趣味活動を展開したいと考えます。
現実の地形観察は誰の手を煩わせることなく、いつでもどこでも自由に出向いて実行できます。一から学習する必要もありません。
地形といっても、いわゆる「地形学」の地形ではなく、原始古代人の活動場所としての現場地理的な地形をイメージしています。
現在の地形から原始・古代の地形を復元推定し、その地形が原始・古代人の生活環境としてどのように利用されたかということが、地形を扱う主な視点の一つのなると思います。
大冊図書の学習から石器似石表採を思い出し、それをきっかけにして自分の思考を少し発展させることができました。
考古歴史分野の趣味活動を展開する上で、自分のバックボーンを強化できました。
花見川の早朝風景
前の記事(2014.10.22記事「知識習得の加速と石器似石表採の記憶復元」参照)で、趣味活動の健全性という言葉が自分の口から出ました。
この言葉からもう少し思考を展開しておきます。
前記事の趣味活動の健全性とは、図書とかWEBとかから得た情報をパソコン上のGIS等で操作することによって新たな情報を生み出すという趣味活動が、実体験-現場に根差さない観念的行為であり、空理空論に堕ちる可能性があるという心配から発想した、マイナス方向を向いた安全サイドからの思考(感情)です。
一方、プラス方向を向いた創造サイドからの思考(感情)も考えないと、自分の思考(感情)が跛行的になってしまいます。
考古歴史について、土器や石器など遺物現物を手に取って観察したりすることは大切です。主要な遺物はこれまで何回か実行したように収蔵施設を訪ねてできるだけ実物を見たいと思っています。
しかし、実際問題として自分が遺物現物について詳しい情報を手中に収め専門的な検討ができるようになる条件は限りなくゼロです。
趣味活動を空理空論に陥ることのないようにするだけでなく、意味のある充実発展を促進させるためには、自分の思考と考古歴史の現実・現場との間に何らかのインターフェイスが必要です。
思考と現実を結ぶインターフェイスが何であるか、それを考えると、それが地形であることが即座に思い出されます。
地形については、考古歴史とは別次元の興味対象としてこのブログでいろいろなテーマをすでに扱ってきています。千葉県北部の地形については多少の専門的知識を入手しています。地形的土地勘も養生されています。
一方、遺跡発掘場所の地形については、考古歴史関係者の間では専門的検討対象になっていないという感想を持っています。元来検討すべき対象のなかで地形が空き家(隙間)みたいになっています。
こうした状況、つまり、自分の強み-地形と考古歴史分野に生じている隙間がそろっているのですから、この地形をインタフェイスにして考古歴史分野の趣味活動を展開したいと考えます。
現実の地形観察は誰の手を煩わせることなく、いつでもどこでも自由に出向いて実行できます。一から学習する必要もありません。
地形といっても、いわゆる「地形学」の地形ではなく、原始古代人の活動場所としての現場地理的な地形をイメージしています。
現在の地形から原始・古代の地形を復元推定し、その地形が原始・古代人の生活環境としてどのように利用されたかということが、地形を扱う主な視点の一つのなると思います。
大冊図書の学習から石器似石表採を思い出し、それをきっかけにして自分の思考を少し発展させることができました。
考古歴史分野の趣味活動を展開する上で、自分のバックボーンを強化できました。
花見川の早朝風景
2014年10月22日水曜日
知識習得の加速と石器似石表採の記憶復元
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.3縄文弥生時代の交通>3.3.7知識習得の加速と石器似石表採の記憶復元
1 知識習得加速のための環境整備
考古歴史知識習得を加速させるために、現在「千葉県の歴史」を集中的に学習しています。
「千葉県の歴史」のうち次の7巻を手元に揃え学習しています。
●揃えた「千葉県の歴史」
・通史編 原始・古代1
・通史編 古代2
・通史編 中世
・資料編 考古1(旧石器・縄文時代)
・資料編 考古2(弥生・古墳時代)
・資料編 考古3(奈良・平安時代)
・資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)
揃えた「千葉県の歴史」の特設本棚収納
この7巻の本を効率的に学習するための環境を整備しました。
パソコンの画面(2014.03.30記事「モニターを4画面にしました」参照)に向かって椅子の右脇に特設の本棚を置き収納しました。すぐに本を取り出せます。
また、椅子の左脇に移動可能な袖机(65㎝×60㎝)を置き本を開いて2冊は置けるようにしました。
パソコン画面を置いている机では、いつもの定位置でキーボードをたたきながら、その脇に本を置けます。
このようなパソコン画面-机回りに大冊図書7巻を自由に使える空間を特別整備しました。
この「千葉県の歴史」学習用特設空間を整備する前は大冊図書1冊を利用するだけでも、本を読みながらキーボードを打つことが困難でした。いらいらします。
2冊以上の図書を同時に利用することも空間的に無理があり、勢い学習そのものが億劫になります。学習意欲に対する空間的抵抗が強すぎるのです。
「千葉県の歴史」学習用特設空間整備により、上記のような大形大重量本利用に伴ういらいら、億劫感を完全に排除することができました。
学習加速が出来るようになりました。
2 旧石器時代石器写真から過去に表採した石を思い出す
「千葉県の歴史」学習用特設空間整備により知識習得を加速している最中ですが、その学習の中で旧石器時代石器の写真を見ることが多くなりました。
これまで石器といえば、次のようなイメージを持っていました。
私がこれまで持っていた典型的石器イメージの例
「千葉県の歴史 資料編 考古4」(千葉県発行)から引用
しかし、「千葉県の歴史 資料編 考古4」(千葉県発行)には旧石器時代石器の写真が沢山掲載されています。
例えば次のような写真です。
旧石器時代石器の例
「千葉県の歴史 資料編 考古4」(千葉県発行)から引用
この写真を見て、ハタッ!と思い当たることが脳裏に浮かびました。
2013年8月に自宅近くの散歩コースで縄文土器を表採したのですが(2013.08.10記事「縄文土器を拾う」参照)、その時一緒に拾った石とよく似ています。
拾った表採物を取り出して、石類をよく見ると、上記写真のような石器に見えてきます。
縄文土器と一緒に拾った石類
拾った時はもしかしたら石器かもしれないが、鏃とかナイフとか典型的な石器の形をしていないので、また小さいかけらであるので、現代の路盤敷石のかけら等である可能性もあるものとして、深く考察しませんでした。心に残りませんでした。
しかし、旧石器写真を沢山見る中で、ひょっとしたら拾った石が石器であるのではないだろうかという思考が突然よみがえりました。
出土した場所は分譲地(非住宅)造成のために掘り起こした表土を盛土した場所ですから、土器や石等は原位置から全く離れ、各時代の遺物が混在してしまっています。
もし石器ならば、縄文土器と一緒に盛土から出土したので縄文時代の石器と考えることが順当です。一方造成地付近に旧石器時代遺跡があっても不思議はない場所と考えますので、旧石器時代の石器である可能性もあると思います。
専門家が見れば石の形状等から石器であるかどうか一目でわかることかもしれません。
3 石器似石の表採を思い出した意味
「千葉県の歴史」学習用特設空間整備により、図書をめくる機会が日常的となり、それにより忘れていた石器似石表採を思い出しました。
そして石器似石を再び手に取って、次のような感想が生れましたのでメモしておきます。
●趣味活動の中で1年前に石器似の石を拾い、それが今、眼前に再び現れたのですから、自分の思考が石器の方向を強く指向していたことは確実です。自分の意識の深層部分で石器やそれが象徴する考古歴史に対する深い興味が実在していることを示しています。
小学生の頃、切手収集に熱中していて、路傍の小さな紙屑が次々に切手に見えてしまい、いちいち確認して歩いていました。その心理状況と同じです。
●今、私は「千葉県の歴史」等から得られる知識・情報に基づいて様々な発想をして、いろいろなパソコン作業を経て、新たな情報を生み出そうとしてます。殆どすべて観念的なレベルでの情報作業・操作です。ところが、この観念的思考作業の流れの中で、突然目の前に、石器似の石という現物が現れました。
趣味活動のほとんどが観念レベルの情報作業・操作であるにも関わらず、完全にそれだけでなく、わずかですが現物・現場と結びついていることを我ながら確認できます。大げさにいえば、自分レベルでの趣味活動健全性について、その存在を確認できたような気がします。
1 知識習得加速のための環境整備
考古歴史知識習得を加速させるために、現在「千葉県の歴史」を集中的に学習しています。
「千葉県の歴史」のうち次の7巻を手元に揃え学習しています。
●揃えた「千葉県の歴史」
・通史編 原始・古代1
・通史編 古代2
・通史編 中世
・資料編 考古1(旧石器・縄文時代)
・資料編 考古2(弥生・古墳時代)
・資料編 考古3(奈良・平安時代)
・資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)
揃えた「千葉県の歴史」の特設本棚収納
この7巻の本を効率的に学習するための環境を整備しました。
パソコンの画面(2014.03.30記事「モニターを4画面にしました」参照)に向かって椅子の右脇に特設の本棚を置き収納しました。すぐに本を取り出せます。
また、椅子の左脇に移動可能な袖机(65㎝×60㎝)を置き本を開いて2冊は置けるようにしました。
パソコン画面を置いている机では、いつもの定位置でキーボードをたたきながら、その脇に本を置けます。
このようなパソコン画面-机回りに大冊図書7巻を自由に使える空間を特別整備しました。
この「千葉県の歴史」学習用特設空間を整備する前は大冊図書1冊を利用するだけでも、本を読みながらキーボードを打つことが困難でした。いらいらします。
2冊以上の図書を同時に利用することも空間的に無理があり、勢い学習そのものが億劫になります。学習意欲に対する空間的抵抗が強すぎるのです。
「千葉県の歴史」学習用特設空間整備により、上記のような大形大重量本利用に伴ういらいら、億劫感を完全に排除することができました。
学習加速が出来るようになりました。
2 旧石器時代石器写真から過去に表採した石を思い出す
「千葉県の歴史」学習用特設空間整備により知識習得を加速している最中ですが、その学習の中で旧石器時代石器の写真を見ることが多くなりました。
これまで石器といえば、次のようなイメージを持っていました。
私がこれまで持っていた典型的石器イメージの例
「千葉県の歴史 資料編 考古4」(千葉県発行)から引用
しかし、「千葉県の歴史 資料編 考古4」(千葉県発行)には旧石器時代石器の写真が沢山掲載されています。
例えば次のような写真です。
旧石器時代石器の例
「千葉県の歴史 資料編 考古4」(千葉県発行)から引用
この写真を見て、ハタッ!と思い当たることが脳裏に浮かびました。
2013年8月に自宅近くの散歩コースで縄文土器を表採したのですが(2013.08.10記事「縄文土器を拾う」参照)、その時一緒に拾った石とよく似ています。
拾った表採物を取り出して、石類をよく見ると、上記写真のような石器に見えてきます。
縄文土器と一緒に拾った石類
拾った時はもしかしたら石器かもしれないが、鏃とかナイフとか典型的な石器の形をしていないので、また小さいかけらであるので、現代の路盤敷石のかけら等である可能性もあるものとして、深く考察しませんでした。心に残りませんでした。
しかし、旧石器写真を沢山見る中で、ひょっとしたら拾った石が石器であるのではないだろうかという思考が突然よみがえりました。
出土した場所は分譲地(非住宅)造成のために掘り起こした表土を盛土した場所ですから、土器や石等は原位置から全く離れ、各時代の遺物が混在してしまっています。
もし石器ならば、縄文土器と一緒に盛土から出土したので縄文時代の石器と考えることが順当です。一方造成地付近に旧石器時代遺跡があっても不思議はない場所と考えますので、旧石器時代の石器である可能性もあると思います。
専門家が見れば石の形状等から石器であるかどうか一目でわかることかもしれません。
3 石器似石の表採を思い出した意味
「千葉県の歴史」学習用特設空間整備により、図書をめくる機会が日常的となり、それにより忘れていた石器似石表採を思い出しました。
そして石器似石を再び手に取って、次のような感想が生れましたのでメモしておきます。
●趣味活動の中で1年前に石器似の石を拾い、それが今、眼前に再び現れたのですから、自分の思考が石器の方向を強く指向していたことは確実です。自分の意識の深層部分で石器やそれが象徴する考古歴史に対する深い興味が実在していることを示しています。
小学生の頃、切手収集に熱中していて、路傍の小さな紙屑が次々に切手に見えてしまい、いちいち確認して歩いていました。その心理状況と同じです。
●今、私は「千葉県の歴史」等から得られる知識・情報に基づいて様々な発想をして、いろいろなパソコン作業を経て、新たな情報を生み出そうとしてます。殆どすべて観念的なレベルでの情報作業・操作です。ところが、この観念的思考作業の流れの中で、突然目の前に、石器似の石という現物が現れました。
趣味活動のほとんどが観念レベルの情報作業・操作であるにも関わらず、完全にそれだけでなく、わずかですが現物・現場と結びついていることを我ながら確認できます。大げさにいえば、自分レベルでの趣味活動健全性について、その存在を確認できたような気がします。
2014年10月21日火曜日
「縄文弥生時代の交通」再開にあたって
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.3縄文弥生時代の交通>3.3.6「縄文弥生時代の交通」再開にあたって
花見川地峡の古代交通について2014.08.10記事「縄文弥生時代の花見川筋の交通 検討を始めるにあたって」から検討を始めたのですが、基礎知識を得るために埋蔵文化財リストを入手して統計的、分布図的にいじりだしました。
そうしたところ、「市区町村別遺跡密度図」→「アドレスマッチングによる遺跡の擬似プロット図」→「遺跡密度図(ヒートマップ)」と次々に新しいGIS操作に深入りしながら、考古歴史に関連する好奇心を満足させるための活動に熱中してしまいました。この中で考古歴史基礎知識をかなり増大させることができました。
「千葉県の歴史」通史編と資料編を7冊そろえじっくり読み出すという学習活動もこのころ始めました。
同時に、「千葉県の歴史」の貝塚記述に関して千葉県に質問したことをきっかけにして、千葉市埋蔵文化財調査センターの研究者の方から、貝塚に関する捉え方と房総の考古歴史について専門的事項をいろいろと教えていただけるという機会に遭遇し、自分の趣味活動に対するまたとない好刺激になりました。
さらに旅行中の埋め草記事作成のつもりで始めた「印旛の原始・古代 旧石器時代編」「同 縄文時代編」(財団法人印旛郡市文化財センター)読後感記事作成も、いつの間にか熱中してしまい、とても学習になっています。
このような活動により、自分の「縄文弥生時代の交通」に関する問題意識の幅もかなり拡がりましたので、記事再開にあたって改めて検討の仕方と方向を箇条書きでメモして、確認しておきます。
1 「旧石器時代の移動路」を新たな項目立て(新たな目次立て)とする
「縄文弥生時代の交通」と同じレベルの目次(項目)として「旧石器時代の移動路」を立てることにしました。
縄文時代や弥生時代では、人々は花見川筋-平戸川筋を舟運と陸運のコンビネーションにより重要な交通路として縦断的に利用しました。
一方、旧石器時代では花見川筋や平戸川筋は深い谷になっていて、それを利用した狩が行われていたと考えます。
旧石器時代人は花見川筋や平戸川筋を主に横断的に利用・移動していたと考えます。その状況を調べます。
シリーズ「花見川地峡史-メモ・仮説集-」の目次は次のように変更します。
●シリーズ「花見川地峡史-メモ・仮説集-」目次
1 花見川地峡とは
2 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討-
3 花見川地峡の利用・開発史
3.1 埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討
3.2 旧石器時代の移動路 (追加)
3.3 縄文弥生時代の交通
3.4 〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路
3.5 牧の境界
3.6 享保・天明・天保の印旛沼堀割普請
3.7 明治~戦前期の土地利用
3.8 本土決戦
3.9 戦後印旛沼開発
4 花見川地峡の課題と未来
なお、シリーズ「花見川地峡史-メモ・仮説集-」は次のサイトに詳細目次とともに全記事を再掲しています。
サイト「花見川地峡史-メモ・仮説集-」
2 ブログ記事を3項目(3目次)同時平行的に書く
上記シリーズ「花見川地峡史-メモ・仮説集-」目次のうち、「3.2 旧石器時代の移動路」、「3.3 縄文弥生時代の交通」、「3.4 〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路」に関する記事を随時同時平行的に書いてアップすることにします。
理由は、目次の順に記事を書くことにすると、まとまった作業や調査が必要なところ、時間をかけて調べる必要があるところでブログ記事のアップが長期にわたりできなくなる可能性があるからです。
また、既に「3.1 埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討」において、旧石器時代から平安時代までの歴史考古のインタレストについて繰り返し記事にしてきている実績がありますので、あまり違和感を感じないブログ運営と思っています。
3 「旧石器時代の移動路」検討イメージ
・下総台地全体を調べる中で、花見川地峡の詳しい状況を知る。
・現在は沖積地の地下深くに埋没している旧石器時代の深い谷と旧石器時代人の関係を知る。
そのために、
・現在調査されている旧石器時代遺跡の中にキャンプ地以外の遺跡(狩猟現場の遺跡)があるか確認する。(特に地殻上昇の激しい土気付近)
・キャンプ地と狩猟現場との関係についての情報があるか知る。
・キャンプ地とキャンプ地をそのまま結べば、それが当時の移動路であるといえるのか検討する。
4 「縄文弥生時代交通」検討イメージ
4-1 縄文時代の時代細区分について学習する
・「千葉県の歴史資料編4」の貝塚の項等を学習して縄文時代の時代細区分を知ることにします。
4-2 縄文時代の細時代区分別遺跡分布図を作成する
・ふさの国文化財ナビゲーションからダウンロードした縄文時代遺跡情報を細時代区分別に整理し、それから細時代区分別縄文遺跡分布図(擬似プロット図)、細時代区分別縄文遺跡密度図(ヒートマップ)を作成して基礎資料とします。
4-3 縄文遺跡の特徴を調べ縄文時代交通路について検討する
・細時代区分別縄文遺跡密度図(ヒートマップ)を重要な発想道具として活用しながら、個別遺跡調査報告書等を閲覧して具体的情報を集め、細時代区分毎の交通路を検討します。
4-4 弥生時代については、縄文時代と同じ方法で検討する
5 「〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路」の検討イメージ
・これまでの検討を整理するとともに、周辺遺跡の詳細について調べ、交通路との関係を検討します。
・現場調査を再度行います。
・米軍空中写真及び現代空中写真の画像分析を行います。
・衛星画像分析の適用が可能であるか予備検討を行います。
花見川の最近の風景
花見川地峡の古代交通について2014.08.10記事「縄文弥生時代の花見川筋の交通 検討を始めるにあたって」から検討を始めたのですが、基礎知識を得るために埋蔵文化財リストを入手して統計的、分布図的にいじりだしました。
そうしたところ、「市区町村別遺跡密度図」→「アドレスマッチングによる遺跡の擬似プロット図」→「遺跡密度図(ヒートマップ)」と次々に新しいGIS操作に深入りしながら、考古歴史に関連する好奇心を満足させるための活動に熱中してしまいました。この中で考古歴史基礎知識をかなり増大させることができました。
「千葉県の歴史」通史編と資料編を7冊そろえじっくり読み出すという学習活動もこのころ始めました。
同時に、「千葉県の歴史」の貝塚記述に関して千葉県に質問したことをきっかけにして、千葉市埋蔵文化財調査センターの研究者の方から、貝塚に関する捉え方と房総の考古歴史について専門的事項をいろいろと教えていただけるという機会に遭遇し、自分の趣味活動に対するまたとない好刺激になりました。
さらに旅行中の埋め草記事作成のつもりで始めた「印旛の原始・古代 旧石器時代編」「同 縄文時代編」(財団法人印旛郡市文化財センター)読後感記事作成も、いつの間にか熱中してしまい、とても学習になっています。
このような活動により、自分の「縄文弥生時代の交通」に関する問題意識の幅もかなり拡がりましたので、記事再開にあたって改めて検討の仕方と方向を箇条書きでメモして、確認しておきます。
1 「旧石器時代の移動路」を新たな項目立て(新たな目次立て)とする
「縄文弥生時代の交通」と同じレベルの目次(項目)として「旧石器時代の移動路」を立てることにしました。
縄文時代や弥生時代では、人々は花見川筋-平戸川筋を舟運と陸運のコンビネーションにより重要な交通路として縦断的に利用しました。
一方、旧石器時代では花見川筋や平戸川筋は深い谷になっていて、それを利用した狩が行われていたと考えます。
旧石器時代人は花見川筋や平戸川筋を主に横断的に利用・移動していたと考えます。その状況を調べます。
シリーズ「花見川地峡史-メモ・仮説集-」の目次は次のように変更します。
●シリーズ「花見川地峡史-メモ・仮説集-」目次
1 花見川地峡とは
2 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討-
3 花見川地峡の利用・開発史
3.1 埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討
3.2 旧石器時代の移動路 (追加)
3.3 縄文弥生時代の交通
3.4 〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路
3.5 牧の境界
3.6 享保・天明・天保の印旛沼堀割普請
3.7 明治~戦前期の土地利用
3.8 本土決戦
3.9 戦後印旛沼開発
4 花見川地峡の課題と未来
なお、シリーズ「花見川地峡史-メモ・仮説集-」は次のサイトに詳細目次とともに全記事を再掲しています。
サイト「花見川地峡史-メモ・仮説集-」
2 ブログ記事を3項目(3目次)同時平行的に書く
上記シリーズ「花見川地峡史-メモ・仮説集-」目次のうち、「3.2 旧石器時代の移動路」、「3.3 縄文弥生時代の交通」、「3.4 〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路」に関する記事を随時同時平行的に書いてアップすることにします。
理由は、目次の順に記事を書くことにすると、まとまった作業や調査が必要なところ、時間をかけて調べる必要があるところでブログ記事のアップが長期にわたりできなくなる可能性があるからです。
また、既に「3.1 埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討」において、旧石器時代から平安時代までの歴史考古のインタレストについて繰り返し記事にしてきている実績がありますので、あまり違和感を感じないブログ運営と思っています。
3 「旧石器時代の移動路」検討イメージ
・下総台地全体を調べる中で、花見川地峡の詳しい状況を知る。
・現在は沖積地の地下深くに埋没している旧石器時代の深い谷と旧石器時代人の関係を知る。
そのために、
・現在調査されている旧石器時代遺跡の中にキャンプ地以外の遺跡(狩猟現場の遺跡)があるか確認する。(特に地殻上昇の激しい土気付近)
・キャンプ地と狩猟現場との関係についての情報があるか知る。
・キャンプ地とキャンプ地をそのまま結べば、それが当時の移動路であるといえるのか検討する。
4 「縄文弥生時代交通」検討イメージ
4-1 縄文時代の時代細区分について学習する
・「千葉県の歴史資料編4」の貝塚の項等を学習して縄文時代の時代細区分を知ることにします。
4-2 縄文時代の細時代区分別遺跡分布図を作成する
・ふさの国文化財ナビゲーションからダウンロードした縄文時代遺跡情報を細時代区分別に整理し、それから細時代区分別縄文遺跡分布図(擬似プロット図)、細時代区分別縄文遺跡密度図(ヒートマップ)を作成して基礎資料とします。
4-3 縄文遺跡の特徴を調べ縄文時代交通路について検討する
・細時代区分別縄文遺跡密度図(ヒートマップ)を重要な発想道具として活用しながら、個別遺跡調査報告書等を閲覧して具体的情報を集め、細時代区分毎の交通路を検討します。
4-4 弥生時代については、縄文時代と同じ方法で検討する
5 「〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路」の検討イメージ
・これまでの検討を整理するとともに、周辺遺跡の詳細について調べ、交通路との関係を検討します。
・現場調査を再度行います。
・米軍空中写真及び現代空中写真の画像分析を行います。
・衛星画像分析の適用が可能であるか予備検討を行います。
花見川の最近の風景
2014年10月20日月曜日
駅路ルートと遺跡密度 改訂記事
花見川地峡史-メモ・仮説集>3花見川地峡の利用・開発史> 3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討>3.1.51駅路ルートと遺跡密度改訂記事
2014.08.29記事「駅路ルートと遺跡密度」をヒートマップに基づいて改訂します。
市区町村別遺跡密度図では大局的なことしかわかりませんでしたが、ヒートマップではより具体的な遺跡密度がわかるようになりました。従って、ヒートマップと駅路ルート図をオーバーレイすると駅路ルートの意義に関する豊かな仮説を構築することができます。
……………………………………………………………………
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)に「古代の交通路」という章があり、興味深い情報が掲載されていますので、その情報と遺跡密度図(ヒートマップ)との関係を考察してみました。
1 駅路の変遷
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)には駅路(えきろ)図が時代別に3枚掲載されていますのでその紹介と感想を述べます。
なお、駅路網については、類似の情報を題材に2013.06.29記事「紹介 東国駅路網の変遷過程」等の検討を過去に行っています。
Ⅰ期(8世紀初め~771年)の駅路
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)掲載駅路網図
駅路ルートを塗色しました。幹線(東海道本路)は太く塗色しました。
Ⅰ期は古墳時代末期(飛鳥時代)から奈良時代の後期までの時期の駅路網です。
東海道の本路線は三浦半島から海路浦賀水道を渡り、東京湾岸を陸路ですすみ、千葉市付近から成田市付近を通り当時の香取の海にでて対岸に渡り常陸国に入ります。
このルートは律令国家が駅路を整備するはるか以前から使われてきたものです。
支路がネットワーク状につながっています。
Ⅱ期(771年~805年)の駅路
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)掲載駅路網図
駅路ルートを塗色しました。幹線(東海道本路)は太く塗色しました。
Ⅱ期は奈良時代末期から平安時代始期のころの駅路網です。
浦賀水道を通るルートが廃止され、本路線は西から陸路井上駅(下総国府近く、市川市)に到達し、そこから東京湾岸を東に進み、河曲駅(千葉市)からⅠ期と同じルートを北に進みます。
Ⅲ期(805年~10・11世紀代)の駅路
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)掲載駅路網図
駅路ルートを塗色しました。幹線(東海道本路)は太く塗色しました。
Ⅲ期は平安時代以降の駅路網です。
本路線は井上駅から手賀沼付近を通りそこから香取の海を渡っています。印旛浦付近を避けるルートとなっています。
Ⅰ期、Ⅱ期において東海道本路線が香取の海の中央付近に出るルートであり、Ⅲ期になるとルートがより合理的になり東国と都を結ぶようになります。(ルートが短縮されます。)
この理由について、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)では征夷(蝦夷征夷)と弓削道鏡のかかわりの2点から説明しています。大変興味深い説明です。
この中で、Ⅰ、Ⅱ期の時代では香取の海沿岸が征夷の出撃拠点、兵站基地として重要な時期であったということと、Ⅱ期では道鏡政権が人脈上武蔵国と上総国を重視していたということを詳しく説明してます。
駅路ルートの変遷理由はとても詳しく、かつわかりやすく書いてあります。
2 浮島駅の場所
さて、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)では駅家(えきか)の推定位置一覧表があるのですが、浮島駅が習志野市津田沼・鷺沼付近となっています。
吉田東伍は幕張町付近(花見川河口)と推定して、このブログでも吉田東伍の推定が合理的であると判断して、思考を組み立てきています。(2014.04.04記事「花見川地峡が古代交通の要衝であったことに気がつく」など多数)
浮島駅の推定が吉田東伍の推定と異なることを明示しているのですが、その理由については説明されていません。この書における浮島駅の場所推定根拠を詳しく知りたいと思いました。
縄文時代以来使われてきた花見川地峡(花見川-平戸川[印旛浦])の交通を考えた時、浮島駅が花見川河口を外して、わざわざ別の場所である津田沼付近につくられた合理的理由を考えることは困難です。
また、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)では浮島牛牧の位置を幕張町付近に比定していますが、同時期同名称の「浮島」駅を別の場所である津田沼付近に推定することは歴史地理認識の一貫性という点で、同書中で矛盾しています。
浮島駅の推定場所は私が考える東海道水運支路仮説の根幹をなすポイントの一つですから、花見川河口ではない別の場所に推定する説については、その根拠を知ることが出来れば、その確からしさを詳しく検討したいと思います。
3 河曲駅から荒海駅までのルート
河曲駅から荒海駅までの陸路ルートの地図上での概略位置を知りたくなりました。またそのルートと都川-鹿島川水運ルートとの関係も知りたくなりました。
今後調べたいと思います。
河曲駅から荒海駅までの区間が弥生時代から平安時代までの間、房総の植民・開発の最重要軸であり、西方から常陸国・陸奥国へ入る最重要交通路であったといえます。
4 駅路網図と遺跡密度図(ヒートマップ)のオーバーレイ
駅路網図と遺跡密度図(ヒートマップ)をオーバーレイして並べてみました。
Ⅰ期駅路網図は古墳時代遺跡密度図(ヒートマップ)と奈良時代遺跡密度図(ヒートマップ)の2つにオーバーレイしています。
Ⅱ期駅路網図は奈良時代遺跡密度図(ヒートマップ)とオーバーレイしています。
Ⅲ期駅路網図は平安時代遺跡密度図(ヒートマップ)とオーバーレイしています。
駅路網図と遺跡密度図(ヒートマップ)のオーバーレイ図
「古墳時代・Ⅰ期ルート」図はⅠ期ルートが公式に制定される前から、その道が古墳時代の幹線道路であったと考えて作成したものです。
東海道本路線が上総と下総の高密度地域をつないでいるように見えます。
しかし、「平安時代・Ⅲ期ルート」図をみると、下総の高密度地域の分布と東海道本路線ルートの位置とは関係が無くなっています。それにもかかわらず、Ⅱ期まで通っていた東海道本路線の位置にそれまで以上に遺跡が密集します。つまり地域開発が進んでいます。
このように上記オーバーレイ図から様々な考察ができますので、それを次のまとめてみました。
駅路網図と遺跡密度図(ヒートマップ)のオーバーレイ図 【検討】
●古墳時代・Ⅰ期ルート図
弥生時代、古墳時代にあっては、東京湾岸沿いに北上する植民ルートと印旛沼-鹿島川沿いに北上する植民ルートが千葉付近で邂逅します。
この二つのぶつかりあう植民ルートが後の東海道本路線の原型となったと考えます。
●奈良時代・Ⅰ期ルート図
東京湾岸→鹿島川-印旛沼ルートが房総を貫く最大交通軸となり、常陸国・陸奥国への幹線ルートとして東海道本路線になったと考えます。
●奈良時代・Ⅱ期ルート図
市川→千葉や鹿島川-印旛沼ルートが常陸国・陸奥国への幹線ルートに変更になりました。
変更になった最大の理由は海路(東京湾横断)を止め、陸路にした点にあります。律令国家としては支配力の源泉として馬を利用した高速通行・通信を重視したのだと思います。海路(東京湾横断)があっては通行・通信が天候に左右されてしまいます。
私が考える東海道水運支路仮説(花見川-平戸川・印旛沼・香取の海ルート)はこの時期(Ⅱ期)以降の物資兵員輸送ルートとして位置付けることができます。
●平安時代・Ⅲ期ルート図
遺跡密度の高い場所と駅路ルートが乖離しますから、東海道本路線は高速移動・通信網として機能し、それまでの本路線であった市川-千葉-鹿島川・印旛沼ルートは物資兵員輸送幹線ルートとして機能したのだと考えます。
Ⅲ期には、駅路ルートの性格が中央集権国家の情報伝達という機能に特化し、物資兵員輸送路とは分化した時代であったと考えます。それだけ蝦夷戦争が激烈になり、馬を利用した高速情報伝達が迅速な国家意思決定のために必須になっていたのだと思います。
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この記事を持ちまして、 「3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討」を完結とします。
次の記事から、途中まで進んだ「3.2縄文弥生時代の交通」を再開します。
2014.08.29記事「駅路ルートと遺跡密度」をヒートマップに基づいて改訂します。
市区町村別遺跡密度図では大局的なことしかわかりませんでしたが、ヒートマップではより具体的な遺跡密度がわかるようになりました。従って、ヒートマップと駅路ルート図をオーバーレイすると駅路ルートの意義に関する豊かな仮説を構築することができます。
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「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)に「古代の交通路」という章があり、興味深い情報が掲載されていますので、その情報と遺跡密度図(ヒートマップ)との関係を考察してみました。
1 駅路の変遷
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)には駅路(えきろ)図が時代別に3枚掲載されていますのでその紹介と感想を述べます。
なお、駅路網については、類似の情報を題材に2013.06.29記事「紹介 東国駅路網の変遷過程」等の検討を過去に行っています。
Ⅰ期(8世紀初め~771年)の駅路
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)掲載駅路網図
駅路ルートを塗色しました。幹線(東海道本路)は太く塗色しました。
Ⅰ期は古墳時代末期(飛鳥時代)から奈良時代の後期までの時期の駅路網です。
東海道の本路線は三浦半島から海路浦賀水道を渡り、東京湾岸を陸路ですすみ、千葉市付近から成田市付近を通り当時の香取の海にでて対岸に渡り常陸国に入ります。
このルートは律令国家が駅路を整備するはるか以前から使われてきたものです。
支路がネットワーク状につながっています。
Ⅱ期(771年~805年)の駅路
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)掲載駅路網図
駅路ルートを塗色しました。幹線(東海道本路)は太く塗色しました。
Ⅱ期は奈良時代末期から平安時代始期のころの駅路網です。
浦賀水道を通るルートが廃止され、本路線は西から陸路井上駅(下総国府近く、市川市)に到達し、そこから東京湾岸を東に進み、河曲駅(千葉市)からⅠ期と同じルートを北に進みます。
Ⅲ期(805年~10・11世紀代)の駅路
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)掲載駅路網図
駅路ルートを塗色しました。幹線(東海道本路)は太く塗色しました。
Ⅲ期は平安時代以降の駅路網です。
本路線は井上駅から手賀沼付近を通りそこから香取の海を渡っています。印旛浦付近を避けるルートとなっています。
Ⅰ期、Ⅱ期において東海道本路線が香取の海の中央付近に出るルートであり、Ⅲ期になるとルートがより合理的になり東国と都を結ぶようになります。(ルートが短縮されます。)
この理由について、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)では征夷(蝦夷征夷)と弓削道鏡のかかわりの2点から説明しています。大変興味深い説明です。
この中で、Ⅰ、Ⅱ期の時代では香取の海沿岸が征夷の出撃拠点、兵站基地として重要な時期であったということと、Ⅱ期では道鏡政権が人脈上武蔵国と上総国を重視していたということを詳しく説明してます。
駅路ルートの変遷理由はとても詳しく、かつわかりやすく書いてあります。
2 浮島駅の場所
さて、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)では駅家(えきか)の推定位置一覧表があるのですが、浮島駅が習志野市津田沼・鷺沼付近となっています。
吉田東伍は幕張町付近(花見川河口)と推定して、このブログでも吉田東伍の推定が合理的であると判断して、思考を組み立てきています。(2014.04.04記事「花見川地峡が古代交通の要衝であったことに気がつく」など多数)
浮島駅の推定が吉田東伍の推定と異なることを明示しているのですが、その理由については説明されていません。この書における浮島駅の場所推定根拠を詳しく知りたいと思いました。
縄文時代以来使われてきた花見川地峡(花見川-平戸川[印旛浦])の交通を考えた時、浮島駅が花見川河口を外して、わざわざ別の場所である津田沼付近につくられた合理的理由を考えることは困難です。
また、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)では浮島牛牧の位置を幕張町付近に比定していますが、同時期同名称の「浮島」駅を別の場所である津田沼付近に推定することは歴史地理認識の一貫性という点で、同書中で矛盾しています。
浮島駅の推定場所は私が考える東海道水運支路仮説の根幹をなすポイントの一つですから、花見川河口ではない別の場所に推定する説については、その根拠を知ることが出来れば、その確からしさを詳しく検討したいと思います。
3 河曲駅から荒海駅までのルート
河曲駅から荒海駅までの陸路ルートの地図上での概略位置を知りたくなりました。またそのルートと都川-鹿島川水運ルートとの関係も知りたくなりました。
今後調べたいと思います。
河曲駅から荒海駅までの区間が弥生時代から平安時代までの間、房総の植民・開発の最重要軸であり、西方から常陸国・陸奥国へ入る最重要交通路であったといえます。
4 駅路網図と遺跡密度図(ヒートマップ)のオーバーレイ
駅路網図と遺跡密度図(ヒートマップ)をオーバーレイして並べてみました。
Ⅰ期駅路網図は古墳時代遺跡密度図(ヒートマップ)と奈良時代遺跡密度図(ヒートマップ)の2つにオーバーレイしています。
Ⅱ期駅路網図は奈良時代遺跡密度図(ヒートマップ)とオーバーレイしています。
Ⅲ期駅路網図は平安時代遺跡密度図(ヒートマップ)とオーバーレイしています。
駅路網図と遺跡密度図(ヒートマップ)のオーバーレイ図
「古墳時代・Ⅰ期ルート」図はⅠ期ルートが公式に制定される前から、その道が古墳時代の幹線道路であったと考えて作成したものです。
東海道本路線が上総と下総の高密度地域をつないでいるように見えます。
しかし、「平安時代・Ⅲ期ルート」図をみると、下総の高密度地域の分布と東海道本路線ルートの位置とは関係が無くなっています。それにもかかわらず、Ⅱ期まで通っていた東海道本路線の位置にそれまで以上に遺跡が密集します。つまり地域開発が進んでいます。
このように上記オーバーレイ図から様々な考察ができますので、それを次のまとめてみました。
●古墳時代・Ⅰ期ルート図
弥生時代、古墳時代にあっては、東京湾岸沿いに北上する植民ルートと印旛沼-鹿島川沿いに北上する植民ルートが千葉付近で邂逅します。
この二つのぶつかりあう植民ルートが後の東海道本路線の原型となったと考えます。
●奈良時代・Ⅰ期ルート図
東京湾岸→鹿島川-印旛沼ルートが房総を貫く最大交通軸となり、常陸国・陸奥国への幹線ルートとして東海道本路線になったと考えます。
●奈良時代・Ⅱ期ルート図
市川→千葉や鹿島川-印旛沼ルートが常陸国・陸奥国への幹線ルートに変更になりました。
変更になった最大の理由は海路(東京湾横断)を止め、陸路にした点にあります。律令国家としては支配力の源泉として馬を利用した高速通行・通信を重視したのだと思います。海路(東京湾横断)があっては通行・通信が天候に左右されてしまいます。
私が考える東海道水運支路仮説(花見川-平戸川・印旛沼・香取の海ルート)はこの時期(Ⅱ期)以降の物資兵員輸送ルートとして位置付けることができます。
●平安時代・Ⅲ期ルート図
遺跡密度の高い場所と駅路ルートが乖離しますから、東海道本路線は高速移動・通信網として機能し、それまでの本路線であった市川-千葉-鹿島川・印旛沼ルートは物資兵員輸送幹線ルートとして機能したのだと考えます。
Ⅲ期には、駅路ルートの性格が中央集権国家の情報伝達という機能に特化し、物資兵員輸送路とは分化した時代であったと考えます。それだけ蝦夷戦争が激烈になり、馬を利用した高速情報伝達が迅速な国家意思決定のために必須になっていたのだと思います。
……………………………………………………………………
この記事を持ちまして、 「3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討」を完結とします。
次の記事から、途中まで進んだ「3.2縄文弥生時代の交通」を再開します。
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