上谷遺跡学習における寄り道学習として土坑の学習をしています。
上谷遺跡の主な大型土坑のうち、D125土坑について学習します。
上谷遺跡の主な大型土坑
D125土坑は発掘調査報告書では次のように記載されています。
●遺構
長軸1.97m×短軸1.79m×深さ0.97m、長軸方向はN-44°-Eを示す。
平面形はほぼ円形である。
A144(竪穴住居)と重複している。坑底は平坦であり、壁の立ち上がりに周溝を持つ土坑である。
覆土はロームを混入させた暗褐色土を主体とした人為堆積である。
須恵器2片が出土している。
●所見
覆土は、単に土砂を放り込んだような堆積である。
形状から墓壙とも想定したが、覆土状況からそのようには捉えられないものである。
D125土坑
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
この土坑が切っている竪穴住居A144及び直近の竪穴住居からタール状付着物のある土器が出土していて、この付近が漆工房集中区域である可能性を既に検討しています。
2016.09.14記事「上谷遺跡 漆工房群存在の可能性」参照
上谷遺跡 付着物土器出土遺構
漆工房集中区域の可能性
想定(想像)になりますが、D125土坑は漆産業に関連する土坑であると考えることが合理的です。
次のような機能のうちどれかあるいは全部がこの土坑の機能であると考えます。
1 漆栽培のための分根の貯蔵庫(土に埋めて貯蔵する装置)
2 漆実生発芽のための漆実の脱蝋装置(脱蝋のために果肉を腐らせる装置)
3 脱蝋した漆実の貯蔵庫(脱蝋漆実の発芽を促進させるために土に埋め、散水する装置)
この土坑の検討の中で、奈良時代の漆産業は自然に生えた漆の木を利用するのではなく、漆の木を栽培してそれを利用していたということを学びました。
漆工房が集中する空間付近(の斜面)には漆畑が存在していたと考えます。
2016年9月30日金曜日
2016年9月22日木曜日
上谷遺跡 カヤ実貯蔵用土坑
上谷遺跡D268土坑について学習します。
1 位置
上谷遺跡D268土坑の位置
台地と台地崖の境付近の日当たりの良い場所にあります。
2 報告書の記載
長軸3.66m×短軸3.56m×深さ2.88m。平面形は円形である。壁は垂直に近く、坑底には十文字に溝が掘り込まれていた。
また、壁際に全周して溝が巡っていた。
坑底から0.30m程度の高さに焼土と炭化材を認め、坑底から壁に炭化したカヤ材が貼付く様に出土している。
更に坑底から0.70mの高さに焼土を認めた。
覆土は複雑な堆積状況を示すが、大きく1~4層、11層~36層、37~45層に捉えられており、人為的な投入によって埋没したと判断した。
遺構調査図
遺構写真
(文中の番号D269は報告書の過誤)
3 D268土坑用途の推定 カヤ実の処理機能付き貯蔵庫
3-1 用途推定をするにあたっての大前提
報告書記載で「坑底から壁に炭化したカヤ材が貼付く様に出土している。」という記載があります。
この「カヤ材」が「かや(茅、萱)」つまり屋根をふくためなどにつかうススキ、チガヤ、スゲなのか、「かや(榧、柏、栢)」つまりイチイ科の常緑高木を意味しているのか不明です。
写真 (5)はそれを示そうとしているのかもしれませんが、報告書の記述を読むかぎり「かや」がどちらを指しているのか不明確です。
この記事ではかやが榧であり、実がなる常緑高木の意味であると理解して、D268土坑の用途を推定します。
もし、カヤが草ならば、また違った用途推定と説明になります。
カヤが何を指すのか関係者に問い合わせたいと思います。
3-2 カヤ(榧)出土からカヤ実貯蔵を推定する
坑底には周溝及び十字の溝があります。
それは水分と物を分けるための排水機能であると考えられますから、この土坑は物の貯蔵等が目的であったと考えられます。
「坑底から壁に炭化したカヤ材が貼付く様に出土している」ほどなのですから多量の榧がそこに存在していたことがわかります。
種子は胚乳に脂肪油の含有が多く,良質の食用油や整髪油がとれ,食用・薬用にもなる。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用
……………………………………………………………………
こうした情報からD268土坑はカヤ実の貯蔵庫であったのではないかと推定します。
3-3 土坑のカヤ実処理機能
土坑にカヤ実を貯蔵する意味は、果肉ごとこの土坑で貯蔵することによって果肉を腐らせ、一定時間後に取り出して硬い殻付き種子だけにする工程処理が行われていたのではないかと想定します。
子どものころ、銀杏を拾い、それを土に埋めて臭いのきつい果肉を腐らせ、殻付き種子だけを取り出して洗って食べた経験がありますから、同じようなことが行われたと考えます。
この土坑は単純な保管庫ではなく、大量のカヤ実の果肉を効率的に取り除くという高機能装置であったと考えます。
3-4 土坑設置場所の意味
果肉を効率的に腐らせるために、その場所が日当たりのよい場所に立地していると考えます。
またその付近は臭いですから台地面はずれに立地させたと考えます。
さらにいえば、残った殻付き種子を谷津の水路で洗うための便を考慮して崖付近に立地させたのだと思います。
4 覆土から出土する転用燈明皿の意味
覆土が大きくは3層に分かれ、遺物出土は上層が多くなっています。
D268土坑出土遺物
遺物に燈明皿転用坏が3つ含まれ、さらに「破換面」が摩滅している坏(片)が7点出土しています。
摩滅している土器片ということですから、土器片として長期間使い込まれてきていることを示しています。
摩滅している土器片とは燈明皿として使っていた可能性を考えることができます。
これらの出土物から次のような土坑の歴史と廃絶時状況を推察します。
●D268土坑はカヤ実の果肉除去機能装置として利用された。
●カヤ実から採れる油は燈明皿を使って夜間照明に使われた。
●土坑内環境の悪化をリセットするために坑内焼却などが行われた。(焼土の存在)
●土坑は繰り返し利用され、堆積物で浅くなった。(下層、中層の存在)
●土坑が浅くなって使えなくなったとき、廃絶の儀式が行われ、使っていた燈明皿をもちより、感謝の念を込めて土坑に投げ込み埋めた。
もし、カヤが草のカヤなら、別のストーリーを考えます。
1 位置
上谷遺跡D268土坑の位置
台地と台地崖の境付近の日当たりの良い場所にあります。
2 報告書の記載
長軸3.66m×短軸3.56m×深さ2.88m。平面形は円形である。壁は垂直に近く、坑底には十文字に溝が掘り込まれていた。
また、壁際に全周して溝が巡っていた。
坑底から0.30m程度の高さに焼土と炭化材を認め、坑底から壁に炭化したカヤ材が貼付く様に出土している。
更に坑底から0.70mの高さに焼土を認めた。
覆土は複雑な堆積状況を示すが、大きく1~4層、11層~36層、37~45層に捉えられており、人為的な投入によって埋没したと判断した。
遺構調査図
遺構写真
(文中の番号D269は報告書の過誤)
3 D268土坑用途の推定 カヤ実の処理機能付き貯蔵庫
3-1 用途推定をするにあたっての大前提
報告書記載で「坑底から壁に炭化したカヤ材が貼付く様に出土している。」という記載があります。
この「カヤ材」が「かや(茅、萱)」つまり屋根をふくためなどにつかうススキ、チガヤ、スゲなのか、「かや(榧、柏、栢)」つまりイチイ科の常緑高木を意味しているのか不明です。
写真 (5)はそれを示そうとしているのかもしれませんが、報告書の記述を読むかぎり「かや」がどちらを指しているのか不明確です。
この記事ではかやが榧であり、実がなる常緑高木の意味であると理解して、D268土坑の用途を推定します。
もし、カヤが草ならば、また違った用途推定と説明になります。
カヤが何を指すのか関係者に問い合わせたいと思います。
3-2 カヤ(榧)出土からカヤ実貯蔵を推定する
坑底には周溝及び十字の溝があります。
それは水分と物を分けるための排水機能であると考えられますから、この土坑は物の貯蔵等が目的であったと考えられます。
「坑底から壁に炭化したカヤ材が貼付く様に出土している」ほどなのですから多量の榧がそこに存在していたことがわかります。
榧からは実が採れ、その実は食することができると同時に、良質の油を生産することができます。
……………………………………………………………………
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用
……………………………………………………………………
こうした情報からD268土坑はカヤ実の貯蔵庫であったのではないかと推定します。
3-3 土坑のカヤ実処理機能
土坑にカヤ実を貯蔵する意味は、果肉ごとこの土坑で貯蔵することによって果肉を腐らせ、一定時間後に取り出して硬い殻付き種子だけにする工程処理が行われていたのではないかと想定します。
子どものころ、銀杏を拾い、それを土に埋めて臭いのきつい果肉を腐らせ、殻付き種子だけを取り出して洗って食べた経験がありますから、同じようなことが行われたと考えます。
この土坑は単純な保管庫ではなく、大量のカヤ実の果肉を効率的に取り除くという高機能装置であったと考えます。
3-4 土坑設置場所の意味
果肉を効率的に腐らせるために、その場所が日当たりのよい場所に立地していると考えます。
またその付近は臭いですから台地面はずれに立地させたと考えます。
さらにいえば、残った殻付き種子を谷津の水路で洗うための便を考慮して崖付近に立地させたのだと思います。
4 覆土から出土する転用燈明皿の意味
覆土が大きくは3層に分かれ、遺物出土は上層が多くなっています。
D268土坑出土遺物
遺物に燈明皿転用坏が3つ含まれ、さらに「破換面」が摩滅している坏(片)が7点出土しています。
摩滅している土器片ということですから、土器片として長期間使い込まれてきていることを示しています。
摩滅している土器片とは燈明皿として使っていた可能性を考えることができます。
これらの出土物から次のような土坑の歴史と廃絶時状況を推察します。
●D268土坑はカヤ実の果肉除去機能装置として利用された。
●カヤ実から採れる油は燈明皿を使って夜間照明に使われた。
●土坑内環境の悪化をリセットするために坑内焼却などが行われた。(焼土の存在)
●土坑は繰り返し利用され、堆積物で浅くなった。(下層、中層の存在)
●土坑が浅くなって使えなくなったとき、廃絶の儀式が行われ、使っていた燈明皿をもちより、感謝の念を込めて土坑に投げ込み埋めた。
もし、カヤが草のカヤなら、別のストーリーを考えます。
2016年9月21日水曜日
上谷遺跡 被熱土坑
上谷遺跡には被熱土坑が2つ存在します。
これらの土坑は、土坑の底部が被熱しているもので、土坑建設の目的と火使用が直接結びついていると考えます。
土坑廃棄後の覆土に焼土が含まれるものがありますが、ここでは扱いません。
上谷遺跡の被熱土坑
発掘調査報告書ではこれらの被熱土坑の利用目的には言及していません。
この記事では自分の思考力向上訓練(学習)の一環として、これらの被熱土坑の目的について推定します。
1 D025土坑
D025土坑
発掘調査報告書では次のような記述がされています。
・「坑底から壁にかけて火熱痕が認められた。覆土は当初の土坑廃絶後に自然堆積により埋没し、再度、掘り返された後の人為堆積であり、上層には焼土が厚く堆積している。」
・土器小片、鉄器刀子出土。
・「遺物から奈良・平安時代の所産と捉えた。坑底の被熱痕、覆土上層の焼土層と火の使用に係る土坑と捉えられるが、用途は不明であった。」
●検討 D025土坑は炭焼き土坑と推定
WEBでみつけた資料では、D025土坑と類似した形状の被熱土坑について古代炭焼き土坑であるとしているものがかなりあります。
例
http://www.city.honjo.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/37/26meike3.pdf
それらの情報から、D025土坑についても炭焼き土坑であると考えることが合理的であると考えました。
この土坑が炭焼き土坑であると考えると、上谷遺跡の主部(掘立柱建物が集中している4個所)から離れてた場所にD025土坑が位置していて、開発の進んでいない場所(つまり林地)に近いと想定され合理的に捉えることができます。
また上谷遺跡からは鞴羽口が数か所から出土していて鍛冶が行われていましたから炭の需要は強かったと考えられます。従って炭焼き土坑の存在は、この付近のどこかに必然的なものでなければなりません。
2 D111土坑
D111土坑
発掘調査報告書では次のような記述がされています。
●検討 D111土坑は火葬施設と推定
D025土坑が竪穴住居や掘立柱建物にきわめて近接した場所に存在して、産業施設とその管理竪穴住居という関係を推察できるのに対して、D111土坑は竪穴住居から少し離れた場所に存在しています。
また、この土坑は材を燃やして、そのまま放置しているように感じられます。
このような情報から、それ以外の特段の根拠はありませんが、火葬施設であると推定すると、この土坑が遺跡全体のなかでの収まりがよいと感じました。
上谷遺跡では火葬墓は見つかっていませんが、火葬は行われていたと考えます。
「判らない」と思考停止して、通りすぎるより、火葬施設と仮説しておく方が、それが正解か否かどちらでも、後々の上谷遺跡検討に資すると考えます。
これらの土坑は、土坑の底部が被熱しているもので、土坑建設の目的と火使用が直接結びついていると考えます。
土坑廃棄後の覆土に焼土が含まれるものがありますが、ここでは扱いません。
上谷遺跡の被熱土坑
発掘調査報告書ではこれらの被熱土坑の利用目的には言及していません。
この記事では自分の思考力向上訓練(学習)の一環として、これらの被熱土坑の目的について推定します。
1 D025土坑
D025土坑
発掘調査報告書では次のような記述がされています。
・「坑底から壁にかけて火熱痕が認められた。覆土は当初の土坑廃絶後に自然堆積により埋没し、再度、掘り返された後の人為堆積であり、上層には焼土が厚く堆積している。」
・土器小片、鉄器刀子出土。
・「遺物から奈良・平安時代の所産と捉えた。坑底の被熱痕、覆土上層の焼土層と火の使用に係る土坑と捉えられるが、用途は不明であった。」
●検討 D025土坑は炭焼き土坑と推定
WEBでみつけた資料では、D025土坑と類似した形状の被熱土坑について古代炭焼き土坑であるとしているものがかなりあります。
例
http://www.city.honjo.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/37/26meike3.pdf
それらの情報から、D025土坑についても炭焼き土坑であると考えることが合理的であると考えました。
この土坑が炭焼き土坑であると考えると、上谷遺跡の主部(掘立柱建物が集中している4個所)から離れてた場所にD025土坑が位置していて、開発の進んでいない場所(つまり林地)に近いと想定され合理的に捉えることができます。
また上谷遺跡からは鞴羽口が数か所から出土していて鍛冶が行われていましたから炭の需要は強かったと考えられます。従って炭焼き土坑の存在は、この付近のどこかに必然的なものでなければなりません。
2 D111土坑
D111土坑
発掘調査報告書では次のような記述がされています。
・「浅い凹み状の土坑である。抗底は平坦であり、壁はやや斜めに立ち上がっていた。覆土は炭化材層のみであった。遺物は出土していない。」
・「どちらかというと中世以降の炭窯の印象であるが、平面形状に丸みを持つ等の新しい時代の所産とは考えられない形状から、当該期の土坑と判断した。更に検討した場合には、所属する時代が動くかもしれない。」
●検討 D111土坑は火葬施設と推定
D025土坑が竪穴住居や掘立柱建物にきわめて近接した場所に存在して、産業施設とその管理竪穴住居という関係を推察できるのに対して、D111土坑は竪穴住居から少し離れた場所に存在しています。
また、この土坑は材を燃やして、そのまま放置しているように感じられます。
このような情報から、それ以外の特段の根拠はありませんが、火葬施設であると推定すると、この土坑が遺跡全体のなかでの収まりがよいと感じました。
上谷遺跡では火葬墓は見つかっていませんが、火葬は行われていたと考えます。
「判らない」と思考停止して、通りすぎるより、火葬施設と仮説しておく方が、それが正解か否かどちらでも、後々の上谷遺跡検討に資すると考えます。
2016年9月20日火曜日
上谷遺跡 土坑の学習
2016.09.17記事「上谷池の土坑 馬の水飲み」で土坑の検討を行いましたが、この時、上谷遺跡の全土坑の情報を閲覧して、どのような土坑があり、その利用はどのようなものであるのか、予察的に検討してみました。
土坑についても遺跡の特徴となるような重要なものが含まれていることが推察されました。
そこで、ここでいったん立ち止まって、上谷遺跡の土坑そのものについて学習することにします。
上谷遺跡の土坑のほとんどは柱穴あるいは柱穴様であり、掘立柱建物を想定できないものです。
しかし柱穴ではない大型土坑もあり、その大型土坑には興味深いものがあります。
そこで、上谷遺跡の大型土坑及び興味ある出土物の土坑をピックアップして、検討し、感想を個別に述べてみることにします。
上谷遺跡の主な大型土坑
D025は火に関わる土坑です。
D128、D130、D131は深さは無いのですが大型で、場所が近接しています。同じ趣旨の土坑と考えて間違いありません。
D268は大変特徴的な形状、出土物があり、検討意欲が強く刺激されます。
D268、D125は趣旨が同じようです。
D241、D242も同じ趣旨かもしれません。
これらの土坑は南向き崖と台地面の境付近に分布しています。
その用途はあぶり出せると直観できます。
D203は鞴片が出土していますので、検討してみます。
D183は井戸であることを既に検討しました。
次の記事から具体的に検討(学習)します。
土坑についても遺跡の特徴となるような重要なものが含まれていることが推察されました。
そこで、ここでいったん立ち止まって、上谷遺跡の土坑そのものについて学習することにします。
上谷遺跡の土坑のほとんどは柱穴あるいは柱穴様であり、掘立柱建物を想定できないものです。
しかし柱穴ではない大型土坑もあり、その大型土坑には興味深いものがあります。
そこで、上谷遺跡の大型土坑及び興味ある出土物の土坑をピックアップして、検討し、感想を個別に述べてみることにします。
上谷遺跡の主な大型土坑
D025は火に関わる土坑です。
D128、D130、D131は深さは無いのですが大型で、場所が近接しています。同じ趣旨の土坑と考えて間違いありません。
D268は大変特徴的な形状、出土物があり、検討意欲が強く刺激されます。
D268、D125は趣旨が同じようです。
D241、D242も同じ趣旨かもしれません。
これらの土坑は南向き崖と台地面の境付近に分布しています。
その用途はあぶり出せると直観できます。
D203は鞴片が出土していますので、検討してみます。
D183は井戸であることを既に検討しました。
次の記事から具体的に検討(学習)します。
2016年9月19日月曜日
上谷遺跡 牧関連情報とりまとめ
上谷遺跡では牧、養蚕、漆、稲作、鍛冶などの遺物、遺構、墨書土器が出て来ていますが、現在までに牧が最も情報が集まりました。
そこで、中間段階ですが、牧関連情報を集成とりまとめておきます。
1 馬具
A177竪穴住居から馬具が出土しています。
馬具出土遺構
A177竪穴住居は廃絶時に一気に埋め立てられ、その時一緒に馬具が「竹野」墨書土器などが覆土に混じったようだと報告書に記述されています。
馬具はハミの一部で、15は径24.5×厚さ4、重量33g、16は長さ259×厚さ5~10、重量55.9g、17は総長160、重量85.2g、環形25×厚さ5.
2 長文墨書土器
牧建設と馬飼養を祈願した墨書土器が、A036竪穴住居から出土しています。
A036竪穴住居出土長文土器
この長文墨書土器から「野」が牧の意味であることが判明しました。
3 墨書土器「竹野」
長文土器から「野」が牧の意味であることがわかり、結果として「竹野」は竹集団の牧部隊の祈願文字であることがわかりました。
「竹野」分布から野(牧)空間をイメージすると次にようになります。
墨書土器竹野に対応する野(牧)イメージ
竹集団以外も牧を行っていたと考えます。この図はあくまで竹集団が関わる牧空間イメージです。
4 上谷遺跡付近の農業空間
竪穴住居及び掘立柱建物の分布から逆にそれらが分布しない空間を抽出し、農業空間と想定しました。
上谷遺跡 台地上農業空間の抽出
牧空間は農業空間の中に含まれると考えます。
5 馬が歩いていた可能性のある空間
一気埋戻し竪穴住居は、竪穴住居廃絶時にその跡が穴にならないための意識的施策であると考えられます。
馬が転び骨折すれば、その大きな商品価値が無くなりますから、それを防止するためであると考えました。
馬が歩いていた可能性のある空間(想定)
馬が歩いていた可能性のある空間の近くに掘立柱建物がありますから、それが厩舎であった可能性もあります。
6 馬の水飲み施設の可能性の高い土坑とその管理施設(竪穴住居)
不安定な水面あるいは湿地であることが判った場所に馬の水飲み施設としての土坑とその管理施設(竪穴住居)を見つけることができました。
馬の水飲み施設
(図中A188は誤、正A182)
馬の水飲みの管理施設(竪穴住居)
A182竪穴住居は水面近くに設置しているため、竪穴住居に浸水防止用土盛りをしている。
このことから、通常居住用ではなく、水場管理施設であることがわかる。
参考 上谷遺跡の地形解釈(想定)に基づく表層地下水の流れ
そこで、中間段階ですが、牧関連情報を集成とりまとめておきます。
1 馬具
A177竪穴住居から馬具が出土しています。
馬具出土遺構
A177竪穴住居は廃絶時に一気に埋め立てられ、その時一緒に馬具が「竹野」墨書土器などが覆土に混じったようだと報告書に記述されています。
馬具はハミの一部で、15は径24.5×厚さ4、重量33g、16は長さ259×厚さ5~10、重量55.9g、17は総長160、重量85.2g、環形25×厚さ5.
2 長文墨書土器
牧建設と馬飼養を祈願した墨書土器が、A036竪穴住居から出土しています。
A036竪穴住居出土長文土器
この長文墨書土器から「野」が牧の意味であることが判明しました。
3 墨書土器「竹野」
長文土器から「野」が牧の意味であることがわかり、結果として「竹野」は竹集団の牧部隊の祈願文字であることがわかりました。
「竹野」分布から野(牧)空間をイメージすると次にようになります。
墨書土器竹野に対応する野(牧)イメージ
竹集団以外も牧を行っていたと考えます。この図はあくまで竹集団が関わる牧空間イメージです。
4 上谷遺跡付近の農業空間
竪穴住居及び掘立柱建物の分布から逆にそれらが分布しない空間を抽出し、農業空間と想定しました。
上谷遺跡 台地上農業空間の抽出
牧空間は農業空間の中に含まれると考えます。
5 馬が歩いていた可能性のある空間
一気埋戻し竪穴住居は、竪穴住居廃絶時にその跡が穴にならないための意識的施策であると考えられます。
馬が転び骨折すれば、その大きな商品価値が無くなりますから、それを防止するためであると考えました。
馬が歩いていた可能性のある空間(想定)
馬が歩いていた可能性のある空間の近くに掘立柱建物がありますから、それが厩舎であった可能性もあります。
6 馬の水飲み施設の可能性の高い土坑とその管理施設(竪穴住居)
不安定な水面あるいは湿地であることが判った場所に馬の水飲み施設としての土坑とその管理施設(竪穴住居)を見つけることができました。
馬の水飲み施設
(図中A188は誤、正A182)
馬の水飲みの管理施設(竪穴住居)
A182竪穴住居は水面近くに設置しているため、竪穴住居に浸水防止用土盛りをしている。
このことから、通常居住用ではなく、水場管理施設であることがわかる。
参考 上谷遺跡の地形解釈(想定)に基づく表層地下水の流れ
思った以上に牧関連情報が集まりました。
2016年9月18日日曜日
墨書文字「竹野」は竹集団の牧部隊をあらわす
2016.08.31記事「上谷遺跡 養蚕関連墨書文字」では養蚕関連墨書文字に着目しましたが、この時、野が牧であることが判りました。
その時の情報を再整理すると次のようになります。
A036竪穴住居出土多文字墨書土器からわかった事柄
墨書文字「野」は上谷遺跡では竹野として出土します。
竹野は竹の亜集団のような印象でこれまで検討してきました。
竹野は竹集団の一部であると想定してきました。
ここで、野が牧を意味するとなれば、竹野が竹集団の牧部隊である可能性を推察できます。
竹野の出土遺構を調べると次のようになります。
墨書土器 竹野
竹野の分布はこれまで検討してきた牧関連遺構と関連あることがよくわかります。
(牧関連遺構遺物のまとめは次の記事で行います。)
一方、竹野を除く竹の分布と、竹野の分布を調べてみました。
墨書土器 竹と竹野
竹の出土と竹野の出土が重なる遺構はありませんでした。
また竹分布は竹野分布を包摂するような形状になります。
これから、竹が親集団で、竹野が竹集団を構成する亜集団であることの推察の蓋然性が高まります。
参考 竹と竹野の例
次にヒートマップを作成してその分布中心の違いを確認しました。
墨書土器 竹野ヒートマップ
分布に中心は馬具出土遺構付近になります。
墨書土器 竹ヒートマップ
分布の中心は掘立柱建物密集地付近になります。
野という文字が牧を意味していることから、竹野は竹集団の中の牧部隊であると想定して間違いなさそうです。
この推定から、竹野という文字出土に直接対応してイメージできる空間をピックアップしてみました。
墨書土器竹野に対応する野(牧)イメージ
牧に関する各種情報があつまってきましたので、次の記事でそれを集成してとりまとめてみます。
……………………………………………………………………
●メモ 竹と竹野の関係から浮かび上がる鳴神山遺跡の大と大加の関係再検討の必要性
竹という集団の牧専門集団が竹野という文字を使ったと考えると、鳴神山遺跡の大集団と大加集団の関係について再検討する必要が出てきました。
これまで、大加は大の亜集団であると考え、加は加勢の加であると考えてきました。応援部隊というイメージでした。
しかし、大加が「母集団の文字+生業を表現する文字」という関係かもしれないということが竹野から示されたのです。
加(読みカ?)と表現できる生業があるか、それが遺構や遺物等の情報と整合するか、再検討します。
……………………………………………………………………
●メモ 竹の意味
上谷遺跡の主要4集団の文字「得」「万」「西」「竹」の意味はこの遺跡検討の最後で行うつもりです。
その時の情報を再整理すると次のようになります。
A036竪穴住居出土多文字墨書土器からわかった事柄
墨書文字「野」は上谷遺跡では竹野として出土します。
竹野は竹の亜集団のような印象でこれまで検討してきました。
竹野は竹集団の一部であると想定してきました。
ここで、野が牧を意味するとなれば、竹野が竹集団の牧部隊である可能性を推察できます。
竹野の出土遺構を調べると次のようになります。
墨書土器 竹野
竹野の分布はこれまで検討してきた牧関連遺構と関連あることがよくわかります。
(牧関連遺構遺物のまとめは次の記事で行います。)
一方、竹野を除く竹の分布と、竹野の分布を調べてみました。
墨書土器 竹と竹野
竹の出土と竹野の出土が重なる遺構はありませんでした。
また竹分布は竹野分布を包摂するような形状になります。
これから、竹が親集団で、竹野が竹集団を構成する亜集団であることの推察の蓋然性が高まります。
参考 竹と竹野の例
次にヒートマップを作成してその分布中心の違いを確認しました。
墨書土器 竹野ヒートマップ
分布に中心は馬具出土遺構付近になります。
墨書土器 竹ヒートマップ
分布の中心は掘立柱建物密集地付近になります。
野という文字が牧を意味していることから、竹野は竹集団の中の牧部隊であると想定して間違いなさそうです。
この推定から、竹野という文字出土に直接対応してイメージできる空間をピックアップしてみました。
墨書土器竹野に対応する野(牧)イメージ
牧に関する各種情報があつまってきましたので、次の記事でそれを集成してとりまとめてみます。
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●メモ 竹と竹野の関係から浮かび上がる鳴神山遺跡の大と大加の関係再検討の必要性
竹という集団の牧専門集団が竹野という文字を使ったと考えると、鳴神山遺跡の大集団と大加集団の関係について再検討する必要が出てきました。
これまで、大加は大の亜集団であると考え、加は加勢の加であると考えてきました。応援部隊というイメージでした。
しかし、大加が「母集団の文字+生業を表現する文字」という関係かもしれないということが竹野から示されたのです。
加(読みカ?)と表現できる生業があるか、それが遺構や遺物等の情報と整合するか、再検討します。
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●メモ 竹の意味
上谷遺跡の主要4集団の文字「得」「万」「西」「竹」の意味はこの遺跡検討の最後で行うつもりです。
2016年9月17日土曜日
上谷池の土坑 馬の水飲み
2016.09.10記事「上谷池の竪穴住居と土坑の検討」で上谷池に孤立的に分布する土坑を馬の水飲み、竪穴住居をその管理施設と想定しました。
この記事はその想定を詳しく検討します。
1 上谷池付近の遺構
上記記事では次の遺構分布図を作成しました。
上谷池付近遺構
この地図の基図を発掘調査報告書の基図に変換してみました。
上谷池付近遺構
基図は「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)による
上谷池の地形が都市計画基本図より詳細にわかります。
この詳細な地形を手ずるにして検討を進めます。
注)この記事で使う扱うA182竪穴住居、D183土坑が発掘調査報告書地図における表記番号と異なっています。これは発掘調査報告書地図に過誤があるためです。
基図印刷番号A188(誤)→A182(正)、D185(誤)→D183(正)
2 縄文時代遺構分布から見た水陸分布
縄文時代遺構をこの地形情報とオーバーレイさせて観察すると、作業上、次のような水陸境界がイメージできます。
作業A 縄文時代遺構から想定する水陸境界イメージ
等高線23.2mと23.0mの間付近に水陸境界をイメージできます。
3 A182竪穴住居とD183土坑からみた水陸境界イメージ
3-1 A182竪穴住居の特性
A182竪穴住居は牧の水管理施設であると考えました。
その様子が特異な形状からうかがわれます。
A182竪穴住居の煙道部の特異な形状
竪穴住居ではその方形より煙道部が若干出っ張っていることが普通です。
ところがA182では極端に出っ張っています。
発掘調査報告書では「煙道部は壁を奥行あるように細長く掘り込んだものであった。」と記載されています。
このような特異な形状は上谷遺跡の他の竪穴住居には見られません。
この形状はこの場所が池の底にあるということから次のように考えざるを得ません。
A182竪穴住居の煙道部特異形状の解釈
A182竪穴住居はその廻りに土手を築いて浸水を防いでいたと考えることができます。
このこのとから次のことが判ります。
1 わざわざ土手を築いて竪穴住居を作ることから、この竪穴住居が通常の居住のためのものではなく、水管理などの目的のある施設であることが判ります。
2 土手を築く必要があることから、この場所が水陸境界付近であったことが判ります。
3-2 D183土坑の意義
D183土坑
WEBで土坑出土例を検索すると、D183土坑と類似形状で、底に板で桝をつくり、水ダメとしたものがいくつか見つかりました。
D183土坑は古代の井戸形状として一般的なものであるようです。
D183土坑の井戸利用状況を次のようにイメージしました。
D183土坑が井戸として使われていた頃のイメージ
D183土坑は人用の立派な井戸ですから、この場が水面であったことはないと考えることができます。
3-3 A182竪穴住居とD183土坑からみた水陸境界イメージ
A182竪穴住居は等高線23.2m直上にあり、この場は浸水する可能性があることから、いわば水陸境界の最前線であると考えます。
D183土坑は等高線23.4m近くにあり、この場は水面からは離れていたと考えます。
このような考えからA182竪穴住居とD183土坑からみた水陸境界を次のように作業上イメージしました。
作業B A182竪穴住居とD183土坑から想定する水陸境界イメージ
4 奈良・平安時代水面(湿地)イメージ
上記作業Aと作業Bを重ね合わせると次のような水面(湿地)イメージを得ることができます。
作業ABによる奈良・平安時代水面(湿地)イメージ
等高線でいえば23.1mくらいより低い場所には縄文時代遺構および奈良・平安時代竪穴住居が存在しないので、水面あるいはそれに近い湿地であったと考えます。
実際の状況は雨が降れば水面が広がり、干天が続けば水が干上がるという不安定な水場であったと想像します。
安定した水場ではないので、その管理施設としてのA182竪穴住居が作られたと考えます。
5 水場付近土坑の意義
水場付近の6つの土坑について、次のように考えました。
上谷池水部付近の土坑
水面あるいは湿地と考えた空間に存在する土坑(D160、D172、D173)は馬の水飲み施設の可能性が高い土坑であると考えます。
特にD160は水溜そのものであると考えます。
水面が存在している場合はその場所に、水面が干上がってしまって湿地だけになった時には、これらの土坑に溜まった水に馬を誘導していたと考えます。
馬のために水溜土坑を作る必要があったことから、水場が不安定であったことが判ります。
同時に、その不安定な水場の状況に対して、専用管理施設をつくり、管理人が常時水管理していたのですから、牧が上谷遺跡集落の生業として重要なものであったことがわかります。
等高線23.2mより高い位置にある土坑3つは馬の水飲み施設である可能性とそうではない可能性の双方を検討する必要があると考えます。
D174は断面、平面形状から杭跡の可能性もあります。
この記事はその想定を詳しく検討します。
1 上谷池付近の遺構
上記記事では次の遺構分布図を作成しました。
上谷池付近遺構
この地図の基図を発掘調査報告書の基図に変換してみました。
上谷池付近遺構
基図は「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)による
上谷池の地形が都市計画基本図より詳細にわかります。
この詳細な地形を手ずるにして検討を進めます。
注)この記事で使う扱うA182竪穴住居、D183土坑が発掘調査報告書地図における表記番号と異なっています。これは発掘調査報告書地図に過誤があるためです。
基図印刷番号A188(誤)→A182(正)、D185(誤)→D183(正)
2 縄文時代遺構分布から見た水陸分布
縄文時代遺構をこの地形情報とオーバーレイさせて観察すると、作業上、次のような水陸境界がイメージできます。
作業A 縄文時代遺構から想定する水陸境界イメージ
等高線23.2mと23.0mの間付近に水陸境界をイメージできます。
3 A182竪穴住居とD183土坑からみた水陸境界イメージ
3-1 A182竪穴住居の特性
A182竪穴住居は牧の水管理施設であると考えました。
その様子が特異な形状からうかがわれます。
A182竪穴住居の煙道部の特異な形状
竪穴住居ではその方形より煙道部が若干出っ張っていることが普通です。
ところがA182では極端に出っ張っています。
発掘調査報告書では「煙道部は壁を奥行あるように細長く掘り込んだものであった。」と記載されています。
このような特異な形状は上谷遺跡の他の竪穴住居には見られません。
この形状はこの場所が池の底にあるということから次のように考えざるを得ません。
A182竪穴住居の煙道部特異形状の解釈
A182竪穴住居はその廻りに土手を築いて浸水を防いでいたと考えることができます。
このこのとから次のことが判ります。
1 わざわざ土手を築いて竪穴住居を作ることから、この竪穴住居が通常の居住のためのものではなく、水管理などの目的のある施設であることが判ります。
2 土手を築く必要があることから、この場所が水陸境界付近であったことが判ります。
3-2 D183土坑の意義
D183土坑
WEBで土坑出土例を検索すると、D183土坑と類似形状で、底に板で桝をつくり、水ダメとしたものがいくつか見つかりました。
D183土坑は古代の井戸形状として一般的なものであるようです。
D183土坑の井戸利用状況を次のようにイメージしました。
D183土坑が井戸として使われていた頃のイメージ
D183土坑は人用の立派な井戸ですから、この場が水面であったことはないと考えることができます。
3-3 A182竪穴住居とD183土坑からみた水陸境界イメージ
A182竪穴住居は等高線23.2m直上にあり、この場は浸水する可能性があることから、いわば水陸境界の最前線であると考えます。
D183土坑は等高線23.4m近くにあり、この場は水面からは離れていたと考えます。
このような考えからA182竪穴住居とD183土坑からみた水陸境界を次のように作業上イメージしました。
作業B A182竪穴住居とD183土坑から想定する水陸境界イメージ
4 奈良・平安時代水面(湿地)イメージ
上記作業Aと作業Bを重ね合わせると次のような水面(湿地)イメージを得ることができます。
作業ABによる奈良・平安時代水面(湿地)イメージ
等高線でいえば23.1mくらいより低い場所には縄文時代遺構および奈良・平安時代竪穴住居が存在しないので、水面あるいはそれに近い湿地であったと考えます。
実際の状況は雨が降れば水面が広がり、干天が続けば水が干上がるという不安定な水場であったと想像します。
安定した水場ではないので、その管理施設としてのA182竪穴住居が作られたと考えます。
5 水場付近土坑の意義
水場付近の6つの土坑について、次のように考えました。
上谷池水部付近の土坑
水面あるいは湿地と考えた空間に存在する土坑(D160、D172、D173)は馬の水飲み施設の可能性が高い土坑であると考えます。
特にD160は水溜そのものであると考えます。
水面が存在している場合はその場所に、水面が干上がってしまって湿地だけになった時には、これらの土坑に溜まった水に馬を誘導していたと考えます。
馬のために水溜土坑を作る必要があったことから、水場が不安定であったことが判ります。
同時に、その不安定な水場の状況に対して、専用管理施設をつくり、管理人が常時水管理していたのですから、牧が上谷遺跡集落の生業として重要なものであったことがわかります。
等高線23.2mより高い位置にある土坑3つは馬の水飲み施設である可能性とそうではない可能性の双方を検討する必要があると考えます。
D174は断面、平面形状から杭跡の可能性もあります。
2016年9月15日木曜日
メモ 漆か質か 「七万」墨書土器
2016.09.14記事「上谷遺跡 漆工房群存在の可能性」で上谷遺跡に漆工房が存在していた有力な証拠を紹介しました。
この記事では関連して、漆に関わる可能性のある墨書土器を紹介します。
墨書土器「七万」出土遺構(A162)
過去に、鳴神山遺跡出土墨書文字のうち「七」(シチ)を漆(シチ)であると考え、漆業務発展の祈願語であると考えました。
2016.04.04記事「漆業務発展祈願の墨書文字を認識した瞬間」参照
参考 漆業務発展祈願の墨書文字を認識した瞬間
一方同じ「七」を含む「七万」についてシチマンドコロと読んで質政所と解釈する検討も行いました。
2016.02.01記事「墨書土器文字検討メモ 万(マンドコロ)」参照
上谷遺跡出土「七万」が漆に関連する祈願語であるのか、質(質権業務)に関連する祈願語であるか、今後注意深く検討します。
現時点では「七万」の近くに漆工房群の存在が想定できますから、七(シチ)は質(シチ)ではなく漆(シチ)であると暫定的に考えておきます。
つまり、「七万」は漆業務の政所つまり、現場漆工房の業務を采配する管理上の拠点を意味して、その拠点が行う漆行政の発展を祈願していると考えます。
この記事では関連して、漆に関わる可能性のある墨書土器を紹介します。
墨書土器「七万」出土遺構(A162)
過去に、鳴神山遺跡出土墨書文字のうち「七」(シチ)を漆(シチ)であると考え、漆業務発展の祈願語であると考えました。
2016.04.04記事「漆業務発展祈願の墨書文字を認識した瞬間」参照
一方同じ「七」を含む「七万」についてシチマンドコロと読んで質政所と解釈する検討も行いました。
2016.02.01記事「墨書土器文字検討メモ 万(マンドコロ)」参照
上谷遺跡出土「七万」が漆に関連する祈願語であるのか、質(質権業務)に関連する祈願語であるか、今後注意深く検討します。
現時点では「七万」の近くに漆工房群の存在が想定できますから、七(シチ)は質(シチ)ではなく漆(シチ)であると暫定的に考えておきます。
つまり、「七万」は漆業務の政所つまり、現場漆工房の業務を采配する管理上の拠点を意味して、その拠点が行う漆行政の発展を祈願していると考えます。
2016年9月14日水曜日
上谷遺跡 漆工房群存在の可能性
上谷遺跡の馬具出土情報から牧存在の可能性を検討していて、その一環で赤彩土器と内黒土器の情報を整理しました。
2016.09.13記事「上谷遺跡 赤彩土器と内黒土器」参照
赤彩土器と内黒土器を直接牧に結びつけることは現時点ではできませんでした。
この情報整理の中で、5冊の発掘調査報告書を何回も関係ページをめくったのですが、その中で見過ごせない情報に遭遇しましたので、メモしておきます。
1 付着物土器
土器の中には付着物に関する情報が書いてあるものがあります。
そこで、付着物(固形物を意味すると考えられるもの)とススに関する土器の情報を整理してみました。
上谷遺跡 付着物土器出土遺構
付着物1遺構、タール状付着物5遺構、タール?1遺構、タール1遺構、漆状の付着物1遺構の9遺構(9点)が確認できます。
タール状付着物、タール?、タールは近隣遺跡で乾漆が行われており、またこの時代の下総国で漆が盛んであったことからタールではなく漆液の残存物であると考えます。
発掘観察者は黒い色からタールを連想したのでタールという言葉を使っただけで、タールそのものの可能性を別の情報等から察知していたとは考えません。
漆状の付着物はまさに観察した通り漆液の残存物であると考えます。
付着物という記述の正体はわかりませんが、漆液である可能性を否定できません。
次にスス付着土器出土遺構分布を示します。
上谷遺跡 スス付着土器出土遺構
スス付着土器は土器種類等から燈明皿によるもの、煮沸によるものなど多種類の要因が考えられます。
同時に、付着物土器出土遺構9のうち、6遺構からスス付着土器が出土します。
タール状付着物が漆であると考えると、漆を火の熱で温めて漆器工芸に使ったと考えられますから、付着物土器出土遺構でスス付着土器が同時に出土することは合理的に解釈できます。
2 漆工房に関する想像
こうした情報から、付着物土器の付着物が漆であると考えると、次のような漆工房群と漆木分布域を想像することができます。
漆工房集中区域の可能性と漆木分布域(想像)
このような状況、つまり奈良時代下総台地では自然の漆木が生息する場所は崖斜面林にしかなく、漆工房は台地崖林近くに成立したということは既に船尾白幡遺跡で検討しました。
なお、参考までに付着物土器出土遺構と掘立柱建物分布をオーバーレイしてみました。
付着物土器出土遺構と掘立柱建物
付着物土器出土遺構(竪穴住居)付近に掘立柱建物が存在するところが多くなっています。
特に崖林近くの付着物土器出土竪穴住居そばの崖ギリギリのところに掘立柱建物が存在するものがあります。
その掘立柱建物は漆工芸と無関係ではないと想像しますので、何かそのような結びつきを示す情報があるかどうか、今後検討したいと思います。
2016.09.13記事「上谷遺跡 赤彩土器と内黒土器」参照
赤彩土器と内黒土器を直接牧に結びつけることは現時点ではできませんでした。
この情報整理の中で、5冊の発掘調査報告書を何回も関係ページをめくったのですが、その中で見過ごせない情報に遭遇しましたので、メモしておきます。
1 付着物土器
土器の中には付着物に関する情報が書いてあるものがあります。
そこで、付着物(固形物を意味すると考えられるもの)とススに関する土器の情報を整理してみました。
上谷遺跡 付着物土器出土遺構
付着物1遺構、タール状付着物5遺構、タール?1遺構、タール1遺構、漆状の付着物1遺構の9遺構(9点)が確認できます。
タール状付着物、タール?、タールは近隣遺跡で乾漆が行われており、またこの時代の下総国で漆が盛んであったことからタールではなく漆液の残存物であると考えます。
発掘観察者は黒い色からタールを連想したのでタールという言葉を使っただけで、タールそのものの可能性を別の情報等から察知していたとは考えません。
漆状の付着物はまさに観察した通り漆液の残存物であると考えます。
付着物という記述の正体はわかりませんが、漆液である可能性を否定できません。
次にスス付着土器出土遺構分布を示します。
上谷遺跡 スス付着土器出土遺構
スス付着土器は土器種類等から燈明皿によるもの、煮沸によるものなど多種類の要因が考えられます。
同時に、付着物土器出土遺構9のうち、6遺構からスス付着土器が出土します。
タール状付着物が漆であると考えると、漆を火の熱で温めて漆器工芸に使ったと考えられますから、付着物土器出土遺構でスス付着土器が同時に出土することは合理的に解釈できます。
2 漆工房に関する想像
こうした情報から、付着物土器の付着物が漆であると考えると、次のような漆工房群と漆木分布域を想像することができます。
漆工房集中区域の可能性と漆木分布域(想像)
このような状況、つまり奈良時代下総台地では自然の漆木が生息する場所は崖斜面林にしかなく、漆工房は台地崖林近くに成立したということは既に船尾白幡遺跡で検討しました。
なお、参考までに付着物土器出土遺構と掘立柱建物分布をオーバーレイしてみました。
付着物土器出土遺構と掘立柱建物
付着物土器出土遺構(竪穴住居)付近に掘立柱建物が存在するところが多くなっています。
特に崖林近くの付着物土器出土竪穴住居そばの崖ギリギリのところに掘立柱建物が存在するものがあります。
その掘立柱建物は漆工芸と無関係ではないと想像しますので、何かそのような結びつきを示す情報があるかどうか、今後検討したいと思います。
2016年9月13日火曜日
上谷遺跡 赤彩土器と内黒土器
2016.09.12記事「上谷遺跡 一気埋戻し竪穴住居が馬歩行空間を示す」で竪穴住居廃絶後の埋戻し様態によって、その場所が牧や厩舎に関係する空間であるか、否か、相関すると感得した様子を記事にしました。
その記事作成前後に、馬具出土遺構付近の遺構で赤彩土器や内黒土器が出土していることに気が付き、それが牧に関連するものであるかどうか確かめたくなりました。
そこで、寄り道ですが、赤彩土器と内黒土器出土遺構を調べてみましたので、その結果をメモしておきます。
なお、赤彩土器及び内黒土器の意義について十分な知識を所持していないので、今後学習を深めたいと思っています。
現時点では赤彩土器も内黒土器も通常の土器より作成に手間がかかるのですから、価値があるものであると考えます。
希少な品であったことは間違いないと考えます。
現代風に言えば一種のブランド品ということになると思います。
ですから、それを所持した集落住民は何らかの特性を有すると考えます。
その特性と牧とが何か関係するかもしれないという漠然とした予想からデータを作成してみました。
1 赤彩土器分布
次に赤彩土器出土遺構を示します。
上谷遺跡 赤彩土器出土遺構
赤彩土器出土遺構は、牧関連情報であると想定した「一気埋戻し住居跡」分布とぴたりと一致することはありません。
特に発掘区域の北端付近には赤彩土器は全く出土しないので、「一気埋戻し住居跡」とは分布がことなります。
しかし、なんとなく関連するような印象を持ちます。
参考 馬が歩いていた可能性のある空間(想定)
赤彩土器出土遺構分布が今後の検討で意味ある情報に価値が高まる予感がすることだけしか現状ではメモできません。
2 内黒土器分布
次に内黒土器出土遺構を示します。
上谷遺跡 内黒土器出土遺構
内黒土器出土遺構は牧関連情報と想定した「一気埋戻し住居跡」分布との関係を想定するのは無理のようです。
内黒土器出土遺構がどのような意味を持つのか、今後検討します。
その記事作成前後に、馬具出土遺構付近の遺構で赤彩土器や内黒土器が出土していることに気が付き、それが牧に関連するものであるかどうか確かめたくなりました。
そこで、寄り道ですが、赤彩土器と内黒土器出土遺構を調べてみましたので、その結果をメモしておきます。
なお、赤彩土器及び内黒土器の意義について十分な知識を所持していないので、今後学習を深めたいと思っています。
現時点では赤彩土器も内黒土器も通常の土器より作成に手間がかかるのですから、価値があるものであると考えます。
希少な品であったことは間違いないと考えます。
現代風に言えば一種のブランド品ということになると思います。
ですから、それを所持した集落住民は何らかの特性を有すると考えます。
その特性と牧とが何か関係するかもしれないという漠然とした予想からデータを作成してみました。
1 赤彩土器分布
次に赤彩土器出土遺構を示します。
上谷遺跡 赤彩土器出土遺構
赤彩土器出土遺構は、牧関連情報であると想定した「一気埋戻し住居跡」分布とぴたりと一致することはありません。
特に発掘区域の北端付近には赤彩土器は全く出土しないので、「一気埋戻し住居跡」とは分布がことなります。
しかし、なんとなく関連するような印象を持ちます。
参考 馬が歩いていた可能性のある空間(想定)
赤彩土器出土遺構分布が今後の検討で意味ある情報に価値が高まる予感がすることだけしか現状ではメモできません。
2 内黒土器分布
次に内黒土器出土遺構を示します。
上谷遺跡 内黒土器出土遺構
内黒土器出土遺構は牧関連情報と想定した「一気埋戻し住居跡」分布との関係を想定するのは無理のようです。
内黒土器出土遺構がどのような意味を持つのか、今後検討します。
2016年9月12日月曜日
上谷遺跡 一気埋戻し竪穴住居が馬歩行空間を示す
1 一気埋戻し竪穴住居
上谷遺跡では竪穴住居廃絶直後に一気に埋戻し、その場が穴として存在しないようにした遺構が34個所報告されています。209ある竪穴住居の16%が該当します。
一気埋戻し竪穴住居と自然堆積竪穴住居のデータの違いを次に例示します。
人為的投入土により瞬時的に埋め戻した住居跡(A182)
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
覆土は様々な色調の自然堆積(A179)
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
発掘調査報告書では「人為的投入土で埋戻し。焼却なし。住居廃絶後に「穴」としての面を許さず、平面を作る必要があったと考えられるが、その目的までは判然としない。」(A175)とか「人為的投入土で埋戻し、穴放置をみとめない。」((A178)などと着目されて記述されています。
2 一気埋戻し竪穴住居の分布
一気埋戻し竪穴住居の分布を次に示します。
人為投入土による一気埋戻し竪穴住居跡分布
この分布図を見ると、竪穴住居廃絶後その場所を穴として存在することを許さない場所は想定した農業空間の境界付近に集中していることが明瞭にわかります。
この分布から、上谷遺跡は馬具が出土し、馬が存在していたことが確実であることから、馬の歩行空間に地形上の穴ができることを避けて竪穴住居跡を埋め平坦化したものと考えます。
もし竪穴住居跡の穴で馬が転び、骨折すると、育てた高額商品が無価値になることを恐れ、その防止策を積極的に執ったのだと考えます。
一気埋戻し竪穴住居跡の存在は上谷遺跡に牧が存在したことを物語る証拠になると考えます。
3 一気埋戻し竪穴住居跡と掘立柱建物跡分布
次に一気埋戻し竪穴住居跡と掘立柱建物跡分布を示します。
人為投入土による一気埋戻し竪穴住居跡と掘立柱建物跡分布
この分布図を見ると、一気埋戻し竪穴住居跡が掘立柱建物の近くにあるものが存在することが判ります。
発掘調査報告書では掘立柱建物の近くだから穴を埋め戻したのではないかと推定してます。言外に人の利用の便をにおわせています。
しかし掘立柱建物群近くのほとんどの竪穴住居は自然堆積ですから、掘立柱建物の近くだから一気埋戻したという理屈は生まれません。
私は、掘立柱建物のなかに厩舎として利用されてたものがあり、その付近の竪穴住居が廃絶したとき、馬が転ばないように一気埋戻ししたものと考えます。
掘立柱建物は養蚕、織物、乾漆などの作業場であるものだけでなく、厩舎として利用したものが存在していたから、その付近で竪穴住居の一気埋戻しが実施されたと考えます。
4 馬が歩いていた可能性のある空間(想定)
以上の検討から馬が歩いていた可能性のある空間を想定しました。
牧と厩舎(掘立柱建物)周辺がこのあたりであったという想定図です。
馬が歩いていた可能性のある空間(想定)
上谷遺跡では4つの掘立柱建物群がみられ、それぞれ得、万、竹、西という墨書文字を持っていますが、それぞれの掘立柱建物群の近くに一気埋戻し竪穴住居跡が存在しています。
この分布状況から、厩舎(掘立柱建物)は4つの集団がそれぞれ持っていた可能性を感じることができます。
竪穴住居の平面形状等の特性から、その用途を推察できるかどうか、その予察検討をしてみることにします。
以前居寒台遺跡で、厩舎として利用されていた掘立柱建物は細長い形状のものが該当する可能性があると検討したことがあります。
上谷遺跡では竪穴住居廃絶直後に一気に埋戻し、その場が穴として存在しないようにした遺構が34個所報告されています。209ある竪穴住居の16%が該当します。
一気埋戻し竪穴住居と自然堆積竪穴住居のデータの違いを次に例示します。
人為的投入土により瞬時的に埋め戻した住居跡(A182)
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
覆土は様々な色調の自然堆積(A179)
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
発掘調査報告書では「人為的投入土で埋戻し。焼却なし。住居廃絶後に「穴」としての面を許さず、平面を作る必要があったと考えられるが、その目的までは判然としない。」(A175)とか「人為的投入土で埋戻し、穴放置をみとめない。」((A178)などと着目されて記述されています。
2 一気埋戻し竪穴住居の分布
一気埋戻し竪穴住居の分布を次に示します。
人為投入土による一気埋戻し竪穴住居跡分布
この分布図を見ると、竪穴住居廃絶後その場所を穴として存在することを許さない場所は想定した農業空間の境界付近に集中していることが明瞭にわかります。
この分布から、上谷遺跡は馬具が出土し、馬が存在していたことが確実であることから、馬の歩行空間に地形上の穴ができることを避けて竪穴住居跡を埋め平坦化したものと考えます。
もし竪穴住居跡の穴で馬が転び、骨折すると、育てた高額商品が無価値になることを恐れ、その防止策を積極的に執ったのだと考えます。
一気埋戻し竪穴住居跡の存在は上谷遺跡に牧が存在したことを物語る証拠になると考えます。
3 一気埋戻し竪穴住居跡と掘立柱建物跡分布
次に一気埋戻し竪穴住居跡と掘立柱建物跡分布を示します。
人為投入土による一気埋戻し竪穴住居跡と掘立柱建物跡分布
この分布図を見ると、一気埋戻し竪穴住居跡が掘立柱建物の近くにあるものが存在することが判ります。
発掘調査報告書では掘立柱建物の近くだから穴を埋め戻したのではないかと推定してます。言外に人の利用の便をにおわせています。
しかし掘立柱建物群近くのほとんどの竪穴住居は自然堆積ですから、掘立柱建物の近くだから一気埋戻したという理屈は生まれません。
私は、掘立柱建物のなかに厩舎として利用されてたものがあり、その付近の竪穴住居が廃絶したとき、馬が転ばないように一気埋戻ししたものと考えます。
掘立柱建物は養蚕、織物、乾漆などの作業場であるものだけでなく、厩舎として利用したものが存在していたから、その付近で竪穴住居の一気埋戻しが実施されたと考えます。
4 馬が歩いていた可能性のある空間(想定)
以上の検討から馬が歩いていた可能性のある空間を想定しました。
牧と厩舎(掘立柱建物)周辺がこのあたりであったという想定図です。
馬が歩いていた可能性のある空間(想定)
上谷遺跡では4つの掘立柱建物群がみられ、それぞれ得、万、竹、西という墨書文字を持っていますが、それぞれの掘立柱建物群の近くに一気埋戻し竪穴住居跡が存在しています。
この分布状況から、厩舎(掘立柱建物)は4つの集団がそれぞれ持っていた可能性を感じることができます。
竪穴住居の平面形状等の特性から、その用途を推察できるかどうか、その予察検討をしてみることにします。
以前居寒台遺跡で、厩舎として利用されていた掘立柱建物は細長い形状のものが該当する可能性があると検討したことがあります。
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